正々堂々、電撃戦をしましょう
霧が深く立ち込め、足元も見えぬ大湿原の奥深く。先頭を行く礼子は、泥に汚れ、端が擦り切れたマントを冷たい風にたなびかせていた。彼女の右手には、磁鉄鉱を加工して自作した無骨な方位磁針が握られており、その震える針の動きを食い入るように見つめている。礼子が泥濘の中に一歩を踏み出すたび、彼女の土魔法に呼応するように、底なしの泥の底から鈍い音を立てて強固な石の橋がせり上がってきた。それは魔法というよりは、精密な土木作業が神速で行われているような光景だった。その後ろを、重量のある鉄製の野戦砲を数人がかりで曳くリザードマンたちが続いていく。彼らの灰色の鱗は湿り気を帯びて重く光り、一糸乱れぬ足取りが石橋を叩く乾いた音だけが、湿原の不気味な静寂を支配していた。
「でも、本当に良かったの? こんな場所で、いつ泥に呑まれて命を落とすかも分からないような作戦に参加して。あなたたちにとって、私はただの余所者でしょう?」
礼子は前を向いたまま、独り言のような低い声で隣を歩くグレイに問いかけた。その横顔には、自分の都合に異種族を巻き込んでいるという、微かな、しかし拭いきれない葛藤が、まつ毛の影となって落ちている。隣で鋭い眼光を周囲の霧へと向け、長大な槍を杖代わりに進んでいたグレイは、その問いに爬虫類特有の低く、しかし腹の底に響くような確固たる声で返した。
「我らリザードマンは、この連合国において長らく、まつろわぬ民として疎まれてきました。名目上は王の臣下でありながら、実態は飢えと氾濫に怯え、安住の地もなく湿原を転々とする日々。誇りなど、泥の中に捨て去るしかなかったのです。それが今、レーコ様、貴女がもたらした強固な堤防と、計算し尽くされた養殖池、そして『綿』という次代を担う産業によって、同胞たちは初めて未来を語ることができました。たとえ某がこの地で冷たい土に帰ろうとも、故郷に残った氏族の平穏は、貴女の知恵によって約束されている。その何物にも代えがたい安心と希望こそが、我らの指先に力を与え、この重い鉄の引き金を引かせるのです」
「そう? ならいいけれど」
礼子は短く、しかし満足げな笑みを微かに唇に浮かべて答えた。彼女にとって、それは感情のやり取りではなく、提供した技術と労働力という、極めて合理的で美しい等価交換の成立を意味していた。
「もっとも、この圧倒的な破壊力を持つ砲と、レーコ様の完璧なサポートがあれば、我らが負ける姿など、到底想像もつきませんが。……時に、レーコ様。先ほどからあの荷馬車に大切そうに積まれている、あの銀色に光る粉は何でしょう? 以前に見せていただいた、あの不気味な黒い火薬とはまた質感が違うようですが」
「ああ、あれ? ただの軽銀、つまりアルミニウムの粉末と、ニガリの成分であるマグネシウムよ。今はまだ使わない工程だから、気にしなくていいわ。準備ができたら教えるから」
礼子は事もなげに言い放ち、再び方位磁針に目を落とした。気にしなくていい、とその平淡な口調で告げられたグレイの背筋を、本能的な戦慄が走り抜けた。それが、酸素を奪い、太陽の表面温度にすら匹敵する熱量を一瞬で生み出すための、地獄の業火を模した粉末であることを、彼はまだ知らない。だが、炸裂砲弾の内部に詰め込まれた、もう一つの贈り物については、これまでの実験で嫌というほど見せつけられていた。
可燃性の高い油に松脂を絶妙な比率で混ぜ、粘り気を持たせたもの。そこに硫黄や石灰、そして白リンを加えた、礼子が『ギリシアの火』と名付けたナパームの原型。それは一度付着すれば、たとえ水の中でも執拗に燃え続け、対象の肉を焼き切り、骨を炭化させるまで決して消えない絶望の炎だ。その呪われた火薬たちが、今、無防備な魔族たちの頭上へと放たれようとしていた。
「そろそろ、目的地ね」
霧の向こう側、薄暗い闇の中に、魔族の前線部隊が駐屯する古城の影がうっすらと巨大な獣のように浮かび上がる。距離は約五キロ。現代の弾道学に基づき、砲身の内部に精緻なライフリングを刻み込まれた最新鋭野戦砲の、絶好の射程内だった。礼子は立ち止まり、軍手をはめ直しながら冷徹に命じた。
「グレイさん。周辺の地盤を固定した。砲の据え付けを開始して。ライフルドマズルの照尺は三度に固定。誤差は私が魔法で修正するわ。……教国の光の勇者たちが、あちら側で派手な衣装を纏い、もたもたと正面から『正義』を振りかざして騒いでいる間に、私たちはこの泥の中から、彼らの『常識』ごと魔王軍を焼き払ってあげましょう」
