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拾った柴犬は元教え子の王子様!? 逃がさないよう全力で囲い込みます!

作者: 御厨そら
掲載日:2026/05/21

「レイ、ちょっと痛いわよ」


 柴犬のレイがビアンカの右手首を甘噛して玄関に引っ張った。


 王都。朝日が注ぐ貴族地区の住宅地の一軒家。

 玄関ドアを開くと柴犬が真っ先に外に飛び出した。

 振り返って、ビアンカを急かす。


 ワン、ワン、ワン!


「ちょっと待ってレイ!」

 ビアンカは慌ててリードを掴んだ。


(ほんと犬ってのは食事よりも散歩が好きなのね。私もレイとの散歩は何より楽しみ)



 レイを連れて歩くと、しばらくして正面から“天敵”がやって来た。


 ポメラニアンを散歩させてるアリアンナ夫人だ。派手なドレスにつばの広い帽子。近づくと香水がキツイので、鼻をつまみたくなる。


 ビアンカを見つけると満面の笑みを浮かべた。


 ビアンカはゾッとした。 


 猪首で恰幅のよさで、ビアンカには障害物に見える。絶対にすぐに通してくれない。必ずちょっかいをかけてくるのだ。

 ビアンカはアリアンナ夫人が苦手だった。しかしそこは大人だ。顔にはいっさい出なかった。


(まるで障害物の壁じゃないの。ほらほら、どいてよ。私とレイとの大切な朝のひとときの邪魔をしないで)


 ポメラニアンが柴犬のレイを見つけるとはしゃぐ。レイと鼻を突き合わせた。お尻の臭いを嗅いだ。


「おはようございます。アリアンナさん」


「おはよう、ビアンカ。あら、マーチはレイちゃんが好きなのね。ほんと仲がいいわねー」


 ポメラニアンのマーチがレイのの背中に抱きついた。


(おいおい、メスなのにはしたない。発情してるのか。うちの美男犬レイがかわいいのは当然として、抱きつくとは何事だ。けしからんぞ。ぷんぷん)



「私もレイちゃん好きよ」

 アリアンナ夫人が、断りもなしにレイを持ち上げて抱きしめる。ギュッと。


 クゥゥ〜ン


(レイちゃん、大丈夫? あっ、不安そうに私を見てる)


 柴犬のレイは困惑していた。バタバタして地面に降ろされた。

 

 アリアンナ夫人はレイの頭を撫ぜた。


「レイちゃん、またね」

 そう言って去って行った。


 ぐったりしたレイは体にまとわりつく匂いを気にしていた。刺激のあるキツイ匂いで、ビアンカは鼻が曲がりそうだった。


 ビアンカは前後左右を見渡した。

 誰もいないことを確認した。


 ──パシッ。


 指を鳴らした。


 すると柴犬レイに移った匂いが消え去って、洗いたての洗濯物のように綺麗になった。これが魔女ビアンカの魔法だった。


 そしてレイを抱きしめた。


「レイちゃん、あなたは私の匂い以外付けちゃ駄目よ。今度アリアンナ夫人が来たら吠えていいからね」


 ワン!

 

 レイが嬉しそうに尻尾を振った。


「よーし、今日もお仕事頑張るからね」



     ◇



 貴族学校の渡り廊下を颯爽と歩く。三十五歳、独身。見た目は二十代半ば、それが噂のビアンカ・シャンナだ。生徒たちからは畏怖と憧れの眼差しを向けられていた。先生たちは好奇の眼差しだった。



 午後の授業の一つが終わり、ビアンカが職員室に戻る途中のことだった。校舎の中庭の一角にある喫煙所に、人影が二つあった。ロンギ先生と、スコット先生が煙をくゆらせながら話し込んでいる。


 反射的に、ビアンカは手前の壁に身を隠した。


「──ビアンカ先生って……」


 ビアンカの耳がピクリと動いた。


「第一王子の家庭教師をしてたってのは、本当ですか?」

 とロンギ先生。


「若い頃からずっと家庭教師をなさっていたようだ。そして王子が成人すれば用済みでお払い箱ってことさ」

 スコット先生が言った。


 同僚の男が吐き出した煙が、風に流れていく。


「それで貴族学校の教師になったんですね。婚期を逃したのはそのせいですかね」


「ビアンカ先生、若く見えるし魅力的なんだけど、結婚となると考えてしまいますね。性格キツそうだし、愛想もない。いつも怒ってるように感じますね」


(いつも怒ってる? これがいつもの私の顔だけど、彼らには不機嫌そうに見えるのか、ふむふむ勉強にはなる) 


「うちの生徒からも怖がられています。いつも定規を持ち歩いて、それで脅して威圧するんです」


「今どきの先生じゃないですね。おーコワ! ハハハ」


 二人の笑い声が中庭に響く。


 ビアンカの額に青筋が浮かんだ。腰の後ろに回した右手が、使い込んだ細長い定規を掴む。二人の見えない死角で、ビアンカは壁に向けて定規をムチのように思い切り叩きつけた。


 乾いた衝撃音が響き渡った瞬間、二人が口に咥えていたタバコが、内部から激しく弾け飛んだ。



 バァ──ン!!



