4話:邪神の権能
背後からぬるりと伸びた、一本の黒い触手。爛々と輝く、血のような赤い瞳。突如として現れた異質な存在に、その場にいた誰もが動きを止めた。
「な……なんだ、貴様は……」
騎士団長が、恐怖を押し殺した声で問う。その問いに答える者はいない。
当の本人である私は、内心それどころではなかったからだ。
(やばいやばいやばい! 私、何やってんの!? なんでこんな最前線に躍り出てんの!?)
さっきまでの、腹の底から湧き上がってくるような怒りはどこへやら。今はただ、四方八方から突き刺さる視線が痛くて、恐ろしくて、今すぐ逃げ出したい。
そう、忘れていた。私は筋金入りの引きこもりで、重度の対人恐怖症だったのだ。
ローブの人たちは顔を隠してたし、異世界転生のテンションで舞い上がってたけどまともな人と話すとかむり~!
「……クロ~」
《はっ》
「……この状況をなんとか穏便に解決しておくれよ~」
《……はぁ。承知いたしました》
盛大なため息が脳内に響いた気がした……ごめんて。
私の丸投げを受けたクロは、まるで舞台役者のように、自らを天に突き上げた。
《刮目せよ、人間ども。我が主は、この世界に終焉をもたらし、玉座に君臨する邪神である。人間如きが頭が高いわ!》
「邪神だと……」
騎士たちの表情が一瞬にして困惑の色に塗り替えられた。
「──ちょっ、なにぶっこんでんだあんたはー!」
私は人目も気にせず思わずツッコミ入れる。
《相手は敵意むき出しです。ここで一発ぶっこんどかないと格好がつきません》
だが、騎士たちの反応は劇的だった。「邪神」という単語を聞いた瞬間、彼らの顔から血の気が失せ、明確な殺意がこちらに向けられる。
「魔族のみならず、邪神まで……! 総員、構え! 奴も竜の子もここで排除するのだ!」
《ほら、どうせこうなります。奴らを殺すしかありません》
「ほらじゃないよもう! 私この世界に来てから戦い過ぎじゃない? 全部邪神に生まれたせいだ……」
《戦っているのは我です》
「そうでしたね。 じゃあ今回もよろしくね」
クロの冷静なテレパシーに、私は覚悟を決めるしかなかった。
雄叫びと共に、騎士たちが一斉に襲いかかってくる。触手もといクロが縦横無尽に舞い、その刃を的確に弾き、時には鎧ごと殴り飛ばしていく。それは戦いと呼ぶには、あまりに一方的な蹂躙だった。
竜の少女はその光景にただうっとりと目を輝かせ、感嘆の声を零していた。
「すごい……これが邪神様の力」
(正確にはクロの力です……本体、私はな~んもしてません)
熟練の騎士が放つ剣戟は、まるで子供の遊びのように軽くいなされる。屈強な鎧は、紙細工のようにへこみ、ひしゃげていく。一人、また一人と、騎士たちが戦闘不能になっていく光景を前に、騎士団長の顔から血の気が引いていく。
「こ、この化け物が……!」
騎士団長は奥歯をギリリと噛み締めると、覚悟を決めたように聖剣を天に掲げた。
「もはや、これを使うしかあるまい……! 我が命に代えても、邪神をここで滅する!」
騎士団長が、持てる魔力の全てを注ぎ込んだであろう、渾身の一撃を放とうとしていた。聖なる光が、剣先に収束していく。
(あ、やばい。あれは即死攻撃だよ絶対!)
ゲーマーの勘が、最大級の警報を鳴らす。
その瞬間、私の脳裏に、ずっと気になっていたスキル名が浮かび上がった。
──【邪神の権能】
それは、私がこの世界に転生してから、頭の中のステータス画面に最初から存在していた、謎のカテゴリ。これまで吸収によって得てきたスキルとは明らかに一線を画す、いわば邪神固有の必殺技なのだろう。
そして、そのカテゴリの中にたった一つだけ表示されていたスキル名。
その名も【邪神玉】
説明文はなし。消費MPは『ALL』。いかにもヤバそうな響きに、これまで使うのを躊躇っていたが、この状況なら話は別。こんなの使わないと勿体ない。
「クロ、ちょっとアレ、試していい?」
《! ……御意に》
クロは地面に突き刺ささり、私をがっちりと固定する。
私は小さな両手を、ゆっくりと前へ突き出した。
「ずっと気になってたんだよね、この技……【邪神玉】!」
応えるように、両手の間に全てを吸い込むような漆黒の点が生まれる。それは音もなく、しかし、周囲の大気を根こそぎ喰らいながら、渦を巻いて収束していく。森のざわめきが消え、風が止み、まるで世界から音が失われたかのような絶対的な静寂が、その場を支配した。
刹那、みるみるうちに膨れ上がった闇の球体は、家一軒を丸ごと飲み込むほどの大きさになり、自らの質量で空間を歪ませていた。
これ絶対やばいって、興奮するんだけど! 私に今超楽しい!
「光に焼かれ滅びろ邪神!」
「いっけええええええ!」
私の絶叫と、騎士団長が放った渾身の一閃が、静寂を破った。
聖なる光の奔流が、闇の球体へと突き刺さる。
一瞬の拮抗。
いや、それすらもなかった。希望を具現化したかのような聖なる光は、絶望そのものであるかのような漆黒の闇に触れた瞬間、いともたやすくその輝きを失い、まるで闇に喰われるように打ち消した。
「そ、そんな……馬鹿な……」
騎士団長の最後の言葉は、誰の耳に届くこともなかった。
私の邪神玉は、聖なる光を飴玉のようにたやすく砕き、騎士団長とその背後にいた騎士たちをまとめて闇の中へと消し去った。
悲鳴も、絶叫も、断末魔すらも存在しない。
そして──。
轟音。衝撃。
森の木々が根こそぎ薙ぎ払われ、大地が一直線に抉り取られていく。遥か彼方の山に着弾した闇が、大地を揺るがすほどの大爆発を引き起こした。
山は平地に変化し、周囲の大木が吹き飛ぶほどの衝撃波が私の顔の皮膚を引き伸ばす。
「あばばばばばばばばば」
クロが私を固定しているせいで、もろに喰らった。
その凄まじい光景と、魂まで空っぽになるような感覚を最後に、私の意識はぷつりと途切れた。
「──あ、やばいかも……」