第二話「腐ったものと、腐っていないもの」
宿屋の食堂は、煙っていた。
暖炉に薪が三本入っていて、火の調整が雑だ。煙が煙突に吸い込まれる前に室内に漂い、目が少し染みる。テーブルは四つ、客はカイ以外に二人。いずれも荷物持ちの行商風で、互いに話すこともなく黙って飯を食っていた。
カイは奥のテーブルに座り、メニューを聞こうとカウンターの方を見た。
その瞬間、スライムが動いた。
前掛けのポケットから半分這い出して、食堂の空気をじっと感じ取るような動きをする。色が薄く変わった。平静の薄青から、濁った黄色に近い何かへ。カイはその変化を読んだ。
「何かあるか」
念話が来た。言葉ではなく感触として。
〔腐ってる。料理が〕
カイは視線だけ動かして食堂を見渡した。カウンターの奥の厨房から、微かに酸っぱい匂いがする。慣れている人間には気づかない程度だが、確かにある。発酵の酸味ではなく、腐敗の酸味だ。この二つは似ているようで、根本が違う。
カウンターから店主が出てきた。四十代ほどの女で、白いエプロンに油染みがある。
「何にする。今夜はシチューと黒パンだよ」
「シチューは」
「鶏と根菜だ。うちの名物だよ」
カイはスライムを見た。スライムは黄色のままだった。
「黒パンだけもらえるか。シチューはいい」
女が眉を寄せた。「名物だって言ったのに」と言いながらも黒パンを持ってきた。カイはそれを食べながら、厨房の方をもう一度確認した。鍋の火が見える。煮込んでいる。しかし煮込めば腐敗が消えるわけではない。熱で菌は死ぬが、菌が出した毒素は残る。
前世の知識だ。食品衛生の基礎。
黒パンを食べ終えた頃、女が戻ってきた。
「あんた、シチュー食べなかったのに何か言いたいことでもあるかい」
「一つだけ聞いていいか。最近、シチューの評判はどうだ」
女の顔が変わった。眉間に皺が寄り、目が泳いだ。
「……別に、普通だよ」
「客が腹を壊したことは」
長い間があった。
「……二、三人。でもここ最近は多かったかな、とは思ってたけど」
カイは立ち上がった。「厨房を見せてもらえるか。金は払う」と言った。女は一瞬迷ったが、「どうぞ」と言って奥に通した。
厨房は狭かった。
石造りのかまどが二つ、棚に調味料と乾物。奥に食材の保管棚がある。カイはそちらへ向かい、棚の扉を開けた。
すぐに分かった。
根菜の入った木箱の底に、傷んだものが混じっている。外見上は問題ないように見えるが、カイが一本取り上げて匂いを嗅ぐと、内部が腐り始めていた。表面から見えない腐敗。これをシチューに入れていたのなら、問題が出て当然だ。
「全部の根菜をここに出してもらえるか」
「え、でも——」
「全部」
女は黙って従った。カイはひとつひとつ手に取り、感触と匂いで選別した。スライムがポケットから這い出して、傷んだ根菜に触れた。触れた部分が微かに光り、何かが溶けるような変化が起きる。カイはそれを止めなかった。
「あんたのそれ、何してるんだい」
「腐敗を確認してる。こいつは腐ったものが分かる」
女がスライムを見た。興味と警戒が混じった目だった。
選別が終わった。十七本の根菜のうち、問題のないものが九本。残り八本は程度の差はあるが内部に腐敗が始まっている。カイはその八本を脇に置いた。
「捨てる前に、一つ試させてもらえるか」
「試す?」
「さっきから腐った匂いがすると思ってたが、保管棚の中全体に菌が広がってる。放っておくとまた同じことになる。処置したい」
女はしばらくカイを見た。「タダでやってくれるのかい」と言った。
「黒パン代と相殺でいい」
短い間があって、「好きにしな」という返事が来た。
カイは棚の前にしゃがんだ。
《発酵錬成》を使うとき、特別な動作は要らない。意識を集中して、対象に触れる。それだけだ。
棚の木材に手を当てた。木の奥まで意識を入れる。繊維の間に入り込んだ腐敗菌の気配がある。増殖の方向と速度が感触として伝わってくる。
逆方向に誘導する。
