9話:約束
それは、永劫とも思えるほど、遠い昔の記憶。
天空に浮かぶ白亜の城、アーク・レヴィナが、まだ多くの天空人の笑い声で満ちていた頃。
若き戦士であったゼキエルは、主である天空神に絶対の信頼と敬愛を捧げていた。彼女の主は、誰よりも優しく、気高く、そして美しい女神だった。
城の訓練場で、ゼキエルが一人、槍の鍛錬に励んでいた時のことだ。
風を切る鋭い音だけが、静寂に響く。その背中に、穏やかな声がかけられた。
「その槍筋、ますます磨きがかかっていますね、ゼキエル」
「――っ! 我が神!」
声の主が天空神であると気づいた瞬間、ゼキエルは動きを止め、その場に深く膝をついた。
「お気づきもせず、無礼を働きましたこと、お許しください」
「顔を上げなさい。貴女の忠誠心は、誰よりも私が知っています」
天空神はそう言って優しく微笑むと、ゼキエルの槍の穂先にそっと触れた。
「ゼキエル。貴女のその槍は、民を守るために使いなさい」
「はい……! このゼキエルの全ては、我が神と、この楽園のために!」
力強く頷くゼキエルに、天空神は満足そうに頷き返した。
穏やかな神の声が、今も耳に残っている。
しかし、その平和は魔族の侵攻によって終わりを告げた。 激化する戦況の中、天空神は民と楽園を守るため、自らが出陣することを決意する。
出陣の日、ゼキエルは主の前に跪き、必死に食い下がった。
「我が神よ! どうか私もお供させてください! この槍は、貴女様をお守りするためにこそ!」
しかし、天空神は静かに首を横に振る。
「ならぬ、ゼキエル。万が一、私が破れた時、このアーク・レヴィナを守る者がいなくなってしまう。お前が最後の希望なのです」
その言葉に、ゼキエルは唇を噛み締めるしかなかった。主の覚悟の重さを、痛いほど理解してしまったからだ。
「必ず帰る。それまでこの聖域を頼む」
「――御意に。この命に代えましても、必ずやお守りいたします。ですから、どうか……どうか、ご武運を」
涙を堪え、絞り出すようなゼキエルの声に、天空神は一度だけ悲しげに微笑み、そして戦場へと旅立っていった。
神が残した最後の約束。 ゼキエルは、その言葉だけを信じて戦い続けた。しかし、神が帰ることはなかった。
「――さて、と。 第二ラウンドを始めようか」
不敵な笑みと共に、私はゼキエルを睨み据える。
フィアの血から得た『竜神の権能』。その力が、私の全身に漲っていた。肌には硬質な鱗が浮かび、指先は鋭い爪へと変化している。背中のクロは、禍々しい竜の頭部となり、喉の奥でゴロゴロと唸り声を上げていた。
脳内に響く無機質なアナウンスが、この力の正体を教えてくれる。
──権能:【竜神の権能】──
竜神の力を限定的に行使する権能。発動中は、肉体が部分的に竜へと変化し、竜に由来する強力な能力が使用可能となる。
まるで自分の体ではないみたいに、軽い。これなら、いける!
