クラフト系なら誰もが一度は作る物
約一年の長きにわたる巡業という名の「世界視察」を終え、再びこの山村の土を踏んだ礼子の立ち姿には、旅路の過酷さを物語るような隠しきれない疲労の色が滲んでいた。泥を跳ね上げたブーツの縁はすり減り、かつてよりも少しだけ痩せた肩に掛けられたマントは、幾度もの風雨に晒されて色褪せている。しかし、ボサボサの髪の隙間から覗く彼女の瞳だけは、肉体の衰えを嘲笑うかのように、あるいは高熱に浮かされた狂信者のように、次に着手すべき「未踏の工程」への乾いた渇望で鋭く、昏い輝きを放っていた。彼女にとって、この一年は休息の不在ではなく、ただ巨大なパズルのピースを拾い集めるための準備期間に過ぎなかったのだ。
山村の境界、冷たい春風が吹き抜ける狭い街道の入り口で、彼女の帰還を待っていたのは、人族の村にはあまりに不釣り合いな巨躯を誇るリザードマンの戦士だった。彼の身体を覆う灰色の鱗は、春の湿った空気と霧雨を吸って鈍く光り、岩石のような筋肉の節々からは、歴戦の猛者だけが放つ、音のない威圧感が立ち上っている。彼は礼子の姿を認めると、その重厚な太い尾をゆっくりと地面に這わせ、深く、しかしどこか誇り高き礼節を保った動作で頭を垂れた。
「……お待ちしておりました、勇者様。某は、連合王国の大湿原方面における利権調整と治安維持を任されております、棘鱗氏族の流れを汲む者。名は、グルィエシュルーフと申します。……人族の皆様には発音が難しいようですので、どうかグレイとお呼びください」
「グレイさんね。分かったわ、よろしく」
礼子は短く答えると、指先でボサボサになった髪を無造作にまとめ、視線を遠く、まだ見ぬ大湿原の方向へと向けた。彼女の脳内では既に、誰にも顧みられることのなかった広大な白地図が、網目のような等高線と、物流の動線、そして莫大な利益を算出する計算式によって急速に埋め尽くされ始めていた。大湿原。それは聖教国、帝国、そしてこの連合国の三つの国境が複雑に絡み合う結節点でありながら、底なしの泥濘と凶悪な魔物の巣窟として、歴史上どの国家も手出しができなかった、呪われた「空白地帯」である。
「大湿原には、グレイさんの同族の方々が多く住まわれているのかしら。あそこの勢力図と、今の彼らの生活実態、それからあの大地の『本当の姿』について教えてもらえる?」
礼子の問いに対し、グレイは爬虫類特有の、感情を読み取らせない黄金色の瞳を僅かに細めた。彼は淡々と、しかしその声の底に消えない悲哀を忍ばせて言葉を紡いだ。
「現在、かの地には黒、赤、緑の三氏族が、互いに領域を守りながら暮らしております。……かつて、二百年前には某の先祖である棘鱗氏族も繁栄しておりましたが、魔王軍による理不尽な蹂躙と、人族至上主義を掲げる聖教国からの徹底的な排斥に遭い、今はもう、歴史の影へと消え去りました。湿原自体は、今は主のいない、あるいは主となることを誰もが拒んだ、捨てられた土地でございます。我ら残された種族は、そこで僅かな魚を獲り、あるいは某のように傭兵として外の世界へ売られ、故郷に僅かな食糧を送ることで、細々とその日を繋いでいるのが現状です」
「……傭兵、ね」
礼子の瞳が、深い霧の奥に隠された獲物を捉えた猛禽のように、鋭く細められた。彼女の思考は、既にリザードマンという種族を「戦力」としてではなく、新たな産業革命を支える「熟練の労働力」として再定義し始めていた。
「一つだけ確認させて。リザードマンという種族は、水辺から数時間でも離れると生命活動に支障が出るような、いわゆる水生生物特有の生理的な制約はないわね?」
