モデル その⑨
帰宅した父が、五夜の部屋のドアをノックした。
「五夜、だいじょうぶなのか? なぜ壁にマトマを投げた?」
「僕のことは放っておいてよ! 父さんはマトマの世話でも、してればいいだろ。なんで帰ってきたんだよ?」
「お婆ちゃんから電話があったんだ。病院に行っている間、五夜の様子を見て欲しいってな」
白々しい嘘をつかないで欲しい。本当は秘密を知った僕を、殺しに来たくせに。
五夜が黙っていると、再度ノックの音が響いた。
「閉じこもってないで、部屋から出てきなさい。父さんが新しいマトマを持ってきたから、それを食べるんだ」
どうしても父は、五夜にマトマを食べさせたいらしい。その試みは、あからさま過ぎた。
(自分の手を汚さずに、僕を自殺させる気だな。そうはいかないぞ。僕は絶対にマトマなんか食べないからな)
「五夜、返事をしてくれ」
父の声が耳障りだった。
絵を描くことに集中すれば、父のことは忘れられる。五夜はスケッチブックを開くと、鉛筆を手にとった。頭の中はマトマでいっぱいで、自然と描く絵はマトマになる。
過剰とも言える集中力が発揮されて、五夜の意識は絵の世界へ沈む。父の声は聞こえているが、まるで外国の言葉でも聞いているかのように、その言葉は、なんの意味もなさない。
絵が完成に近づくと、もう本物のマトマにしか見えなかった。鼻から息を吸いこめば、マトマの匂いさえする。
なんて、おいしそうなんだろう。口内で唾の洪水が起こる。あふれた涎がスケッチブックに落ちて、雨に打たれたような染みを作った。
手は一度も止まることなく、絵は完成した。完成した絵を見て、とんでもない考えが浮かぶ。
このマトマは、父の作ったマトマとは違う。このマトマなら、食べても問題ないはずだ。
五夜は絵の描かれたページを引きちぎると、口の中に放りこんだ。
もちろんそれはマトマではなくて、ただの紙だ。どれだけ精巧に描こうが、マトマの味なんてするわけがない。食べ物でないと認識した体は、当然の生理現象として、紙を吐きださせる。
しかし、ここで五夜が正気を取り戻すことはなかった。さらに五夜の考えは、常人ではあり得ない方向へと飛躍する。
舌に直接、マトマを描けばいい。そうすれば、きっとマトマの味がするはずだ。
五夜は鏡の前で、口を開けた。舌を出して、鉛筆で舌にマトマを描こうとする。しかし、鉛筆は舌の上を滑るばかりで、上手く絵は描けない。
それなら、入れ墨にしよう。鉛筆を舌に突き刺し、舌の中に色素を注入して、マトマを描けばいい。
鉛筆を舌に突き刺すためには、鉛筆の先を尖らせなければならなかった。いつもはカッターで鉛筆を削っているが、先を尖らせるためには、鉛筆削りが必要だ。
電動の鉛筆削りに、鉛筆を差しこむと、鉛筆を削る不気味な音が室内に響いた。その音を聞いて、異変を察知したらしい。父がドアを開けようとした。
「五夜、なにをしてるんだ? ドアを開けてくれ!」
だいじょうぶ。ドアの後ろに置かれた家具が邪魔で、父はドアを開けられない。
五夜は舌に、鉛筆の先を押しつけた。舌は弾力があり、簡単には突き刺さらない。もっと強く押しつけないとダメだ。
鉛筆を握る手に力を込めると、不意に抵抗がなくなり、鉛筆が舌に突き刺さった。一拍遅れて、痛みが脳を焼く。傷口からあふれた血が、舌の凹凸に沿って流れ、口内に鉄の味が充満する。
なにか大きな物音が聞こえたが、今はそれどころではない。五夜は鏡から目を離さず、マトマを描く作業に集中した。
マトマの輪郭を描くために、舌に突き刺さった鉛筆を動かした。傷口が裂けて広がり、さらに痛みが強くなる。この痛みに耐えて、マトマを描くことができれば、きっとマトマの味がするはずだ。信仰にも似た気持ちで、強烈な痛みに耐えた。
舌の肉を引き裂くために、さらに力を加えようとしたとき、手首を誰かに握られる。ザラザラとした分厚い皮膚の感覚。太陽と土の匂いがした。
力強い手によって、五夜の口から鉛筆が引き抜かれる。不満を訴える暇もなく、空いた口にマトマを突っこまれた。
口の中いっぱいに、ハーブのような清涼感のある香りが広がる。五夜は反射的にマトマに被りついた。果汁で顎が汚れることも厭わず、貪るようにマトマを咀嚼する。
乾いた体にマトマの果汁が染み渡ると、霧で霞んでいた思考が、たちまち晴れ渡っていく。ようやく五夜は正気を取り戻した。




