賽は投げられた、樽の中に
ランバルト、あるいはこの連合国を統べる王という巨大な存在が去った後、礼子は一人、工房の窓際に立ち、そこから広がる山村の景色を静かに眺めていた。窓枠に置かれた細い指先には、先ほどまで触れていた黒曜石の冷たさが微かに残っている。春の陽光が差し込む工房内では、埃の粒子が光の筋となって踊り、外からはドワーフたちが振るう鎚の音と、新設された水車が立てる力強い水の爆ぜる音が重なり合って響いていた。王が提示した条件に従えば、今後は彼女の持つ技術を広めるべく、各村へ農地造成の出張に出向く日々が始まることになるだろう。それは彼女にとって、かつての世界でこなしてきた出張作業の延長線上にある、ひどく事務的で代わり映えのしない業務に思えた。だが、その一歩を踏み出す前に、片付けておかねばならない重大な懸念事項が一つだけあった。
「……私の留守中にこの村が簡単に落とされたり、苦労して構築した技術体系が魔族や聖教国に安々と渡ってしまうのは、あまりにも生産性が低すぎるわね。投資したリソースをドブに捨てるような真似は、私のプライドが許さないわ」
礼子は窓の外で平和そうに農作業の準備を進める村人たちの姿を見つめながら、誰に聞かせるでもなく淡々と独り言ちた。彼女が真に恐れているのは、技術そのものの流出という概念的な損失ではない。その技術がもたらすであろう、この世界の理不尽な暴力性に根ざした、あまりにも凄惨で無意味な結末の風景だった。
「いい、みんな。作業の手を止めて、私の話をよく聞いてちょうだい」
翌日、礼子は工房に集まった職人や主要な村人たちを前にして、いつものように穏やかで、しかしどこか感情の欠落したにこやかな笑顔を浮かべて語り始めた。その場には鍛冶親方や木工職人、そして村の若者たちが、彼女の次なる神託を待つ信徒のような敬虔な面持ちで集まっていた。
「もし、魔族のスパイや教国の残党が、この村にしかない高度な技術を盗もうとしたら、その後で一体何が起きると思う? 想像力を働かせなさい。敵地にあるこの里は、情報の秘匿と隠滅のために、彼らの手によって根こそぎ焼き払われることになるわ。そこに住む女も子供も、他に技術を知る者がいないか、あるいは隠されたマニュアルがないか、爪を剥がされ、骨を砕かれるような拷問を延々と受けながら、一人ずつ凄惨に殺されていくことになるでしょう。……そういう最悪の未来も、今のうちから生存の想定内にしておいてね。だから、馴染みの商人だとか、遠い親戚だとか、そんな安い情に流された理由で部外者を安易に入れないこと。分かった?」
冗談めかした軽い口調とは裏腹に、その内容はあまりに具体的で、鮮血の臭いが漂ってきそうなほど血生臭いものだった。職人たちはその言葉の重みに、春の陽気の中でも歯の根が合わぬほどガタガタと震えだし、蒼白になった顔を引き攣らせながら必死に頷くしかなかった。彼らにとって、礼子の口から放たれる言葉はもはや単なる推測ではなく、冷徹な未来予知に等しい響きを持っていたからだ。
まず彼女が着手したのは、工房区画を周囲から完全に隔離するための、深く暗い水堀の掘削と、特殊な強化粘土を用いた厚い煉瓦の壁の構築だった。これは部外者の侵入を物理的に、かつ視覚的に拒絶すると同時に、万が一の事故や襲撃による火災が発生した際、完璧な延焼防止帯として機能するよう設計されていた。しかし、礼子の真の土魔法の真髄、そして彼女の脳内に蓄積された現代社会の知識が火を吹くのは、そのさらに先の工程であった。
「せっかくの土魔法があるんだし、地球の数千年にわたる無慈悲な戦史をミックスして、この村の防御機能を最適化しちゃいましょうか」
彼女が脳内のシミュレーターで描き出したのは、かつて難攻不落を誇った日本の山城、浅井氏の居城であった小谷城の峻険な縄張り。そして、町全体を長大な堀と土塁で包み込んだ北条氏の小田原城、その総構えの概念であった。さらには古代中国で万里の長城を築いた版築技法、すなわち土を層ごとに極限まで突き固めて石を凌ぐ硬度を持たせる工法を組み合わせる。礼子が指先を地面に向け、地脈に直接魔力の波動を送り込むと、背後の山々の尾根に沿って、地鳴りのような重低音と共に、次々と幾何学的な配置の石積みの城塞群が立ち上がっていった。
