†chapter18 ワンヒットの法則29
顔が昆虫のように変化したスキンヘッドの男。そしてその姿を見て戦々恐々とする溝畑。この状況を見てピンときた上条は、溝畑の弱点を暴きに掛かった。
「やっぱりそうや。溝畑は虫が嫌いみたいやな」
『暴露』の能力を使った上条には見えた。溝畑が昆虫の類が苦手だということを。ならば話は簡単だ。上条は裕太に視線を向ける。それに気付いた裕太は小さく頷いた。
「虫か。なるほど、わかった!」
そう言って目を光らせると、新たな『幻術』を発生させた。
破壊されてしまった掃きだし窓から、緑色の虫が大量に飛来してきた。角ばった小さな虫がリビングを旋回し始めると、部屋の中が異臭で包まれる。『幻術』とはわかっていたが、上条も思わず鼻を摘まんだ。どうやら飛んでいる虫は、全てカメムシのようだ。裕太よ、何故その虫をチョイスしたのか?
「ええっ!? 高層階に何で虫がっ! あわわわわわわっ!」
溝畑はぎこちない足取りで部屋を出て行った。それに合わせて、倒れていたスキンヘッドの男も玄関から部屋の外に逃げる。その後を追うように、雫も飛び出して行った。
「いやーっ!! こっち来ないでぇ!!」
溝畑の悲痛な叫びがここまで聞こえてくる。虫の顔をしたスキンヘッドの男に、後を追いかけられているのだろうか?
臭いに耐えられなくなった上条は、飛んでいるカメムシを手で触れ『幻術』を全て掻き消した。
「ゲホッ、ゲホッ! とりあえず俺はあいつら追いかける。みくるちゃんたちは梨々香ちゃんのことを頼んだで!」
気を失っている藤崎と拓人はみくるたちに任せて、上条は吐き気を押さえつつ部屋の外に出た。ブラウンのカーペットの敷かれた荘厳な雰囲気の廊下に、溝畑の悲鳴が鳴り響いている。どうやら階段から下に逃げたようだ。それならばエレベーターで先回りしようと、上条はエレベーターホールに走った。
下を示したボタンを押す。タイミング良く開いたドアに体をねじ込むと、すぐに1階へのボタンを押した。
上手く先回りできるであろうか? ここは32階。相手が常人なら余裕で間に合いそうだが、溝畑は『ハーフキャット』の能力を持つ亜人。油断は禁物だ。
長い時間を掛けエレベーターは1階に到着する。扉が開くと見覚えのあるはずの豪華なエントランスが、惨劇の現場と化していた。床に横たわる2人の男女。それは溝畑とスキンヘッドのキモい奴だ。
そしてその傍らに立つ2人の女。見覚えのあるのが1人。つば広帽子を被っている不遜な態度の女は、夢魔の代表、松岡千尋で間違いないだろう。そしてその横にいる黒いロングヘアーの女は初めて見る顔だ。何者だろうか? 只ならぬ殺気を放っているのだが、それもそのはず。彼女は鞘から抜かれた日本刀を片手に、その場に立ち尽くしていたのだ。
「ごめんなさい、お騒がせして。すぐに帰るから、警察や管理会社には連絡しなくてよくってよ」
松岡は上品な口調で言った。どうも上条のことを、このマンションの住人と勘違いしている様子だ。
「い、いや……」
上条は何か言おうと口を開きかけたのだが、その時丁度、2階に続く階段から息を切らした雫が姿を現した。
「はぁ、はぁ、……どういう状況?」
雫はそう尋ねるが、上条も詳しいことはわからない。ゆっくりと松岡に目を向けると、彼女は意味深な笑みを浮かべた。
「あら、現『黒髪』さんじゃないの?」
そう言われたのだが、雫はそれを無視し倒れている2人に目を向け、そして日本刀の女を睨みつけた。
「この2人は、あなたがやったの?」
日本刀の女は静かに息をつくと、表情も変えずに刀を鞘に納めた。
「峰打ちよ。死んではいないわ」
だが倒れている2人は、死んでいるかの如く動かない。『暴露』の能力で調べてみると、2人とも気を失っているようだった。
「この人は、私が追いかけてたのにっ」
雫が柄にもなくつっかかっていく。連日に渡って追っていた獲物を奪われたことに、腹と立てているのだろうか?