「不浄なる魔族が……!」
ゼキエルが光の翼を羽ばたかせ、無数の雷の槍を放つ。さっきまでの私なら、防戦一方でなすすべもなかった攻撃。
でも、今の私は違う。
「見える……!」
ゲーマーの集中力が、ゼキエルの攻撃パターンを予測する。最小限の動きで、全ての槍を回避した私は、地面を強く蹴り、一気に距離を詰めた。
「なにっ!?」
驚愕に目を見開くゼキエルに、私は竜と化したクロの顎を向ける。
「お返しだ!」
《ガァァァァッ!》
クロの口から放たれたのは、全てを飲み込むような漆黒のブレス。神聖な光を放つゼキエルの翼に直撃し、ジュウッと音を立ててその光を霧散させた。
「ぐっ……!」
初めてゼキエルの表情に焦りの色が浮かぶ。絶対的な防御を破られた動揺。
「調子に乗るな、魔族が!」
体勢を立て直したゼキエルが、光の槍をその手に形成し、凄まじい速度で私に襲いかかってくる。
アドレナリンがドバドバ出ている私は、戦闘にのめり込んでいるのか、その一撃がスローモーションのように見えていた。
「こんなに動けるの初めて! あはははは! 楽しい!」
最小限の動きで槍を躱し、私はゼキエルの懐に潜り込む。そして、竜の力で強化された爪を、無防備な彼女の胴体に、深く突き立てた。
「がっ……!」
ゼキエルの口から苦悶の声が漏れる。
その威力にゼキエルは吹き飛び、壁に直撃する。
「クロ! ──竜神砲!」
《ガァァァァッ!》
漆黒のブレスが、瓦礫に埋まるゼキエルへと放たれる。
激しい轟音と共に爆風が私の肌を撫でる。
「どうよ! 竜の威力は!」
すると、黒煙の中から眩い光柱が天井へと突き出す。
「この地は我が守る……我が主との約束!」
光柱の中から、ゼキエルが姿を現す。
その体はボロボロで、息も荒い。だが、その瞳には怒りと悲しみ、そして凄まじい覚悟を宿した、狂気の色が浮かんでいた。たった一つのものを守るため、全てを擲つ者の顔だった。
「この一撃で、終わらせる!」
ゼキエルは、最後の力を振り絞りかのように、天に掲げた両手に光を収束させる。
「クロ、最後の一撃だよ!」
私はクロに最後の命令を下す。
《御意に!》
私の背中にいる竜の頭部が、さらに巨大な、城の柱ほどもある漆黒の竜の鉤爪へと姿を変える。邪神の魔力と竜神の力が融合し、その爪先が空間を歪ませるほどの黒いオーラを放っていた。
「──邪竜神爪!」
「なんて……凄まじい魔力なの! 流石うかな様!」
フィアは祈るように両手を合わせ、キラキラと眩い視線を送ってくる。
「――天よ、我が主に力を! ──天神槍!」
ゼキエルの光は、やがて神々しい巨大な槍へと姿を変えた。
私たちは同時に駆け出し、最後の一撃を放つ。
漆黒の竜爪と白光の神槍が激突し、玉座の間を閃光と轟音が支配した。
「この地は誰にも、傷つけさせない!」
拮抗の末、凄まじい破壊音と共に神槍に亀裂が走る。
「──いっけぇぇぇぇ!!」
神槍は砕け、勢いを失わない竜の爪が、ゼキエルの体を薙ぎ払った。
勢いよく吹き飛んだゼキエルは玉座に叩きつけられた。
光の翼を失い、力なく玉座に崩れ落ちるゼキエル。長い、長い戦いが、ようやく終わった。
「はぁ……はぁ……つ、疲れた……」
権能の反動か、急に体が鉛のように重くなる。倒れ込みそうになる私を、フィアが慌てて駆け寄り、抱きしめてくれた。
「うかな様! お見事です……!」
「フィア……。 あ、ありがと……」
フィアの胸は柔らかくて温かい。
「最高品質の枕や……好き……」
「えぇ! うかな様!?」
フィアは顔を真っ赤にして、あわあわとなにやら照れている。
(美少女の照れ顔……ごちです)
クロは呆れたように《やれやれですね》と呟いている。
私は、フィアに背負われながら倒れているゼキエルにゆっくりと近づいた。
意識が朦朧とする中、ゼキエルはうっすらと目を開け、私の姿を捉える。その瞳には、もう敵意はなかった。
「我が、神よ……」
ぽつりと呟き、彼女は静かに意識を失った。
とりあえず、勝ててよかった。もう戦わなくていいんだ。 正直、引きこもりにこの激務は向いていない。 私は心の底からほっとした。
《この者の処遇はどうされますか?》
クロの言葉にフィアが反応した。
「うかな様! どうか、寛大なご慈悲をお与えください! 私はこの方が悪い人には感じられません! お願いします!」
「う〜ん。 そうだね、私もそんな気がする。 それにラスボスを仲間にするのは熱いよね」
《まったく……とんだ甘い邪神ですね》