転生者の定番、テルミットの火
古城を灰燼に帰し、数千という命を無機質な事務作業のように処理したあの夜から、礼子は馬車の中で激しい熱感に身を焼かれていた。それは、魔力を使い果たした後の虚脱感でもなければ、不衛生な湿原で罹患した疫病の類でもない。血管のなかを沸騰した金属が駆け巡り、細胞の一つひとつが未知の形へと書き換えられていくような、暴力的なまでの変革の予感であった。汗に濡れた前髪を額に張り付かせ、荒い吐息を漏らしながら、礼子は自らの内側を猛烈な勢いで吹き抜ける暴風のような感覚を、ただじっと耐え忍んでいた。それは奇しくも、合理的かつ効率的に敵を排除し、この世界の「勇者」としての機能を冷徹に遂行した直後に訪れた儀式であった。
「……レベルアップ、なんて。そんなチープな、物語めいた言葉で済ませたくはないわね。これは単なる、勇者という個体をこの世界の理に適応させるための、冷酷な最適化のプロセスに過ぎないのだから」
礼子は震える指先で馬車の天板を掴み、重い身体を引きずるようにして外へと這い出した。眩い朝の光に目を細めながら、彼女は自作した水の凸レンズを幾重にも重ね、三キロメートル先に鎮座する魔王城へと視線を向けた。レンズの向こう側で、城壁を構成する禍々しく黒光りする安山岩や玄武岩の質感が、彼女の鋭敏になった感覚に直接流れ込んでくる。地質学的な知識に照らせば、それは極めて堅牢で、物理的な打撃には強い建築様式であった。しかし、礼子の冷徹な計算式にとって、それはただの「融点の決まった鉱物の塊」に過ぎなかった。
「……あちらもまだ、昨夜の惨劇が伝わり切っていないようね。実に平和そうな光景だわ」
レンズ越しに見える中庭では、魔族の兵たちがまばらに歩いており、城門の櫓に立つ見張りも、よもや三キロメートル先の険しい山肌から、自分たちを死の計算式に組み込んでいる存在がいるとは夢にも思っていない様子であった。礼子はそれを見つめながら、ふとした疑問を口にした。
「ねえ、シェーラさん。魔族って一体、どこから食糧や物資を調達しているのかしら。この周囲を見渡しても、広大な住宅地も、生産の拠点となる農地も見当たらない。……もしかして彼らは、一定の周期でどこからか湧き出す、この世界のシステムの一部に過ぎないのかしら。だとしたら、あまりに不合理で、救いのない生命体だわ」
礼子の問いに、ラミア族の聖女であるシェーラも、リザードマンのグレイも、答える術を持たなかった。彼らにとって魔族とは古来より続く「災厄」そのものであり、その生態や存続の機序を考察するなど、荒れ狂う嵐の発生原因を問うことと同じくらい、意味のないことのように思えたからだ。
「まあ、いいわ。どんなに不透明な存在でも、生命体である以上、燃やせば滅びるし、酸素を奪えば死に至る。それは昨夜、あの古城で実証済みよ」
礼子が細い指をパチンと鳴らすと、山肌の岩盤が唸りを上げて静かに盛り上がり、砲兵隊の姿を隠すための巨大な擬態陣地を形成した。迷彩塗装こそ施されていないが、三キロメートル先の岩肌の色と完全に同調した石の壁は、城側からのあらゆる観測を完璧に遮断する。礼子は冷たい軍手をはめ直し、天を指差した。
「さて、最後の事務作業を始めましょうか。グレイさん、準備はいい? これから、神話の光よりも美しく、何よりも残酷な『テルミットの聖火』を見せてあげる。この兵器は、今の、そしてこれからの人類にとっても早すぎる劇薬よ。工房の親方一人にだけ製法を預けてあるけれど、歴史の闇に埋もれて、永遠に使われないことを私は願っているわ」
