第一話「足元の地図」
霧が、深かった。
山道は石畳もなく、踏み固められた土がそのまま続いているだけだ。両側から張り出した木の枝が頭上で絡み合い、空はほとんど見えない。朝だというのに光が薄く、足元の輪郭がぼんやりとしている。
カイ・ルーデンは、黙って歩いていた。
背中の荷物は大きくない。着替えと、小さな革袋にまとめた醸造道具一式。腰の左には水筒、右には使い込んだナイフ。前掛けは旅の汚れで色が変わっているが、胸のポケットだけはいつも清潔に保っていた。
理由は単純だ。そこに、スライムが住んでいるからだ。
手のひらに乗るほどの大きさで、色は透明に近い薄青。光の角度によっては七色に滲んで見えることもある。スライムというのは魔物の一種で、本来であれば人間に懐くような生き物ではない。しかしこいつは違った。カイが転生してまもない頃、廃屋の地下室でこっちに向かってきたかと思えば、靴についた泥をすうっと溶かして消した。それだけだった。カイが「ありがとう」と言うと、小さく揺れた。
それからずっと、一緒にいる。
名前はまだない。カイがつけようとしたことも、特にない。「お前」で通じているし、向こうも困っていない様子だった。
ポケットの中で、薄青い光が微かに揺れた。
生き物の体温ではない、もっと静かな熱。カイはそれを感じながら、霧の中を歩き続けた。
転生してから、二年が経つ。
前の世界では院生だった。発酵工学の研究室で、培養液の配合を調整しながら一日を終えるような日々。それが正しかったのかどうか、今となっては分からない。ただ、あの世界でも、この世界でも、発酵が飯の種になっているのは変わらなかった。前世の知識がそのまま「錬金術スキル」として機能している理由については深く考えないようにしている。考えてもどうにもならないことは、考えない。それが橘甲という人間の、唯一といっていい人生の知恵だった。
道が二股に分かれた。
左は下り坂で、踏み跡が多い。右は草が多めで、踏み跡が薄い。カイは立ち止まり、懐から地図を取り出した。羊皮紙の端が折れ、インクが滲んでいる。三か月前に宿屋の親父から買ったものだが、精度は期待していなかった。
右が山脈方向のはずだが、道の様子からすると左が街道に繋がりそうだ。
ポケットの中の気配が動いた。スライムが前掛けの端まで這い上がり、右の道の方向に触れた。
そのとき、頭の中に何かが届いた。
声ではない。言葉でもない。「地脈が濃い」という感触が、直接頭の中に入ってくる。最初にこれが起きたとき、カイは幻聴だと思った。次の日も同じことが起きて、試しに「聞こえてるのか」と声に出したら、ポケットの中のスライムが揺れた。それで分かった。こいつは念話ができる。
以来、カイはこの感触を「言葉」として受け取るようにしている。翻訳するのはカイ自身だ。概念として届いたものを、頭の中で言語に変換する。慣れるまで少し時間がかかったが、今はもう自然にできる。
さっきの感触を言語にするなら、こうなる。
〔こっち。地脈が濃い〕
「地脈が濃い道が正しいとは限らないけどな」
スライムはまた揺れた。「それでもこっち」という意思が、また届いてくる。
カイは地図を折り畳んで懐に戻し、右の道へ踏み出した。草が足首に触れる。霧がやや濃くなった。
しばらく歩くと、道の傾斜がゆるやかになった。木々の密度が下がり、光が少し増える。霧の中に、石造りの何かの輪郭が見えてきた。
廃村だった。
かつて人が住んでいた痕跡が、そこかしこに残っている。朽ちた木の看板、文字はもう読めない。崩れた石壁、苔が緑色に覆っている。雑草に埋もれた水路の跡。土台だけ残った家の残骸が、霧の中でいくつも並んでいた。
カイは立ち止まり、あたりを見渡した。
廃村は珍しくない。この国の辺境には、理由もなく消えた集落がいくつもある。病か、魔物か、あるいは単純に人が散り散りになったのか。理由を詮索する気にはなれなかった。
スライムがポケットから半分這い出して、静かな念話を寄越した。
〔ここは終わった場所〕
「分かってる」
カイはしゃがんだ。地面に片手を当て、土の感触を確かめる。《地脈元素錬成》を使うまでもない、ただ触れるだけで分かることがある。土の密度、乾燥の具合、菌の気配。
菌の気配。
カイは眉を動かした。わずかだが、確かにある。発酵菌の残滓。死んでいない。弱まってはいるが、土の深いところでまだ呼吸している。
立ち上がり、水路跡の方へ歩いた。枯れ草をかき分けると、崩れた石壁の隙間に木製の何かが埋まっていた。半分土に帰りかけた樽の底板。素材はもう原形をとどめていないが、その周辺の土が微かに変色していた。
カイはそこにもう一度しゃがみ、土をひとつまみ取って指の間でこねた。
「まだ生きてる」
独り言だった。しかしスライムに届いた。ポケットの中で動く気配がする。頭の中に、言葉のない問いかけが来る。「何が」という感触。
「菌だ。誰かがここで仕込んでたんだろう、ずいぶん昔に。樽は消えても菌は土に残る。よほど強い菌だったんだな」
