表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/2

第二話「腐ったものと、腐っていないもの」


 宿屋の食堂は、煙っていた。


 暖炉に薪が三本入っていて、火の調整が雑だ。煙が煙突に吸い込まれる前に室内に漂い、目が少し染みる。テーブルは四つ、客はカイ以外に二人。いずれも荷物持ちの行商風で、互いに話すこともなく黙って飯を食っていた。


 カイは奥のテーブルに座り、メニューを聞こうとカウンターの方を見た。


 その瞬間、スライムが動いた。


 前掛けのポケットから半分這い出して、食堂の空気をじっと感じ取るような動きをする。色が薄く変わった。平静の薄青から、濁った黄色に近い何かへ。カイはその変化を読んだ。


「何かあるか」


 念話が来た。言葉ではなく感触として。


 〔腐ってる。料理が〕


 カイは視線だけ動かして食堂を見渡した。カウンターの奥の厨房から、微かに酸っぱい匂いがする。慣れている人間には気づかない程度だが、確かにある。発酵の酸味ではなく、腐敗の酸味だ。この二つは似ているようで、根本が違う。


 カウンターから店主が出てきた。四十代ほどの女で、白いエプロンに油染みがある。


「何にする。今夜はシチューと黒パンだよ」


「シチューは」


「鶏と根菜だ。うちの名物だよ」


 カイはスライムを見た。スライムは黄色のままだった。


「黒パンだけもらえるか。シチューはいい」


 女が眉を寄せた。「名物だって言ったのに」と言いながらも黒パンを持ってきた。カイはそれを食べながら、厨房の方をもう一度確認した。鍋の火が見える。煮込んでいる。しかし煮込めば腐敗が消えるわけではない。熱で菌は死ぬが、菌が出した毒素は残る。


 前世の知識だ。食品衛生の基礎。


 黒パンを食べ終えた頃、女が戻ってきた。


「あんた、シチュー食べなかったのに何か言いたいことでもあるかい」


「一つだけ聞いていいか。最近、シチューの評判はどうだ」


 女の顔が変わった。眉間に皺が寄り、目が泳いだ。

「……別に、普通だよ」


「客が腹を壊したことは」


 長い間があった。


「……二、三人。でもここ最近は多かったかな、とは思ってたけど」


 カイは立ち上がった。「厨房を見せてもらえるか。金は払う」と言った。女は一瞬迷ったが、「どうぞ」と言って奥に通した。




 厨房は狭かった。


 石造りのかまどが二つ、棚に調味料と乾物。奥に食材の保管棚がある。カイはそちらへ向かい、棚の扉を開けた。


 すぐに分かった。


 根菜の入った木箱の底に、傷んだものが混じっている。外見上は問題ないように見えるが、カイが一本取り上げて匂いを嗅ぐと、内部が腐り始めていた。表面から見えない腐敗。これをシチューに入れていたのなら、問題が出て当然だ。


「全部の根菜をここに出してもらえるか」


「え、でも——」


「全部」


 女は黙って従った。カイはひとつひとつ手に取り、感触と匂いで選別した。スライムがポケットから這い出して、傷んだ根菜に触れた。触れた部分が微かに光り、何かが溶けるような変化が起きる。カイはそれを止めなかった。


「あんたのそれ、何してるんだい」


「腐敗を確認してる。こいつは腐ったものが分かる」


 女がスライムを見た。興味と警戒が混じった目だった。


 選別が終わった。十七本の根菜のうち、問題のないものが九本。残り八本は程度の差はあるが内部に腐敗が始まっている。カイはその八本を脇に置いた。


「捨てる前に、一つ試させてもらえるか」


「試す?」


「さっきから腐った匂いがすると思ってたが、保管棚の中全体に菌が広がってる。放っておくとまた同じことになる。処置したい」


 女はしばらくカイを見た。「タダでやってくれるのかい」と言った。


「黒パン代と相殺でいい」


 短い間があって、「好きにしな」という返事が来た。




 カイは棚の前にしゃがんだ。


 《発酵錬成》を使うとき、特別な動作は要らない。意識を集中して、対象に触れる。それだけだ。

 棚の木材に手を当てた。木の奥まで意識を入れる。繊維の間に入り込んだ腐敗菌の気配がある。増殖の方向と速度が感触として伝わってくる。

 逆方向に誘導する。


 発酵と腐敗は同じ「変容」の仕組みを持っている。菌が有機物を分解するという点では同じだ。ただ、結果が「人間にとって有益かどうか」で呼び名が変わる。カイのスキルは、その変容の「方向」を操作できる。腐敗の方向へ進もうとしている菌を、無害な方向へ誘導する。完全に滅するわけではなく、ただ向きを変える。


