魔法などありませんよ
カノンが甲斐甲斐しく、あるいは盲目的な献身によって「神様」の介護という名の介助に追われている間、礼子の脳内では、この異常極まりない状況を打破するための科学的かつ合理的なプロセスが、凄まじい速度で組み上げられていた。彼女の思考は、まるで高負荷な並列演算を行うプロセッサーのように、目の前の光景をデータへと変換し、最適解を導き出そうと試みる。
(この真っ白な、刺激を徹底的に排除した独房のような部屋から出た瞬間に、逃亡のおそれありとして不当な身体拘束を受けるのは御免だわ。ここで適切な医療的処置を主導し、私が極めて理性的で協力的な患者であることを示すのが、この不透明な施設から合法的に脱出するための最善のルートね)
礼子は自身の膝の上で、静かに、しかし流れるような予備動作で指を動かした。異世界という、物理法則が魔力によって歪められた特異な環境での経験は、彼女に魔法の本質を再定義させていた。彼女の解釈によれば、土魔法とは単なる泥遊びではなく、土壌や物質に含まれるミネラル、金属、果てはそれらが発する微細な電磁場までをも干渉対象とする精密なベクトル操作である。そして水魔法は、液体の流動に伴う摩擦と相転移による蒸気の発生を利用し、意図的に静電気を誘導するエネルギー変換回路に他ならない。
(……つまり、これらの魔法現象を組み合わせて応用すれば、現代の医療機器がなくとも、非侵襲的に対象の心電図をモニタリングし、万が一の心停止に際しては電気的除細動を行うことも十分に可能ということね。エンジニアとして、この程度のバイタル管理システムを構築できないはずがないわ)
礼子はカノンの視線が老人の顔に集中している隙を突き、死角で土魔法を発動させた。音もなく、空中の塵を凝集させて三枚の鉄のコインを生成する。彼女はそれを熟練の奇術師のような手つきで、老人の両肩と腹部付近のシーツの隙間に滑り込ませた。それらを電極として機能させ、心臓の鼓動を司る洞房結節から発せられるはずの、微細な生体電位を捉えようと意識を研ぎ澄ませる。
(……おかしいわね。心臓にある洞房結節の電気的な興奮が、全く感知できないわ。それどころか、このお爺さん、生体電気そのものを通さない特異な物性を持っているかもしれない。……生身の人間ではなく、完全な絶縁体? もしくは、医学書にも載っていない神様モデルとでも呼ぶべき特異なバイタルサインの規格でもあるのかしら? 私の思考および設計ミスを疑いたくなるような非効率な構造だわ)
礼子が不満げに眉をひそめ、念のために予備の電力チャージ用として生成した、鈍い光を放ちながら中空に浮遊する銅板、すなわち即席の除細動パドルを浮かせて思考の深淵に没頭していた、その時だった。
「あの、礼子さん……その、今、貴女の目の前でふわふわと宙に浮いている、その薄暗い銅板のような物体は、一体何なのですか?」
カノンの、震えるような、しかし確実な指摘に、礼子は一瞬だけその思考の回転を停止させた。物理法則が無視されている現場を「スタッフ」に見られたという事実は、本来ならば致命的な失策である。だが、次の瞬間には、彼女は数多の修羅場を経験した熟練の精神保健福祉士のような、どこまでも凪いだ、慈悲深い瞳でカノンを見据えていた。
「カノンさん、何を言っているのですか。重力に逆らって空中に銅板などという質量のある物体が浮かぶわけがないではありませんか。もし貴女の目に、今そこに浮かんでいる何かが映っているとしたら、それはきっと急激なストレスによる錯覚か、照明の反射が網膜に残したトリック、あるいはこの部屋の特殊な空調が引き起こした何らかの光学的自然現象にほかなりません。この空間には強い電磁場も不審な低周波も認められませんし、お疲れによる一過性の幻覚ではないでしょうか?」
「えっ、でも、確かにそこに、金属の板のようなものが……」
カノンは自身の視覚と、礼子の放つ圧倒的な「正気」の圧力の間で激しく揺れ動き、立ち尽くした。礼子はさらに追い打ちをかけるように、冷静な口調を維持したまま諭し始める。
「いいですか。超能力や魔法なんていう非科学的な事象は、この現実世界にあるはずがありません。そんな不確かなオカルトに意識を割く暇があるのなら、目の前で意識を失いかけているおじいさんの意識確認を優先し、迅速にバイタルチェックを行った方が、医療従事者……あるいは介助者として適切な判断だと思うのですが」
物理的なリアリティを、言葉の力だけで強引に書き換えてしまう。礼子の言葉には、聞いた者に自分の正気こそが狂っているのではないかと疑わせるほどの、冷徹で圧倒的な常識が宿っていた。しかし、カノンが困惑の極みの中で返した言葉は、礼子の想定をさらに遥かに外れる斜め上の回答だった。
「その方は、そもそも死ぬという概念がないお方なので、そのような蘇生措置や確認は必要ないのですが……」
(……死なない? つまり、生物学的な死を超越した不死の存在だと本気で信じ込んでいるのね。なるほど、カノンさんもまた、正常な判断能力を持ったスタッフではなく、被介護者との重度の共依存に陥った患者に近い存在、あるいは妄想を真実として共有してしまうフォリアドゥ、共有精神病の可能性が極めて濃厚になってきたわ。この施設の衛生管理どころか、精神衛生状態は絶望的ね)
礼子の中でのカノンのカテゴリーが、協力すべき新人スタッフから、早急に保護と治療を要する要観察対象へと完全に書き換えられる。そうこうしているうちに、老人の呼吸は荒い喘ぎから規則正しいリズムへと落ち着き、深い安らかな眠りに落ちたように見受けられた。どうやら、過換気症候群やパニック発作に伴う一時的な意識消失の危機は脱したようだ。
礼子はAED代わりの銅板を、分子レベルまで微細に分解し、最初から何もなかったかのように空気中へと消去した。そして、自分が生成した、冷たくも滑らかな手触りを持つ機能美溢れる大理石調の椅子に、まるでお気に入りのオフィスチェアにでも座るかのように優雅に腰を下ろした。
「どうやら、峠は越えて一息ついたようね。……さて、カノンさん。周囲の状況が落ち着いたら、改めてこの施設の、文書化された正しい治療方針と、私が適切な手続きを経ずにここへ連れてこられた法的根拠について、もう一度じっくりと話し合いましょうか」
礼子の顔に浮かんだアルカイックスマイルが、静まり返った白い部屋の中で、どこまでも怪しく、そして誰よりも理性的に輝いていた。その表情は、不当な拘束に屈することのない強靭な意志と、これから始まる「管理側」への徹底した逆襲を予感させていた。




