ギャンブル その⑦
大輔は女性の返事を待っていた。
ノートの隣には、昨日振りこまれたばかりの給料の入った封筒がある。この金で3連単を的中させられれば、配当金の額は数百万、いや数千万円にもなるかもしれない。
(頼む。もう一度だけ、僕にチャンスをくれ)
いくら願っても、ノートにはなんの変化もない。香に逃げられたときと同じだ。時間が経てば経つほど夢から覚めて、現実の厳しさが身に染みてくる。
いい加減あきらめて、真面目に借金を返済する方法を、考えたほうがいいのかもしれない。
もうあきらめかけていた。それだけに、女性の文字が書きこまれていくのを見つけたときは、飛び上がるほど嬉しかった。
〝今日の中山競馬場の第4レースの結果は7―2―4よ。〟
時計を見れば、第4レースが始まるまで、あと一時間足らずしかない。身支度もそこそこに、大輔は靴の踵を踏んでアパートを出た。
大事な賭け金を使ってしまうことになるが、レースに間に合わなければ、なんにもならない。電車に飛び乗り、競馬場へ向かった。
競馬場へ来るたびに、晃と出くわしていた。会わない確率より、会う確率のほうが高く感じる。不審者のようにキョロキョロと辺りを見回して、晃がいないことを確認した上で、自動発売機を使って馬券を購入した。
馬券を買った後は、男子トイレの個室に引き篭もる。ここなら晃に見つかることもないだろう。一安心したところで、購入した馬券のオッズを確認すると、オッズは驚愕の3千倍だった。
脳髄が痺れて、危うくスマホを便器に落としそうになる。
買った馬券は24万円だ。その3千倍はいくらになる?
スマホの電卓機能を使って計算してみる。気が動転しているせいで、何度も打ち間違えた。計算を終えたスマホの画面には、見たこともない桁の数字が並んでいる。
一、十、百、千、万、十万、百万…………
計算結果を確認した大輔は、失笑を漏らした。
そんなわけがない。そんな金額は、あり得ない。
しかし、何度数え直してみても結果は同じだ。配当金の額は、なんと7億2千万円だった。
ノートの女性に配当金の半分を渡したとしても、3億6千万円が手元に残る。目もくらむような大金だ。さんざん大輔を苦しめた借金1千万円も、3億6千万円があれば、すぐに返済できる。
噂をすればなんとやらで、借金のことを考えていたら、晃から電話がかかってきた。喋りたくない相手と、わざわざ話す必要はない。着信音が耳障りなのでミュートにした。
静かになったと思ったら、今度はトイレのドアがノックされた。大輔はノックを返して、トイレの中にいることを伝える。
しかし、またトイレのドアがノックされた。そのしつこさに辟易しながらも、余計なトラブルを起こさぬように、大輔は冷静な声で応じる。
「入ってます。べつのトイレを探してください」
「俺が探してるのは、空いてるトイレじゃなくて五味、お前だ」
どうりでしつこいわけだ。もっとも聞きたくなかった声に、体中の力が抜ける。
トイレに向かう道中で見つかって、後をつけられたのだろうか? 競馬場に来るのは3回目だが、これで3回とも晃に見つかっている。借金取りなんかより、よほど探偵のほうが向いている。
「早く出てこい。出て来ないのなら、俺がそっちへ行くぞ」
短気な晃は、もう我慢の限界に達しつつあるようだ。なるほど、たしかにトイレは我慢する場所ではない。
トイレの個室は上部が空いているため、這い上がれば、上から中に入ることができた。この狭い個室の中で、晃と二人っきりになるなんて、想像しただけでゾッとする。
恐る恐るトイレから出ると、晃が仁王立ちで待ち構えていた。
「給料日の翌日に競馬とは、立派なギャンブル中毒者だな。おら、とっとと財布を出せ」
財布の中には、小銭と馬券しかない。もし馬券を見たら、晃はどんな顔をするだろう?
