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クラフト系地味勇者 礼子  作者: シェーラ
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本物なら一晩でできるはず

一週間という時間は、この停滞した山村の光景を劇的に、そして不可逆的に一変させるには十分すぎる歳月だった。かつては雑木林が乱雑に生い茂り、岩肌が剥き出しになっていた斜面を覆っているのは、もはや無秩序な野山ではない。それは五百年後の未来、たとえ文明が高度な機械化に辿り着いたとしても、その設計図をそのまま流用できるであろうほど、緻密な計算に基づき完全な方形に区画された段々畑の連なりだった。整然と並ぶ石積みの縁は、遠目に見れば巨大な精密回路が山肌に刻み込まれているかのようであり、それらを繋ぐ道は荷車の取り回しを完璧に計算した勾配で村を駆け巡っている。その傍らでは、礼子が引いた灌漑水路が常に一定の流速を保ちながら、心地よいせせらぎの音を奏でていた。


もはやこの村に住むドワーフたちは、目の前で繰り広げられる奇跡に対して驚くという段階を通り越し、完全に思考を停止させていた。彼らにとって、礼子が何気ない動作で振るう土魔法は、もはや単なる魔力の行使などではない。それは世界の理そのものを書き換え、混沌に秩序を強制的に流し込む神性な事象に映っていた。彼らは礼子が通りかかるたびに、畏怖の念を込めて深く頭を垂れるようになっていた。


「……うーん。ネット小説の定番だと、チート能力を授かった勇者が辺境領まるごと一個分を一晩で完璧に耕しちゃったりする展開があるしね。それに比べたら、一週間もかけてこれだけっていうのは、勇者としては少し地味すぎる成果かもしれないわね」


礼子は作業着代わりに袖を捲り上げたシャツの裾を直し、腰に手を当てて、少々不満げにボサボサの髪を揺らした。彼女の評価基準は、現地の水準ではなく、あくまで元の世界で逃避するように読み耽っていた数多の娯楽作の中にあった。理想と現実のギャップに眉をひそめるその姿は、周囲から見れば過剰なまでの謙遜にしか見えなかったが、本人は至って真剣だった。


しかし、感傷に浸っている暇はない。季節は残酷にも夏を過ぎ、肌を刺す秋の冷ややかな気配が確実に忍び寄っている。冬を越すための秋蒔きの小麦を土に預けるには、農学的な観点から言えば今この瞬間こそが、取り返しのつかないデッドラインだった。


「村長、耕作を本格化させるにあたって、圧倒的に人員が足りませんね。どこかから土地を継げない農家の次男三男や、都市部で仕事にあぶれた貧民、難民でも構いません。すぐに人手を引っ張ってきてください。最低限の衣食住の保証と、将来的な『至高の酒』の配給権を報酬に約束すれば、このご時世ならいくらでも人は集まるでしょう?」


礼子は、まるでお使いのついでにコンビニでパンを買ってきてと頼むような気軽さで、村の労働力不足という国家規模の大問題を老村長に放り投げた。村長は、そのあまりにスケールの大きな「お使い」に目を白黒させたが、彼女の瞳に宿る、反論を許さない絶対的な合理性に気圧され、何度も激しく首を縦に振った。


「それから、収穫物の管理と家畜の導入を並行して行います。牛舎や、水路を利用した水車小屋を数棟建てますので、土地の選別と建築の手伝いをしてくれる腕の良い職人を数名出してください。細かい設計と施工の指示は全て私が出しますから、彼らには私の手足になってもらいます」


「は、ははっ! 承知いたしました、レーコ様! 直ちに、直ちに! 今すぐ連合国に広がる我が一族の知己を辿り、動ける若者と技術者を一人残らずかき集めて参ります!」


村長が、その短い足を全力で回転させ、脱兎のごとく広場から走り去るのを見送ると、礼子は土木作業の合間を縫って、酒造の予備実験に励んでいたシェーラへと向き直った。


「シェーラさん、一区切りついたわ。ちょっと発酵の練習に行きましょうか」 「は、発酵の……練習、ですか? レーコ様、お酒を造る準備は既に進めておりますが、それとは別に何か……?」