「……はい。極端に乾燥した砂漠や、体温を奪われる雪山でもなければ、陸上での長時間の活動に支障をきたすことはございません。我らはこの足で大地を駆け、この腕で獲物を狩る者です」
グレイの力強い回答を聞いた瞬間、礼子の脳内にある泥濘の地は、無価値な沼地から、莫大な富を産み落とす「黒い黄金の大地」へと、一気に書き換えられていった。彼女の唇が、冷淡な、しかしどこか狂気を感じさせる確信に満ちた笑みの形に歪む。
「……決まったわね。あそこは、手つかずのまま放置しておくにはあまりに勿体ないリソースの塊だわ。開発しても国際問題には発展しない、むしろ感謝されるくらいの場所。なら、遠慮なくやらせてもらうわね。まずは大規模な溜池の造成と、緻密な計算に基づいた治水分水路を張り巡らせることで、あの制御不能な氾濫を完璧に抑え込む。氾濫原を人間の管理下に置けば、そこはミネラル豊富な最高級の淡水養殖場に変わるわ。そして、その制御された余剰水を利用して、一面に『綿』を植え付けて育てるの」
「綿、でございますか……?」
グレイは困惑したように首を傾げ、太い尾を僅かに揺らした。この世界における布製品といえば、手間のかかる麻か、貴族が愛用する羊毛、あるいは一部の特権階級だけが手にできる高価な絹が常識だ。綿という概念は、植物の繊維を効率的に加工する技術がないこの地では、まだ夢物語の域を出ていない。
「そう、綿よ。育てる過程で大量の水を消費する気難しい作物だけど、あの底なしの湿原なら水のリソースは無限に等しいわ。土魔法で土地の塩分濃度を植物の生育に最適なレベルまで調整しつつ、塩害対策としてのアイスプラントや、油を絞れるアブラナを混植して、家畜の飼料も同時に確保する。……ふふふ、これまで誰もが見向きもしなかったあの忌まわしい泥沼が、私の手によって世界一の繊維産業拠点に化けるのよ。ミュール紡績機の導入、飛び杼による織機の高速化……ああ、もう考えただけで、やるべき工程が山積みだわ」
礼子は、子供が宝の山を見つけた時のような無邪気さで、しかしその中身は残酷なまでに合理的な笑い声を上げた。その笑顔は、かつて神殿の眩い光の中で彼女を「ハズレ」と呼び、価値なき者として切り捨てた聖教国の神官たちが見れば、その常軌を逸した先見性に恐怖し、正気を疑うほどに邪悪で、そして何よりも圧倒的に建設的な響きを持っていた。
「帰ってきたばかりで悪いけれど、ゆっくりお茶を飲んでいる暇なんてないわね。またすぐにお出かけだわ。グレイさん、現地までの案内、引き受けてくれる?」
「……は。この命に代えましても、勇者様をかの地へ導き、守り抜くことを誓いましょう」
グレイがその岩のような巨躯を折り、古の騎士を彷彿とさせる重厚な動作で、礼子の前に跪いた。その逞しい背中の後ろで、これまでの巡業に半ば強制的に同行させられ、礼子が各地で振るう「神速の破壊と創造」という名の暴力的な文明化を、最も近い特等席で目撃し続けてきた連合国の現役文官は、今や慢性化した激しい胃痛に悶絶し、青白い顔で自らの腹を必死に押さえていた。
彼は、連合王国の王宮から「勇者礼子の補佐と監視、および開拓の記録」という大命を帯びて派遣されたエリート中のエリートであった。しかし、現在の彼にその面影はない。かつては整えられていたであろう官服の襟元は、泥に汚れ、礼子が次々と繰り出す既存の経済理論を破壊する「魔改変」の数々を報告書にまとめるたび、彼の理性が磨り減っていく。
「勇者様……あの大湿原は、魔王軍の最前線勢力圏にも隣接している、連合国にとっても極めて危険な最前線でございます。開拓などという悠長なことをしている場合では……。我が国の軍事予算と、王への説明がもはや追いつきません。せめて、国境警備隊から護衛の兵員を数百名規模で正式に増員し、万全の防衛体制を敷いてからでなければ……」