激怒する顔が目に浮かんだ。もちろん、そんな顔は見たくない。
大輔が財布を出すのを渋っていると、晃は大輔の背後に回りこんだ。大輔の背負っているリュックを力任せに奪いとり、チャックを全開にして、リュックをひっくりかえす。
リュックの中に入っているものが床に散らばった。その中には不思議なノートもあった。背表紙から床に落ちたノートは、その衝撃でパカリと開く。
〝ルール1。ノートに書かれていることを、ノートの持ち主以外の人間に見られると、ノートは消滅する。〟
たしか、そんなルールがノートには書かれていた。
ノートの中を、晃に見られるわけにはいかない。これからこのノートを使って、競馬で勝ち続けるのだ。
晃にノートを見られないように、大輔は四つん這いになって、ノートに覆いかぶさった。しかし、一瞬だがノートに書かれていることを、晃に見られてしまったらしい。
大輔の腹の下で、ノートは光の粒となる。その光はしだいに弱くなり、やがて跡形もなく消えてしまった。
これでもう二度と、ノートを使った競馬の必勝法は使えない。思い描いていた未来が断たれて、目の前が真っ暗になる。
打ちひしがれる大輔には目もくれず、晃は膝を折って屈むと、床に落ちている財布を拾い上げた。財布を開き、中にある馬券を発見して、目を見開く。
「おいおい、正気かよ。3連単の一点買いに24万円って、お前は狂ってるのか?」
ノートが消滅したショックで気づいていなかったが、そこで初めて大輔は、晃に馬券を奪われたことに気がついた。
「返してください! その馬券が当たれば、7億2千万円になるんです!」
もちろんそんな与太話を、晃が信じるわけがない。返って来たのは、侮蔑を込めた失笑だった。
「バカ。当たるがわけないだろ。この馬券が紙くずに変わる前に、買い戻させてもらうからな」
「もう無理ですよ。一度買った馬券を買い戻すことはできないはずです」
「できない決まりになってるけど、窓口の人に頼めばできるんだな、これが」
スマホで時刻を確認すれば、もう発走10分前になっている。さすがに発走してしまえば、馬券の買い戻しは不可能だろう。
「おっと、早く行かないとレースが始まっちまう」
晃がトイレの出口へ走り出そうとする。その動きに反応して、大輔は素早く立ち上がると、晃の腰に飛びついた。
「おい離せ! レースが始まっちまうだろ!」
それが狙いなのだから、離すわけがなかった。大輔の腕を振り解こうと、晃は体を捻るが、死に物狂いで晃にしがみついた。
「馬券が的中したら、借金はちゃんと返しますから!」
「だから、当たるわけがないって言ってるだろ! 何度も同じことを言わせるな!」
「当たりますって! 一着には必ずゴールドインパクトが来ます!」
トイレの出口付近で、二人の押し問答を眺めている男がいた。
大輔と晃は互いに大金のかかった状況であるため、外聞を取り繕っている余裕などない。野次馬を無視して、二人の押し問答は続く。
出走の時間が近づくと、いよいよ晃は焦りだした。野次馬が見ている前にも関わらず、大輔の腰の辺りを拳で打ち据えた。
ずしりと重い痛みに表情は歪んだものの、大輔は晃の腰を離さない。
「いい加減にしろ! 殺されたいのか!」
その説得は的外れもいいところだ。なぜなら生きるために、こんなにも必死になっている。不思議なノートが消滅した今、これが競馬で稼ぐ最後のチャンスだった。絶対にあきらめるわけにはいかない。
大輔の粘りは実を結ぶ。場内のあちこちに設置されたスピーカーから、レースの発走を告げるファンファーレが鳴り響いた。
「さぁ、スタートしました!」
場内放送をしているアナウンサーの声で、二人の争いに決着がついた。
レースが始まって買い戻しが不可能となり、晃の手から馬券が滑り落ちる。床に落ちる寸前のところで、大輔は馬券を両手で救い上げた。
自分の手に戻ってきた7億2千万円の重みに、自然と顔が綻ぶ。しかし、喜びを実感する時間はなかった。
「ニヤついてんじゃねぇよ!」
怒りで我を忘れた晃は、大輔の頭をサッカーボールのように蹴り飛ばした。脳が揺さぶられて意識が一瞬飛び、やっとの思いで手にした馬券を、大輔は手放してしまった。




