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クラフト系地味勇者 礼子  作者: シェーラ
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勇者は再就職を志す

教国と帝国の威信をかけた、総勢数万に及ぶ精鋭軍勢。その行軍は、後世に長く語り継がれるべき輝かしい英雄譚の一幕となるはずだった。教国の軍旗が風に勇ましく翻り、何千もの軍馬の蹄が大地を鳴らし、兵士たちの士気は最高潮に達していた。しかし、彼らが魔王軍の最前線基地であるはずの古城にようやく到達した時、彼らの眼前に広がっていたのは、予期していた熾烈な戦争の舞台ではなく、ただただ絶望的な災害の爪痕であった。


「これは……一体、何が起きたというのだ。我々の斥候は、ここに魔王軍の精鋭が集結していると報告していたはずではないか」


教国軍の指揮官であるカシナート卿が、愛馬の首をなだめながら絶句した。かつては難攻不落を誇った石造りの古城は、まるで空から振り下ろされた巨人の槌によって粉々に砕かれ、その後に地獄の業火で徹底的に焼き尽くされたかのように、無残な炭の塊へと成り果てていた。周囲を幽霊のように彷徨う、わずかな魔族の生き残りたちは、黄金の鎧に身を包んだ連合軍の姿を見るなり、手にしていた武器を投げ捨てて狂ったように逃げ出す。その濁った瞳に宿っていたのは、光の勇者に対する畏怖などではなく、自分たちの理解を遥かに超えた空からの暴力に対する、消し去ることのできない絶大なトラウマであった。


「案ずるな、勇敢なる将兵諸君! これこそが、我らが勇者様が、我々凡庸な人間には到底見えぬ光の速さで一撃を加えられた証拠である! 魔王の走狗どもは、その聖なる光に焼かれたのだ!」


神官長アイバーが、顔を真っ赤にして必死に声を張り上げ、動揺し始めた兵たちの心を繋ぎ止めようと虚勢を張る。だが、肝心の主役である勇者ショウタは、魔王城を目前にして、システム的な魔王討伐完了のフラグが成立したことによる強制帰還の渦に巻き込まれていた。彼は、自らが剣を振るう機会すら与えられぬまま、眩い光の中に吸い込まれ、その場から消滅してしまったのである。


東京、新宿。歌舞伎町の汚れた裏路地。飲食店から排出される異臭と、唸りを上げる室外機の熱気が不快にこもるその場所に、唐突に発生したまばゆい光と共に、一人の男が無様に転がり落ちた。


「な……っ、何だ!? どこだここは! アイバー! カシナート卿! 返事をしろ!」


ショウタは叫び、反射的に腰に下げていたはずの聖剣の柄を掴もうとした。だが、そこに触れたのは夏の湿った空気だけであった。彼を飾っていたサファイアの板金鎧も、風に優雅になびいていた白銀のマントも、すでにそこにはない。身に纏っているのは、あの召喚された日に着ていた、安物のよれよれのスウェットと、底の擦り切れたサンダル。


「魔法陣……帰還、なのか? まさか、僕が魔王を倒したという判定になったのか!?」


彼は震える両手を目の前にかざし、食い入るように見つめた。掌に全神経を集中させ、異世界での感覚を呼び戻そうとすると、指先がパッと豆電球程度の弱々しい光を放った。身体能力も、確かにプロのアスリートの全盛期程度には底上げされている。だが、それだけだった。空を容易く貫いたあの壮絶な光柱も、数万の軍勢を圧倒したあの神々しい威厳も、今の彼の内側には一欠片も残っていない。


「ハハ……そうか、そういうことか。僕はやり遂げたんだ。誰にも知られぬ速さで異世界を救い、英雄としてこの世界に凱旋したんだな!」


ショウタは足元をふらつかせながら、表通りへと這い出した。巨大な液晶ビジョンが極彩色に明滅し、行き交う人々がスマートフォンの画面を無表情に見つめ、絶え間ない騒音が鼓膜を叩く。彼は確信していた。じきに日本政府の要人か、あるいは世界の裏側を支配する秘密組織が、自分を最高級の待遇で迎えに来るはずだと。なぜなら自分は、異世界を救った唯一無二の選ばれし者なのだから。


それから一週間後。ショウタは、ハローワークの冷え冷えとした待合室で、膝を小さく震わせていた。


「ですから、鳥羽さん。何度おっしゃられても、その、魔王軍との実戦経験であるとか、数万の軍勢を率いた高度な指揮能力という項目は、公式な職務経歴書には記載することができないんですよ。何か、もっと公的な資格や、以前の職場での具体的な実績、厚生年金の加入記録などはありませんか?」


窓口の職員が、死んだような魚の目で、手元のタブレットを操作しながら事務的に彼に告げる。その目は、ショウタを一人の英雄としてではなく、ただの誇大妄想を抱えた困った求職者として分類していた。


「貴様、無礼だぞ! 僕は光の勇者だ! この手を見ろ、今の僕は指先から光を放つことができるんだぞ!」


ショウタが必死の形相で指先に力を込め、小さな光を点灯させる。しかし、職員は眉一つ動かさず、溜息混じりにペンを回した。


「ええ、手品がお得意なのはよく分かりました。特技の欄に書くことはできますが、再就職に有利になるかは……。それよりも、夜間の交通整理や、解体現場での荷揚げの仕事はどうでしょう。体力には相当自信があるようですし、今の時期、そういった現場は常に人手不足なんですよ」


