定時退社は社員の憧れ
焦げ付いたタンパク質の異臭と、熱せられた石材が放つ独特の焦げた香りが、瓦礫の山から陽炎のように立ち上っている。礼子は瓦礫の縁で足を止め、煤で汚れた軍手をはめ直すと、背後に控えるリザードマンたちへ視線だけで合図を送った。彼女の瞳には、かつての威容を失った城跡への感傷など微塵も存在せず、ただ「処理」を終えた後の作業現場を確認するエンジニアのような冷徹な光だけが宿っている。
「ここで待機していて。もし、この瓦礫の中から何かが這い出してきたり、動く物があれば、理由を問わず躊躇なく撃破しなさい。弾薬の出し惜しみは不要よ」
礼子の低く、しかし凛とした声が響くと、グレイたちは短く、鋭い返事と共に銃を構えた。礼子は一歩、また一歩と、まだ赤く熱を帯びた岩石が積み重なる地獄のような廃墟の中へと踏み込んでいく。彼女が足を下ろすたびに、足元の土魔法が瞬時に周囲の熱を奪って岩を冷却し、同時に破砕された石材を固めて即席の道を形成していく。その後ろを、ラミア族の聖女シェーラと守護者グレイが、息を呑むような沈黙の中で追っていった。彼らの視界に映るのは、かつては大陸中の人々がその名を聞くだけで震え上がった「恐怖の象徴」が、たった一夜の「科学的現象」によって無機質な廃棄物の山へと成り果てた無残な姿だった。
「生存者は……やはり、一人もいないわね。土魔法で地殻の密度を精密にスキャンしたけれど、地下シェルターのような緊急避難用の構造も、魔力を溜め込むための深層も、すべてが崩壊している。文字通り、中まで完全に『空焼き』状態よ」
礼子の事務的な、それでいてどこか冷ややかな声が、静寂が支配する死の空間に空虚に響き渡る。背後に控える二人は、内心で深い沈黙を共有していた。あの、太陽の欠片を直接地上へ落としたかのような白銀の激光。そして、酸素を奪い尽くしてすべてを灰にするまで止まらない、あの地獄の劫火。あの中に閉じ込められ、内側から肺を焼き切り、外側から肉を溶かされながらも、なお生き永らえる存在など、この世界の生物の範疇を遥かに逸脱している。もし仮に、そんな絶望的な怪物が実在するというのなら、光の勇者はおろか、人類という種そのものがとっくにこの歴史から抹消されていなければ、世界としての整合性が取れないはずだった。
礼子は瓦礫の山の中央、かつて玉座があったと思われる場所で立ち止まると、何か大きな決着をつけたかのように、パンと小気味よく手を叩いた。その表情には、これまでの激しい緊張から解放されたような、清々しささえ感じられた。
「わかったわ。きっと今回の魔王は、運悪く『最弱の部類』だったのね。そう考えるのが一番合理的よ」
快活に、そしてどこか肩の荷が下りたような微笑みを浮かべながら、彼女は誰に聞かせるともなく言葉を続ける。
「私の予備計画では、もしあの砲撃を耐え抜くような化け物が魔王だった場合、水魔法の究極系……重水素の原子核を魔力で強引に融合させる重水素核融合による自爆特攻を仕掛けるつもりだったの。それで確実に相打ちに持ち込んで、もし、それでもまだ生き残っていたら、あとは名誉欲に燃える光の勇者様にパスして、美味しいところを譲ってあげるつもりだったんだけど。結果を見れば、私の杞憂だったみたい。拍子抜けね」
シェーラとグレイは顔を見合わせ、言葉にならない戦慄を共有した。重水素、核融合、自爆特攻。彼らにはその言葉の物理的な定義は理解できなかったが、それが「あの白い火柱」を遥かに凌駕する、世界そのものを書き換えてしまうほどの破壊的なエネルギーであることだけは、礼子の澄んだ瞳の奥にある覚悟から読み取れた。彼らは、そんな化け物じみた攻撃を耐える魔王に、聖剣を振りかざすだけの光の勇者が果たして勝てると彼女が本気で信じていたのか、それともそれが彼女なりの皮肉なのか、判断に迷った。だが、礼子が「地味な勇者の堅実な勝利」として納得し、満足げに微笑んでいるのだ。あえてそこに、ショウタという青年が到底太刀打ちできるはずもないという残酷な現実を突きつけ、勝利の美酒に水を差すほど、二人は愚かではなかった。
「……ま、魔王が、私たちが思うよりも弱くて何よりでした、レーコ様。これで、ようやくこの世界に、本当の意味での夜明けが訪れるのですね?」
シェーラのどこか震える問いかけに、礼子はボサボサに乱れた髪を無造作にかき上げ、瓦礫の向こう側、淡い朝日が差し込み始めた空を見据えた。
「ええ。物理的な脅威としての魔王軍は、これで終わりよ。でも、エンジニアとしての仕事はまだ残っているわ。グレイさん、魔王城の座標はこの場所で確定していた。つまり、この窪地こそが周期ごとに魔族が湧き出す、システム上の『リスポーン地点』のようなものよね?」
