転生者ならありきたりな作戦
「圧縮があったとしても、私自身はその魔界とやらには直接行かないわ」
大理石調の椅子の背にもたれかかり、まるで午後のティータイムの予定を変更するかのような気軽さで言い放った礼子の言葉に、カノンは危うく椅子から転げ落ちそうになった。彼女は身を乗り出し、その大きな瞳を驚愕に見開いて、声を上ずらせる。
「一体、魔界に行かずしてどうやって邪神を倒すと言うのですか! ここまで真剣に設定を説明して、土壇場になってやっぱり辞めたなんて無しですよ! それは勇者としての、いえ、社会人としての無責任が過ぎます!」
礼子は、カノンの必死な形相を眺めながら、低く、愉しげに喉を鳴らして笑った。その笑みには、複雑な数式を解き明かした後の学者のような、冷徹な充足感が漂っていた。
「実際にシミュレートしてみせられれば話が早いんだけど……。貴女が言う『神界』のリソースが本当に無尽蔵なら、私の理論を物理的に証明するのはそれほど難しいことではないはずよ」
「いいですよ、やれるものならやってみてください! はい、お望みの『圧縮』です、今付与しちゃいました! これで文句はないでしょう!」
カノンが半ばヤケクソ気味に、弾くように指を鳴らすと、礼子の真横の空間が、鋭利な刃物で切り裂かれたかのように歪んだ。そこには人一人がようやく通れそうな楕円形のゲートが開き、その先には、草一本生えない荒涼とした大地と、どす黒い暗雲が渦巻く空、そして時折、大気を引き裂くように赤黒い雷鳴が轟く、いかにも「魔界」といったテンプレートな景色が広がっていた。立ち込める空気は重く、死の気配が肌を刺す。
(最新の3Dホログラム技術かしら? それとも、網膜に直接映像を流し込む高度なAR技術? いずれにせよ、解像度は申し分ないわね)
礼子は眉一つ動かさず、その光景を冷静に分析しながら、脳内でのシミュレーションを最終段階へと移行させた。
「カノンさん。その大きさのゲートではダメよ。もっと針の穴のように微小な、肉眼では存在を確認することすらできない極限の大きさにまで絞ってちょうだい。物理的な干渉を最小限に抑える必要があるわ」
「え? でもそれじゃあ、礼子さんが通れないですよ? 邪神の元へ行くためのゲートなんですよ、これは!」
「いいから。私の指示に従って。……そう、そのサイズね。分子の隙間を覗き見るような、その極小の座標を固定して」
礼子は流れるような動作で指を動かし、空気中の水分を凝集させて幾重にも重なる「水のレンズ」を生成した。それを顕微鏡の対物レンズのように多重展開し、拡大投影することによって、ピンホールほどのサイズにまで縮小されたゲートの位置を空間に固定する。
「それでは、デバッグ作業を始めましょうか。後半は付与された魔法がオートで継続発動するようにセットするけれど、私が合図を送ったら、一瞬の猶予もなく即座にゲートを閉めてちょうだい。でないと、この『神界』の時空構造まで巻き込んで、大変なことになるから」
にこやかに、週末のピクニックの準備でもするかのように穏やかな声で言う礼子。対してカノンの頭上には、目に見えるほどの巨大な「?」マークが浮かんでいた。
礼子が最初に行ったのは、神界の「湯水のごとき」と言わしめた膨大なリソースを、一切の躊躇なく全開にすることだった。ゲートの先――惑星の真裏に位置し、邪神の力が及びにくいとされる絶対的な安全座標。そこへ、土魔法の極致を用いて、巨大な山脈一つに匹敵する質量の超高密度な岩塊を瞬時に生成する。微小なゲートからは、向こう側で起きているであろう、大地を粉砕し大気を震わせる天地鳴動の音は一切伝わってこない。
「ほらー! だから言ったじゃないですか! そんな誰もいない辺境の地に岩を作ったところで、邪神には指一本届かないですよ! 資源の無駄遣いです!」
