ギャンブル その⑧
鼻血で鼻が詰まり、ひどく息苦しい。横目でチラリと見えたのは、振りかぶった足だった。
こうなると、もう馬券どころではない。大輔は頭を守るために、腕で頭を抱えた。予想した衝撃に襲われて、腕がジーンと痺れる。
「このクズが! 俺の金を返せ!」
馬券の買い戻しに失敗した晃の怒りは凄まじく、呪詛の言葉を吐きながら、繰り返し大輔の体を蹴った。サンドバックとなった大輔を救ったのは、アナウンサーの声だった。
「勝ったのは7番のゴールドインパクト! 大波乱の競馬でした!」
予想外の勝者に、実況するアナウンサーの声も熱を帯びる。
レースが始まる前に、一着にはゴールドインパクトが来ると、大輔は予言していた。
まさか、と思ったのだろう。晃は床に落ちている馬券を拾おうとした。だが、先に馬券を拾われてしまう。馬券を拾ったのは、今まで二人の争いを静観していた野次馬の男だった。
「2着は2番のナリタキャップ、そして3着に入ったのは、4番のメジロスカーレットでした」
場内放送でレースの結果がすべて明らかとなり、馬券を見ている男の顔から血の気が引いた。
レースの結果を知っている大輔は、狼狽した晃の顔を見上げて、口の端を吊り上げる。
馬券を換金して、借金を全額返済すれば、もう晃の顔を拝む機会もなくなるだろう。いつもは晃の顔なんて見たくもなかったが、これで最後だと思うと悪くなかった。
言葉を失っている男に、晃は早口で尋ねる。
「おい、どっちなんだ? 的中してたのか?」
「……当たってる」
「当たってるだと?」
晃は男の手から馬券を奪いとると、スマホでオッズを確認して、その馬券がいくらになったのかを計算した。スマホに表示された7億2千万円の数字が信じられなくて、晃はスマホに顔を近づける。
晃が事態を飲みこんだ頃合いを見計らって、大輔は得意げに口を開いた。
「ほら、当たってたでしょ? その馬券を僕に返してください。借金は全額返済しますから」
顔は鼻血で汚れ、トイレの床に這いつくばっているが、気分は最高だった。
ご機嫌な大輔を無視して、晃は手に持っている馬券を注視している。
晃だって、大輔から借金を返済してもらいたいと思っているはずだ。馬券が的中したことを、晃も喜んでくれるだろう。
その予想は外れていなかったが、晃の喜んでいる理由は、まさに悪党と呼ぶに相応しいものだった。
「この馬券は俺のものだ」
大輔は自分の耳を疑った。いくらなんでも、そんなことを言うわけがない。
凶悪そのものの顔で笑っている晃に、冗談であってくれと願いこめて聞き直す。
「なにを言ってるんですか? その馬券は僕が買ったんですよ?」
「今まで黙ってたが、お前の借金の利息は、本当は10日で5割だったんだ。だから、お前の借金は1兆円を超えている。だけど特別に、この馬券でその借金をチャラにしてやるよ」
無茶苦茶だった。大輔から馬券を取りあげるために、今さっき考えた嘘であることは明白だ。
「香の借金を肩代わりするときに、僕がサインした契約書には、10日で5割なんて馬鹿げた利息は書いてませんでしたよ!」
「そうだな。たしかに書いてなかった」
「だったら――」
「後で書けばいい」
晃の暴虐無人な返答に、大輔は唖然とする。そんなことがまかり通るのなら、契約書なんて、なんの意味もなさない。
晃の横暴を許すわけにはいかなかった。込み上げてきた怒りを、そのまま晃にぶつける。
「そんなのルール違反ですよ!」
「ルールは俺が作るんだ」
話はそれで終わりだと、晃は大輔に背を向ける。
大輔は晃を呼び止めようとしたが、そうせずとも晃は立ち止まった。トイレの出口へ向かう晃の前に、野次馬をしていた男が立ち塞がったからだ。
「なんだよ、お前は? まさか、この馬券は五味のものだから、五味に返せとでも言うつもりじゃないよな?」
もちろん、そうに決まっている。晃のやろうとしていることは、到底許されることではない。この状況を目撃すれば、見て見ぬフリなんて誰もできないはずだ。
そんな希望的観測を抱いた大輔だったが、どうやらこの世には、聖人よりも悪人のほうが多いらしい。
男は無言で晃から馬券を奪いとると、背を向けて走り出した。
男の行動は、晃にとっても予想外だったようで、すぐには状況が飲みこめず、晃は棒立ちになっていた。男がトイレの出口を出たところで、ようやく男に馬券を盗まれたことに気がついた。
「待ちやがれ!」
晃が急いで男の後を追う。大輔も立ち上がると、その後に続いた。
「俺の馬券を返せ!」
晃が怒声を張り上げるが、もちろん男は止まらない。
(違う、その馬券は僕の馬券だ!)
主張を声にしたかったが、デスクワークでなまった体は肺がキリキリと痛むばかりで、とても声を出すことなんてできない。
もともと運動は得意なほうではなかった。それに加えて、さんざん晃に蹴られたせいで、体の節々が痛み、まともなフォームで走れない。前を走る二人との距離は、どんどん開いていく。
晃と男とでは、晃のほうが足が速かった。晃に捕まりそうになった男は、車道に飛びだして、晃を振り切ろうとした。
しかし、7億2千万円がかかっている晃も、簡単にあきらめたりはしない。臆することなく車道へ飛びだした。男に追いついた晃は、その勢いを利用して男に飛びついた。二人はもんどり打って道路の上を転がる。
晃は両手で男の手をつかみ、男から馬券を取りあげた。晃の顔に勝利が浮かぶ。
しかし、馬券を奪われた男は、ちっとも悔しそうではない。男が見ているのは馬券ではなく、べつのものだった。
男が見ているものに、晃は視線を移す。大輔もそれにならって、男の視線の先に目を向けた。
男の視線の先にあるのは、轟音を上げて走ってくるトラックだった。
予想される惨劇を見たくなくて、大輔は瞼を固く閉じる。直後、耳を覆いたくなるほどの凄まじい衝突音が響いた。




