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モデル その⑩

「だいじょうぶか?」


 父が心配そうな顔で、五夜の目を覗きこんでいる。

 自分がしようとしたことを考えると、背筋が寒くなった。

 舌に鉛筆を突き刺して絵を描くなんて、正気の沙汰ではない。そんなことを考えていた自分が恐ろしい。


「五夜、どうしてマトマを食べなかったんだ?」

「マトマを食べると、心が壊れてしまうと思ったからだよ」

「それは逆だ。マトマを食べないと、心が壊れてしまうんだ。ちょっと待ってろ」


 父は走って部屋を出ていった。舌にマトマを描いているときに聞こえた大きな物音は、父が力ずくでドアを開けた音だったらしい。ドアを開けられないように置いていた家具が、ドアに押されて大きく移動していた。


 戻ってきた父の手には手紙があった。五夜は父から手紙を受けとると、文面に目を通す。

 マトマを食べる前には、五夜の妄想が書かれていた。しかし、マトマを食べて正常な精神を取り戻した五夜は、書いてある文章を正しく読むことができた。


〝あなたの売ってくださったマトマのおかげで、娘の心は正常になり、普通の生活を送ることができるようになりました。あなたは娘の命の恩人です。本当にありがとうございました。今後も、よろしくお願いします。〟


「五夜を不安にさせたくなくて黙っていたが、五夜も高校生だし、そろそろ真実を話すべきだろう」


 手紙から顔を上げると、いつになく真剣な目をした父がいる。

 かなり話しにくい内容のようで、父はためらうように部屋を見回した。小さく息をこぼすと、ようやく重い口を開く。


「母さんが亡くなったのは交通事故じゃない。母さんは心の病気で自殺したんだ。そして五夜も、母さんと同じ病気なんだ」

「僕が母さんと同じ病気?」


 父は神妙な面持ちで頷いた。

 創造性と精神疾患には、密接な関係がある。五夜が絵画において、豊かな才能を発揮できるのは、母から受け継いだ諸刃の遺伝子のお陰だった。


「母さんは心の病気を抱えていて、その病気を治療するために、病院を受診した。父さんは、その病院で精神科医をしていてな。父さんは昔、母さんの主治医だったんだ」

「父さんが精神科医……」


 流乃の展示会に行ったときに、父が医者だったことは、学芸員から聞いていた。しかし、父本人から、それを改めて聞かされると、やはり驚きは大きい。こんなにも身近にいる人のことを、僕はなにも知らなかった。


「なんで父さんは医者をやめて、マトマを作ってるの?」

「母さんの病気は、今の医学では治せなかったんだ。なにか方法はないかと模索していたときに、マトマという珍しい果物が、母さんの病気に効くという噂を耳にした。それでマトマを作ってみることにしたんだ」


 医者を辞めて、未知の果物であるマトマの栽培を始める。きっと大変な勇気が必要だっただろう。


「なんで父さんは、母さんのためにそこまでしたの?」


 素直な疑問が口から洩れた。すると父は、照れくさそうに鼻の下を指で擦った。


「それはもちろん、母さんを助けたかったからだ」


 成熟した大人の父が、まるで同年代の若者のように見えた。15年前と変わらず、まだ父は母を愛している。


「父さんは今でも、母さんのことが好きなんだね」


 どう答えていいかわからないようで、父は苦笑した。

 母のため、父が生産に乗りだしたマトマの効果には、たしかに目を見張るものがある。先ほどまで常軌を逸した行動をとっていた五夜が、たった一つマトマを食べただけで、たちまち正気を取り戻した。そんなマトマがあるのに、どうして母は自殺してしまったのだろう?


「マトマがあるのに、どうして母さんは自殺してしまったの?」


 父の眉間に、深い後悔が刻まれる。


「五夜も生まれて、当時はとても幸せだった。だから父さんは、間違いを犯してしまったんだ」

「間違い?」

「五夜と母さんの傍にいたくて、仕事をする時間を減らしてしまったんだ。その結果、マトマの管理が疎かになり、マトマは病気になって枯れてしまった」


 血反吐を吐くように、父は過去の失敗を明かした。その先の言葉を、五夜が引きとる。


「それで母さんは、マトマを食べられなくなったの?」

「あぁ、そうだ。母さんの精神状態は悪化して、父さんに暴力まで振るうようになり、精神病院に入院することになった。父さんは急いで新しいマトマの生産に取りかかったんだが、マトマが収穫できる前に、母さんは自殺してしまったんだ」

「自殺って、もしかして……」


 五夜は自分の行動を振り返った。


 スケッチブックに涎を垂らしながら、マトマを描く。描き終わると、ページを引きちぎって食べた。当然、食べられるわけがなく、紙を吐きだす。

 次に思いついたのは、舌にマトマを描くことだ。信じがたいことに、そうすればマトマの味がすると考えていた。舌に鉛筆を突き刺して流れでた血で、床にあるスケッチブックは汚れている。


 思いだせば、母が死ぬ直前に絵を描いていたノートにも、同様の変化が起こっていた。マトマが描かれて、ノートに水滴が落ち、絵の描かれたページが引きちぎられる。それからノートは血で汚れ、母の命と共に、ノートはこの世から消えた。


「五夜と同じように、母さんは自分の舌に鉛筆を突き刺した。それが原因で、母さんは亡くなったんだ。父さんが止めなければ、五夜も母さんと同じ運命を辿っていたかもしれない」


 父の安堵した顔を見て、ようやく五夜は、父が昼夜を問わず働く理由を理解した。


「父さんが一日も休まずに働いてるのは……」

「五夜にマトマを食べてもらって、元気でいて欲しいからだ」


 休日の朝、仕事に出かける父の物音で、起こされたことがあった。風邪をひいていたのだろう。父は鼻をすすっていた。

 薄く目を開けると、まだ空は薄暗い。せっかくの休日を台無しにされた気分になった。舌打ちすると、五夜は再び瞼を閉じる。


 仕事が好きだから、風邪をひいても、朝早くから仕事をしているのだと思っていた。だが、それは誤りだった。父が本当に好きなのは、仕事ではなく五夜だった。五夜を守るために、体調が優れなくても、朝早くから父は働いていたのだ。


「もう僕は、だいじょうぶだから。いつまで僕の部屋にいる気なの? そろそろ出ていってくれない?」


 五夜に素っ気ない声で返された父は、口角を釣り上げる。いつもの憎まれ口を叩く五夜に、安心したらしい。立ち上がって部屋を出ていこうとしたところで、思いだしたように父は振り返った。


「おっと、忘れるところだった。ほら、お小遣いだ」


 目の前に、千円札が差しだされる。五夜が千円札を受けとると、父は背を向けた。その背中に、五夜は小さく呟く。


「ありがとう」


 驚いた顔で父が振り返った。父に感謝の言葉を口にするのは、何年ぶりだろう?


「どういたしまして」


 得意げに笑うと、今度こそ父は部屋を出ていった。ドアが静かに閉まる。

 五夜の手の中にある千円札は、土で少し汚れていた。しかし、それをもう汚いとは思わない。なぜならそれは、五夜を守るために、父が働いた証だったからだ。

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