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クラフト系地味勇者 礼子  作者: シェーラ
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生き残るためのバリデーション療法

パタパタと、先ほどまで静まり返っていた無機質な廊下に、軽快な、しかしどこか規律を感じさせる規則正しい靴音が響き渡った。現れたのは、糊のきいた清潔感のあるエプロンを身に纏い、柔らかな栗色の髪を後ろで一つに束ねた、うら若き女性であった。その透明感のある肌と落ち着いた佇まいは、殺伐とした白い空間に一筋の清涼な風を吹き込むかのようである。ようやく現れた、専門的な訓練を受けたであろうケアスタッフらしき人物の姿に、礼子は表面上の平静を保ちつつも、内心では安堵の溜息を深くついた。一方で、先ほどまで憤死しそうな勢いだった老人は、救いの神が降臨したと言わんばかりの勢いで彼女にすがりつき、再びその顔面を煮えくり返るような赤色に変えて激高し始めた。


「カノン! よく来た、丁度いい! この無礼極まる小娘に言ってやれ! 儂が、儂こそがこの世界の森羅万象を統べ、因果を支配する真なる唯一神であることを、この傲岸不遜な女に骨の髄まで叩き込んでやるんじゃ!」


スタッフと呼ばれた女性、カノンは、困惑と、そして礼子の背後に広がる突如として出現した高級ホテルのような内装に対する隠しきれない驚愕が入り混じった表情で、じっと礼子を見つめた。彼女の大きな瞳は小刻みに揺れ、まるで未知の天災を前にした小動物のようなか細い声で、たどたどしく答えた。


「あのう、礼子さん。大変申し上げにくいのですが、この御方は冗談でも妄想でもなく、本物の神様で、間違いありません。この世界のすべてを、貴女の運命さえも、左手一つで書き換えることのできる存在なのです」


その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、礼子の脳内にある膨大な行動心理学と医療データベースが、超高速で検索を開始した。神であると自認し、それを周囲の人間もまた肯定し、集団でその世界観を共有している精神疾患の老人。なるほど、と彼女は得心した。かつて、多忙を極めた日常の中で目を通した介護の専門書の一節を、彼女は鮮明に思い出した。本人にとってそれが確固たる真実であるならば、周囲が真っ向から否定してはならない。それが認知症ケアにおける鉄則、いわゆるバリデーション療法である。相手の歪んだ現実を否定せず、その感情の核にある真実を汲み取ることで、不穏な精神状態を鎮めるという高度な対人技術であった。


「ええ、分かっているわ、そう心配しなくても大丈夫よ。おじいさんは、この宇宙で最も尊く、最も力強い神様で間違いないわね。今の時代は多様性が重んじられる時代だもの。神様というあり方、そしてそれを受容するこの施設の体制、とても素敵だと思うわ。私も最大限の敬意を払うつもりよ」


礼子は訓練されたプロのそれのように、口角を完璧な角度で引き上げ、慈愛に満ちたアルカイックスマイルを浮かべた。否定的な言動は、患者の爆発的な不穏や攻撃性を招くだけの有害な介入である。まずは相手の主観的世界を一度丸ごと受け入れ、共感のポーズを示すこと。それこそが、幾多の修羅場を冷静沈着なマネジメントで潜り抜けてきた、一線級のケアマネジャーが土壇場で見せる究極の受容の姿であったのだ。


もはや怒りを通り越し、全身をガタガタと痙攣させている老人は、カノンの手によって、礼子が魔法で精緻に構築した重厚なベッドへと半ば強制的に横たえられた。礼子はその様子を観察しながら、静かに思考の糸を巡らせていく。仮にここを、重度の精神疾患を対象とした隔離病棟であると定義するならば、私は今、極めて危うい地点に立っている。ここで何を論理的に語ろうと、どんな科学式を壁に描いて証明しようと、医師やスタッフの主観的な判断一つで、私の言動はすべて異常のラベルを貼られ、社会的に抹殺されてしまう。論理の飛躍や過度な正しさは、時として、この閉鎖空間では思考の奔放と見なされる。暴力という手段に訴えれば、その先には強力な鎮静剤による廃人への道が真っ直ぐに続いているはずだ。


この白一色の、あるいは大理石調に偽装された地獄で生き残るための戦略は、ただ一つ。スタッフの言葉を全面的に肯定し、彼女の理解が及ぶ知識の範疇を超えない範囲で、徹底して一般的な会話に終始すること。異常ではないと証明する唯一の方法は、退屈なほどに正常であると演じることであった。