「いらないわよ、そんな無駄なコスト。そのために、厳しい環境で鍛え上げられたリザードマンの軍勢が現地にいるんでしょう? それにね……」
礼子は表情を消し、冷たく、そしてどこまでも平坦な眼差しで、魔王領が広がる北の空を見上げた。
「もし、せっかく作り上げた私の資産を、魔族だか何だか知らないけれど邪魔しに来る愚か者がいるなら、その時は湿原まるごと魔法で干上がらせて、彼らの住処をすべて、一寸の隙間もなくコンクリートで埋め固めてあげるから。……呼吸ができる隙間も、逃げるための泥も残さずにね」
地味な土属性の勇者が、ついに「世界の境界線」を物理的に、そして経済的に書き換えるべく動き出した。それは、ショウタの振るう輝かしい聖剣の光が、その性質上決して届くことのない、泥と汗、そして資本の論理による、最も静かで最も確実な「侵略」の始まりだった。
「さて、養殖池で魚が満足に育つにも、綿花が花を咲かせて実を結ぶにも、それ相応の物理的な時間が必要だわ。今はとりあえず、手近にある亜麻の繊維を使って紡績と平織りの基本工程を繰り返させて、現地のリザードマンたちに機械操作の習熟を行わせているけれど。本格的な稼働と利益の回収は、まだ少し先の話になるわね」
そう語っていた礼子の穏やかな口調から、ある瞬間、ふっと全ての温度が消失した。彼女がボサボサの髪の隙間から覗かせる瞳は、もはや新たな大地を切り拓く開拓者の輝きではなく、効率的に、かつ確実に「死」を設計し、敵を抹殺するための残酷なエンジニアのそれへと変貌していた。
「シェーラさん、そしてグレイさん。これより、攻め寄せる魔王軍を組織ごと葬り去るための、絶対的な暴力……『新時代の武器』を鋳造するわ。……準備を。本当に信用できる、私の論理を理解し、かつ決して裏切ることのない忠誠心を持った者だけを、至急集めてちょうだい」
その場に漂った異様な気迫と、絶対的な支配の意思に、二人は言葉を失い、ただ深く頷くしかなかった。数日後、山村の奥深くに隠された、地図にも載っていない秘密工房には、口の堅いドワーフの老練な親方衆を中心に、選び抜かれた十数名の精鋭たちが、死を前にしたような緊張感と共に集結していた。
「じゃあ、始めましょうか。文明の夜明けを、火の粉と共に迎えましょう」
礼子が作業台の上に用意したのは、何処の農村にでもあるような、何の変哲もない発酵した堆肥の樽と、清らかな水の樽だった。
「まず、十分に熟成させた硝石土を水に浸し、その中に含まれる成分を丁寧に溶かし出すの。……得られた抽出液に、適切に調整した草木灰の液を加えてじっくりと煮詰め、硝酸カルシウムを硝酸カリウム……すなわち『硝石』へと化学変化させる。この濃縮した液体を一定の速度で冷却すれば、ほら、この美しく白い結晶が手に入る。……これが、すべての始まりよ」
礼子の指先が、緻密な魔法操作によって液体の温度と体積を自在に操り、みるみるうちにフラスコの底に純白の結晶を析出させていく。集まった職人たちは、その地味で、一見すればただの塩のようにも見える「白い粉」が、一体どのような力を持つのか、まだこの時点では全く理解していなかった。
「この得られた結晶に、厳選した木炭と硫黄を精密な比率で加える。アルコールを媒介にして練り上げながら均一に混和し、専用のプレス機で圧搾、粉砕して扱いやすい粒状にする。……いい、皆。これはただの粉じゃない。これこそが、これまで続いてきた個人の武勇に依存する古い世界を終わらせる、破壊の種子……『黒色火薬』よ」
礼子が、指先で摘み上げた僅かな黒い粉末を小さな鉄皿の上に乗せ、火をつけた麻紐を慎重に近づける。
――シュオッ!!