 まるで花火のように破裂してしまった。


「アチチチ!!」


「髪に火がついた!」


 火の粉で燃えた前髪を、ロンギが慌てて両手で何度も叩き押さえる。隣の教師が煤まみれの顔でうろたえた。


「なんだ、このタバコ不良品か?」


 その二人の前を颯爽とビアンカが通り過ぎる。


「あら、お気をつけて」


 ビアンカはフンと鼻を鳴らして、振り返りもせずその場を後にした。

 

「まさか、ビアンカ先生が聞いていたとは」


「陰口叩いた天罰ですかね」


 二人はゾッと震えた。



 次の時間の教壇に、ビアンカは立っていた。その鋭い視線で、並ぶ生徒たちを一人残らず睨めつける。胸の奥の怒り心頭に達するのを隠して、どこまでも冷静を装った。


「試験をします。プリントを回してください」


「えー、そんなの聞いてないよ!」


 教室が一瞬にしてざわめきに包まれる。


 ビアンカは何も言わず、机の上に置いていた定規に手を伸ばした。手に取ったそれを、躊躇なく教壇の上に叩きつけた。


 バシッ、バシッ!


 鋭い音が教室を震わせ、生徒たちは一瞬で硬直した。


「何か問題でも?」


「ありません!」


 一斉に、軍隊のような返事が返ってきた。


「素直でよろしい」

 ビアンカはにっこり笑った。



     ◇     



 夕日が西の空を真っ赤に染め、一軒家の白い壁を照らし出している。


 ビアンカが鍵を開けて玄関のドアを開けたとたん、


 視界を茶色の物体が塞いだ。

 

 凄まじい勢いで正面から襲いかかり、ビアンカは床に押し倒された。


 途端に、温かくて湿った感触が顔中を覆う。


「こらぁ、やめなさい!」


「ワン!」


「もう、レイ私の胸からおりなさい」


 ビアンカが強い口調で言った。


 叱られた柴犬は、申し訳なさそうに耳を伏せて胸から降りた。その途端に、ビアンカの表情がとろけるように緩む。


「あっ大丈夫よ、レイちゃん。あなたは何も悪くないわ」


 現金な言葉に、レイが千切れんばかりに尻尾を振って「ワワン!」と吠えた。立ち上がったビアンカの足元を、嬉しそうにぐるぐると走り回る。


「いいものプレゼントするわ」


 ビアンカは仕事鞄と一緒に持ってきた紙袋から、小さな犬の服を取り出した。


「ジャ~ン、レイの特注品よ。最高級のシルク製よ」


 レイはぴたっと動きを止め、お座りしながら目を輝かせて待つ。ビアンカは優しくその前足を通し、服をレイに着せた。


「ウフフ、似合うわね。これ見る?」


 次に紙袋から取り出したのは、大人用の人間のネグリジェだった。胸もとには、レイが着ているものと全く同じ、可愛らしい柴犬のイラストが描かれている。


「レイと同じシルク製なの。これを着て寝るからね。これで夢の中でも一緒だよ、愛してる」


「ワン!」


 尻尾を振る愛犬を見つめながら、ビアンカの胸に冷たい記憶がよぎる。


(この子だけは、私を見捨てない。そのように教育しなければ)



 ビアンカには、決して忘れられないトラウマがあった。

 十九歳のとき、国家最高の栄誉として、第一王子ライモンドの家庭教師に抜擢された。しかし現れたのは、五歳のクソ生意気な子供だった。自分が将来の王になることを鼻にかけて、わがまま放題に大人を振り回す。