発酵と腐敗は同じ「変容」の仕組みを持っている。菌が有機物を分解するという点では同じだ。ただ、結果が「人間にとって有益かどうか」で呼び名が変わる。カイのスキルは、その変容の「方向」を操作できる。腐敗の方向へ進もうとしている菌を、無害な方向へ誘導する。完全に滅するわけではなく、ただ向きを変える。
淡い緑の光が、手のひらから棚の木材に滲んだ。
甘い土の匂いがした。前世で研究室にいたときによく嗅いだ、培養液の匂いに近い。気泡が湧くような感触が手のひらに伝わってくる。見た目には何も変わっていないが、棚の中の菌の気配が少しずつ変化しているのが分かった。
三十分ほどかかった。
終わった頃には、厨房の空気が微かに変わっていた。腐敗の酸味が薄くなっている。甘みに近い、発酵の香りが代わりに漂っていた。
女が鼻を動かした。
「……匂いが変わった」
「しばらくはこのままいける。ただ、根菜の保管方法を変えた方がいい。石床の上に直接置くんじゃなく、木の台の上に乗せて風を通すこと。それだけで全然違う」
女は棚を見た。それから傷んだ根菜の山を見た。それからカイを見た。
「……あんた、何者だい」
「錬金師だ。発酵専門の」
女はしばらく黙っていた。それから「来年もここを通るなら、またうちに泊まりな」と言った。カウンターに黒パン代の銅貨を置こうとしたカイに、「要らない」とだけ言って引き下がった。
部屋に戻ると、カイは水差しを窓際に置いた。
スライムがポケットから出てきて、水差しの縁に乗った。中の水を触れる。一瞬だけ薄青い光が水面に走り、消えた。
「浄化したのか」
スライムが揺れた。「当然」という気配。
「別に頼んでないぞ」
揺れ方が変わった。「でもやった」という気配。カイは特に止める気にもなれなかった。水差しの水を一口飲む。透明度が上がっている気がした。宿屋の井戸水にしては綺麗すぎる味がした。
窓の外は夜になっていた。山脈の稜線は暗闇に溶けて見えない。星だけが見えた。
カイは椅子に座り、今日のことを頭の中で整理した。
厨房の棚の処置は《発酵錬成》の基本的な使い方だ。特に難しいことはしていない。しかし「役に立てた」という実感は、やはり毎回少しある。前世でも研究の成果が実用化されるたびに感じた、あの静かな手応えに近い。派手ではないが、確かにある。
スライムが水差しの縁から降りてきて、テーブルの上を転がった。窓の方向へ向かい、ガラスに触れる。外の闇を見ているのか、あるいは別のものを感じているのか、カイには分からない。
ポケットから金の原石を一つ取り出した。残りは二つになっていた。今朝、宿代と夕食代で一つ使った。あとは——明日の山越えと、着いた先での最初の足しになる分があれば十分だ。
革袋に戻しながら、カイは考えた。
山脈の向こうの村のことを、あの酔っぱらいは「流れ者が何人か住んでいる」と言っていた。流れ者というのは、どこかから流れてきた人間だ。流れてくるということは、どこかに居場所がなかったということかもしれない。
俺も似たようなものか、とカイは思った。
感傷ではなかった。ただの確認だ。転生してから二年、どこかに根を張ろうとしたことはなかった。ただ動いていた。動いていれば、何かが見つかるかもしれないという、根拠のない感覚で。
スライムが窓ガラスから離れ、テーブルに戻ってきた。カイの手の甲の上に乗った。体重はほとんどない。しかし確かに、そこにいる。
〔明日も歩くのか〕
「ああ」
〔遠いか〕
「まあ。でも急がない」
スライムが揺れた。白に近い透明に変わった。安心の色だとカイは解釈している。
窓の外で、風が山の方から吹いてきた。
カイは目を閉じた。
翌朝、宿を出る前に食堂を覗いた。
女が厨房で根菜を木の台の上に並べていた。昨日カイが言った通りにしている。気づいて振り向いた女と目が合った。
「旅の無事を祈るよ」と、女は言った。
「ありがとう」
カイは扉を開けて外に出た。朝の空気が冷たかった。山脈の稜線が、昨日より近く見えた。
スライムがポケットの中で揺れた。
〔行くか〕
「行く」
カイは山の方角へ向かって歩き始めた。