瞬間、工房内に激しい閃光と、鼓膜を揺らす爆音、そして鼻を突く独特の刺激臭が広がった。鉄皿の上にあった粉末は、目にも留まらぬ速さで消滅し、ただ白い煙だけが天井へと立ち上っていく。職人たちが「ひっ」と短い悲鳴を上げ、腰を抜かさんばかりに後退りした。
「この粉……『黒色火薬』の配合比率と製造工程は、この部屋にいる者以外には絶対に秘匿すること。墓場まで持っていきなさい。そして、この粉の力を行使するための、私の設計図に基づいたサンプルはあちらよ。見てきなさい」
礼子が促すまま、一同は砦の厚い壁際へと移動した。そこには、数日前に「高度地質実験室」の名目で極秘に建てられた石造りの小屋から、厳重な梱包を解いて引き出された、二つの冷たい鉄の塊があった。
一つは、無骨な鉄の車輪が取り付けられた、人が二人掛かりでようやく動かせるほどの巨大な筒。
もう一つは、従来のクロスボウから弦を取り払い、その代わりに細長く、滑らかに磨き上げられた鉄筒を据えた、手に持つための個人用武器。
「筒の内部に螺旋状の溝……ライフリングを正確に刻み込み、射撃時の反動を吸収するバネ式の駐退機を実装した、20ポンド弾野戦砲。それから、歩兵用のライフルドマスケット。……これで、私の推測が正しければ、光の勇者がいずれ辿り着き、製造するであろう電磁加速兵器に対しても、物量と運用の妙でどこまで食い下がれるかしら」
「レ、レーコ様……電磁……何ですって? その、私たちが今まで聞いたこともないような呪文の名前でしょうか?」
シェーラが震える声で尋ねるが、礼子はそれに答えることなく、ただ冷たく、鈍色に光る鉄筒の感触を確かめるように撫でた。
彼女の脳内にある理想の強敵、すなわち「光の勇者」は、光の速度で情報を伝達し、雷のエネルギーを自在に操って金属塊を音速で射出する、現代科学の頂点に立つ究極の存在として描かれている。
一方、自分はまだ、泥臭い火薬と鉄を組み合わせた、原始的な内燃機関の初歩にいるに過ぎない。しかし、彼女には個人では決して持ち得ない、「強固な産業基盤」という名の揺るぎないバックボーンがある。
「光の勇者と聖教国が魔王軍を華々しく蹂躙し、そのあまりに強大すぎる武力が、戦い終わった後の平和な他国へ向けられる前に……私たちが、この影の武力を用いた奇跡的な奇襲によって、魔王軍を先に、かつ再起不能なまでに壊滅させる。そして、奪還した魔王領という名の広大な資源地帯と、『経済』という名の人間の欲望を支配する見えない力によって、聖教国と対等、あるいはそれ以上の外交的な立場を築く。連合王国が、あのような傲慢な国に飲み込まれずに生き残るための勝利条件は、そこしかないわ」
礼子は冷徹に、そして自らの正義を一切疑わない決然とした口調で断言した。
彼女がこの世界で創り出そうとしているのは、たった一人の英雄が魔王を討つという、使い古された「英雄譚」ではない。
高度に組織化された圧倒的な火力と、規格化され、誰が手にしても同じ性能を発揮する兵器による、情け容赦のない「近代戦争」へのパラダイムシフトであった。
「グレイさん。あなたの誇り高きリザードマンの精鋭たちに、この『鉄の筒』の徹底的な扱いと、射撃陣形の組み方を叩き込んで。……これまでの歴史で培われてきた華々しい騎士道なんて、これからの戦場ではただの『動く、当てやすい的』に過ぎないということを、私が実力で教えてあげるわ」
山間に、重い金属同士が噛み合う冷たい音と、硝煙が焼けるような独特の匂いが漂い始める。
地味な土属性を授けられたはずの勇者が、ついにこの世界の運命を塗り替えるための、魔王軍、そして聖教国の心臓部へ向けた「鉄の引き金」に、その静かな指をかけた。