 謁見の間で、ビアンカは国王に家庭教師を引き受ける条件を堂々と突きつけた。


「スパルタ教育します。曲がった根性を叩き直します。それが条件です」


 王子のやんちゃぶりに日々頭を悩ませていた王は、その力強い提案を二つ返事で受け入れた。


 勉強をサボったり、課題ができなかったりするたびに、ビアンカは小さな腕を出させ、人差し指と中指の二本で叩いた。


(俺は第一王子だぞ。どうせ、こいつも口だけで何もできやしないだろ)という王子の生意気な思惑は、見事に外れることとなった。


 ビアンカの一撃は強力だった。小さな腕が少し赤くなった。


「よくもやったな。お前なんかクビだ!」


 涙目で睨んでくる王子に、ビアンカはさらにもう一撃、容赦なく食らわせた。


プライドを砕かれた王子は悔し涙を流した。



 さすがにその様子を見ていた国王が、眉を顰めて声をかけてきたこともあった。


「ちょっと、やりすぎではないか? 五歳の子供だぞ」


 ビアンカは背筋を伸ばし、毅然と頭を垂れた。


「将来、国民の上に立つための試練でございます」


「試練じゃと」


「王子に七難八苦を与えて成長させるのが私のやり方です。国民を顧みない独善的な独裁者にならないようにしているのです」


「……そうなのか。それではしかたないな」


 王の確かな後押しもあって、ビアンカはさらにスパルタ教育に励むようになった。


 ライモンドは、何度も城から逃げようとしたが、どこに隠れてもすぐにビアンカに見つかって捕まった。首根っこを掴まれるたび、王子は不思議そうに尋ねてきた。


「先生、どうして僕の隠れ場所が分かるのですか?」


 ビアンカは王子の耳元に顔を近づけ、声を潜めた。


「これは秘密だけど……絶対に言わないで。言ったら【犬】にしちゃうから」


「犬?」


「私ね、魔女なのよ」


「ふん、先生そんなもの神話の世界のお伽噺ですよ」


 鼻で笑う小さな教え子に、ビアンカはニンマリと笑った。


「信じなくていいわ。そのほうが都合がいいからね」





 そして月日は流れて、あの生意気だったライモンド第一王子が二十歳になった。


 気づけば、誰もが振り返るほどのとんでもない二枚目になっていた。背も高く、武芸と知力に優れた、非の打ち所がない完璧な王子に成長した。


 その教え子を、ビアンカは密かに愛していた。


 十九歳から三十四歳まで、自分の女としての青春をすべてこの教え子に捧げていたのだ。成長をひたすら特等席で見守っていた。いわば、自分好みの理想の男を創り上げたのだ。


 でも、先生と生徒という禁断の恋は絶対にご法度。ビアンカは自分の気持ちに深く重い蓋をしていた。


「先生、今までありがとうございました」


 豪奢な王宮の一室で、ビアンカはライモンドから大輪の花束を受け取った。契約期間が満了したのだ。次の仕事はすでに決まっている。貴族学校の教員だ。

胸が締め付けられ、ビアンカは泣きそうだったけど、必死に涙をこらえた。ただ、別れ際にライモンドが「やっと解放された」と言わんばかりにホッとした顔をしたのには、ちょっとムカついた。





 貴族学校の教諭になって数日たった頃、学校からの帰路に就いたとき見慣れない犬にまとわりつかれた。


 くりくりした目をした柴犬だ。


「誰かの飼い犬かしら?」


 あちこち匂いを嗅ぎながら、ついに我が家にまでついてきた。それが、この柴犬レイとの馴れ初めだった。



 お揃いのシルクのネグリジェに着替え、ビアンカは柔らかいベッドに入った。当然のように、トトトっと足音を立ててレイが枕元にやって来る。


「レイだけが、私の心の拠り所なの。かわいい」


 レイはいつものように、ビアンカの頬や顎を温かい舌で舐めた。愛おしさが込み上げ、ビアンカは柴犬レイを強く抱きしめる。


「おやすみなさい」


 ビアンカはパチンと指を鳴らして、ベッドサイドの燭台の炎を消した。


 ──そして、あの朝を迎える。



     ◇



 心地よい部屋に、朝日の光が窓のカーテン越しに差してきた。

 目が覚めて体を起こし、ビアンカは気持ちよく両腕を伸ばして伸びをした。ふと隣に違和感を覚え、視線を落とす。そこには、誰か知らない男が背中を向けて丸くなって寝ていた。



 しかも、ほぼ全裸だ。

男は無防備に、静かに寝息を立てている。


「起きろ、この変質者!」


 ビアンカは男の耳元で思い切り大声を出した。


 鼓膜を揺さぶられた男は飛び起きて、勢い余ってベッドから床へと転げ落ちた。


「何すんだよ! ビアンカ先生」

 床に尻もちをついた男の声を聞き、ビアンカは目を丸くした。


「おお、その声は……」


 男が痛む腰を押さえながら、顔をビアンカに向けた。整った目鼻立ちに、見覚えのある顔。


「なんと、レイがライモンド? いったいどういうことだ」


「それはこっちが聞きたいよ」


 ライモンドがシーツで体を隠しながら語った説明は、こうだった。


 ビアンカ先生が退任した後、夕食の席で父の王に「ビアンカ先生は自分のこと魔女だと言ってた」と、緊張が解けたせいかつい口を滑らせてしまったという。


 そして翌朝、目が覚めるとベッドの上で自分が子犬に変身していた。姿見に映る自分の姿を見て、そこに子犬がいた。あまりのショックに、わけが分からなくなってワンワンと吠えてグルグル部屋を回っていたら、何ごとかと侍女が部屋にやって来た。


 ドアを叩く音に恐怖したライモンドは、二階の窓から決死の覚悟で植え込みに飛び降りた。そこから、すぐにビアンカ先生を探しに屋敷を出たのだという。



「貴族学校から出て来たビアンカ先生を見つけたんだ。絶対に気づいてくれて元に戻してくれると思ったけど、違ったね」


「レイがライモンドだったなんて分からなかった。うむ、これは無自覚なる魔法の発動だな」


 腕を組み、ビアンカは納得のいく答えに辿り着いた。


「無自覚の魔法?」


「私に忖度して魔法が自動的に発動することだ。私ほどの上級魔法使いになると、勝手に魔法が発動されるのだよ」


「じゃビアンカ先生が魔法をかけたのじゃないんですね」


「その通り。ライモンドは留学してるとばかり思ってた」


 ひとまず納得したライモンドは、肌寒いのか身を縮こまらせた。


「……何か着るものをください。家に戻ります」


 その言葉に、ビアンカの胸がチクリと痛んだ。引き止めるようにベッドの端を握る。


「ほんとに戻るのか? ここに来て一年、私と一緒にいるのが楽しくなかったか?」


 ビアンカの問いに、ライモンドの動きが止まった。その脳裏に、この一年間の記憶が鮮明に蘇る。



 初めてこの家に連れてこられて、泥だらけの肉球の汚れを優しく拭いてもらって気持ちよかったこと。お腹を空かせた自分に、贅沢な鹿肉のステーキを作って食べさせてくれたこと。

