始まりはテンプレートで
オフィスビルの冷房で冷え切った体を、湿り気を帯びたねっとりとした夜風が、まるで生ぬるい舌でなめるように撫でていく。真鍋礼子、二十三歳。新社会人という響きが本来持ち合わせているはずの瑞々しさや希望に満ちた輝きは、たった半年間の無機質なデスクワークですっかり枯れ果てていた。彼女の瞳には生気はなく、ただ目の前のアスファルトを淡々と捉えるためのレンズとして機能しているに過ぎない。
「……帰って、早く続きを読まないと」
彼女は乾いた唇から、独り言というよりは自分を繋ぎ止めるための呪文のような呟きを漏らした。ボサボサに伸び、毛先が跳ねたままの前髪を、節くれ立った指先で無造作に、鬱陶しそうに払いのける。量販店でワゴンセールになっていたのを適当に掴んで買ったグレーのシャツは、吸湿性だけが取り柄の代物で、一日中事務椅子に座りっぱなしだったせいで背中から腰にかけて深いシワが醜く刻まれている。だが、今の彼女にとって身だしなみなどというものは、呼吸すること以上にどうでもいい優先順位の低い事項だった。他人の目を引き、好印象を与えるためのメイクも、己の個性を主張するための服も、この摩耗しきった生活の中には一片の必要性も見出せない。ただ、機械的に淡々と数字を処理し、死んだように帰宅しては、唯一の酸素供給源であるネット小説の海に沈む。それが彼女が過酷な現代社会で編み出した、最も効率的で、かつ唯一の生存戦略だった。
人混みが放つ特有の体臭と熱気を生理的に嫌い、繁華街のギラギラした喧騒を避けるようにして、礼子は慣れた足取りで街灯の少ない細い裏路地へと足を踏み入れた。路地裏に漂う湿ったコンクリートの匂いと、建物の陰で唸りを上げる室外機の低周波な音。その不気味なほどの静寂の中で、異変は前触れもなく、暴力的なまでに唐突に訪れた。
一歩、踏み出したその足元の石畳が、底知れぬ深淵から湧き上がるような青白い光を放ち始める。
それは網目状に広がり、血管のように脈打ちながら、幾何学模様が複雑に絡み合い、周囲の闇を焼き切るような淡い燐光を撒き散らして巨大な円を描いていく。ネット小説の中で、それこそ文字の羅列として嫌というほど目にしてきた、あの「召喚の儀式」そのものの光景が、今まさに彼女の足元で現実の物理現象として発動していた。
「……ああ、これは小説でよくあるやつ」
だが、礼子は足を止めなかった。逃げようと身を翻すことも、恐怖に顔を歪めて叫ぶこともしなかった。ただ、光の円の真ん中で立ち止まり、まるで壊れたテレビの画面でも眺めるような無機質な瞳で、足元から立ち上り広がりゆく幾何学的輝きを観察する。心臓の鼓動が速まることも、手に汗握ることもない。彼女の感情の起伏は、もはやこの程度の超常現象では揺るがないほどに平坦化されていた。
「戻れなくなるのかもしれないけど、まあ、いいか」
明日もまた、机の上に山のように積み上がった無価値な書類を片付け、上司の顔色を伺って愛想笑いを浮かべ、味の薄い安いコンビニ飯を一人で咀嚼する。そんな無味乾燥なルーチンを何十年も繰り返すだけの日々に、彼女は執着するほどの価値も、守るべき尊厳も見出せなかった。もしこれが死への誘いであり、あるいは未知の世界への強制連行だったとしても、この灰色な日常が断絶されるのであれば、それはそれで構わないとさえ思っていた。
光はさらに密度を増し、重厚な質量さえ感じさせるほどの輝きで彼女の視界を白一色に染め上げていく。重力という枷から解放されるような、奇妙で不快な浮遊感の中、礼子は最後の一瞬まで恐ろしいほど冷静に、自分の指先が光の粒子となって輪郭を失い、消えていくのを他人事のように眺めていた。
視界を埋め尽くしていた暴力的な白光がゆっくりと収まると、網膜に強く焼き付いた残像の向こう側に、広大な石造りの空間が姿を現した。