「私は礼子と申します。貴女、カノンさんとお呼びしてもよろしいかしら? ここでお仕事をされて長いのですか? よろしければ、私がどのような経緯でこの場所に搬送され、どのような診断名が下されているのか、教えていただけると助かるのだけれど。今後の療養計画の参考にしたいわ」


礼子の柔らかな、しかしどこか他者を寄せ付けない気品に満ちた微笑みに、カノンは毒気を抜かれたように、その表情をわずかに和らげた。


「ええ、私はこの場所で皆さんの案内や身の回りのお世話をしているカノンと申します。礼子さんがここに運ばれた経緯、ですか。……それは、神様が自ら貴女を異世界から呼び戻されたので、私のような一介の案内役には、ちょっと分かりかねる部分も多いのですが。ただ、あまりに貴女が、神様が用意した物語を逸脱してしまったからだと聞いています」


すると、深い溜息をつきながらベッドで横たわっていたはずの老人が、まるで圧縮されたバネが解放されたかのような不自然な勢いで跳ね起きた。


「とぼけるな! シラを切るのも大概にせよ! なんで儂が、剣と魔法とロマンが溢れる光の勇者召喚という壮大な神託を下したというのに、お前というやつは産業革命もどきを起こし、電気や蒸気機関の考え方をもたらし、野戦砲兵を組織して魔王軍を蹂躙しとるんじゃあ! お前の合理的すぎる振る舞いのせいで、世界の因果律も物語の構成もメチャクチャじゃ! この儂に、この理不尽な事態をどう収拾しろというのか、説明を、論理的な説明を求めとるんじゃ!」


礼子は、老人のあまりに詳細で具体的な妄想内容に、内心で深い苦笑を禁じ得なかった。なるほど、私の妄想の断片が、このおじいさんにまで伝播してしまっていたのだ。きっと私は、搬送されるまでの混濁した意識の中で、自分のやったことや見た夢を周囲に語り散らしてしまったに違いない。でも、零戦で空を駆け回ってファンタジーを破壊する少年や、最新鋭の宇宙戦艦を召喚して物理法則を無視する転生者に比べれば、私が手元にある資源を工夫して産業を興したことなんて、文明の発展段階に照らせばだいぶ慎ましい、歴史に即した歩みだと思うのだが。


ここで、「私は本当に異世界で勇者として活動していた」などと一言でも反論すれば、おじいさんの認知症を悪化させて興奮状態に陥らせるだけでなく、自分自身まで重度の精神疾患、それも誇大妄想の病であると医師に確信させてしまう。


「異世界という壮大な舞台や、砲兵隊を率いて巨悪を討つ勇者様のお話……。とても夢があって、胸が躍るような素敵な童話ですね。おじいさんは、本当に豊かな想像力をお持ちだわ。きっとその物語の世界では、空飛ぶスパゲッティ・モンスターや、人々の目には見えないピンク色のユニコーンが、崇高な神様として民衆から崇められているのでしょうね。それと同じくらい、おじいさんの描く世界も独創的で、素晴らしいわ」


礼子がその慈愛に満ちたアルカイックスマイルを一切崩さず、まるで幼い子供に読み聞かせをするかのように、優しく、そして憐れみを込めて告げた、まさにその瞬間であった。


「ガハッ……!? ぐ、ぐふっ……う、ユニコーン、スパゲッティ……儂を、儂を誰だと……」


老人は、自らの尊厳を根底から覆すような、現代科学とパロディ宗教によるダブルパンチを浴びたショックからか、ついに白目を剥き、口端から白い泡を吹いて、ベッドの厚いマットレスの中に深く沈み込んだ。


「あわわ、神様! 神様ぁぁ! どうされたのですか、しっかりしてください! 礼子さん、どうしましょう、大変なことになってしまいました! 」


右往左往して、涙目でパニックに陥りながら老人の肩を揺らすカノン。それを見つめる礼子の瞳には、もはや勇者としての光ではなく、沈着冷静な高度医療従事者としての、冷徹な介助者の光が宿っていた。


「落ち着いて、カノンさん。パニックは救命の最大の敵よ。まずは気道を確保して、嘔吐物による窒息を防ぐために顔を優しく横に向けて。脈拍と呼吸の確認を急ぎましょう。……このフロアのナースコールはどこ? それから、AEDを含めた救急カートの場所を思い出して。すぐに持ってきてちょうだい」


世界の創造主を、ただの救急蘇生が必要な危機的状況の高齢者としてテキパキと処置し始める礼子。彼女の新しい戦いは、今、まさに事切れんとする神の命を物理的に救うという、皮肉な救急救命の現場から幕を開けたのである。


「カノンさん、突っ立っていないで! 救急隊……ではなく、医師を早く呼んできて! このままだと心停止に移行するわよ!」

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