 毎日の散歩。早朝、眠い目をこすりながら散歩に連れて行ってくれたこと。そして毎晩のブラッシング。ほんとに気持よかった。



 ある日、近所の犬好きの婦人が僕を触ろうとしたとき、ビアンカは鋭い声で「この子は噛み癖があるから触らないで!」と注意した。


 それは明らかな嘘だ。僕に噛み癖などない。

家に帰ると、ビアンカは僕をきつく抱きしめながら


「あなたは誰にも触れさせないわ。私の宝物」と囁いた。そのとき、抱きしめられるのが無性に嬉しかった。


 犬になって風呂に入るのが嫌いになった。でも清潔好きのビアンカは、散歩で地面に寝転んだ僕の汚れが気に入らない。普段はお湯に浸かったタオルを絞って丁寧に体を拭いてくれた。風呂に一緒に入ったことも数しれず。


 犬の姿でビアンカの裸を見れたのは、幸福なのか不幸なのか分からないけど、いつも僕のことを大事にしてくれた。思えば幸せな日々だった。


 ライモンドは、いつの間にか犬としての生活が何ものにも変え難いものだと分かった。

 そして、ずっと向けられていたビアンカの深い愛情を受け止めるうちに、自分の気持ちが、ビアンカに向けられていることに気づいた。


 すると、何かが弾けたように、ビアンカの家庭教師時代を思い出した。


 やんちゃで侍女を泣かしたら、指でしっぺをされたけど、その後に先生が肩を震わせて泣いていた。


「いいライモンド、あなたは人の上に立つものですよ。ジェントルマンにならなければ、暴君になってしまいます。私は国民に愛される国王になってほしいのです」


「先生、泣かないで。僕、もう悪さしないよ」


 先生の涙を見て胸の奥がジーンと来た。


「ライモンド、痛いのはあなただけではありません」


 ビアンカは袖をめくって左手を見せた。そこは傷だらけだった。

 

「ライモンドに折檻したら、二倍自分の腕に折檻したのよ」


「何でそんなことするの?」


「かわいいライモンドを傷付けるなんて、絶対に許せないからよ。たとえ、自分であっても」


「先生……」

 ライモンドが泣き出した。


「この記憶は封印します。時が来たら、いずれ思い出すでしょう」

 そう言ってビアンカは指を鳴らした。



 ライモンドはシーツを強く握り締め、真っ直ぐにビアンカを見上げた。


「僕のこの一年はビアンカ先生のことを知るためにあったんだ。僕は小さい頃からビアンカ先生を恐れ怯えていたけど、それは偽の記憶だったんだ。ほんとのビアンカ先生は誰よりも優しくて僕を愛してくれた。僕は……ビアンカを愛してる」


 その言葉でビアンカの胸の蓋が完全に吹き飛んだ。ビアンカはベッドから身を乗り出し、彼の首に腕を回した。


「私もよレイ!」





 静まり返った深夜の教会。

 ビアンカは祭壇の前で、困惑する神父と向かい合っていた。


「結婚式を挙げたいと。今すぐですか、それは急ですね。で、お相手は?」


 ビアンカは足元を指差した。


「この子です」


「ワン!」


 足元で、最高級シルクの服を着た柴犬のレイが元気よく吠えた。神父は目を丸くして、犬とビアンカを交互に見つめる。


「犬と結婚? それはまた珍しいことで」


 ビアンカは眉を少し上げ、凄むように問いかけた。


「いけませんか?」


 神父は慌てて首を横に振った。


「いえいえ、構いません。愛は自由ですから。魔女様の結婚は大歓迎いたします」


 お墨付きをもらい、ビアンカがウインクすると誰もいないはずの聖堂に、パイプオルガンの荘厳な音色が鳴り響いた。


 その音色に包まれるようにして、柴犬のレイの身体が光に包まれ、大人のライモンドの姿へと変身した。タキシードを纏ったライモンドは、愛おしそうにビアンカの薬指に指輪を嵌め、誓いのキスをした。



 結婚式を終え、夜更けに二人は我が家に戻ってきた。


「ねぇレイ」


「なにビアンカ」


 上着を脱ぎながら振り返るライモンドを見つめ、ビアンカは妖艶に微笑んだ。


「あなたは、もう私のもの。だからもう犬には戻せないわ」


 ライモンドはホッとしたように息を吐き、笑顔を見せる。


「よかった。人間のままでいいんだね」


 だが、ビアンカの微笑みは消えなかった。ゆっくりと彼の元へ歩み寄る。


「犬は散歩させないといけないじゃない。みんなに可愛がられるあなたを見たくない。だから──」


 ビアンカが顔の横で指を鳴らした。



 一瞬の閃光と共に、ライモンドの衣服が消え、その身体がみるみる縮んでいく。


「ちょっと待って……ニャー」


 ベッドの上に、艶やかな毛並みの黒猫がちょこんと座っていた。

 黒猫のレイは前足の肉球を見て、ビアンカに顔を向けた。


「飼い猫になってもらうわ。猫のほうが、適度な距離で愛情を注げるでしょ」


「グルルルー」


「不満なの? しかたないなー、ちゃんと人間に戻してあげる。でもしばらくはそのままでいましょ。いずれあなたには王になってこの国を発展させる責務が生じるのよ。仕事は過酷よ、覚悟できてる?」


「ニャー!」


「あなたが王座に付いたら、その隣の王妃になってずっと愛してあげるから、もうしばらくは私のかわいいペットでいてね」

 

 ビアンカは不満そうに鳴く黒猫を愛おしそうに両腕で抱き上げ、その額に優しくキスをした。






 王都。朝日が注ぐ貴族地区の住宅地の一軒家。

 玄関ドアを開くと柴犬が真っ先に外に飛び出した。

 振り返って、ビアンカを急かす。


 ワン、ワン、ワン!