シェーラが不思議そうに首を傾げると、礼子は造成の際に邪魔になり切り倒された、山のような枝木や草の山を指差した。それらは既に礼子の精密な水魔法による強制脱水処理を経て、手で触れればパリパリと崩れるほどカラカラに乾いた、最適な状態の素材へと変わっている。


「雨の当たらない風通しの良い場所に、これらをうず高く集めておいたわ。シェーラさんは、これに『枯草菌』や『放線菌』、『硝化菌』……ええと、要するにこの世界の言葉で言えば、物質の分解が得意な小さな命たちを住まわせて、一気に好気発酵を推進してほしいの」


礼子の狙いは、単なる廃材の処理ではなかった。彼女は、魔法を科学的な触媒として利用しようとしていたのだ。まずシェーラの「死」の魔力で土壌の有害な雑菌を徹底的に殺菌し、次に「疫病」という名の分解能力で複雑な有機物を短時間でバラバラに分解する。そして最後に「回復」の光で、有用な微生物だけを爆発的に増殖させる。


「お酒を造るには、まず原料となる良い麦を育てなければならない。そして良い麦を育てるには、栄養に満ちた最高の土が必要なの。……今からあなたが魔法を使って作り出すのは、この世界の原始的な農業を根底から変えてしまう『超高性能な完熟堆肥』よ。私に言われた通りのイメージを固定すれば、できるわね?」


礼子の、温度を感じさせない無機質な瞳に見つめられ、シェーラはごくりと喉を鳴らした。「はい……やってみせます!」と震えながらも力強く頷く。こうして、地味な属性を持った勇者と、忌み嫌われた種族の聖女による、世界のバイオテクノロジーの進歩を一気に数段階飛び越えさせる「奇跡の土作り」が始まった。


「ダメね。香りにわずかに腐敗の臭いが混じっているわ。これは酸素不足ね、失敗よ。シン、タウロ、切り返しの動作が甘いわ。もっと底から空気を入れるように大きく動かして。シェーラ、集中して。余計な雑菌を遊ばせないで、有用菌の活動領域を限定させるのよ」


礼子の容赦のない厳しい叱咤が、湯気の上がる巨大な堆肥の山の前で、鋭く飛ぶ。酒の優先配給権というエサに釣られて雇われた農家の次男坊たち、シンとタウロは、今にも泣き出しそうな顔で巨大な木鍬を必死に振るっていた。彼らにとって、礼子は優しい救世主などではなく、一分の妥協も、一秒の遅れも許さない「鬼の現場監督」そのものだった。


「もう一度、基本となる理論をおさらいするわよ。頭を使いなさい」


礼子は深いため息をつき、顔にかかるボサボサの髪を鬱陶しそうにかき上げた。


「この世界にも、悪い空気や淀んだ水が病を呼ぶという『瘴気』の概念があるわね。あなたたちが漠然と恐れているものの正体は、その多くが魔術的な呪いではなく、肉眼では決して見ることのできないほど小さな生物……『菌』の働きによるものよ。今回はその中でも、呪いの類は全て除外して、この菌という生命体をどう制御し、どう味方につけるかという点だけを脳内に叩き込むわ」


礼子は手近な土をひと掬い、慣れた手つきで拾い上げると、水魔法で空中に生み出した拳大の透明な水球の中にそれを放り込み、高速で攪拌した。泥が沈殿し、上部の水が澄んでくると、彼女はさらに緻密な魔力操作を行い、空中にいくつもの曲率の異なる、極めて精巧な「水のレンズ」を幾重にも重なるように形成した。


「……目を離さないで、よく見てなさい」


水のレンズを通して屈折し、背後の白壁に大きく投影された光の円。その中に映し出されたのは、ウゴウゴと奇怪に、しかし力強く蠢く奇妙な形の小生物たちの姿だった。


「ひっ……! な、なんだこれは……! 呪いの手先か!?」 「気味が悪い……こんなものが、俺たちの周りにいるっていうのか……!?」


「これが菌よ。今の私の魔力で見せられる限界の倍率だけど、実際の世界にはこれよりさらに小さい、かつ無数の種類のものが存在していて、あなたたちが愛するお酒を造るのも、土を豊かにして命を育むのも、すべて彼らの働きによるものなの。古くから伝わる『藁を混ぜる』とか『灰を撒く』といった農業の伝承は、すべてこの菌たちを喜ばせ、働かせるための作法なのよ。それを単なる経験則ではなく、仕組みとして正確に理解し、最適化すること。それなくして、持続可能な成功なんてあり得ないわ」