「ごめんなさい、黒髪さん。悪いけどそこに倒れている女は、私を怒らせてしまったのよ。だから私たちのルールにのっとり、制裁を与えさせて貰ったわ」
松岡はそう説明するが、雫は全く納得がいかない様子。
「溝畑さんはどうでもいいの。だけど、そこの男は私が追っていた獲物なの!」
1歩も退かない雫。すると日本刀の女は、雫の全身を上から下までを見た後でほんの少しだけ口角を上げた。
「この程度の男に苦戦しているなんて失望したわ。私の後継者だというなら、もう少し頑張ってほしいものね……」
後継者……? 意味はわからないが女は確かにそう言った。
雫は特殊警棒を振り上げ臨戦態勢をとる。だが日本刀の女は微動だにしなかった。攻撃を避けないつもりか?
風が過ぎる。雫は袈裟に振り切ったのだが、激しい衝突音と共に特殊警棒は吹き飛ばされてしまった。エントランスの大理石の床に特殊警棒が数回跳ねる。
何が起きたのかわからなかった。ただ見ると、日本刀の女はいつの間にか刀を抜いていた。それを使って跳ね返したのは明白なのだが、その動きは全く目で追うことができなかった。信じがたいほど速い、一瞬の煌めき。
雫は下唇を噛みしめる。
「あなた、何者なの?」
しかし日本刀の女は何も語らず、ただ寂しげに刀を鞘に納めた。横にいる松岡が代わりに答える。
「あなたもこの街の住人なら噂くらい聞いたことがあると思うけど、彼女はあなたが渋谷で頭角を現す以前に活躍してた、伝説の女賞金稼ぎよ」
そこまで言われ日本刀の女は初めて小さく頷いた。
「そう。あの頃は、『黒髪』と呼ばれていたわ」
「く、黒髪……?」
それは現在、天野雫につけられている通り名だ。まさかその名前に前任者がいたというのか?
「つまりお前は、初代『黒髪』なんか?」
日本刀の女は羽織っていた上着を脱ぎ捨てた。ノースリーブニットを着ているので肩が露わになるのだが、その左肩には仏教の女性画のような彫り物が施されているのが見てとれる。
「そう、けど今は『吉祥天女』と呼ばれてるわ」
「吉祥天女……。なるほど、夢魔が雇ったいう殺し屋はあんたやったんか」
このマンションに来る時に、乗ってきたタクシーの運転手が言っていた。夢魔は凄腕の女殺し屋を雇ったのだと。その女の名前は、『吉祥天女』財前ヒカリ子。
財前はエントランスの端に行くと、落ちていた特殊警棒を拾い上げ雫に手渡した。雫は苦々しい顔のままそれを受け取る。
「また、いずれ」
それだけ呟くと、財前と松岡の2人はマンションのエントランスから去っていった。
緊張感から解放され上条は肩を撫でおろす。だが、横にいる雫は未だに肩を怒らせている。
「雫ちゃん、怒ってるんか?」
そう尋ねると、雫は少し戸惑ったように声を上擦らせた。
「怒る? 私が……?」
雫は以前、怒ると言う感情が欠けていると言っていた。だがたった今、雫が財前ヒカリ子に対して抱いていた感情は怒りに似た激情に違いなかった。
「そうか、これが怒るっていう感情なのね……」
眉間に皺を寄せていた雫だったが、そのことに気付くと急に目元を緩ませ喜色を浮かべだした。
知らなかった感情が芽生えたことが単純に嬉しかったのか、あるいは、新たな獲物を見つけたことへの喜びなのか?