カイは土を地面に戻した。指に残った匂いを嗅ぐ。かすかな酸味と、甘み。発酵の記憶が土に染みついている。
スライムが淡い緑色に変わった。カイはそれを横目で見た。
テイムしてから二年、このスライムが色を変えることには慣れた。感情によって色が変わる。平静なら薄青透明、興味を持つと淡い緑、不快なら濁った黄、安心しているときは透明に近い白。言葉の代わりだ。今の緑は「面白い」という意味だとカイは解釈している。
「人がいなくなっても、菌は残る。そういうもんだ」
廃村を出ると、道はまた山へ向かって続いていた。木々の向こうに、山脈の稜線がぼんやりと見え始めた。雪を頂いた峰が、霧越しに白く浮かんでいる。
カイは歩きながら、先月に聞いた話を思い出した。
宿屋の酔っぱらいが言っていたことだ。山脈の向こうに、忘れられた村があると。辺境伯の領地だが誰も管理していない、流れ者が何人か住んでいる、そういう場所だと。男は「行っても何もないぞ」と笑っていた。
カイは「何もない」という言葉の意味を考えていた。
何もないというのは、何も失うものがないということかもしれない。何も決まっていないということかもしれない。どちらにしても、悪くなかった。
ポケットの中のスライムが揺れた。問うような気配。
〔行くのか〕
「まあ、やれることをやるか」
答えにならない答えだったが、スライムはそれ以上聞いてこなかった。
山道に入ってから半日が経った頃、道の傾斜が急になった。
両側の木が低くなり、岩が増えてきた。風が出てきて、霧が消えた。空が広くなった。青くはなかったが、白かった。曇り空の白さが山の上まで続いていて、どこまでが空でどこまでが雪なのか、境界が曖昧だった。
カイは岩の上に腰を下ろし、水筒の水を少し飲んだ。
スライムがポケットから這い出して、岩の上に乗った。風に揺れる。薄青い体が光を受けて、一瞬だけ七色に滲んだ。カイはそれを見ていた。
「寒くないのか」
スライムは揺れた。「分からない」という気配が届いた。感覚の仕組みが人間と違うのだと思う。カイは深く考えないことにした。
水を飲み切る前に立ち上がり、また歩き始めた。
道の途中に、露頭があった。雨風で削られた崖の断面が、道の脇に剥き出しになっている。茶色と灰色の地層が縞模様を作っていた。カイは立ち止まり、崖に手を当てた。
地脈の走りを感じた。
弱いが、確かにある。ここは地脈の傍流が通っている場所だ。カイは崖の表面を指先でなぞった。岩の中に金属の成分が混じっているのが分かる。鉄ではない。比重が違う。
「金か」
スライムが反応した。腕を這い上がってきて、崖の岩肌に触れた。
〔ある。多くはないが〕
「ちょうどいい」
カイは荷物を下ろした。岩肌の前にしゃがみ、両手を地面につける。《地脈元素錬成》を使う。足元から薄い紫の筋が走り、地面を通って岩の中へ入っていく。低い地鳴りのような振動が手のひらに伝わってきた。
金は岩の中に散在している。粒が小さく、他の鉱物と混じっている。カイは地脈の流れを借りながら、金の成分だけを引き寄せる方向に力を向けた。ゆっくり、急がず。《地脈元素錬成》は焦ると失敗する。発酵と同じだ、時間を敵にしない。
三十分ほどかけて、岩肌に小さな突起がいくつか浮かび上がってきた。
親指の爪ほどの塊が、三つ。磨いてはいないが、鈍い黄色が光を拾っている。純度は高くない。原石の状態だ。しかしこれだけあれば、宿屋一泊と食事が賄える。
カイは塊を丁寧に剥がし、革袋の中に入れた。
スライムが袋の口を覗いた。
〔重い〕
「金だからな。小さくても重い」
スライムが揺れた。「面白い」という気配。カイは袋を締め、荷物に戻した。立ち上がり、崖を一度振り返った。岩肌に小さな窪みが三つ残っている。自然に埋まるまでそう時間はかからないだろう。
「借りた分は返す」
誰に言うでもない言葉だった。カイは踵を返し、また山道を歩き始めた。
その日の夕方、山麓の集落にある宿屋に着いた。
看板には「旅人の宿・ヤン亭」と書かれていた。扉を開けると、薪の煙と料理の匂いが混じった空気が出迎えた。カウンターに中年の男が肘をついていた。
「一泊と夕食、ある?」
「ある。金は持ってるか」
カイは革袋を出し、金の原石をひとつカウンターに置いた。男は目を細め、石を指でつまんで光にかざした。
「……本物か?」
「原石だから磨いてはいないが、換金できる」
男は少し考えてから「今夜は泊めてやる」と言った。夕食の分も出せと言われたので、もうひとつ置いた。それで足りた。
部屋に案内されると、カイは荷物を降ろして窓を開けた。山脈の稜線が夕暮れの中に見えた。明日にはあの向こうへ行く。
スライムが窓枠に乗って、山の方向を見た。
〔向こうに、何かある〕
「地脈か?」
〔もっと深い〕
カイはスライムと並んで、しばらく山脈を眺めた。深いというのが何を指しているのか、今の段階では分からなかった。分からないまま、山を見ていた。
夕食は悪くなかった。