なじるカノンの抗議を、礼子は事務的な沈黙で完全に無視し、付与されたばかりの「圧縮」のスキルを発動させた。
(さあ、収縮を開始して。全エネルギーを一点に集中し、重力加速度を無限遠へと加速させるのよ)
ピンホールの向こう側。山脈ほどもあった質量が、物理法則を魔力の奔流で上書きしながら、凄まじい速度で一点へと押し潰されていく。急速な圧縮に伴う断熱圧縮熱によって、周囲の大気は数千万度の超高温に晒され、物質はプラズマ化しているはずだが、魔力による強制的な圧縮は止まらない。物質が自身の重力によって崩壊を始める、その臨界点へと突き進む。
「今よ。ゲートを閉じなさい! 速やかに、全ての接続を遮断して!」
礼子の、それまでの穏やかさとは一変した鋭利な指示に、カノンが反射的に指を弾き、ゲートを遮断した。空間の裂け目は一瞬で閉じ、元の静謐な「病室」へと戻る。
「はい、お終い。お疲れ様でした」
ポン、と小さく手を叩いて、礼子は満足げに大理石調の椅子から立ち上がった。
「へ? 何がお終いなんですか? 結局、岩を丸めただけで、邪神のいる場所まで行ってすらいないじゃないですか!」
カノンは、山脈ほどの質量が「点」の大きさまで圧縮された時、どのような物理的帰結が導き出されるのかを、全く理解していなかった。
「シュワルツシルト半径――特定の質量がその半径以下にまで圧縮された時、何が起こるか知っているかしら? 閾値を超えた質量を至近距離で生成された邪神は、今頃、自身の本体ごとズタズタに破砕されながら、光すら逃げ出せない『事象の地平線』の向こう側へと吸い込まれているわ。簡単に言うなら、人工ブラックホールの生成よ。ゴミをまとめるための魔法でも、対象の密度を無限大にすれば、それは宇宙最強の処分手法になるの」
礼子は淡々と、滞っていた事務報告を終えた後のように言葉を続けた。
「聖剣の一撃で端末が一時停止する程度の、惑星規模の存在でしょう? 重力崩壊を起こした特異点の重力場に囚われて、生きて出られる確率なんて統計学的に限りなくゼロよ。ゲートから遠く離れた宇宙空間で、光が歪む重力レンズ効果さえ観測できれば、邪神の消滅完了は確定ね。惑星一つ分の質量を掃除したと思えば、随分と安上がりな仕事だったわ」
礼子はスウェットについた、目に見えないほど微細な埃を手で払うと、優雅な仕草で呆然自失としているカノンを見た。
「少し喉が渇いたわ。作業の後の水分補給は重要よ。何かお茶のようなものはないかしら? そうね、できれば香ばしいほうじ茶がいいのだけれど。胃に優しくて、理性を落ち着かせてくれるわ」
何事もなかったかのように、どこからともなくティーカップを生成し、日常のルーチンを再開しようとする礼子を前に、カノンは全身が粟立つような、正体不明の恐怖に襲われていた。歴代の勇者たちが血を流し、仲間との絆を深め、命を賭して立ち向かうべきはずの「世界の敵」を、この女は椅子に座ったまま、針の穴を通した「ゴミ圧縮作業」として、事務的に宇宙の塵に変えてしまったのだ。
カノンは、震える手で中身の入っていないティーカップを握りしめたまま、目の前に立つ、あまりに「地味で平凡な女」が、どのような邪神よりも恐ろしい存在に見えて仕方がなかった。
「……あ、あの……礼子さん。失礼を承知で伺いますが……あなた、本当に人間なのですか?」
「失礼ね。どこにでもいる、ちょっとだけ効率とコストパフォーマンスを重視する、元事務職の社会人よ。無駄な残業と、非効率な英雄譚は、私の美学に反するだけだわ」
礼子のアルカイックスマイルは、もはや宇宙の深淵よりも深く、底知れぬ謎に満ちていた。彼女にとっての世界とは、救うべき対象ではなく、最適化されるべき巨大なシステムに過ぎなかった。




