ラブレター その⑧
廊下を歩いていると、家臣の一人とすれ違った。その男の表情の厳しさには、気になるものがあった。
最近では、王宮内でも険しい表情の者が増えつつある。その原因は、牢屋に幽閉されているヤマ帝国の使者にあった。
和平に応じるのか? はたまた犠牲を払ってでも戦争を続けて、ヤマ帝国を滅ぼし、敵国の領土を奪いとるのか?
意見は真っ二つに分かれ、ヤマ帝国の使者は牢屋に幽閉されていた。どちらに転ぶのか決断が出るまで、とりあえずのところ使者は丁重に扱われている。
もっとも使者は生きた心地などしないだろう。もし戦争を続けるとなれば、情報を絞りとるため拷問を受けた末に殺されるのは、わかりきっていたからだ。それを承知で、こうして海を渡り、たった一人でカステア王国へ来た。その勇気は敵国の兵士と言えども、敬意を払うべきものだった。
カリンが廊下ですれ違った家臣は、使者を殺すよう強硬に主張する貴族で、たしか名前はニュスという。ニュスの息子は海軍の将校で、自らが指揮する船に乗っていたが、その船はヤマ帝国の船に沈められていた。その恨みもあって、ニュスはヤマ帝国を滅ぼすことに躍起になっている。
カリンはニュスに危険な兆候を感じた。その思い詰めたような表情もそうだが、なにより気になるのは、ニュスの腰にある剣だ。
貴族の男にとって剣は、女性の髪飾りやネックレスに相当する。実用的とは言い難い、飾りのふんだんについた剣を身に着けることで、己の財力や地位を示そうとする。
しかし今日のニュスは、いつもとは違う剣を帯刀していた。そして、その剣にカリンは見覚えがあった。
あの剣は、海軍の将校が身に着ける剣だ。おそらくニュスの息子の形見だろう。カリンは胸騒ぎを覚えて、ニュスの後をこっそりつけた。
ニュスが向かったのは地下へと続く階段だった。階段を降りた先には、ヤマ帝国の使者が幽閉された牢屋がある。
階段の前には施錠された扉があり、その扉の鍵は、衛兵が交代で管理していた。ニュスのようにヤマ帝国に強い恨みを持つ者には、衛兵は鍵を渡すのを拒む権利があった。
だから、ニュスがヤマ帝国の使者に会いに行くことは不可能なはずだった。それなのに、なぜかニュスは鍵を持っており、開錠して階段を降りていく。
最悪の想像が頭を過ぎった。ニュスは息子の形見の剣を使い、使者を殺そうとしているのではないのか?
王女ではあるが、カリンは若干10歳の女の子だ。凶行をやめるように命令しても、ニュスがカリンの命令を聞くとは限らない。そしてそうなった場合、たった一人でニュスを止められるのだろうか?
一人で無理なら助けを呼べばいい。辺りを見回すと、ちょうどヘルメスがこちらへ歩いてくる。
「ヘルメス、助けて! ニュスがあの階段を降りていったの!」
ニュスがヤマ帝国に強い恨みを持っていることは、王宮で働く者なら誰でも知っている。だから、カリンの言わんとすることは、すぐにヘルメスにも伝わった。
しかし、ヘルメスは特段慌てる素振りも見せず、のんびりとバカにしたように笑った。
「見間違いじゃないですか? ニュスには鍵を渡さぬようにと、我々衛兵は命令を受けています。きっと別の男を、ニュスと見間違えたのでしょう」
カリンは舌打ちする。こんな男に助けを求めた私が馬鹿だった。
「もういい。一人で行く」
他の誰かに助けを求める時間はなかった。カリンは一人で駆けだそうとしたが、その手首をヘルメスに掴まれる。
「カリン様の身になにかあると、私の責任が問われます。仕方ないので、お供しますよ」
面倒臭そうな顔を隠そうともしないヘルメスを、カリンは睨みつける。こんな男でも、訓練を積んだ衛兵ではある。いないよりは、いたほうがいいだろう。
「急ぐわよ」
囚人の中には、針金を鍵穴に入れて、開錠する特殊な技術を持った者もいる。囚人が鍵を開けられないように、扉の内側には鍵穴がなかった。そのため、扉の内側にいるニュスは、鍵をかけられない。
カリンは鍵のかかっていない扉を開けると、地下へ続く階段を降りていく。石造りの壁に、足音が幾重にも不気味に反響した。
