モデル その①
放課後の美術室は、生徒の賑やかな談笑であふれていた。会話に花を咲かせる美術部員がいる一方で、持根五夜は黙々と絵を描いていた。
五夜の背後には、美術部の顧問の先生が立ち、五夜の描く絵を、真剣な目で見ている。
絵のメインモチーフは林檎だった。青年の心臓の位置に、林檎は半分ほど埋まっている。その林檎を食べたいのだろう。肋骨の浮きあがった半裸の子供が、林檎に手を伸ばしている。
子供に林檎をとられれば、心臓が林檎の青年は死んでしまう。しかし青年は、その運命を待ち望んでいるかのように、穏やかな顔をしていた。
絵は幻想的なまでに美しい。生きながら腐っていく命を光が照らし、影が優しくすべてを包みこむ。生と死の濃淡が織りなす美は、人間が描いたとは思えない。
まだ高校生の五夜であったが、その卓越した才能は、知る人ぞ知るところとなっている。だから先生も、多くの評論家と同じように、五夜の絵を手放しで褒めた。
「持根くんは本当に絵が上手いね。それに、この構図。よくこんな構図を思いつくもんだ」
誉め言葉であったが、五夜は素直に喜べない。
常人と感性が異なることは、芸術の世界においては大きな武器となる。しかし、感性が異なれば、周囲の人間との軋轢を招くことにも繋がる。
実際、五夜はクラスに溶けこめず、共通の趣味を持つはずである美術部においても孤立していた。他の美術部員は、五夜の描く絵を気味悪がっている。
もし五夜の絵を、医学に明るい者が見れば、描いた者の精神状態を心配するだろう。まともな人間の描く絵ではない。五夜自身も、自分の絵が異質であることには気がついていた。
「僕の絵って、気持ち悪いですよね」
先生は安易に否定しない。上辺だけの励ましでは、なんの効果もないことは、先生もわかっている。
「そう思う人もいるだろうけど、私はそうは思わない。芸術性の高い素晴らしい絵だと思うよ」
自問自答をする五夜の心には、先生の心からの賛辞も響かない。なおも暗い顔を続ける五夜を励まそうと、先生は頭を捻る。すると、なにか思いついたようで、先生は口を開いた。
「なんて名前だったかな? 持根くんの描く絵と、似た絵を描く画家がいたんだ」
「そんな人がいたんですか?」
五夜は驚いて立ちあがる。それは思いがけない言葉だった。初めて自分の仲間がいることを知らされたような気分だ。
本当に、そんな人がいるのだろうか? もしいるのなら、ぜひ一度会ってみたい。
五夜は先生の思考の邪魔にならないように、口を閉ざして待った。しかし結果は、残念なものとなる。
「ごめん。ちょっと思いだせないな」
「そうですか」
失望した五夜は、椅子に腰を下ろす。僕と似た絵を描く画家なんて、本当にいるのだろうか?
場を取り繕うように、先生は話題を変えた。
「もし思いだしたら、そのときは必ず教えるよ。それより、コンクールに出展する絵のモチーフは、もう決まったのかい?」
「まだ決まってません」
「ご希望とあれば、先生が一肌脱ぐけど?」
先生はシャツを捲った。美術の先生というよりは、体育の先生というほうがしっくりくる見事な腹筋が露になる。美術部の女子たちは、男性教諭の腹筋に、頬を赤く染めて見惚れていた。
「結構です」
どれだけ絵のモチーフに困っても、先生の裸を描くつもりはない。
「ただいま」
玄関で靴を脱ぎ、ダイニングに向かうと、テーブルの上には、いつものように青い果実が置いてあった。五夜は果実を手にとり、水で軽く表面を洗う。ツルツルと光沢のある表皮は、勢いよく水を弾いた。
そのまま果実に被りつく。ハーブのような爽やかな香りが鼻腔を通りぬけた。口の中いっぱいに瑞々しい果汁があふれ、控えめな甘みが舌を優しく包みこむ。
五夜が口にしたのは、マトマという名前の果物で、その果物を生産したのは父だった。
マトマは非常に珍しい果物で、市場には流通していない。その一番大きな要因は、育てるのが難しいことにあった。
マトマを栽培するためには、温度や湿度を一定に保たなければならない。もし適切な環境でマトマを栽培していても、必ずと言っていいほどマトマは病気になる。葉が黄色く変色して、クルクルと巻物のように丸まっていたら、それは病気だ。
