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夕闇に沈む市場へと向かう道すがら、礼子は隣で蛇の下半身をくねらせ、不安げに周囲を伺うシェーラにいくつかの問いを投げかけた。それに対するシェーラのたどたどしい答えを繋ぎ合わせるたびに、礼子の脳内にはこの異世界の歪な輪郭が、冷徹な筆致で着実に描き出されていった。立ち並ぶ石造りの建物の粗い目地、道端に散らばる馬糞の臭い、そして人々の纏う、ひどくゴワついた手織りの衣類。それら全てが、礼子に一つの結論を突きつけていた。この世界の文明レベルは、地球の歴史に照らし合わせれば十世紀から十三世紀、せいぜい中世欧州の最盛期に近いといったところだ。弓矢と剣が泥臭い戦場の主役であり、その原始的な武力のぶつかり合いの中に、極めて稀少で選民的な「魔法」という名の異物が不規則に混ざり込んでいる。
(……火薬の概念も、蒸気機関の予兆もない。ましてや中華的な、あるいは化学的な発想の「種」そのものが、この世界の土壌からは決定的に欠けているのね。だからこそ、魔法という『奇跡』に依存しきって、技術的な進歩が何百年も停滞し続けているというわけか)
礼子は、自分の横を通り過ぎる不潔な身なりの通行人を横目で追いながら、冷ややかに分析を続ける。この世界において、ショウタのような「光」の属性が最強の勇者として崇め奉られるのは、物理法則を無視したその圧倒的な速度と、治癒から攻撃までこなす万能性のゆえだ。それに対して、自分が授かった「土」や「水」という属性が、不純物として軽んじられる理由も明白だった。その用途が、現地の人間にとっては「大規模な農作業」や、せいぜい「既存の兵種の延長線上」という極めて限定的な枠に収まっているからだ。土を盛り上げて防壁を作るなら、熟練の石工たちが時間をかければ同じものができる。重い石を遠くに飛ばすなら、投石機や強弓を並べれば事足りる。水撒きにしても、農奴たちが手桶で必死に運べばいい。
(要するに、私はこの世界の人間から見れば、単に「一人で十人分の働きができる、少し効率が良いだけの農夫」であり、生存の優先順位が極めて低い『外れ勇者』ってわけだ。戦場での派手な破壊力を期待する連中にとっては、何の価値もないゴミ同然というわけね)
だが、礼子の薄い唇は、誰にも気づかれないほどわずかに、弧を描いて吊り上がった。この世界の「魔法」という現象が、複雑な触媒も長ったらしい呪文も介さず、ただ術者の脳内における「魔力の集中」と「強固な物理的イメージ」だけで成立するという一点。それこそが、現代の科学知識という名のチート武器を持つ彼女にとって、この理不尽な世界をひっくり返すための最大の勝機だった。
「祈れば、自分の能力が数値で見えると言っていたわね。……システム面に関しては、驚くほど王道な作りなのね」
礼子は神殿で小耳に挟んだ、この世界の基礎知識を反芻した。彼女は足を止め、深く息を吐き出すと、脳内の奥底にあるとされる「アカシックレコード」と呼ばれる概念的な記録媒体へ、恐る恐るアクセスを試みた。瞼の裏に、古ぼけた羊皮紙のような質感で、自分自身の魂の形を定義するような無機質な文字列が浮かび上がる。
真鍋礼子:個人ステータス 筋力: 45(成人平均:100) 魔力: 210 耐久: 90 敏捷: 85
(ふふ、笑えるほど極端な魔法使い型じゃない。現代社会で新社会人として毎日毎日デスクワークに明け暮れ、鏡を見る暇もなくボサボサの髪と適当な服装で自分を殺してきた女の身体だもの。筋力において平均の半分以下というこの貧弱さは、むしろ納得がいくわ)
礼子は、自分の細い腕を自嘲気味に眺めた。勇者という肩書きに不釣り合いな虚弱体質。しかし、その代わりとして、魔力の項目だけは「勇者」という名に恥じないだけの、膨大なエネルギーを深淵のように蓄えているのが見て取れた。
「ねえシェーラ、この世界にはレベルという、戦うたびに強くなるような概念はないの?」 「レ、レベル……? すみませんレーコ様、そのような言葉は聞いたことがありません。力というのは、長い年月をかけた厳しい訓練で技術を磨くか、あるいは……恐ろしい話ですが、生き物の命を奪った際、その魂の欠片を直接取り込むことでしか増えることはないと教わりました」
(なるほど、レベルアップによる劇的な全回復や、一括強化なんていう便利なシステムはない。純粋な「経験」という名の練度と、他者からの「エネルギー吸収」だけで成り立つ、ある意味ではひどく残酷で物理的な世界、ね)
礼子は、自分の立ち位置を完全に把握した。そして、おもむろに立ち上がると、湿った夜の空気を吸い込んだ。
「シェーラ、少し移動しましょう。宿の裏庭を借りるわ。私の持っている現代理論が、この世界の曖昧な『魔法』とどれだけ相性がいいか、実戦の前に試しておかないと気が済まないの」
案内された安宿の裏庭は、雑草が伸び放題で、雨上がりの湿った土の匂いが立ち込めていた。雲間から差し込む薄い月明かりの下、礼子はボサボサの髪を夜風に揺らしながら、泥だらけの地面に静かに視線を落とした。彼女の瞳は、もはやただの地面を見ているのではない。その深層にある物質の結合、原子の配列そのものを透視しようとしていた。