礼子の問いに、グレイは槍を握り直し、重々しく頷いた。
「左様にございます。魔族はこの山間の深い窪地に拠点を構え、ここから大陸各地へと侵略の牙を剥きます。過去数千年の歴史を鑑みても、彼らの発生源がここであるという認識に間違いはございません」
「じゃあ、ここに、二度と生命が立ち入れないような『物理的な障壁』があったら、どうなるかしら?」
礼子が静かに、しかし力強く魔力を練り始めると、彼女の周囲の地面から、異形の構造物が次々と突き出し始めた。それは石と岩石に豊富に含まれる鉄を合成して作られた、漆黒の木々の群れであった。その樹皮には、無数の鋭い返しのついた刃物が束ねられたように張り巡らされており、わずかでも触れれば肉を深く裂き、もがけばもがくほど深部へと食い込んでいく。足元を覆い尽くすのは、蛇のようにのたうつ有刺鉄線の密林。その影には、一度足を踏み外せば決して自力では脱出不可能な、逆棘付きの落とし穴が無数に口を開けている。
「今この地はどこの国家にも属さない空白地帯。魔族が周期的にここで生まれるというルールがあるのなら、この場所そのものを、生物にとっての『絶対の死地』へと物理的に書き換えてしまえばいいのよ」
礼子の冷徹な魔力に呼応し、かつての魔王城跡地はじわじわと、黒い鉄と死の森へと変貌していく。
「教国の軍勢がここへ到着して、監視のためと称して勝手な利権を主張し始める前に、ここを完全封印するわ。もし将来、ここに不用心な街ができたり、突如として魔族が湧き出したりしたら、目も当てられないもの。この森は、数百年は維持されるように魔法式を組んでおくわ」
外周には禍々しい鉄柵が張り巡らされ、そこかしこに「生命体立入禁止・封印されし禁忌の地」と刻まれた石の看板が、不気味な警告として突き立てられる。中世の価値観を持つ人間が見れば、それは呪われた魔境そのものに見えるだろう。
一通りの「後始末」を終え、礼子がふうと長く息を吐き、「さあ、帰りましょうか」と微笑んだ、その時だった。彼女の足元に、天を射抜くような眩い光を放つ魔法陣が、音もなく広がった。それは、彼女がこの見知らぬ世界に降り立った、あの忌まわしくも運命的な日に見たものと、寸分違わぬ幾何学模様を描いていた。
「あら……もしかして、魔王を倒したという判定が下されたから、これで終わりなのかしら? もう少しこの世界で、コンクリートの普及や、多毛作の定着を見守っていたかったのだけれど」
礼子は少しだけ寂しそうに、唇を噛んで微笑んだ。彼女の身体が、夏の蜃気楼のように淡く揺らめき始める。
「シェーラさん。この戦いが終わったら、あなたを故郷の南方大陸へ送り届ける約束だったけれど、どうやら私の力で果たせそうにないわ。ごめんなさいね」
「レーコ様……! お願いです、行かないでください!」
「大丈夫よ、シェーラさん。連合王国の王様には、外洋航行を可能にする大型キャラック船の精密な設計図や、海の上でも迷わないための六分儀に羅針盤……文明の自立に必要な道具の製法はすべて渡してあるわ。じきに南方大陸へ帰るより安全な航路が開かれる。あなたが私から学んだのは、ほんの数人の怪我を癒やす『光の魔法』ではないけれど、大陸全体の万民を飢えと病から救う『真の聖女』の技よ。その知識を武器に、誇り高く生きなさい。私の自慢の、豊穣の聖女さん」
シェーラは溢れ出す涙を拭うことも忘れ、その場に崩れ落ちるようにして、深く、深く頷いた。
「グレイさん。魔族がいなくなっても、今度は人間の、特に教国の者たちがどう出るかわからないわ。湿原の氏族たちだけでなく、あの山村のみんなのことも、あなたの槍で守ってあげて。……あなたを、私のたった一人の『守護騎士』に任命するわ。私が言ったところで、歴史的な公文書としての意味はあまりないかもしれないけれどね」
グレイは静かにその場に跪き、連合国の王に対するそれよりも、さらに深く、魂を込めて首を垂れた。
「御心のままに。この命、貴女が泥の中から築き上げ、この地に遺してくださった平穏のために捧げましょう。……我が勇者、レーコ様」
礼子の姿が純白の光に包まれ、透き通るように空気に溶けていく。彼女が去った後には、英雄譚のような輝かしい伝説ではなく、再構築された豊かな大地と、この世界を数百年先へと静かに進めるための「文明の種」だけが、確かな重みを持って残されていた。
そして、光が最後の一粒まで弾け飛ぶ。そこには、最初から誰もいなかったかのように、ただ冷たく、しかしどこか清々しい朝の風だけが、沈黙する鉄の森を吹き抜けていた。