メインの居住区を囲むのは、土を極限まで圧縮して成型し、表面に精密な水抜き穴と傾斜を配した石垣の城壁である。その一部が鋭利に突き出た、星型を思わせる独特の形状は、もし現代の軍事史を知る者がいれば、火砲の死角をなくすために考案された稜堡要塞の変形版であることに気づいただろう。
ひと月後。かつてのため池やのどかな農地の先にまで、幾重もの深い堀と、滑らかな曲面を持つ城壁が蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。もはやそこは、山間にひっそりと佇む平和な村などではなかった。突如として出現した、自給自足が可能でありながら一個師団の軍勢を正面から跳ね返す力を秘めた、鋼鉄の規律を持つ城塞都市であった。
「居住区の整備はこれでいいわね。あとは馬房と食糧を保管するサイロ、それに兵舎を作れば一段落といったところかしら。……あ、そういえば、ここを守るための近接武器が決定的に足りないわね」
礼子は工房の隅に、資材として転がっていた良質な砂鉄と、ドワーフたちが希少な魔法金属として大切に、しかし使い道に困って保管していたミスリルの塊に目を止めた。
「親方も醸造設備のメンテナンスで忙しいし、これは私が適当に作っておきましょうか。素材の組成を考えれば、現代社会のダマスカス鋼を模した槍先で十分ね。剣を打つよりも素材の消費が少なくて済むし、訓練も容易だわ」
礼子は、炉に火を入れることすら省略し、魔力によって金属の原子配列をナノレベルで強引に組み替え、積層構造を作り出していった。完成したのは、流れるような美しい水の紋様が銀色の表面に浮かび上がる、鎌槍、スピア・ギザルメの穂先である。聖教国の平兵士が持つ、ただの鉄の棒に穂先をつけただけの単純な槍とは、比較することすら失礼なほどの貫通力と靭性を誇り、引けば肉を斬り、突けば鋼の鎧をも貫く多機能性を備えた一品であった。
「とりあえず20本も用意しておけば、初期の防衛には十分でしょう。どうせ、よほどの事態が起きない限り、私の城壁に辿り着く前に敵は壊滅するはずだから、出番なんてないでしょうけれど」
礼子は、自らの魔力で原子レベルから組み替えた、現代のダマスカス鋼にも似た特有の波紋が浮かぶ鎌槍の穂先を、検品を終えた事務書類のように淡々と眺めた。その鋭利な刃先は、工房の火影を反射して不気味なほどに美しく、しかし彼女の瞳にはその美術品としての価値は一切映っていない。彼女は、まだほのかに熱を帯びているはずの金属を躊躇なく掴むと、近くに置かれた使い古しの木樽の中へと無造作に放り込んだ。硬質な金属音が乾いた木樽の中で何度か反響し、重なり合うようにして収まる。彼女にとって、この槍を打つという行為は、勇者としての華々しい武勲の準備などではなく、将来的なリスクを最小限に抑え込むための、ひどく退屈で孤独な事務作業の一環に過ぎなかった。しかし、その「地味な準備」が、これまでこの世界を支配していた高潔な騎士道や、詠唱の長さを競うような古色蒼然とした魔術戦の概念を、その根底から音も立てずに無に帰すための猛毒であることを、この場にいる誰一人として、まだ気づいてはいなかった。
「いい、よく聞きなさい! これからは三圃制を完全に徹底するわ。大麦、小麦、そして休耕地での根菜類。このサイクルを乱す者は、土地の恩恵を受ける資格がないものと思ってちょうだい。また、作業に不可欠な牛犂、鎌、そしてあの鋭利な三又のビッチュー鍬といった金属製品は、それぞれの世帯が抱える農業従事人口と労働力に応じて、私の管理下で厳格に支給する。土地の分配や利用に関する不当な不公平、あるいは無意味な境界争いを根絶するため、現在は私の設計した統一書式による戸籍の整備を並行して進めているわ。自分の権利を正当に主張し、この新しい秩序に組み込まれたいと願う者は、一人残らず期限までに役場へ申し出るように!」
