†chapter18 ワンヒットの法則25
「ってことは、そのマンションに財前ヒカリ子がいるかもしれないってこと?」
後部座席に座るみくるがそう言うと、車内に沈黙が落ちた。激しく揺れるエンジン音だけが、振動と共にシートの下から響いてくる。
「俺の能力が使えたのなら、そんな殺し屋、1発でぶっ飛ばしてやるんだけどな……」
朝比奈は握った拳をじっと見つめる。彼は『ワンヒットワンダー』という、1発の拳に己の全てを賭けることができる能力を持っていた。その力を持ってすれば、それがどれだけ鍛えられた肉体を持つ相手だったとしても無事では済まされないだろう。
しかしその能力は1日に1発しか発動することができないという制限があり、この日は既にSanctuary、3階VIPルームの扉を破壊する時に使用してしまっている。
「いや。多分やけど、そのタワーマンションに財前ヒカリ子いう殺し屋はおらんと思う。恐らくそこは溝畑の自宅なんちゃうかな?」
上条は思い出していた。今回の誘拐事件に松岡千尋は関与していない。ならば、彼女が雇ったという財前ヒカリ子も、そこにはいないのではないだろうか?
「まあ、どっちにしろ財前ヒカリ子に手を出すなんて無謀な真似は止した方がいい。この俺が言うんだから間違いない」
運転手は自信たっぷりにそう言った。あれだけ無茶な運転をしていた彼が無謀だと言うのだから、よほどなのだろう。
「関わったら、ガチで殺されるってことか?」
上条が質問すると、運転手はちらりと助手席を見やり、そして前に向き直した。
「さあな。ただあの事件以降、名前が知れ渡ったからは、殺しの仕事は受けなくなったっていう噂だ。まあ、だからと言って安心はできないがな。俺も昔、一度だけ財前ヒカリ子の戦いを見たことがあるが、あいつの強さは亜種の中でも別格だ。負けた奴は、自分が倒されたことも気付かないまま気を失っていたんじゃねえかな」
「へー、動きが速いんか?」
「いや、そうじゃない。あいつは時間を少しだけ止めることができるらしいんだ。気付いた時には倒されているっていうのは、つまりそういうことさ」
「じ、時間を止める能力!? 滅茶苦茶ヤバい奴やんか、全然天女ちゃうで」
そんな上条の言葉に運転手は前を向いたまま苦笑いを浮かべる。
「『吉祥天女』は殺し屋稼業を始めてから付いた通り名さ。吉祥天の刺青入れる前の賞金稼ぎ時代は、また別の通り名で呼ばれてたんだ」
「ふーん、別の通り名ねえ。というかその殺し屋、元は賞金稼ぎやったんや」
上条がそう口にすると、減速したタクシーの横を2人の男女が尋常じゃない速度で駆け抜けていった。その後ろ姿をフロントガラス越しに確認する。マッシュヘアーの男とショートボブの女。それは他でもない拓人と雫の2人だった。そしてスピードを落としたタクシーはそのまま交差点手前の路肩に停車する。
「あれ? 拓人と現役賞金稼ぎの雫ちゃんやんけ。何しとるんや? そして運ちゃん、何で停まったん?」
そう言われると、運転手は斜め上を指差さした。交差点の信号機には渋谷橋と書かれている。ただ単に目的地に着いたので停車しただけのようだ。
「3000円!」
ワンメーター程の距離なのに、運転手は強気でふっかけてくる。関西人として普段ならこんな暴利を許すわけにはいかないのだが、急いでいたし支払いは朝比奈が全て払ってくれたので今日の所は勘弁してやろう。壊れたバンパーの修理代の足しにでもすればいいさ。
車から降りた上条は助手席のドアを強く閉める。
「ありがとうな、運ちゃん。助かったわ!」
「それが仕事だ! あばよっ!!」
タクシーはエンジンを吹かすとそう言い残し、あっという間に交差点の向こうに消えていった。
「変なタクシーやったけど、まあええわ。とりあえずマンション……、いや、拓人と雫ちゃんは何処行ったんや?」
辺りを見回してみるも、2人の姿は既に見当たらない。
「あいつらのことはどうでも良いだろ! 早く梨々姉を救出するんだよ!」背後から裕太が叫ぶ。
「まあ、せやな。けど恵比寿コンチネンタルタワーって何処やろ?」
そう言って、上空を見上げた。丁度目の前に、1棟だけ天高く伸びた建物が目に映る。周りに高い建物はないので、恐らくあれが恵比寿コンチネンタルタワーなのだろう。そう認識した時、上条の足はその方向に動いていた。
「多分、あのビルやな。皆、急ぐで!」
歩道を行く4人は、点滅している交差点の信号をそのまま全速力で渡って行った。