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クラフト系地味勇者 礼子  作者: シェーラ
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主人公ならスキップできるはずの下準備

揺れる馬車を降り、山村の土を踏み締めた礼子を真っ先に迎えたのは、都会の喧騒では決して味わえない、肺の奥まで洗われるような冷涼で澄み切った空気だった。周囲にはどこか懐かしく、そして生命力に満ちた針葉樹と湿った土が混じり合う深い森の匂いが漂っている。彼女の背後にそびえ立つ断崖絶壁の渓谷からは、白く泡立つ豊かな渓流が轟音を立てて流れ落ち、岩肌の至る所から水晶のように清冽な湧水が、大地からの恵みを示すように絶え間なく噴き出していた。紅葉の錦に染まり始めた周囲の山々は、もしこの世界に血腥い戦乱の影さえなければ、王侯貴族がこぞって訪れる一級の景勝地として、歴史にその名を深く刻んでいたに違いない。


礼子は、かつての社畜生活で培われた、物事の欠陥を即座に見抜く職業病的な鋭い視線を周囲に向け、地質のスキャンを開始した。彼女の視界は、単なる風景を捉えるのではなく、成分の偏りや物質の堆積を解析するモニターのように機能していた。川べりの土壌に沈殿した、独特の赤錆色。そして、緩やかな流れの底にじっと沈む、きらきらと重たく光る黒い砂。


(……見事なまでの砂鉄ね。あの遠くから響くリズミカルな槌の音と、たなびく重い煙の色から察するに、ここは酒造りだけを目的とした場所じゃない。ドワーフたちが代々守ってきた製鉄の重要拠点でもあるわけだ。これなら、必要な金属資材の調達には当分困ることはなさそうね)


村の中央にある、踏み固められた広場で彼女を待っていたのは、白く長い髭を地面に引きずるほど蓄え、顔中に深い年輪のような皺を刻んだ老ドワーフの村長だった。彼は礼子の姿を認めるなり、その短く太い足を必死に動かして駆け寄り、縋り付かんばかりの勢いで叫んだ。


「おお、よくぞ……よくぞ遠き地よりお越しくださった! 異世界の勇者様よ! 我ら一族、貴女様が語ったという、あの神をも酔わせる『琥珀色の奇跡』の話を耳にしてからというもの、期待と興奮で夜もろくに眠れませなんだ! 設備でも人手でも、必要なものがあれば何なりとお申し付けくだされ! それこそ、この村の家財を全て投げ打ってでも用意いたしましょうぞ!」


老村長は興奮のあまり、分厚い手で礼子の手を握りしめんばかりの勢いだった。礼子は、相変わらず手入れの行き届かないボサボサの前髪を、少し鬱陶しそうに、しかし無造作にかき上げると、熱狂する村長とは対照的な、どこまでも平坦で冷淡な声を返した。だがその言葉には、極めて緻密な合理性の裏打ちがあった。


「歓迎はありがたいけれど、まずは仕事の話をしましょう。用地の確保が先決よ。酒造と蒸留のための巨大な工房は、この清廉な水が手に入る上流側に。そして、その原料となる穀物を育てるための広大な畑を下流側に整備しましょう。……ただ、村長。一つだけ、今のうちに肝に銘じておいてほしい忠告があるわ」


礼子の瞳から一切の温度が消え、厳しい現実を突きつける冷徹な色が、深い森の影のように差した。彼女は村長の期待に浮かれた心を、言葉という名の刃で静かに、しかし確実に切り裂いた。


「いくらあなたたちがお酒を欲しがったとしても、魔王軍との戦乱がこれ以上本格化すれば、この辺境とて例外じゃない。真っ先に食糧供給網が寸断され、備蓄が枯渇する。そうなれば、酒の原料になるはずだった貴重な穀物なんて、早々に国や軍から兵糧として根こそぎ徴発されるでしょうね。そうなれば、極上の酒を造るどころか、あなたたちは空腹に耐えながら、ただ静かに餓死を待つだけの毎日を送ることになるわよ」


その言葉が投げかけられた直後、村長の血色の良かった顔から、一気に血の気が引いていった。まるで真冬の氷河のような白さになった彼は、その短い手足をガタガタと震わせ、絶望に満ちた声を絞り出した。


「な、……そんな、それだけは……! 丹精込めて育てた穀物が、高貴な酒にならずに、ただの薄汚れた粥として胃の中に消えていくなど……ドワーフにとって、それは死よりも残酷な仕打ちだ……っ! そんな未来、耐えられん!」


あまりのショックに、その場に膝をつきそうになる村長を見て、礼子は内心で大きな溜息をつき、呆れ果てていた。


(……生存の危機よりも、酒が飲めなくなることの方が、この世の終わりみたいな絶望感を与えるなんて。まあ、ここまで極端な依存先がある方が、こちらとしては利益でコントロールしやすいから都合はいいのだけれど)


だが、礼子はここをただの「一時的な酒造所」で終わらせるつもりは毛頭なかった。やるからには、徹底的にやる。自分と、そして運命を共にすると決めた唯一の協力者であるシェーラの安住の地を、他国の政治や魔族の侵攻などといった外部要因に一切左右されない、難攻不落の聖域へと作り替える必要があるのだ。


「安心しなさい。その最悪のシナリオを回避するために、私がここに呼ばれたんでしょう? 食糧不足も、土地の貧弱さも、私の持つ『土』と『水』の力で全て、根底から解決してあげるわ」