平原の入り口に位置し、かつては家畜の排泄物と泥濘に塗れていた街の広場。そこでは今、礼子の冷徹なまでの合理性を叩き込まれ、煤けた羊皮紙ではなく真っ白な藁半紙を手にした文官の、張りのある鋭い声が春の乾いた空気を震わせていた。広場を囲む石造りの壁には、礼子が土魔法で焼き固めた案内板が整然と掲げられ、そこには幾何学的な図形を用いた農地割の図面が刻まれている。その整然とした、しかしどこか非情なまでの効率を感じさせる光景を一目見ようと、古くからこの地に根を張る頑固なドワーフの住人たちはもちろん、戦火を逃れ、あるいは新時代の夜明けを予感して集まった耳の長い放浪者や、飢えで頬の削げた人間たちが、広場の端から溢れんばかりの長蛇の列を作っていた。
列の中ほど、あまりの空腹と疲労からか、細い肩を力なく落としたダークエルフの若者が、周囲を威圧することなく、しかし淀みのない動作で群衆を捌いている兵士に対し、震える声を絞り出した。彼の指先は、期待と恐怖が混濁した感情によって、細かく、しかし止めることのできない痙攣を繰り返している。
「……なぁ、あんた。俺は、俺たちはここに来る途中の街道から、悪夢か何かを見ているような気分だったんだ。街の外側に、まるで生き物のように凄まじい勢いで農地が広がり、見たこともないほど赤く美しいレンガの家が、一晩ごとに増えていくのをこの目で見た。あれは本当に、現実のことなんだよな? 本当に、この薄汚い羊皮紙に名前を書き込んで登録するだけで、俺のような寄る辺ない者でも、自分の畑と、雨風を凌げる立派な家が手に入るっていうのか? あとで法外な利息を請求されたり、地下の採掘場に売り飛ばされたりするような、卑劣な罠じゃねえんだろうな?」
兵士は、礼子が設計し、ドワーフの親方が心血を注いで鋳造した頑強な兜の奥で、少しだけ苦い、しかしどこか慈悲深い色を湛えた瞳を動かして答えた。彼の腰には、量産品とは思えぬほど鋭利な鎌槍が下げられており、その重みが彼に確かな自信を与えているようだった。
「いや、本当だ。お前の目に見えているものはすべて、レーコ様が冷徹な計算の上に築き上げた現実だ。だがよ、若いの。世の中にタダほど高いものはない、というのはどの世界でも共通した真理だ。この話には、裏があるわけじゃねえが、甘い汁だけを吸えると思うなよ。この新規開拓地の労働者として登録され、レーコ様の庇護下に入るからには、お前には二つの、血を吐くような重い義務が課されることになる」
兵士は、使い込まれた革手袋に包まれた人差し指を一本、若者の眉間の前に突き立てた。その指先は、一切の迷いなく垂直に天を指している。
「一つ目だ。お前に支給される牛や種、それからあの奇跡のような切れ味を誇る農具といった初期資産は、すべて国や都市からの借入扱いになる。もっとも、守銭奴の商人が提示するような暴利じゃねえ。それらが完済されるまでの数年間、収穫物から納める税に、極めて微量の、だが確実に懐に響く上乗せがなされる。そして二つ目だ。ここが生存に関わる最も重要な点だ。有事の際、あるいは魔族や教国の軍勢がこの安住の地を汚しに来た際、自分の土地と家族を守るために、定期的な『防衛民兵』としての厳格な訓練が課せられる。クロスボウによる遠距離狙撃、槍を用いた一糸乱れぬ隊列行動、さらには火災時の組織的な消火と救護訓練だ。これらに積極的に参加し、模範を示す奴には、大幅な税制の優遇と、さらなる肥料の優先配給が約束されている」
「民兵……。つまり、平和な農家になれると思ったら、結局は剣を取って戦士になれってことか? 教国の軍隊と、やってることは変わらねえんじゃねえのか?」
若者の言葉に、周囲の群衆も一瞬、不安げなざわめきを漏らした。しかし兵士は、鼻先でふんと笑い飛ばすと、さらに言葉を重ねた。