 淡い緑の光が、手のひらから棚の木材に滲んだ。


 甘い土の匂いがした。前世で研究室にいたときによく嗅いだ、培養液の匂いに近い。気泡が湧くような感触が手のひらに伝わってくる。見た目には何も変わっていないが、棚の中の菌の気配が少しずつ変化しているのが分かった。


 三十分ほどかかった。


 終わった頃には、厨房の空気が微かに変わっていた。腐敗の酸味が薄くなっている。甘みに近い、発酵の香りが代わりに漂っていた。


 女が鼻を動かした。


「……匂いが変わった」


「しばらくはこのままいける。ただ、根菜の保管方法を変えた方がいい。石床の上に直接置くんじゃなく、木の台の上に乗せて風を通すこと。それだけで全然違う」


 女は棚を見た。それから傷んだ根菜の山を見た。それからカイを見た。

「……あんた、何者だい」


「錬金師だ。発酵専門の」


 女はしばらく黙っていた。それから「来年もここを通るなら、またうちに泊まりな」と言った。カウンターに黒パン代の銅貨を置こうとしたカイに、「要らない」とだけ言って引き下がった。




 部屋に戻ると、カイは水差しを窓際に置いた。


 スライムがポケットから出てきて、水差しの縁に乗った。中の水を触れる。一瞬だけ薄青い光が水面に走り、消えた。


「浄化したのか」


 スライムが揺れた。「当然」という気配。


「別に頼んでないぞ」


 揺れ方が変わった。「でもやった」という気配。カイは特に止める気にもなれなかった。水差しの水を一口飲む。透明度が上がっている気がした。宿屋の井戸水にしては綺麗すぎる味がした。


 窓の外は夜になっていた。山脈の稜線は暗闇に溶けて見えない。星だけが見えた。


 カイは椅子に座り、今日のことを頭の中で整理した。


 厨房の棚の処置は《発酵錬成》の基本的な使い方だ。特に難しいことはしていない。しかし「役に立てた」という実感は、やはり毎回少しある。前世でも研究の成果が実用化されるたびに感じた、あの静かな手応えに近い。派手ではないが、確かにある。


 スライムが水差しの縁から降りてきて、テーブルの上を転がった。窓の方向へ向かい、ガラスに触れる。外の闇を見ているのか、あるいは別のものを感じているのか、カイには分からない。


 ポケットから金の原石を一つ取り出した。残りは二つになっていた。今朝、宿代と夕食代で一つ使った。あとは——明日の山越えと、着いた先での最初の足しになる分があれば十分だ。


 革袋に戻しながら、カイは考えた。


 山脈の向こうの村のことを、あの酔っぱらいは「流れ者が何人か住んでいる」と言っていた。流れ者というのは、どこかから流れてきた人間だ。流れてくるということは、どこかに居場所がなかったということかもしれない。


 俺も似たようなものか、とカイは思った。


 感傷ではなかった。ただの確認だ。転生してから二年、どこかに根を張ろうとしたことはなかった。ただ動いていた。動いていれば、何かが見つかるかもしれないという、根拠のない感覚で。


 スライムが窓ガラスから離れ、テーブルに戻ってきた。カイの手の甲の上に乗った。体重はほとんどない。しかし確かに、そこにいる。


 〔明日も歩くのか〕


「ああ」


 〔遠いか〕


「まあ。でも急がない」


 スライムが揺れた。白に近い透明に変わった。安心の色だとカイは解釈している。

 窓の外で、風が山の方から吹いてきた。


 カイは目を閉じた。




 翌朝、宿を出る前に食堂を覗いた。


 女が厨房で根菜を木の台の上に並べていた。昨日カイが言った通りにしている。気づいて振り向いた女と目が合った。


「旅の無事を祈るよ」と、女は言った。


「ありがとう」


 カイは扉を開けて外に出た。朝の空気が冷たかった。山脈の稜線が、昨日より近く見えた。


 スライムがポケットの中で揺れた。


 〔行くか〕


「行く」


 カイは山の方角へ向かって歩き始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