礼子の手が静かに、そして断固として振り上げられる。グレイやシェーラは、テルミットという言葉の科学的な意味を知る由もなかった。だが、礼子が特別に用意したあの銀色とニガリの粉末が、この世界のいかなる高位の防御魔法も、いかなる強固な自然岩も、等しくドロドロの溶岩へと変え、城そのものを融解させてしまう絶望の種火であることを、その場に張り詰めた重苦しい空気から直感していた。
「目標、魔王城玉座の間、および城全体の構造的脆弱点。全門、装填。カウントダウンを開始するわ」
礼子の冷徹な号令が下る。教国の光の勇者ショウタたちが、魔王軍の残党との小競り合いに手間取り、すでに瓦礫の山となった古城へと正義を掲げて進軍しているその時、地味な土属性の勇者は、魔王軍の心臓部をただの化学反応という名の非情な物理現象で焼き切ろうとしていた。運命の引き金に、覚悟を決めたリザードマンたちの指がかかる。
朝日に照らされた魔王城の尖塔に、一発目のテルミット弾が吸い込まれるように着弾した。直後、城の頂から噴き出したのは、この世のものとは思えない眩い白銀の激光であった。マグネシウムが凄まじい閃光を放ち、その熱が芯部の薬液に火をつける。瞬時に発生した三千度の超高温が、アルミニウムと酸化鉄を、沸騰した鉄の雨へと変えた。それは安山岩の城壁を、熱したナイフがバターを裂くように溶かしながら、音もなく城の内部へと浸食していった。
さらに、礼子が設計した遅延信管を搭載した砲弾が、城壁の深部に突き刺さり、一呼吸置いてから内部で激しく炸裂する。
「美しくも、凄惨な光景ね。光の勇者が望むような、華々しい一騎打ちの余地なんて、どこにもないけれど」
礼子の瞳には、次々と撃ち込まれる白熱の火柱が映り込んでいた。石造りの強固なはずの城が、無数の小さな火山が同時に噴火したかのような、破滅的な光景へと変貌していく。赤熱した溶けた鉄が滝のように階段を流れ落ち、黒い岩盤を真っ赤に染め上げていく。しかし、礼子の表情は一向に晴れることはなかった。
「魔王は、まだ出てこないわね。私の計算では、この一撃で城の機能は完全に停止しているはずなのに」
彼女がかつて読み耽った数多の物語によれば、魔王とは光の勇者が放つ究極の必殺技や、神の如き雷撃を受けてようやく倒せるほどの、超常的な耐久力を持つ存在であるはずだった。ならば、この程度の物理的な融解で物語が終わるはずがない。
「出てこないのなら、出て来ざるを得ない最悪の状況にしてあげるわ。炸裂焼夷弾を追加。城内の空気をすべて焼き尽くし、真空の死室に変えて引きずり出すわよ」
礼子の冷淡なハンドサインに従い、追加の砲弾が雨のように城へと降り注ぐ。猛烈な二次火災は周囲のあらゆる酸素を貪欲に貪り、城の内部を巨大な窒息の檻へと変貌させていく。呼吸を必要とする生物であるならば、もはやその場に留まることは、一秒たりとも不可能であった。
一昼夜、山肌の擬態陣地からその静かな地獄を観測し続けた後。激しい火勢がようやく収まり、黒く焼けただれた瓦礫の山と化した魔王城の跡地へ、礼子はゆっくりと、しかし確かな足取りで歩を進めた。背後にはライフルを構え、周囲を警戒するグレイたちが続く。礼子の手には、自らの魔法で生成し、焼き入れを施した高純度の炭素鋼の剣が握られていた。
「もし、まだ地下の深層に隠れているというのなら、そこで最後の一呼吸を止めるまでよ。私の工程に、仕掛品は残さないわ」
静寂だけが支配する、死の廃墟。足元でいまだに赤く燻り、熱を発している岩石を踏み締めながら、礼子は勇者としての、そして一人のエンジニアとしての最後の作業を完遂すべく、魔王城の暗い深淵へと、迷うことなく足を踏み入れた。




