ラブレター その⑫
空に雷鳴が轟いた。今までどうにか持ちこたえていた空から、雨が降り始める。
カリンは初めて聞く単語のように、その単語を繰り返した。
「殺した? 今、殺したって言ったの?」
「あそこにある島が見えますか? あれはシオン島という無人島です。なんの変哲もない島ですが、大陸と大陸のちょうど中間にありましてね。貿易の際には、商人がよく利用しています」
ウトリが指差した先に、小さな島がある。火山のように中央がへこんでいる特徴的な形は、実際にその島が火山の噴火でできたからだ。
雨が入らないように目を細めたウトリが説明を続ける。
「5年前、私はアセビにシオン島へ行くように命じました。貿易商が待っていると、嘘をついたのです」
「ところが待っていたのは商人ではなくて、俺だったんだな。アセビが来る前に、ウトリに船で島に運んでもらっていた俺は、なにも知らないアセビが島に上陸したところを、背後からナイフで襲ったわけだ」
当時のことを思いだしたのか、ヘルメスは口元に笑みを浮かべた。
なにが楽しいのだろう? 人を殺すことが、ヘルメスにとっては遊びなのだろうか?
「ところが刺す寸前でアセビに気づかれて、心臓を刺しそこなった。アセビは驚いて森に逃げこみやがってよ。追いかけるのも面倒だから、俺はアセビの乗ってきた船で島を出たよ。あの傷では、どっちみち長くはもたないだろうからな」
雨は次第に強くなり、そのせいでシオン島が霞んで見えた。
(あの島でアセビが死んだ? アセビはもういないの?)
5年もの間、アセビが帰って来るのを、カリンは一途に待っていた。
アセビが他の女と結婚していると聞かされたとき、アセビなんか死ねばいいとさえ思った。ところが本当にアセビが死んだと聞かされると、まるで世界から色が消えてしまったようだ。
そのときになって、ようやくカリンは己の気持ちを理解した。たとえ浮気されたとしても、私はアセビのことが好きなのだ。アセビが亡くなった今でも、その気持ちに変わりはない。
あふれでる思いは涙に変わった。
「スパイだって気づかれたぐらいで、アセビを殺したの? そんな理由で?」
熱い涙を流して糾弾するカリンに、答えるウトリの声はひどく冷たい。
「そんな理由ではありません。スパイだとバレたら、普通は死刑です。だからアセビには、死んでもらわなければならなかった」
「でもまぁ、いずれはバレる運命だったみたいでよ。どこかの誰かが、俺たちがスパイだとバラしやがった。きな臭くなってきたから、金になりそうなものを盗んで、俺たちはカステア王国とおさらばしたってわけだ。ほら、あの木箱を見ろよ」
甲板にある大きな木箱を、ヘルメスは指差す。
「あの木箱の中には、お前の母親の部屋から盗んだお宝がたんまり入ってる。まぁ、俺の退職金だな」
「ヘルメス、あれは私と山分けですよ。忘れないでください」
取り分を巡って、口論を始めたヘルメスとウトリのもとへ男が歩いて来る。船員たちの中でも一際威厳のあるその男は船長のようで、他の船員たちを後ろに従えていた。
「喧嘩している場合じゃないぞ」
潮風に焼けたハスキーな声で、船長は二人の喧嘩を止めた。
「マズいことになった。もうじき嵐が来るぞ。今すぐカステア王国へ引き返そう」
船長の指差す先は、船の進路とは正反対の方角だ。マストを背負ったカリンが、体を捻って背後に視線を向けると、故郷の大陸が遠く望めた。
もしかしたら助かるかもしれない。そんな淡い期待が胸に芽生えたが、それは儚い希望だった。
ヘルメスは無言で腰の剣を引き抜いた。その行為の意味を、カリンを含めて誰も理解できない。みなが雨粒の流れる銀色の刃を見て、なぜヘルメスが抜刀したのかを考えている。
ヘルメスはゆっくり剣を持った手を引くと、次の瞬間、なんのためらいもなく船長の腹に剣を突き刺した。
船長は己の腹に刺さった剣を見て、それからゆっくりと顔を上げる。目は大きく見開かれ、血走った眼球は今にもこぼれ落ちそうだ。
ヘルメスが剣を引き抜くと、船長の腹から勢いよく血が流れだした。船長は傷口を両手で押さえたまま、甲板に膝をつき、それから俯せに倒れた。
赤黒い水たまりが広がり、靴が血に触れそうになった船員が、慌てて後ろへ下がる。血の水たまりの中で、蠢いていた船長の動きが緩慢になり、やがてピクリとも動かなくなった。どうやら力つきたらしい。
静まり返った船で、ヘルメスは船員に向けて朗々と声を張る。
「お前たちは王女を誘拐した。今さらカステア王国に戻ったところで死刑だ。俺たちはヤマ帝国へ行くしかないんだよ。ヤマ帝国へ行けば、2倍の報酬を払うと約束する。だから文句を言っている暇があるんだったら、さっさと持ち場に戻れ」