礼子は流れるような動作で、その場に片膝をつき、右手の掌を地面にぴたりと押し当てた。彼女の体内にある、深淵のような膨大な魔力が練り上げられ、地脈へと静かに流れ込んでいく。礼子が考える土魔法の本質とは、ただ物理的に土を盛り上げて壁を作るような、原始的な土木作業ではない。それは、大地を構成するミネラル分や粘土の粒子を自在に再編し、「地質」そのものを農業や建築に最適な形へと書き換え、永続的な環境の循環を生み出すことだった。


「まずは、この村の食糧生産能力を、現時点の十倍以上にまで引き上げるわ。……シェーラさん、あなたの持つ『回復』と『疫病』の力も、土壌の細菌バランスや微生物管理に貸してもらうわよ。まずは、地球……いえ、この世界で最も効率的な、科学的農耕システムをゼロから構築しましょうか」


ふ、とにこやかに笑みを浮かべる礼子。だが、その背後で見守るシェーラだけは、その「笑顔」に込められた、神の領域を恐れぬ常軌を逸した知識欲の怪物と、計算し尽くされた支配の意思を感じ取り、背筋を凍らせていた。


礼子が指先にさらなる魔力を込めると、盛り上がる大地がまるで意志を持った巨大な生き物のようにうねり、地中の成分が圧縮され、重厚な日干し煉瓦のような滑らかで強固な質感を伴って、次々と幾何学的な配置で強固な壁を形成し始めた。


「屋根は、あなたたちの技術で木を組んだり瓦を葺いたりしてもらってもいいのだけれど……今日から工事が終わるまで、私が星空を見ながら野宿することになるのも嫌だわ。少し、効率を上げさせてもらうわね」


礼子が淡々と、しかし一点の狂いもないイメージを伴って魔力を注ぎ込むと、壁を支える石柱の頂点から滑らかな曲線を描くアーチが、植物の蔦のように伸びていった。それらは空中で互いに完璧な角度で噛み合い、継ぎ目一つない堅牢な石造りの丸天井、ヴォールト構造を形作っていく。接合剤を一切使わず、純粋な物理的摩擦と自重の分散だけで支えられたその高度な建築構造は、この世界の宮廷建築士が見れば、あまりの計算の完璧さに泡を吹いて卒倒しかねない代物だった。


「さて、居住区と醸造所の基礎はこれでいい。畑の位置は、里の下流側の斜面を段々畑に改良するから、そこを使いましょう。内装の細かい調整や家具の配置は、ドワーフの皆さんに任せるわ。……ああ、それから、私は少し川へ行って、『水』の調子をいじってくるから。後のことはよろしく」


自分の手で行った奇跡に対し、何の感慨も抱かずに、唖然として口を開けたまま硬直しているドワーフたちを放置して、礼子は悠然とした足取りで、轟々と流れる川のそばへと向かった。その後ろを、シェーラがうねる蛇の尾を忙しなく動かし、砂を跳ね上げながら、主人の暴走を止めることもできずに慌てて追いかけていく。


礼子が次に見据えたのは、村全体の生命線であり、生産力を支える根幹となる「統合水利システム」の構築だった。


「レーコ様、次は一体何をされるおつもりなのですか……? 建物だけでは、まだ足りないと仰るのですか?」 「足りないどころか、まだ始まったばかりよ、シェーラさん。分水路と、精密に制御された水門、それから渇水期に備えた大規模なため池。要するに、村全体の血流となる循環網を整えるのよ。これがなければ、農業も工業も、ただの魔法の徒花で終わってしまうわ」


礼子は水辺で膝をつき、冷たい川の流れに細い指先を浸した。彼女が作ろうとしているのは、決して現代の鉄筋コンクリートを駆使した、この世界では修理不可能なオーパーツではない。もしそんなものを作れば、彼女がこの地を去った後、少しの破損で誰も直せず、文明の遺物として枯れていくだけだ。彼女の真の目的は、現地の人間が自らの手で持続させられる文明の種を植えることだった。


「……使う素材は、この山の石と、魔法で性質を強化した防水用の粘土だけ。設計さえ完璧なら、メンテナンスはドワーフの伝統的な石積み技術があれば十分可能よ。でも、その設計思想、つまり水の重力と表面張力を利用した効率的な配分だけは、私の知識を使わせてもらうわ」


礼子の指先から放たれた魔力が、地中の粘土層を浮かび上がらせ、新設される水路の底を隙間なく、まるでエナメルのようにコーティングしていく。その上に積み上げられる石積みの堤は、水の勢いを優しく殺し、かつ土壌を削り取らない絶妙な傾斜と角度で組み上げられた。ただ闇雲に、力任せに水を引くのではない。必要な時に、必要な場所へ、誰の手を借りることもなく、自然の摂理に従って最小限の労力で水を届ける。


その、あまりにも「合理的すぎる美しさ」を持った灌漑水路のネットワークが、礼子の歩く先から順に、まるで血管が全身に広がっていくように伸びていった。


「お酒を造るには、まず良質な穀物を、どんな天候でも安定して育てる豊かな土壌が必要。そして、その土壌を常に最良の状態に維持するには、過不足のない適切な水の管理が不可欠なの。……地味で、派手な魔法の打ち合いみたいな面白みはないけれど、これが世界を書き換えるための、一番確実で残酷な方法よ」


土と水。かつて教国の神官アイバーが「代えが効く、価値のない属性」だと吐き捨てたその二つの力は、礼子の圧倒的な現代理論と結びつくことで、荒れ果てた名もなき山村を、一夜にして「難攻不落の生産拠点」にして、かつ誰の手も届かない理想郷へと変貌させ始めていた。

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