「ちょっと待ってレイ!」

 ビアンカは慌ててリードを掴んだ。


(ほんと犬ってのは食事よりも散歩が好きなのね。私もレイとの散歩は何より楽しみ)



 レイを連れて歩くと、しばらくして正面から“天敵”がやって来た。


 ポメラニアンを散歩させてるアリアンナ夫人だ。派手なドレスにつばの広い帽子。近づくと香水がキツイので、鼻をつまみたくなる。


 ビアンカを見つけると満面の笑みを浮かべた。


 ビアンカはゾッとした。 


 猪首で恰幅のよさで、ビアンカには障害物に見える。絶対にすぐに通してくれない。必ずちょっかいをかけてくるのだ。

 ビアンカはアリアンナ夫人が苦手だった。しかしそこは大人だ。顔にはいっさい出なかった。


(まるで障害物の壁じゃないの。ほらほら、どいてよ。私とレイとの大切な朝のひとときの邪魔をしないで)


 ポメラニアンが柴犬のレイを見つけるとはしゃぐ。レイと鼻を突き合わせた。お尻の臭いを嗅いだ。


「おはようございます。アリアンナさん」


「おはよう、ビアンカ。あら、マーチはレイちゃんが好きなのね。ほんと仲がいいわねー」


 ポメラニアンのマーチがレイのの背中に抱きついた。


(おいおい、メスなのにはしたない。発情してるのか。うちの美男犬レイがかわいいのは当然として、抱きつくとは何事だ。けしからんぞ。ぷんぷん)



「私もレイちゃん好きよ」

 アリアンナ夫人が、断りもなしにレイを持ち上げて抱きしめる。ギュッと。


 クゥゥ〜ン


(レイちゃん、大丈夫? あっ、不安そうに私を見てる)


 柴犬のレイは困惑していた。バタバタして地面に降ろされた。

 

 アリアンナ夫人はレイの頭を撫ぜた。


「レイちゃん、またね」

 そう言って去って行った。


 ぐったりしたレイは体にまとわりつく匂いを気にしていた。刺激のあるキツイ匂いで、ビアンカは鼻が曲がりそうだった。


 ビアンカは前後左右を見渡した。

 誰もいないことを確認した。


 ──パシッ。


 指を鳴らした。


 すると柴犬レイに移った匂いが消え去って、洗いたての洗濯物のように綺麗になった。これが魔女ビアンカの魔法だった。


 そしてレイを抱きしめた。


「レイちゃん、あなたは私の匂い以外付けちゃ駄目よ。今度アリアンナ夫人が来たら吠えていいからね」


 ワン!

 

 レイが嬉しそうに尻尾を振った。


「よーし、今日もお仕事頑張るからね」



     ◇



 貴族学校の渡り廊下を颯爽と歩く。三十五歳、独身。見た目は二十代半ば、それが噂のビアンカ・シャンナだ。生徒たちからは畏怖と憧れの眼差しを向けられていた。先生たちは好奇の眼差しだった。



 午後の授業の一つが終わり、ビアンカが職員室に戻る途中のことだった。校舎の中庭の一角にある喫煙所に、人影が二つあった。ロンギ先生と、スコット先生が煙をくゆらせながら話し込んでいる。


 反射的に、ビアンカは手前の壁に身を隠した。


「──ビアンカ先生って……」


 ビアンカの耳がピクリと動いた。


「第一王子の家庭教師をしてたってのは、本当ですか?」

 とロンギ先生。


「若い頃からずっと家庭教師をなさっていたようだ。そして王子が成人すれば用済みでお払い箱ってことさ」

 スコット先生が言った。


 同僚の男が吐き出した煙が、風に流れていく。


「それで貴族学校の教師になったんですね。婚期を逃したのはそのせいですかね」


「ビアンカ先生、若く見えるし魅力的なんだけど、結婚となると考えてしまいますね。性格キツそうだし、愛想もない。いつも怒ってるように感じますね」


(いつも怒ってる? これがいつもの私の顔だけど、彼らには不機嫌そうに見えるのか、ふむふむ勉強にはなる) 


「うちの生徒からも怖がられています。いつも定規を持ち歩いて、それで脅して威圧するんです」


「今どきの先生じゃないですね。おーコワ! ハハハ」


 二人の笑い声が中庭に響く。


 ビアンカの額に青筋が浮かんだ。腰の後ろに回した右手が、使い込んだ細長い定規を掴む。二人の見えない死角で、ビアンカは壁に向けて定規をムチのように思い切り叩きつけた。


 乾いた衝撃音が響き渡った瞬間、二人が口に咥えていたタバコが、内部から激しく弾け飛んだ。



 バァ──ン!!