ヘルメスの言っていることは正しかった。カリンを船に乗せて、岸を離れた時点で、船員たちも共犯者だ。
「おい、なにをボサッとしている? お前も殺されたいのか?」
喉元に血まみれの剣を突きつけられた船員は、喉の奥で短い悲鳴を上げると、逃げるようにして持ち場へ走った。他の船員たちも、蜘蛛の子を散らしたように、それぞれの持ち場へ戻る。
船員たちは心を一つにして操船したが、天候は悪くなる一方だった。自然の驚異の前では、屈強な男たちも歯が立たない。荒波に翻弄されて、ついに船は前へ進むことさえできなくなる。
暴風雨の中で、ヘルメスとウトリは声を張り上げて喧嘩を始めた。
「お前が今日にしようなんて言うから、こんなことになったんだ!」
「私に責任を擦りつけないでください。そもそも王女誘拐を思いついたのはヘルメス、あなたでしょう?」
言い争う二人の背後に、巨大な水の塊が現れた。それが大波であることに気づいたときには、すでに波は船に乗り上げていた。
とっさにカリンは肺いっぱいに空気を吸いこむ。来たるべき衝撃に備えて、瞼を固く閉じた。直後、頭の天辺まで海水に沈んだ。
波はカリンを海へ連れ去ろうとしたが、カリンはロープでマストに縛られている。ロープが手首に食いこんで激痛が走ったが、ロープは切れなかった。歯を食い縛って痛みに耐えるカリンの歯の隙間から、ごぼごぼと空気の泡が漏れる。
波はカリンの頭上にある帆にも打ちつけた。巨大な質量を持つ波を、帆がまともに受け止めて、木製のマストはミキミキと不気味な音を立てる。想定外の力に、たやすくマストはへし折れた。
折れたマストの先が頬をかすめて、頬に引っかき傷ができる。その痛みに驚いたカリンは、空気を吐きだしてしまう。入れ替わりに、海水が口の中へ侵入してきた。
恐怖に心臓を鷲掴みにされたとき、ようやく波が過ぎ去り、頭が水上に出た。咳をして海水を吐きだし、肺に新鮮な空気を取りこむ。息を整えながら甲板を見回すと、船上にはカリンを除いて誰もいない。みんな波にさらわれてしまったようだ。ヘルメスの遺品である剣が、主を失って甲板に転がっている。
座っているカリンの頭がある位置で、マストは折れていた。カリンが立ち上がると、背中と腕で作られた輪から、すっぽりとマストが抜けた。後ろ手に手首は縛られたままだが、これで自由に動ける。
グズグズしていると、また大波がやって来るかもしれない。恐怖に背中を押されて、カリンはヘルメスの剣を目指して走った。
甲板には膝上まで海水が溜まっており、水をかきわけて走るのは、ひどい労力を要した。太ももの筋肉が焼けるように熱くなり、酸欠で視界が滲む。
なんとか剣の前まで、たどり着いたカリンは、足を使って剣を鞘から抜いた。それから、手首を縛っているロープを刃に当て、擦りつけるようにして上下に動かす。
船長の体を貫いた剣の切れ味は本物だった。波に襲われても、カリンをマストに縛りつけて離さなかったロープが、容易く切れた。
手を自由に動かせるようになり、ホッと一息つく。厚い雲が割れて、雲の切れ目からは、太陽が顔を覗かせていた。波も穏やかになり、嵐は過ぎ去ったようだ。
豪雨が止んで、クリアになった視界の先に、島が見える。嵐の影響で、カステア王国へ押し戻されていたらラッキーだったのに、残念ながら見えたのはシオン島だった。
このまま船に乗っていたほうがいいのか? それともシオン島まで泳いだほうがいいのか?
どちらにすべきか迷うカリンであったが、最初から選択肢は一つしかなかった。
なんと船が沈んでいる。どうやら先ほどの嵐で、船のどこかが破損して、そこから浸水しているらしい。
この船と運命を共にする気はなかった。カリンはローブを脱ぐと、それを小さく折り畳んで、腰紐で縛りつけた。それから、腰紐のもう一方の端を、足首に結びつけて、海へ飛びこむ。海底へ沈んでいく船と別れたカリンは、シオン島を目指して泳いだ。
王宮内にあるプールでよく泳いでいたため、泳ぎは得意だった。しかし、海で泳ぐのはプールで泳ぐのとは違う。たえず波に泳ぎを邪魔されるし、冷たい海水に体力を奪われもする。この海域には鮫も生息しているため、いつ鮫に襲われるかわからない恐怖で、精神的にも疲弊した。
なんとかシオン島まで泳ぐことができたカリンは、砂浜に仰向けになった。すでに太陽は水平線の彼方に沈み、夜が訪れようとしている。あと少し遅かったら、闇の中でシオン島を見失って、海の藻屑になっていたかもしれない。
寄せては引いてを繰り返す波の音が、カリンの意識を深海へ連れ去る。力を使い果たしたカリンは、気を失うようにして眠りに落ちた。