礼子の冷徹な号令は、湿原の重苦しい静寂に溶け、霧の奥へと消えていった。
夕闇が湿原のすべてを支配し始めた頃、礼子の魔法によって操作された周囲の泥濘は、もはや一歩踏み込めば二度と戻れぬ底なしの魔沼へと変貌していた。その中心部、礼子が生成した堅牢な石の砲座が整然と横一列に並んでいる。空中に浮遊する観測手たるハーピーの眼前には、礼子が水魔法で生成した巨大な水の凸レンズが幾層にも浮遊していた。それは五キロ先の古城の中庭で、警戒もせずに焚き火を囲んで寛ぐ魔族兵たちの、薄汚れた爪の垢さえも克明に映し出していた。
「目標、敵古城。砲の排熱と衝撃は私が土魔法と水魔法で地面に散らすから、砲身の熱歪みは気にしなくていいわ。ひたすら装填と発射を繰り返して。……殲滅を開始する」
城壁の向こう側にいる魔族たちは、自分たちがすでに死の淵に立たされていることに、誰一人として気づいていない。もし何らかの異変や気配を察知した敏い者がいたとしても、湿原を越えてきたわずか百人程度の部隊など、この世界の常識では、道に迷った憐れな偵察隊に過ぎないと判断するだろう。数千の軍勢と、歴史ある石造りの強固な壁を前に、そんな小部隊が牙を剥くなど、この世界の戦術理論ではあり得ない愚行だった。
礼子は観測手からの手機信号を静かに受け取ると、一切の感情を排した瞳で、冷徹に腕を振り下ろした。
「砲1号、尖頭徹甲弾、発射」
直後、湿原の静寂を暴力的なまでの爆音と衝撃波が引き裂いた。空気を切り裂く高周波のうなりが夜の空を走り、数瞬の静寂が訪れる。そして、遠く五キロ先の古城の中庭で、巨大な土煙と石礫が噴き上がった。焚き火を囲んで食事を貪っていた魔族たちは、何が起きたか理解する暇もなく、音速に近い速度で飛来した冷たい鉄の塊によって、一瞬で肉塊へと変えられた。
「射角よし。方位、東に微修正。尖頭徹甲弾をさらに5発、間髪入れずに撃ち込みなさい。その後、速やかに炸裂焼夷弾、ギリシアの火に切り替え」
礼子の指示は、もはや慈悲を乞う隙すら与えない、無機質な機械の律動のようだった。次々に放たれた徹甲弾は、かつて数多の勇者の魔法攻撃すら防いだと豪語する自慢の石壁を、まるで濡れた紙細工のように無造作に粉砕していく。崩れた壁の隙間へ、衝撃信管を搭載した焼夷弾が吸い込まれるように飛び込み、建物の内側から爆発。松脂と白リンを含んだ粘着性の炎が、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う魔族たちの背中に無慈悲に降り注いだ。
「ギャアアア!! 水だ! 水を持ってこい!!」
「消えない! この火、水をかけると余計に燃え広がるぞ! 皮膚ごと肉を焼き切られる!!」
阿鼻叫喚の悲鳴が、夜の湿原に空虚に木霊する。炎は礼子の計算通り、水をかけるほどに化学反応を起こして激しく燃え広がり、堅牢であったはずの古城は、今や巨大な石造りの火葬場へと姿を変えていた。
崩落と炎の地獄から辛うじて脱出し、怒りに狂って礼子の元へ決死の突撃を試みた魔族の精鋭たちもいた。だが、彼らが血走った目で踏み出した先にあるのは、礼子が用意した『物理法則に従う死の泥』だ。膝まで泥に埋まり、もがく彼らに向かって、リザードマンたちの構えるライフルドマスケットが一斉に火を噴く。かつては一騎当千を誇り、戦場を駆けたであろう魔族の将軍が、全身に冷たい鉛弾を浴び、泥の中に泥人形のように無様に沈んでいった。
「戦果など、いちいち確認する必要はないわ。これは英雄譚ではなく、単なる電撃戦よ」
燃え盛る古城から立ち上る黒煙を背に、礼子は硝煙の臭いの中で、事務的な連絡をするかのように淡々と告げた。
「夜が明け次第、速やかに移動を開始。次の目標は魔王軍の本拠地、魔王城よ。……シェーラさん、火薬の次の配合分を補充して。休憩はないわよ、夜通しの作業になるわ」
シェーラは爆風で乱れた髪をそのままに、青白い顔をしながらも、礼子の横顔を見て小さく頷いた。聖都で光の勇者が華々しい名誉と歓声を求めて軍を動かしているその裏側で、地味な勇者は『効率』という名の非情な刃を研ぎ澄ませ、魔王軍の心臓部を確実に、そして機械的に削り取っていた。
夜が明ける頃には、あの古城に生けるものはhおとんど残っていないだろう。だが、礼子にとっては、これもまた長い工程のほんの一部に過ぎなかった。戦いは、まだ始まったばかりだ。