 まるで花火のように破裂してしまった。


「アチチチ!!」


「髪に火がついた!」


 火の粉で燃えた前髪を、ロンギが慌てて両手で何度も叩き押さえる。隣の教師が煤まみれの顔でうろたえた。


「なんだ、このタバコ不良品か?」


 その二人の前を颯爽とビアンカが通り過ぎる。


「あら、お気をつけて」


 ビアンカはフンと鼻を鳴らして、振り返りもせずその場を後にした。

 

「まさか、ビアンカ先生が聞いていたとは」


「陰口叩いた天罰ですかね」


 二人はゾッと震えた。



 次の時間の教壇に、ビアンカは立っていた。その鋭い視線で、並ぶ生徒たちを一人残らず睨めつける。胸の奥の怒り心頭に達するのを隠して、どこまでも冷静を装った。


「試験をします。プリントを回してください」


「えー、そんなの聞いてないよ!」


 教室が一瞬にしてざわめきに包まれる。


 ビアンカは何も言わず、机の上に置いていた定規に手を伸ばした。手に取ったそれを、躊躇なく教壇の上に叩きつけた。


 バシッ、バシッ!


 鋭い音が教室を震わせ、生徒たちは一瞬で硬直した。


「何か問題でも?」


「ありません!」


 一斉に、軍隊のような返事が返ってきた。


「素直でよろしい」

 ビアンカはにっこり笑った。



     ◇     



 夕日が西の空を真っ赤に染め、一軒家の白い壁を照らし出している。


 ビアンカが鍵を開けて玄関のドアを開けたとたん、


 視界を茶色の物体が塞いだ。

 

 凄まじい勢いで正面から襲いかかり、ビアンカは床に押し倒された。


 途端に、温かくて湿った感触が顔中を覆う。


「こらぁ、やめなさい!」


「ワン!」


「もう、レイ私の胸からおりなさい」


 ビアンカが強い口調で言った。


 叱られた柴犬は、申し訳なさそうに耳を伏せて胸から降りた。その途端に、ビアンカの表情がとろけるように緩む。


「あっ大丈夫よ、レイちゃん。あなたは何も悪くないわ」


 現金な言葉に、レイが千切れんばかりに尻尾を振って「ワワン!」と吠えた。立ち上がったビアンカの足元を、嬉しそうにぐるぐると走り回る。


「いいものプレゼントするわ」


 ビアンカは仕事鞄と一緒に持ってきた紙袋から、小さな犬の服を取り出した。


「ジャ~ン、レイの特注品よ。最高級のシルク製よ」


 レイはぴたっと動きを止め、お座りしながら目を輝かせて待つ。ビアンカは優しくその前足を通し、服をレイに着せた。


「ウフフ、似合うわね。これ見る?」


 次に紙袋から取り出したのは、大人用の人間のネグリジェだった。胸もとには、レイが着ているものと全く同じ、可愛らしい柴犬のイラストが描かれている。


「レイと同じシルク製なの。これを着て寝るからね。これで夢の中でも一緒だよ、愛してる」


「ワン!」


 尻尾を振る愛犬を見つめながら、ビアンカの胸に冷たい記憶がよぎる。


(この子だけは、私を見捨てない。そのように教育しなければ)



 ビアンカには、決して忘れられないトラウマがあった。

 十九歳のとき、国家最高の栄誉として、第一王子ライモンドの家庭教師に抜擢された。しかし現れたのは、五歳のクソ生意気な子供だった。自分が将来の王になることを鼻にかけて、わがまま放題に大人を振り回す。