「勘違いするな。お前のような素人を、無策のまま最前線に送って盾にするような無能な真似を、あのお方がなさると思うか? 実際にお前を鍛えるのは、農家を引退した隠居のジイさんたちと、レーコ様が書き上げた『農政書』を文字通り暗記するまで読み込んだ、眼鏡をかけた文官たち、そして有事の際の初期防衛を教える引退した兵士だ。従軍して前線に立ち、死んで来いなどとは言わんから安心しろ。お前たちが民兵として守るのは、自分らの住む場所、新しく与えられた土地と古郷だ。外に出て戦うのは本職の兵士や騎士に任せればいい。」
一息ついた兵士が続ける。
「初期の借入を死に物狂いで働き、返済しきれば、お前はあらゆる優遇措置を一身に受けた、誰にも文句を言わせない『家持ちの誇り高き農夫』になれるってわけだ。この千載一遇の好機に、自分の住む土地も守る気概が無く、自分の足で立ち上がる決断もできないような臆病者は、一生街の冷たい片隅で泥水でもすすってろ。そういうことだ」
二人の会話を、空を切り裂くような地響きが轟然と遮った。若者が驚愕に目を見開いて見つめる先、視界の端にある巨大な丘の一部が、まるで見えない巨人の手によって抉り取られたかのように音を立てて崩れ落ちた。土砂は物理法則を嘲笑うかのような不気味な流動性を持ち、意志を持つ漆黒の津波となって窪地へと流れ込み、瞬く間に、人力では何世代かけても不可能なほど平坦で広大な土地を形成していく。さらについでだと言わんばかりに、巨大な建造物の骨組みが、目に見えぬ幾何学的な線に沿って、土魔法の淡い燐光と共に一気に、そして精密に組み上げられていった。
「……あれが、教国の神官たちが無価値だと吐き捨てた、あの勇者様というお方の御力なのか」
ダークエルフの若者は、呆然と口を開けたまま、土煙が龍のように舞う丘を見つめ続けていた。彼の震える瞳には、これまで生きてきた中で一度も感じたことのない、畏怖を通り越した圧倒的な「希望」が、暴力的なまでの説得力を伴って刻まれていた。
「一体、聖教国に大事に抱えられているというあの『光の勇者』とやらは、今ごろ何をしているんだ。噂の一つも流れてこないが、あんな奇跡を呼吸するように平然と行うお方よりも、さらに凄まじい存在だというのか……?」
もし、この若者が抱いた純朴極まりない疑問を礼子が耳にしていたら、彼女はいつものように前髪を鬱陶しそうに払いのけ、何の感慨も湧かない、退屈な事務連絡のような口調でこう解説しただろう。
「別に、神話の再現なんて難しいことはしていないわよ。地質学的な観点から土中に断層のような亀裂を作り、そこに魔法で生成した水を潤滑剤として流し込む。あとは魔力で微細な定常波を与えて摩擦係数を限界まで下げれば、物理法則に従って土砂は重力の導くままに滑っていくわ。私はその『方向性』だけを、ほんの少し管理してあげただけ。計算さえ合っていれば、あとは重力が勝手に残りの仕事を片付けてくれる。合理的で簡単よね。魔法の基礎理論と簡単な力学を理解している使い手が数人協力すれば、誰にでも再現可能な事務的な技術よ」
だが、もし現役の高位魔法使いがその場に居合わせたならば、顔面を蒼白にし、魂を削り取るような勢いで全力の否定を叫んだに違いない。彼女が行っているのは、魔法という神秘の行使などではなく、魔法という莫大なエネルギーをただの「引き金」に過ぎない部品へと貶めた、あまりに巨大で精密な「大規模土木工学」そのものだったからだ。
「よし、造成はこれで終了。計算通りの水平度が保たれているわね。次は、穀物の品質を数年単位で保証するための、サイロの底板の精密成型に入るわ。……シェーラさん、悪いけれど、次は石灰の精製工程とモルタル配合の品質管理を、あなたの責任でお願いできるかしら。冬の湿気や害虫から貴重な種子を守るために、初期の防カビ効果を極限まで高めたいの。例のあなたの『死』の能力を、対象を傷つけるためではなく、種子の保存環境を理想的な状態で固定するための『聖域』として応用してちょうだい」
礼子の発する指示は、常に数手、あるいは数百年先を見据えた「生存」のための冷徹な事務作業の連続であった。彼女の細い指先から紡ぎ出される合理性の糸は、中世の闇に包まれていたこの世界を、今まさに「工業化」という名の逃れられぬ光の中に、強引に引き摺り込もうとしていた。