「で、ですが、レーコ様……」 タウロが震える声で、しかしどうしても拭いきれない疑問を勇気を振り絞って問いかけた。 「レーコ様ほどの強大な土魔法があれば、こんな泥臭くて面倒な手間なんてかけなくても、指先一つで一瞬にして全てを解決できるのではないですか? 実際、あちらの畑は瞬く間に……」


「できるわ。理論上も実技上も、私一人の魔力で解決するのはいとも簡単なことよ。現在あそこに広がっている畑は、既に私がナノレベルで組成を書き換えた最高級の土壌になっているわね」


礼子は冷淡に、しかしどこか数十年、数百年先の遠い未来を見据えるような、底知れない瞳で答えた。


「でも、よく考えなさい。もし私が、明日にも魔王軍討伐の最前線に駆り出されたら? あるいは、不慮の事故か何かで、どこかで野垂れ死んだらどうするの? その後に残るのは、適切な管理方法を失い、世代を経るごとに痩せ細っていく土地と、ただ魔法という名の奇跡を失って絶望するだけの無知なあなたたちだけよ。私が永遠にこの村に居続けて、あなたたちの孫の代まで畑を耕し続けてあげることなんて、物理的に不可能なの」


礼子は一歩、怯える二人に静かに歩み寄る。


「だからこそ、覚えなさい。たとえ私がこの地を去り、シェーラが故郷に帰った後でも、あなたたちの手に確実に残る武器としての『技術』を。……ねえ、なぜ、わざわざ異世界から勇者が召喚されるという手間がかけられるのか、その本当の意味が分かる? それは、その行き詰まった世界に、既存の概念にはない新たな知識という名の風をもたらすためよ。そうでなければ、地元の強靭な騎士団長にでも魔力のドーピングを施して、即席の勇者に仕立てたほうが、軍事的にはずっと効率的だわ」


礼子は、自分を切り捨てた教国の冷たい空を思い描くように、ふっと自嘲気味に息を吐いた。


「今ごろ、教国に残ったあの光の勇者様は、もっと華々しくて凄いことをしているはずよ。光属性……つまり、物理学的に言えば電磁波や波動、粒子の振る舞いを司る極めて高位な力。理論さえ正しく導き出せれば、一足飛びに電力発生システムや電子回路、あるいは高度な光学医療機器なんかを世界に展開していてもおかしくないわ。……私みたいな、地味で代えの効く土属性にできることなんて、せいぜいこの程度の地味な泥遊びが関の山よ」


礼子の、どこか諦念の混じった自虐的な言葉に、ドワーフや村人たちは静かに目を伏せ、言葉を失った。彼女が語る「光の勇者」が成し遂げているであろう幻想のような凄さは、彼らには想像もつかない。だが、彼らは胸の内で、一つだけ確信していることがあった。


(……いや、絶対にそんなことはない。このお方は、何かが決定的に間違っている)


歴代の勇者たちの輝かしい記録は、確かに「強大な武力」や「神聖な光」で魔族の軍勢をなぎ倒した英雄譚として、色鮮やかに残っている。だが、目に見えない土壌の細菌バランスを完璧に管理し、数百年先の食糧問題と、誰もが継承可能な持続可能な技術体系までもをゼロから構築しようとする、こんな「地味な勇者」など、この世界の歴史のどこを探しても存在しなかった。


礼子が「地味な泥遊び」と謙遜して呼ぶその行為は、実はこの世界の既存の前提を根底から一度腐らせ、より強固な形へと再生させる、最も静かで、かつ最も恐ろしい種類の「文明の改革」であることに、彼女自身だけが、その優秀すぎる頭脳ゆえに気づいていなかった。

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