この世界の土魔法使いという連中は、どれほど天才であっても、せいぜい地面を急激に盛り上げて壁にするか、大きな岩石の塊を生成して投げつけることしか考えない。彼らにとって土はどこまでいっても「土」という一つの塊でしかないからだ。だが、礼子の知識は違う。土とは、岩石とは、化学的に見ればどのような元素で構成され、どのような結合を経てその形を維持しているか。彼女はその詳細を、分子レベルの解像度で記憶していた。
「……まずは、一番単純な構造のものから作りましょうか」
礼子は、指先に意識を集中させる。彼女がイメージするのは、神話の奇跡でも、土の精霊への祈りでもない。酸化アルミニウムや二酸化ケイ素といった、無機質な化学式ではない。もっと具体的で、かつて現代社会のラボで目にしたような、あるいは日用品として完成された「高度な加工品」の記憶そのものだ。
彼女が白く細い指先を地面に向けると、膨大な魔力の奔流が土壌の深部へと染み込み、数千年の地質学的な時間を飛び越えて、物理法則を強引に書き換えていく。
「土中のカオリナイトを選択的に集積し、魔力熱によって針状のムライトに変換……生じた隙間をシリカガラス成分で精密に充填する。結合強度は最大値に固定」
安宿の裏庭に、礼子の低く、そして抑揚のない無機質な呟きが漏れる。それはもしこの世界の賢者が聞いていれば、禁忌の暗黒魔術の呪文か、さもなくば正気を失った狂人の世迷言にしか聞こえない異質な言葉の羅列だった。
礼子が指先にさらなる力を込めると、地殻の組成がナノレベルで組み替えられていく。地面から盛り上がった土塊の中から、不要な鉄分や有機物の不純物が火花を散らすように弾き飛ばされ、代わりに純白の粒子が超高密度で再結合を始めた。音もなく形成されていくのは、優雅な曲線を描く大小二つの滑らかな容器。そしてそれらを複雑に繋ぐ、細く透明感のある管。
月光を浴びてそこに現れたのは、現代の化学実験室にあってもおかしくない、理知的で機能美に満ちた二重構造の「磁器製アランビック(蒸留器)」だった。周囲の不潔な風景を拒絶するように白く輝くその表面は、この時代のザラついた、指で触れば崩れるような土器とは一線を画す、圧倒的な平滑さと硬度を誇っている。
「成功ね。分子構造を正確に理解してさえいれば、土中から必要な成分だけを抽出し、再構成できる。単なる『土の塊』を作るより、よほど効率的だわ」
礼子は、完成したばかりの冷たく滑らかな蒸留器の表面を、まるで壊れ物を扱うように、愛おしむようにそっと撫でた。その指先には、確かな手応えが残っている。
「感覚的に言って、無から有を作ったり、有機物や高分子……プラスチックのような複雑な鎖状構造を作るのは魔力消費の効率が酷く悪そうだけど、金属原子の抽出や無機物の結晶化なら、驚くほどスムーズにいけるわね。……ふふ、これのどこが『代えが効く、地味なハズレ属性』なのかしら。この世界の連中には、想像力も知識も決定的に足りていないのよ」
この世界の高名な魔術師が、必死に魔力を練って「土の壁」を作る時、彼らはただ単に土というマテリアルを物理的に圧縮して固めているに過ぎない。だが、礼子がいま平然と行ったのは、魔法というエネルギーを触媒にした、分子レベルの結合制御による「素材革命」そのものだ。その代償として、彼女の膨大な全魔力の半分が瞬時に使い果たされたが、一度こうして物質として固定してしまえば、物理的に粉砕されない限り、それは未来永劫その形を保ち続ける。
「さあ、シェーラさん。ぼうっとしていないで、これを持って部屋に戻りましょう。明日の朝、市場が開いたらすぐに果実を買いに行くわ。あ、そうそう、火を熾すための燃料は一銭も買わなくていいわよ」
礼子は、まるで「明日のお弁当のおかずを考えましょう」とでも言うような平然とした口調で言ってのけた。あまりの出来事に、腰の鱗を硬直させていたシェーラが、震える声で問い返す。
「……レーコ様。お、お言葉ですが、火も使わずにどうやってお酒を蒸留するのですか? 燃料がいらないとは、一体どういう意味なのですか?」 「ええ、その通り。土の中に含まれるわずかな炭素成分……石炭の欠片でも、黒鉛でも、あるいは有機物の成れの果てでもいい。それらを魔法で一箇所に集めて高密度に濃縮すれば、この世界の薪なんかより遥かに高い火力を生む燃料なんて、私の力ならいくらでも生成できるから」
そう言って、地味でダサい、どこにでもいるはずの疲れ果てた新社会人の女は、月明かりの下で「にこやか」に笑ってみせた。しかし、その慈愛の欠片もない合理性に基づいた微笑みを見たシェーラの背筋には、言いようのない戦慄が、稲妻のように駆け抜けていた。
この女がやっていることは、もはやこの世界の住人が信じ、縋っている魔法という名の「神の奇跡」ではない。既存の、理解を越えた未知の法則を用いて世界を一度解体し、自分に都合の良いように勝手に組み替えてしまう暴力――。神官たちが「ハズレの不純物」と笑い飛ばしたその女は、この世界の住人とは根本的に異なる、あまりに「異質な知性」を持った、文字通りの怪物に見えた。
「行きましょう。最高に美味しいお酒を造って、まずはこのクソみたいな現状という名の不純物を『精製』して、利益に変えていかなきゃならないんだから」
ボサボサの髪を無造作に揺らしながら、礼子は再び夜の街の暗闇へと歩み出す。その後ろを、シェーラは深い畏怖の念を抱きながら、砂を噛むような音を立ててうねる尾を震わせ、黙って付いていくことしかできなかった。