「ふざけるな……! 僕は、僕は世界を救った魔王を倒した英雄なんだぞ!」


「ええと、鳥羽さん。一度、専門のカウンセリングを受けてみるのも一つの手かもしれません。心療内科のパンフレット、お持ちしましょうか?」


お前は英雄ですらない。そんな冷やかな幻聴が、脳内に不快に響いた気がした。そう、彼は魔王の姿すら一度も目にしていない。ただ、礼子が掃除した後の残党を狩り、足元に魔法陣が現れ、自分たちが辿り着く前にすべてが清算されていた戦場を、自分の都合の良い手柄だと思い込んでいただけなのだ。


さらに一ヶ月後。新宿歌舞伎町の入り口。かつての光の勇者は、蛍光色の反射ベストを着用し、赤い誘導棒を虚しく振っていた。


「オーライ、オーライ……おい、そこの車! 下がれと言っているだろう、見えないのか!」


持ち前の、アスリートを凌駕する超人的な身体能力は、今や単なる、よく動き文句を言わない便利な作業員として消費されている。彼が必死に振り回す赤い誘導棒の光は、かつての聖剣が放っていたあの輝きよりも、ずっと惨めで、そして虚しい。


仕事帰りの深夜、彼はコンビニの薄暗い雑誌コーナーで、ふと足を止めた。そこには、異世界スローライフ、地味な土魔法で幸せになります、というタイトルのライトノベルが平積みにされていた。


「ふん、負け犬の描く妄想小説が……。土魔法なんて、掘削機以下じゃないか」


彼はそれを叩きつけるように棚に戻し、店を後にした。だが、彼には一生理解できないだろう。自分が今、唾棄して嘲笑ったその物語の主人公こそが、自分が手に入れるはずだったあらゆる栄光も、豊かな未来も、そして恐怖の魔王ですらも、すべて事務的に片付けて去っていった張本人であることを。


「……光れよ」


人影の消えた裏路地で一人、ショウタは指先に渾身の力を込める。しかし、街の洪水のようなネオンサインに飲み込まれたその小さな、小さな光は、誰の目にも留まることなく、夜の闇へと静かに消えていった。


主役を欠いたまま、教国と帝国の連合軍はようやく、魔王城があったはずの深い窪地へと辿り着いた。だが、そこに彼らが求めていた壮麗な城は存在しなかった。


「……立ち入り禁止? 看板だと? 誰がこんな悪ふざけを」


目の前に広がっていたのは、禍々しい刺のついた鉄柵と、見たこともない奇妙な黒い木々が病的なまでに密集する、生命の気配が一切ない死の森であった。礼子の土魔法と近代的な鉄の知識が融合したその場所には、極めて丁寧な筆致で、危険、封印されし禁忌の土地、という看板が掲げられていた。


「これは魔王が最後に遺した呪いに違いない! 聖なる炎で焼き払え!」


アイバーの無謀な号令に従い、数人の斥候が森の中へと踏み込む。だが、一歩進むごとに、静寂を裂くような悲鳴が上がった。


「ぎゃああっ! 足が、足が底なしの罠に嵌まって抜けない!」

「この蔦、本物の刃物だ! 触れるだけで全身が切り刻まれるぞ!」


そこには、目に見える敵は一人として存在しない。ただ、地面に巧妙に撒かれた小さな鉄のマキビシが兵士の足を貫き、落ちれば二度と脱出不可能な逆棘付きの落とし穴が次々と犠牲者を飲み込み、もがけば有刺鉄線の蔦が蛇のように全身に食い込む。魔法で焼き払おうとしても、石と鉄で構成された無機質の木々は燃えることがなく、逆に冷たい煙を吐き出して兵士たちの視界を奪うだけだった。


結局、連合軍は一人の魔族と交戦することすら叶わず、ただ不気味な森の前に立ち尽くし、完敗を認めざるを得なかった。


さらに一ヶ月後の聖都。神官長アイバーは、広場に集まった何万もの民衆の前で、これ以上ないほど華々しい演出と共に、大勝利の報告を喧伝した。


「光の勇者ショウタ様は、神の如き速さで魔王を滅ぼし、その邪悪な根源を、永遠の呪縛の森へと封印されたのである! 教国の掲げる正義の光こそが、この世界を絶望から救ったのだ!」


だが、その巧妙な隠蔽工作も、帰還した数万の兵士たちの、真実を知る口までは塞ぐことはできなかった。夜の酒場では、身体中に刃物で切り刻まれたような傷跡を負い、震える手で安酒を煽る兵士たちが、小さな声で真実を漏らし始める。


「戦いなんて、どこにもなかったんだ。俺たちが行った時には、もうすべてが消え去っていた。魔王も、軍勢も……」

「勇者? ああ、何もしてねえよ。ただ旗を振って突っ立ってたら、勝手に光って消えちまった。魔王城の跡にあったのは、ありゃあ神の魔法なんかじゃない。……もっと、こう、人を効率的に苦しめ、殺すことだけを目的に作られた、冷酷な狂気そのものだ」


封印の森の噂は、瞬く間に大陸中の国々に伝播していった。教国が聖なる勝利を声高に主張すればするほど、実際に戦場に立ち、何も見ず、何もできなかった兵士たちの不信感は、内部から組織を蝕んでいく。


一方で、連合王国からは、これまで見たこともないような精密な織り目の綿布や、安価で極めて質の良い鉄製品、そして大量の新鮮な農産物や加工品が、津波のように市場に溢れ始めていた。魔王がいなくなったという結果だけを政治的に利用しようとする教国の傍らで、礼子がこの地に遺した経済と技術という名の真の力は、音を立てずに世界を、そして人々の生活を根底から侵食し始めていたのだ。


ショウタという都合の良い偶像を失い、自らの無能を隠蔽し続ける教国の威信は、冬の終わりに降る雪のように静かに、しかし確実に溶け崩れ始めていた。



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