足の裏に伝わるのは、冷たく滑らかな大理石の感触。見上げれば、数階建てのビルに相当するほどの高い天井があり、そこには精緻な色ガラスを組み合わせたステンドグラスが嵌め込まれている。そこから差し込む外光が、礼子の立つ床に複雑な色とりどりの影を落としていた。正面の豪奢な祭壇には、金箔で過剰なまでに彩られ、人を見下ろすような威厳を湛えた老人の像が、鎮座するように置かれている。
(……神殿、かな。テンプレ通りすぎて、逆に落ち着く。演出がベタすぎるのも、ある意味では安心材料か)
礼子は内心で冷静に毒づきながら、自身を囲む魔法陣の中に立つ他の顔ぶれを、首だけを動かして横目で確認した。自分の他に、三人の人間。
一人は、夜の繁華街で女性を口説いていそうな、高級な香水の香りがこちらまで漂ってきそうなほど自己主張の強い、整った顔立ちのキラキラした男。もう一人は、中世の貴族を描いた肖像画からそのまま抜け出してきたかのような、背筋を伸ばし凛とした美貌を誇る貴族然とした女。
そして最後の一人は、明らかな異形だった。腰から下の部位が、滑らかで艶やかな鱗に覆われた、太く長い大蛇の尾になっている。異国情緒あふれる民族衣装を纏ったその姿は、神話の世界に語られる「ラミア」そのものだった。
「教国にようこそおいでくださいました、皆様方。私はこの大聖堂の管理を預かる神官長のアイバーと申します」
豪奢な刺繍が施された重厚な法衣を纏い、宝石が埋め込まれた冠を戴いた中年男が、恭しく、そして計算され尽くした歩調で一歩前に出た。その慇懃な笑みの裏側で、彼がこちらの能力や価値を値踏みするような鋭く冷たい光を瞳の奥に潜ませているのを、礼子は見逃さなかった。
「まずは、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
最初に口を開いたのは、あのホスト風の男だった。彼は落ち着かない様子で周囲を見渡しつつも、どこか自分は選ばれた存在だという自信を隠しきれない様子で答える。 「……鳥羽ショウタ。何が起きたか分かんねえけど、ずいぶんと派手な出迎えだな」 続いて、貴族風の女が裾を軽くつまみ、優雅な所作で完璧な一礼を披露した。 「フランソワ・ドゥ・コッタと申します。神官長様……この見知らぬ地において、私たちのような異邦人が果たすべき役割を教えていただけますか?」
二人の淀みのない名乗りに、アイバーは満足げに深く頷いた。そして、探るような視線が、最後に残った地味な身なりの礼子へと向けられた。
礼子は一瞬だけ、思考の海に沈んだ。数多のネット小説から得た知識が、高速で脳内を駆け巡る。 (……真名による強制契約、あるいは言霊を用いた呪縛の類。不用意にフルネームを、特にこの手の権力者の前で晒すのは生存戦略上、あまりにリスクが高い) 彼女は短く、感情を排した声で答えた。
「レーコ」
短く、淡々と。苗字をあえて伏せ、呼び名としての響きを投げたに過ぎない。アイバーが、まるで「それだけですか? 家名や出自は?」とでも言いたげに、不快そうに眉をわずかに動かしたが、礼子は視線を一ミリも逸らさず、鉄の仮面のような無表情を貫き通した。
「最後の方は?」
アイバーの問いが、ラミアの女性に向けられる。彼女は蛇の下半身を砂が擦れるような音を立てて静かにうねらせ、祈るように両手を胸の前で組み、静かに首を垂れた。 「……シェーラ、と申します」
その名前が告げられた瞬間だった。周囲を重々しく取り囲んでいた神官たちの瞳に、隠しきれない鋭く刺すような光が走った。それは明らかに、他の三人に向けられていた「聖なる存在への期待」や「未知の者への困惑」とは質の異なるもの。明確な「不浄のものをみるような侮蔑」と、激しい排他的な「忌避感」。その場の空気が、凍りつくような拒絶の色に染まった。
(なるほど。露骨な人種差別……あるいは、種族によって魂の価値を選別するタイプの世界か)
礼子は、額にかかるボサボサの前髪の奥に潜む冷ややな瞳で、周囲の反応を子細に観察した。神官たちのその態度は、まるで神聖な祭壇の真ん中に薄汚れたドブネズミが投げ込まれたのを見つけた時の、生理的な嫌悪感そのものであった。