階段を降りた先にある牢屋の鍵も、すでに開錠されていた。牢屋の中で、ニュスとヤマ帝国の使者が向き合っている。
足音で気づいたのだろう。ニュスがこちらに顔を向ける。状況とは不釣り合いなほど、ニュスは落ち着いており、それが不気味だった。
「これはカリン様。こんなところで、なにをしているのですか?」
「それはこっちのセリフよ。あなたは自分がなにをしようとしているのか、ちゃんと理解しているの?」
「もちろんです。こいつらは私の息子の命を奪いました。こいつらは悪魔なんです。だから、殺さなければならないのです」
ニュスは剣を鞘から抜いた。ランプの光を反射して、刃が不気味に光る。ヤマ帝国の使者の怯えた顔が刃に映った。
悪魔だと言われたヤマ帝国の使者は、恐ろしさのあまり、牢屋の隅で腰を抜かしてガタガタと震えている。とても悪魔には見えない。彼も私たちと同じ人間だ。
「この人にも親がいるんだよ? この人を殺せば、きっとその親は、あなたと同じように悲しむことになる。その悲しみは、あなたが一番よく知っているはずでしょ?」
最も悲しかった日を思いだしたのか、ニュスの顔から色が消えた。似たような顔を、少し前にも見たことがある。それは戦死した父を語るアセビの横顔と、そっくりだった。亡き父を思って、沈痛な表情のアセビは、人を憎まず戦争を憎んでいた。
「悪いのは人じゃない。戦争なんだよ」
繰り返される憎しみの連鎖は、容易には断ち切れない。世代を超えて、憎しみは受け継がれていく。
カリンの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。込み上げてくるのは無力感だ。
どうして人は、この悲しみを繰り返すのだろう? どうすれば、この憎しみの連鎖を断ち切れるのだろう?
己の無力感に打ちひしがれるカリンであったが、カリンは決して無力なんかではなかった。
時として女の涙が、男の争いを止める。今回もまさにそれで、カリンの涙に、ニュスは胸を打たれたようだ。
剣を握るニュスの腕がダラリと垂れる。ニュスの手にある剣は、もう力を失っていた。
弛緩しかけた空気の中で、ヘルメスがいきなり駆けだした。走りながらヘルメスは抜刀すると、ニュスの胸に剣を突き立てる。刃を横に寝かせた剣は、ニュスの皮膚を切り裂いて体内に侵入し、肋骨の隙間をかい潜って、心臓を貫通した。
「どうしてだ? 牢屋の鍵を――」
零れ落ちんばかりに目を見開いたニュスが、最後になにか言おうとしたが、ヘルメスはさらに剣を体内に突きこんだ。
肺から押しだされる空気が血と混じり、血の泡となって、ニュスの口から吐きだされる。声は血の海に沈み、最後の言葉は意味を結ぶことなく、ニュスは牢屋の床に倒れた。
唖然としているカリンの前で、ヘルメスは剣を振って、剣に付着した血を振り払う。ヤマ帝国の使者の頬に血が飛んで、使者は悲鳴を上げた。その悲鳴に構うことなく、ヘルメスはニュスの衣服で血を拭った。
血生臭い地下牢で膝が震えているのは、決して恐怖だけが原因ではない。カリンは金切り声で叫んだ。
「なにしてるのよ!」
「危険人物を排除しただけですが?」
ヘルメスはとぼけた顔で答えた。それが一層、カリンの怒りをかきたてる。
「危険人物? ニュスにはもう使者を殺す気なんてなかったでしょ!」
「そうですか? 私には、そうは見えませんでした。使者を守るのが私の役目ですから、私は職務を全うしただけです」
カリンは歯噛みするより他なかった。
ニュスから殺意が消えたことを示す証拠はなく、カリンの主観でしかない。状況からすれば、使者を暗殺しようとしたニュスは、ヘルメスに殺されても仕方なかった。
けっきょく、ヘルメスがニュスを殺した件は、不問に付された。罰せられたのは、鍵を管理していた衛兵だけだ。ニュスが鍵を盗むとは思わなかった。そんな言い訳が通るはずもなく、その衛兵は職を解かれた。
ニュスによるヤマ帝国の使者の暗殺は防げたものの、目の前でニュスがヘルメスに殺された。それはカリンの夢に何度も現れて、カリンは何度もうなされることになるのだった。




