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クラフト系地味勇者 礼子  作者: シェーラ
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エピローグ・ちょっとした計算ミス

礼子がふと、疲れの滲んだ溜息とともに「早く元の場所に戻りたいわ」とぼそりと言い捨てた際、カノンは先ほどまでの困惑が嘘だったかのように、意外なほどあっさりと「いいですよ」と答えた。その軽快な返答には、重大な責務を終えた事務員が定時退社を告げる時のような、どこか他人事のような響きがあった。


「ちょっとだけ時間設定がズレちゃうかもしれませんけど、参照元に戻しますね。異世界やここでの滞在で消費してしまった分の寿命も、神界の規定に則って、きっちりプラスアルファで補填しておきますから。安心してくださいね」


カノンが事も無げに告げる報酬の内容に、礼子は内心で眉をひそめた。ゲートの微小な隙間を通して、惑星の裏側で巨大な岩塊を生成し、それを圧縮して重力崩壊を引き起こさせた際の、あの指先に残る岩塊そのものを捏ねるような生々しい感触。そのあまりに非現実的な手応えから、礼子はここが単なる精神病棟の隔離室などではなく、文字通りの意味での「神界」であるという事実をうすうす察してはいた。しかし、元の世界である現代の日本か、あるいはあの泥臭い異世界のどちらかに戻れるのであれば、もはや細かい理屈や神学的な定義などはどうでもよかった。たとえ神の如き権能を振るい、人工ブラックホールを生成して邪神を消滅させるような超越的な力を使い得たとしても、この無機質で変化に乏しい真っ白な空間は、常に効率と生産性を重んじる礼子の精神にとって、耐えがたい退屈の極みでしかなかったからだ。


カノンが鼻歌でも歌い出しそうなほど軽やかに指先を躍らせると、白一色の床の上に、幾何学的な紋様を連ねた魔法陣が流麗な光の線を描いて浮かび上がった。その青白い光は、礼子の全身を静かに包み込み、物質としての彼女を情報へと分解していく。


「もう二度と会えないかもしれないけれど、カノンさん、またね。それからあのおじいさん……神様にも、血圧にはくれぐれも気をつけてと伝えておいてほしいわ。激昂は血管への負担が大きすぎるもの」


そんな、およそ神界を去る英雄の言葉としては的外れ極まりない、しかし現実的な健康管理を優先する礼子らしい別れの挨拶を聞き、カノンも思わず苦笑を禁じ得なかった。言動こそ支離滅裂なクレーマーに近いが、この女は神界が長年の間、解決の糸口すら見出せずにいた邪神という名の巨大なバグを、椅子に座ったままの「ゴミ圧縮作業」で完遂してしまった、あまたの世界のどの英雄よりも恐ろしい救世主なのだ。


「礼子さんも、どうぞお体に気をつけて! 向こうでも元気にやってくださいね」


揺らめき、薄れていく景色の中から、カノンの明るい声が遠ざかるように響いた。礼子の視界は、あの日召喚された時と同じように、純白の眩い光に染め上げられていった。


(ああ、ようやく、あの騒がしくも秩序ある普通の生活に戻れるわ。……まずは、自宅のキッチンで、一番高い茶葉を使って美味しいほうじ茶を淹れましょうか。カフェインと香ばしさが今の私の脳には必要だわ)


そんな、ささやかながらも切実な未来の予定を考えながら意識を手放そうとした、その寸前だった。ホワイトアウトしていく視界の端で、カノンのひどく慌てたような、裏返った絶叫が聞こえた気がした。


「えっ、ナニコレ、この魂の質量、想定を遥かに超えて重すぎっ!? ちょ、待って、時空の計算が……あっ、届かないっ……!」


その不穏極まりないパニックの声を最後に、礼子の意識は深い、底知れぬ闇の底へと沈んでいった。


次に意識を浮上させたのは、掌に伝わる、粒の細かい砂のざらりとした感触だった。ゆっくりと体温を奪い始める砂の冷たさと、それとは対照的に、水平線から登り始めたばかりの朝日の柔らかな熱。鼻腔をくすぐるのは、微かに潮の香りが混じった、驚くほど純度の高い空気の匂いだった。礼子はゆっくりと、まるで長時間の残業の合間にデスクで仮眠を取り、そこから目覚めるような自然な所作で目を開けた。


「……海岸かしら? にしては少々奇妙だわ。潮の香りが薄すぎるし、波の音が穏やかすぎる。汽水湖、あるいは閉鎖的な内海の可能性が高いわね」


上半身を起こすと同時に、礼子の脳内コンピュータは、訓練された野生の動物のような鋭さで周囲の環境分析を開始した。視界に入る植生は、深く濃い緑を湛えた常緑のシイやイチイガシの原生林だ。その樹木の輪郭や葉の形状は、日本に極めて類似している。しかし、礼子が知っている手入れの行き届いた公園や、人里近くの里山の風景とは決定的に異なっていた。そこにあるのは、人間の管理を一切受け付けない、生命力が飽和し、爆発しているかのような原始の森だった。


(異世界ではなく、物理法則の馴染み深い地球側に帰ってきてしまった可能性が高いわね。けれど、想定していた神戸の座標とは明らかにズレているわ)


