†chapter18 ワンヒットの法則28
広いリビングルームに冷たい空気が流れる。部屋の中は溝畑の香水の香りと、用意された豪華な料理の匂いが入り混じっていた。
「邪魔しとるで、溝畑。梨々香ちゃんが世話になったみたいやな」
上条がそう声を掛けると、溝畑は威嚇音と立てながら有無を言わさず攻撃を仕掛けてきた。
上から弧を描くような猫パンチが飛んでくる。上条は反射的にそれを右腕で防いだのだが、見ると袖がぼろぼろに引き裂かれてしまっていた。さすがは『ハーフキャット』の能力を持つ亜人。鋭い爪を持っているようだ。
「急所をやられたら、致命傷になりかねへんな。こっちも本気でやらさせて貰うで」
上条は近くに立て掛けてあったフローリングワイパーを手に取ると、ヘッドの部分を外し、柄の部分だけにして構えた。強度はさほどないが、とりあえずはこれを武器としよう。
「そんな棒きれで、私の攻撃が防げるとでも思ってるの?」
溝畑はアイラインで強調された目を細めると、すぐに両手の爪で攻撃してきた。上条はフローリングワイパーを使い応戦する。
「暴力は止めてっ!!」
大人しい藤崎が声を荒げる。しかし、始まってしまった争いを止めることはできなかった。
防戦一方で上条は反撃することができない。相手が女だから攻撃ができないなどという生温い理由ではない。溝畑の素早い連続攻撃を防ぐことだけで、今は手一杯の状態なのだ。
少しでも気を緩めれば、喉笛を引き裂かれかねない。どうしたものか?
押されながらも反撃の糸口を模索していると、突然、天井から灰色の物体がボトボトと落ちてきた。
落下した灰色の物体は次々と地面を走り回る。あれはネズミだ。しかし『暴露』の能力を持つ上条にはわかっていた。そのネズミがSanctuaryでパニックを起こした時に使った、裕太の『幻術』であるということに。
それを知るはずもない藤崎がまずは卒倒する。これは仕方がないことだ。だが溝畑の反応はどうだろう?
彼女は眼を光らせると、走り回るネズミを手で叩き潰した。その瞬間、駆け回っていたネズミは泡のように消えてしまう。相手は『ハーフキャット』の亜人。良く考えれば、ネズミで驚くはずもなかった。
「幻? そんなことだろうと思ったわ。私の部屋にネズミがいるわけないじゃない」
溝畑はゆらりと腰を上げる。万事休す。
裕太の奴、『幻術』の使い方がうまくなったかと思ったが、まだまだだったようだ。猫にネズミをぶつけてどうするというのだ。
「随分と舐められたもんね。こんな小動物でうろたえてるようなら、この街でストリートギャングなんてやってないわ……、ええっ!!!」
溝畑は言葉の途中で、急に大声を上げる。すると次の瞬間、耳をつんざく破壊音が広い部屋に鳴り響いた。掃きだし窓が粉々に砕け、ベランダから1人の男が転がり込んでくる。
あまりにもありえない出来事なので一瞬、裕太の『幻術』を疑ったが、どうやらこれは現実のようだ。転がり込んだスキンヘッドの男は、割れたガラスが刺さったのか頭皮が血まみれになっている。そして、上条はその男に見覚えがあった。
「お前、雫ちゃんが追い掛けてた空飛ぶキモい奴やんかっ!」
このスキンヘッドの男、以前飛んでいるところを地上から見たことがあったのだが、その時と同じように今も背中にカゲロウの翅のようなものが生えている。そう、このキモい奴は、昆虫系の亜人なのだ。
「な、何なのよ、そのおぞましい男はっ!!」
家を壊された溝畑がヒステリックに叫ぶ。だがそう言われても困る。こっちが聞きたいくらいだ。
スキンヘッドの男は両手をついて起き上がろうとするのだが、力が入らないのか上手く立ち上がることができない。そしてそのまま、憎悪に満ちた顔でベランダを睨みつける。すると今度は、肩を寄せ合った2人の男女がゆっくりとした速度でベランダに降り立った。
「た、高いの怖い……」
壊れた掃きだし窓を潜ってきた男は、そう言うと気を失ってしまったかのように床に崩れた。それは他でもない山田拓人だった。そして、その後ろから特殊警棒を持った天野雫が姿を現し、上条と目が合う。
「あれ? ここってもしかして上条さんの家?」
「いや、そんなわけないやん……」
1人暮らしのフリーターが恵比寿のタワーマンションに住めるはずもない。まあ、今はそんなことはどうでも良い。雫と拓人は、このキモい奴を追ってここまで来たようだ。上条はその追い詰められた男に目を向ける。
「まさか渋谷に、この俺をここまで追い込む奴がいるとはなぁ」
スキンヘッドの男はそう言うと、下顎に力を込めた。すると顔に2本の黒い縞が現れ、男は徐々にバッタのような顔に変化していく。
次の瞬間、スキンヘッドの男は強靭な足で斜めに飛び上がり、雫に襲いかかった。
「ギギギギギギギギギッ!!」
迎え撃つ雫は、静かに腕を振り上げると蠅でも落とすかのように、スキンヘッドの男の顔に特殊警棒を叩きつけた。
耳障りな声を上げ床に落ちる男。仰向けに倒れた彼のその顔は、正にバッタそのものだった。
「な、何なの……。虫? 虫なの?」
青褪めた顔の溝畑は、独りごとのようにそう呟きながら後ずさりする。足は可哀そうなくらいに震えており、顔は青白く今にも嘔吐しそうだ。なるほど、これこそがこの女の弱点なのかもしれない。