 謁見の間で、ビアンカは国王に家庭教師を引き受ける条件を堂々と突きつけた。


「スパルタ教育します。曲がった根性を叩き直します。それが条件です」


 王子のやんちゃぶりに日々頭を悩ませていた王は、その力強い提案を二つ返事で受け入れた。


 勉強をサボったり、課題ができなかったりするたびに、ビアンカは小さな腕を出させ、人差し指と中指の二本で叩いた。


(俺は第一王子だぞ。どうせ、こいつも口だけで何もできやしないだろ)という王子の生意気な思惑は、見事に外れることとなった。


 ビアンカの一撃は強力だった。小さな腕が少し赤くなった。


「よくもやったな。お前なんかクビだ!」


 涙目で睨んでくる王子に、ビアンカはさらにもう一撃、容赦なく食らわせた。


プライドを砕かれた王子は悔し涙を流した。



 さすがにその様子を見ていた国王が、眉を顰めて声をかけてきたこともあった。


「ちょっと、やりすぎではないか? 五歳の子供だぞ」


 ビアンカは背筋を伸ばし、毅然と頭を垂れた。


「将来、国民の上に立つための試練でございます」


「試練じゃと」


「王子に七難八苦を与えて成長させるのが私のやり方です。国民を顧みない独善的な独裁者にならないようにしているのです」


「……そうなのか。それではしかたないな」


 王の確かな後押しもあって、ビアンカはさらにスパルタ教育に励むようになった。


 ライモンドは、何度も城から逃げようとしたが、どこに隠れてもすぐにビアンカに見つかって捕まった。首根っこを掴まれるたび、王子は不思議そうに尋ねてきた。


「先生、どうして僕の隠れ場所が分かるのですか?」


 ビアンカは王子の耳元に顔を近づけ、声を潜めた。


「これは秘密だけど……絶対に言わないで。言ったら【犬】にしちゃうから」


「犬?」


「私ね、魔女なのよ」


「ふん、先生そんなもの神話の世界のお伽噺ですよ」


 鼻で笑う小さな教え子に、ビアンカはニンマリと笑った。


「信じなくていいわ。そのほうが都合がいいからね」





 そして月日は流れて、あの生意気だったライモンド第一王子が二十歳になった。


 気づけば、誰もが振り返るほどのとんでもない二枚目になっていた。背も高く、武芸と知力に優れた、非の打ち所がない完璧な王子に成長した。


 その教え子を、ビアンカは密かに愛していた。


 十九歳から三十四歳まで、自分の女としての青春をすべてこの教え子に捧げていたのだ。成長をひたすら特等席で見守っていた。いわば、自分好みの理想の男を創り上げたのだ。


 でも、先生と生徒という禁断の恋は絶対にご法度。ビアンカは自分の気持ちに深く重い蓋をしていた。


「先生、今までありがとうございました」


 豪奢な王宮の一室で、ビアンカはライモンドから大輪の花束を受け取った。契約期間が満了したのだ。次の仕事はすでに決まっている。貴族学校の教員だ。

胸が締め付けられ、ビアンカは泣きそうだったけど、必死に涙をこらえた。ただ、別れ際にライモンドが「やっと解放された」と言わんばかりにホッとした顔をしたのには、ちょっとムカついた。





 貴族学校の教諭になって数日たった頃、学校からの帰路に就いたとき見慣れない犬にまとわりつかれた。


 くりくりした目をした柴犬だ。


「誰かの飼い犬かしら?」


 あちこち匂いを嗅ぎながら、ついに我が家にまでついてきた。それが、この柴犬レイとの馴れ初めだった。



 お揃いのシルクのネグリジェに着替え、ビアンカは柔らかいベッドに入った。当然のように、トトトっと足音を立ててレイが枕元にやって来る。


「レイだけが、私の心の拠り所なの。かわいい」


 レイはいつものように、ビアンカの頬や顎を温かい舌で舐めた。愛おしさが込み上げ、ビアンカは柴犬レイを強く抱きしめる。


「おやすみなさい」


 ビアンカはパチンと指を鳴らして、ベッドサイドの燭台の炎を消した。


 ──そして、あの朝を迎える。



     ◇



 心地よい部屋に、朝日の光が窓のカーテン越しに差してきた。

 目が覚めて体を起こし、ビアンカは気持ちよく両腕を伸ばして伸びをした。ふと隣に違和感を覚え、視線を落とす。そこには、誰か知らない男が背中を向けて丸くなって寝ていた。



 しかも、ほぼ全裸だ。

男は無防備に、静かに寝息を立てている。


「起きろ、この変質者!」


 ビアンカは男の耳元で思い切り大声を出した。


 鼓膜を揺さぶられた男は飛び起きて、勢い余ってベッドから床へと転げ落ちた。


「何すんだよ! ビアンカ先生」

 床に尻もちをついた男の声を聞き、ビアンカは目を丸くした。


「おお、その声は……」


 男が痛む腰を押さえながら、顔をビアンカに向けた。整った目鼻立ちに、見覚えのある顔。


「なんと、レイがライモンド? いったいどういうことだ」


「それはこっちが聞きたいよ」


 ライモンドがシーツで体を隠しながら語った説明は、こうだった。


 ビアンカ先生が退任した後、夕食の席で父の王に「ビアンカ先生は自分のこと魔女だと言ってた」と、緊張が解けたせいかつい口を滑らせてしまったという。


 そして翌朝、目が覚めるとベッドの上で自分が子犬に変身していた。姿見に映る自分の姿を見て、そこに子犬がいた。あまりのショックに、わけが分からなくなってワンワンと吠えてグルグル部屋を回っていたら、何ごとかと侍女が部屋にやって来た。


 ドアを叩く音に恐怖したライモンドは、二階の窓から決死の覚悟で植え込みに飛び降りた。そこから、すぐにビアンカ先生を探しに屋敷を出たのだという。



「貴族学校から出て来たビアンカ先生を見つけたんだ。絶対に気づいてくれて元に戻してくれると思ったけど、違ったね」


「レイがライモンドだったなんて分からなかった。うむ、これは無自覚なる魔法の発動だな」


 腕を組み、ビアンカは納得のいく答えに辿り着いた。


「無自覚の魔法?」


「私に忖度して魔法が自動的に発動することだ。私ほどの上級魔法使いになると、勝手に魔法が発動されるのだよ」


「じゃビアンカ先生が魔法をかけたのじゃないんですね」


「その通り。ライモンドは留学してるとばかり思ってた」


 ひとまず納得したライモンドは、肌寒いのか身を縮こまらせた。


「……何か着るものをください。家に戻ります」


 その言葉に、ビアンカの胸がチクリと痛んだ。引き止めるようにベッドの端を握る。


「ほんとに戻るのか? ここに来て一年、私と一緒にいるのが楽しくなかったか?」


 ビアンカの問いに、ライモンドの動きが止まった。その脳裏に、この一年間の記憶が鮮明に蘇る。



 初めてこの家に連れてこられて、泥だらけの肉球の汚れを優しく拭いてもらって気持ちよかったこと。お腹を空かせた自分に、贅沢な鹿肉のステーキを作って食べさせてくれたこと。