礼子の唇に、自嘲気味な薄い苦笑が浮かんだ。文明社会に戻ったのなら、まずは公序良俗に反しない程度の装備を整えなければならない。今の彼女が身に纏っているのは、神界で用意された簡素なスウェットとエプロン姿だ。


「地中探査、開始。……よし、土壌の構成比率は良好ね。フェライト及びカーボンの分離を開始。物理的な再結晶化を並列実行」


土魔法の感触を確かめるように指先を砂に突き立てると、礼子は砂地に含まれる鉄分や炭素といった微細な成分を、磁石で吸い寄せるよりも遥かに効率的に瞬時へと抽出した。彼女の手元にスルスルと現れたのは、釣具店で市販されているような、ごく一般的な形状をした「ヤス」だった。これならば、もしここが想定している安全な日本でなかったとしても、現代で万が一巡回をしている警察官に見咎められたとしても、適切な梱包と運搬方法さえ遵守していれば、銃刀法違反には問われず、厳重注意程度で済むはずだという計算が働いた。何より、異世界でリザードマンのグレイから叩き込まれた、泥臭くも実戦的な槍術が使える。今の彼女の身体能力をもってすれば、素手でヒグマを肉塊に変えることも容易だろうが、余計な騒ぎを起こすよりは「道具」という文明の利器を介在させる方が、彼女の美学に叶っていた。


「周囲数キロメートル以内に人工的な熱源、及び人の反応は無し。まずは現在位置を確認して、最寄りの集落……いえ、国道か何かを探さないと」


礼子は足元の砂を魔法で凝集させ、自身の足場となる観測用の砂岩の柱を垂直に形成し始めた。一時的な構造物ではあるが、土魔法によって内部密度を極限まで高めておけば、崩落の危険性は構造力学的に無視できる。十五メートルもあれば周囲を見渡すには十分だろう。そう考え、何気なく足元から柱を突き出したのだが。


「……十五(フィフティーン)メートルのつもりだったけれど、これでは五十(フィフティ)メートルはあるわね。定数の解釈ミス? それとも、魔力出力の設定がバグっているのかしら」


自身の感覚と出力の間に生じている、異常なまでのズレに礼子は不快そうに眉を顰めた。彼女は、異世界で一度だけ目にした「ステータス」という名の概念的なインターフェースを確認することにした。アカシックレコードへのアクセスを試み、自己の情報を読み出す。


名前:真鍋礼子 AGE:-3210 職業:勇者(土/水/ex:圧縮)

筋力:イF》芦nbヵゞ■■■(以下解析不能)


「完全にシステムがバグっているわ。年齢にマイナスがついているし、筋力の項目に至っては、OSがクラッシュした時のように文字化けしている。……カノンさん、貴女、補填する寿命の桁を数桁ほど間違えたわね? 魂が重いなんて、そんな情緒的な表現で誤魔化すからこういうことになるのよ」


礼子は深い溜息をつき、巨大なモノリスの頂上で水の多重レンズを展開した。レンズ越しに広がる光景は、彼女の推測を裏付けるように、徹底的に「未開」だった。北西には穏やかな汽水湖、西には波一つない手付かずの緩やかな海岸線。東から北東にかけては、複数の河川が合流して作り出した広大な平野と、その先に連なる山々が、まるで原初の頃のような静寂を保っていた。街の灯りも、アスファルトの黒も、電信柱の列も、どこにも見当たらない。


水のレンズの倍率を最大まで引き上げた礼子の瞳が、遠くの汽水湖で動く小さな影を捉えた。それは、一本の巨木をくり抜いて作られた丸木舟だった。その上に乗っているのは、生成りの茶色い麻布を腰に纏った、逞しい体躯の若者だ。彼は鹿角と木の枝を組み合わせて作られた、ひどく原始的なモリを構え、水面の下で動く魚の気配を慎重に追っている。その鋭い眼光は、現代人が失って久しい、捕食者としての純粋な輝きを放っていた。


「年齢のマイナス、補填された三千年以上の寿命、そしてカノンさんの、魂が重すぎて座標が届かないという絶叫……」


バラバラだった情報の断片が、礼子の中でカチリと音を立ててパズルのように組み合わさった。


「ここ、縄文時代だわ。私が召喚されたのが二〇二五年。そこから三二一〇年遡ったとすれば……現在は紀元前一一八五年、縄文時代後期から晩期にかけての日本ね。参照元の『場所』付近には戻したけれど、『時間』の帳尻を合わせるのを忘れたというわけね。神界の事務能力の低さには、開いた口が塞がらないわ」


礼子は砂岩の柱の上で、静かにレンズを模した水魔法を指で直した。邪神をゴミのように消し飛ばした英雄は、文明の恩恵をすべて剥ぎ取られた「日本の夜明け前」に、制御不能なほどの圧倒的なオーバースペックを抱えたまま放り出されたのだ。


「……まずは、長期滞在を見越した拠点の確保と、徹底した衛生管理ね。こんな紀元前の森の中でほうじ茶を期待するのは、流石に論理的ではないかしら。けれど、代わりになる薬草くらいは見つけてみせるわ」


地味な事務職出身の勇者による、もはや「地味」という範疇を遥かに超越した、前代未聞の石器時代サバイバルが静かに幕を開けた。礼子の視線は、すでにこの原始の世界を、最も効率的に近代化させるための設計図を描き始めていた。



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