病気は隣接するマトマにもうつり、放っておけば、すべてのマトマが枯れてしまう。この病気の治療方法はただ一つ。病気になった葉を、手で摘みとることだ。
生育環境がよければマトマの成長速度は早く、次から次に葉が出現するため、葉を摘みとってもマトマの生育に問題はない。問題なのは、その作業時間の膨大さだ。毎日病気になった葉を手で摘みとるのは、大変な時間と労力を要する。
そして、マトマが一般に流通していない二つ目の要因は、それほどマトマが美味しくないことにあった。ハーブのような爽やかな香りと、スッキリとした甘みが特徴のマトマだが、果物としては、いささか甘みに欠ける。
農家だって手間がかかる上に、大して美味しくもない果物なんて、わざわざ作りはしない。そんな物好きは父だけだ。
物心つく前からマトマを食べている五夜は、マトマを食べるのが日課となっていた。今ではマトマを食べないと、なんだか心が落ち着かない。
日課は他にもあった。祖母の作る晩御飯ができるまで、祖父と将棋をするのも日課の一つだ。
将棋盤の上は、五夜が圧倒的に優勢だった。五夜の竜王が、祖父の王の喉元にまで迫っている。絶体絶命の状況にも関わらず、祖父は将棋盤ではなく、テーブルのほうを気にしていた。
五夜は考えるフリをして口に手を当て、緩んだ口元を隠す。
「ご飯ができたわよ」
料理の盛られた皿を、祖母がテーブルの上に並べる。その言葉を待っていたかのように、祖父は腰を浮かせた。
「晩御飯にするか」
「そうだね」
今日も時間切れによる引き分けだった。まぁ、勝敗なんてどうでもいい。大切なのは祖父と将棋を楽しむことだ。
祖父母と食卓を囲み、晩御飯を食べる。なんてことのない平穏な日常だが、五夜にとっては心休まる時間だった。
孫のことが気になるようで、祖母はあれやこれやと五夜に質問をしてくる。その質問の中に、返答に困る質問があった。
「体育の時間にできたケガはどうなの? もうよくなった?」
五夜の肩には青アザがあった。家族に見られないように注意を払っていたが、風呂上りに、うっかり見られてしまっていた。
「もうだいじょうぶだよ」
五夜は笑顔で受け流す。祖母に心配をかけたくなかったし、真実を話すのは格好悪い。いじめっ子に殴られたせいで青アザができたなんて、口が裂けても言えなかった。
「ほら、お父さんからよ」
祖母が差しだしたものを、五夜は受けとる。それは湿布の入った袋だった。
「お父さんにゴーくんのケガのことを話したら、心配してたわよ」
五夜は鼻で笑う。いつも五夜を放ったらかしにして、仕事ばかりしている父が、五夜を心配しているなんて、とても信じられない。
「本当に心配してたの? この湿布だって、父さんじゃなくて、本当は婆ちゃんが買ってきたんでしょ?」
「そんなこと言わないで。お父さんはゴーくんのことを、いつも考えてるのよ」
祖母が珍しく怒りを露にする。孫の五夜より、息子である父の肩を持つようだ。祖母と言い争いたくはなかったが、これだけは譲れない。
「嘘だ。父さんは従業参観のときも、三者面談のときも、僕が骨折したときだって、仕事をしてたじゃないか。父さんは僕よりも、仕事のほうが好きなんだ」
すると今まで黙っていた祖父が、低い声で五夜を叱った。
「五夜、お前は勘違いをしているぞ。あれは不器用な男だが、お前のことは本当に大事に思っている」
五夜の味方は、この家に誰もいなかった。どこに怒りをぶつければいいのかわからない。やり場のない怒りを抱えて、五夜は跳ねるように席を立った。
「なんでだよ! なんで僕が悪いことになってんだよ! 悪いのは父さんだろ!」
「五夜!」
制止する祖父の声を振り切って、五夜は自室へ飛びこんだ。右手には、父が五夜のために買ってくれた湿布がある。五夜はそれを壁に投げつけた。父の買った湿布など、使う気になれない。
湿布を投げたときに、青アザのある肩がズキリと痛んだ。ケガの状態を確認するために、袖をまくり上げる。五夜の右肩には、生まれつき茶色いアザがあった。その下に青アザができている。
五夜をイジメる郷田は、あえて同じ場所を狙って殴っていた。勉強が得意とは言えない郷田だが、人を痛めつける才覚はあるらしい。何度も同じところを殴られたせいで、青アザは今や危険な色味を帯びている。
五夜は宙に鉛色のため息を吐いた。