 毎日の散歩。早朝、眠い目をこすりながら散歩に連れて行ってくれたこと。そして毎晩のブラッシング。ほんとに気持よかった。



 ある日、近所の犬好きの婦人が僕を触ろうとしたとき、ビアンカは鋭い声で「この子は噛み癖があるから触らないで!」と注意した。


 それは明らかな嘘だ。僕に噛み癖などない。

家に帰ると、ビアンカは僕をきつく抱きしめながら


「あなたは誰にも触れさせないわ。私の宝物」と囁いた。そのとき、抱きしめられるのが無性に嬉しかった。


 犬になって風呂に入るのが嫌いになった。でも清潔好きのビアンカは、散歩で地面に寝転んだ僕の汚れが気に入らない。普段はお湯に浸かったタオルを絞って丁寧に体を拭いてくれた。風呂に一緒に入ったことも数しれず。


 犬の姿でビアンカの裸を見れたのは、幸福なのか不幸なのか分からないけど、いつも僕のことを大事にしてくれた。思えば幸せな日々だった。


 ライモンドは、いつの間にか犬としての生活が何ものにも変え難いものだと分かった。

 そして、ずっと向けられていたビアンカの深い愛情を受け止めるうちに、自分の気持ちが、ビアンカに向けられていることに気づいた。


 すると、何かが弾けたように、ビアンカの家庭教師時代を思い出した。


 やんちゃで侍女を泣かしたら、指でしっぺをされたけど、その後に先生が肩を震わせて泣いていた。


「いいライモンド、あなたは人の上に立つものですよ。ジェントルマンにならなければ、暴君になってしまいます。私は国民に愛される国王になってほしいのです」


「先生、泣かないで。僕、もう悪さしないよ」


 先生の涙を見て胸の奥がジーンと来た。


「ライモンド、痛いのはあなただけではありません」


 ビアンカは袖をめくって左手を見せた。そこは傷だらけだった。

 

「ライモンドに折檻したら、二倍自分の腕に折檻したのよ」


「何でそんなことするの?」


「かわいいライモンドを傷付けるなんて、絶対に許せないからよ。たとえ、自分であっても」


「先生……」

 ライモンドが泣き出した。


「この記憶は封印します。時が来たら、いずれ思い出すでしょう」

 そう言ってビアンカは指を鳴らした。



 ライモンドはシーツを強く握り締め、真っ直ぐにビアンカを見上げた。


「僕のこの一年はビアンカ先生のことを知るためにあったんだ。僕は小さい頃からビアンカ先生を恐れ怯えていたけど、それは偽の記憶だったんだ。ほんとのビアンカ先生は誰よりも優しくて僕を愛してくれた。僕は……ビアンカを愛してる」


 その言葉でビアンカの胸の蓋が完全に吹き飛んだ。ビアンカはベッドから身を乗り出し、彼の首に腕を回した。


「私もよレイ!」





 静まり返った深夜の教会。

 ビアンカは祭壇の前で、困惑する神父と向かい合っていた。


「結婚式を挙げたいと。今すぐですか、それは急ですね。で、お相手は?」


 ビアンカは足元を指差した。


「この子です」


「ワン!」


 足元で、最高級シルクの服を着た柴犬のレイが元気よく吠えた。神父は目を丸くして、犬とビアンカを交互に見つめる。


「犬と結婚? それはまた珍しいことで」


 ビアンカは眉を少し上げ、凄むように問いかけた。


「いけませんか?」


 神父は慌てて首を横に振った。


「いえいえ、構いません。愛は自由ですから。魔女様の結婚は大歓迎いたします」


 お墨付きをもらい、ビアンカがウインクすると誰もいないはずの聖堂に、パイプオルガンの荘厳な音色が鳴り響いた。


 その音色に包まれるようにして、柴犬のレイの身体が光に包まれ、大人のライモンドの姿へと変身した。タキシードを纏ったライモンドは、愛おしそうにビアンカの薬指に指輪を嵌め、誓いのキスをした。



 結婚式を終え、夜更けに二人は我が家に戻ってきた。


「ねぇレイ」


「なにビアンカ」


 上着を脱ぎながら振り返るライモンドを見つめ、ビアンカは妖艶に微笑んだ。


「あなたは、もう私のもの。だからもう犬には戻せないわ」


 ライモンドはホッとしたように息を吐き、笑顔を見せる。


「よかった。人間のままでいいんだね」


 だが、ビアンカの微笑みは消えなかった。ゆっくりと彼の元へ歩み寄る。


「犬は散歩させないといけないじゃない。みんなに可愛がられるあなたを見たくない。だから──」


 ビアンカが顔の横で指を鳴らした。



 一瞬の閃光と共に、ライモンドの衣服が消え、その身体がみるみる縮んでいく。


「ちょっと待って……ニャー」


 ベッドの上に、艶やかな毛並みの黒猫がちょこんと座っていた。

 黒猫のレイは前足の肉球を見て、ビアンカに顔を向けた。


「飼い猫になってもらうわ。猫のほうが、適度な距離で愛情を注げるでしょ」


「グルルルー」


「不満なの? しかたないなー、ちゃんと人間に戻してあげる。でもしばらくはそのままでいましょ。いずれあなたには王になってこの国を発展させる責務が生じるのよ。仕事は過酷よ、覚悟できてる?」


「ニャー!」


「あなたが王座に付いたら、その隣の王妃になってずっと愛してあげるから、もうしばらくは私のかわいいペットでいてね」

 

 ビアンカは不満そうに鳴く黒猫を愛おしそうに両腕で抱き上げ、その額に優しくキスをした。






読んでいただき、ありがとうございました。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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