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クラフト系地味勇者 礼子  作者: シェーラ
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全ては夢か幻か

礼子の意識が深い淵から急浮上し、覚醒の境界を跨いだ瞬間に感じたのは、網膜の奥まで容赦なく焼き尽くすような無機質な白の暴力だった。上下左右の感覚すら喪失させるそのあまりに目に優しくない均質な光景を前にして、彼女は一国の勇者として礼儀正しく、しかしその内面ではこの上なく辛辣な毒を吐き捨てていた。


「光の勇者が凱旋した聖教国の都だって、もう少し環境色彩心理学に配慮した街並みを維持していたわよ。これでは急性期の患者に幻覚を見せようとしているようなものだわ」


ゆっくりと上半身を起こすと、視界の端で小刻みに、しかし激しく震えている物体が捉えられた。それは粗末な、しかし清潔そうな白いローブを纏い、血管が浮き出るほどに拳を固く握り締め、何らかの制御不能な激しい情動に全身を委ねている老人だった。礼子はその落ち着き払った、しかし決定的にボタンを掛け違えた分析眼でその人物を見つめ、脳内のカルテを更新していく。


「白い部屋に、意味不明な振戦を繰り返す老人。なるほど、状況から推察するに、ここは一種の介護施設ね」


礼子の迷いのない断定と、哀れみすら含んだ冷静な視線を受け、老人は肺の中に溜まったすべての空気を一気に吐き出すような勢いで激しく咽せ返り、顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。その声は震え、言葉が追いつかないほどの憤怒に満ちていた。


「違うわ! ゲホッ、ゴホッ! この大馬鹿者が! 儂が、この世界の理を司る神じゃと言っておるのが分からんのか、ゴホッ! まったくお前というやつは、世界の摂理や等価交換の概念を一体何だと心得ておるのだ、ゲハッ、ゴホッ……!」


自称、神。礼子は感情の昂ぶりを見せることなく、その様子を観察し続け、診断結果をさらに詳細に書き込んでいく。


「なるほど。自己のアイデンティティを神格化する、認知症特有の誇大妄想ね。でも、この激越した反応を見る限り、日常生活動作、いわゆるADLの自立度は驚くほど高そうだわ。となると、ここは一般的な老人ホームというよりは、重度の精神疾患を扱う閉鎖病棟に近いのかしら?」


もし仮にそうだとすれば、と礼子は思考の翼を合理的に広げていく。あの異世界で過ごした日々、火薬が弾ける硝煙の匂いや、湿原の冷たい土の感触、ラミア族のシェーラが時折見せた優しい微笑みや、リザードマンのグレイが誓った揺るぎない忠誠。それらすべてが、過酷なブラック企業で精神を磨り減らし、限界を迎えた女が深層心理の中で描き出した心地よい白昼夢であった可能性も否定できない。


「私にとっての主観的な真実が、客観的な世界の真実とは限らない。……でも、もしあの日々が現実だったなら、あの辺境の山村に新しい綿の芽が力強く吹き、リザードマンたちが強固な堤防の上で、明日を恐れずに笑っていることを願わずにはいられないわね」


一瞬だけ、その胸を鋭い寂寥感が通り抜けたが、礼子の合理的精神はすぐに目の前の劣悪な療養環境の改善へと向けられた。彼女はプロのエンジニアとしての視線を、部屋の隅々へと走らせる。


「それにしても、この部屋はあまりに殺風景すぎるわ。刺激を完全に遮断するのは急性期の混乱を鎮める治療には一時的に有効だけれど、こうした長期入所者にとっては認知機能の急激な低下を招くだけの有害な環境よ。少しは生活の質を考慮すべきだわ」


礼子は老人の絶叫に近い怒声を、まるでカフェで流れる聞き流すべきBGMのように扱いながら、膝の上でそっと指先を動かした。精神を研ぎ澄ませ、内側にある魔力の流動を確認する。


「土魔法。よかった、アクティブな状態で維持されているわね。出力特性にも目立った劣化は見られないわ。これなら現場復帰も早そうだわ」


「おい、無視するな! 儂の話を、摂理を説く神の話を聞けと言っておるのが……!」


「まずは、この反射率の高すぎる壁を珪藻土に書き換えましょう。調湿効果も期待できるし、目に優しいテクスチャを与えるわ。天井は細かな格子状の装飾で覆って、不快な直接光源を隠す間接照明に。それから、無機質な床には大理石調のサイドテーブルと丸椅子を生成して、ベッドフレームも安眠を促す重厚な木目調に……。よし、多少は人間らしい生活空間になったわね」


礼子が指先を優雅に一振りするたびに、物理法則を無視して質量が再構成されていく。白一色だった死の立方体が、礼子の精密な設計図に従って、高級ホテルのラウンジを思わせるシックで落ち着いた個室へと劇的な変貌を遂げていく。壁面には柔らかな陰影が落ち、空気は適度な湿度を保ち、そこには確かな居住性が宿っていた。


いつしか老人の怒鳴り声は途絶えていた。ただ、その全身の震えだけは、先ほどよりも一層激しく、痙攣に近いものになっている。彼は自分の生み出した空間が、一介の人間によって勝手にリノベーションされていく様を、口をパクパクとさせて見つめることしかできなかった。


「……あら、震えの頻度と振幅が一段と酷くなったわ。この施設のケアスタッフさんは居ないのかしら? もしかして、長期的な向精神薬の服用による錐体外路症状、パーキンソニズムが出ているのかもしれないわね。早急に医師の診断を仰ぐべきだわ」


礼子は極めて真面目な顔で、もはや顔面を蒼白どころか、怒りと絶望で紫色に変色させている自称・神の容態を心底から心配し始めた。神の威厳や怒りよりも、目の前の入所者の健康管理と住環境の最適化。礼子の新しい世界での活動は、再び、そして決定的にズレた場所から静かに幕を開けた。


「とりあえず、水分補給が必要ね。ミネラル分を調整した水を生成しましょうか?」


礼子がそう問いかけた時、世界を揺るがすような神の叫びが、今度こそ間接照明の施された天井を揺らした。

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