3話:邪神様の逆鱗
次に目を覚ました時、私たちは全く知らない森の真ん中にいた。鼻をくすぐる濃い土の匂いと、小鳥のさえずり。天蓋を覆う巨木たちの隙間から、木漏れ日がきらきらと降り注いでいる。
「……ん? ここ、外? やった、あのクソ長い洞窟、ショートカットできたってことじゃん! 私、天才か?」
転移の衝撃でガンガンする頭を抑えながらも、私は自分のファインプレーに悦に入る。
《結果的にそうなっただけで、主がまんまと罠に引っかかっただけですが》
「結果が全てでしょ、結果が! いい、クロ。私の世界にはこんな言葉がある……終わりよければ全てよし」
《阿呆の言葉ですか?》
クロの呆れたようなテレパシーを受けていると、不意に物音が聞こえてきた。さほど遠くない場所から、金属がぶつかり合う甲高い音と、大きな爆発音が聞こえてきた。
「うわ、絶対なんかイベントやってるじゃん。面倒くさいから絶対近づかないでよ、クロ。死亡フラグだから」
《しかし、主よ。危険は事前に察知しておくべきかと》
クロはそう言うと、私の返事を待たずに、すっと茂みの奥へ伸びていく。数秒後、何食わぬ顔で戻ってきた。顔はないけど。
《テオクラティス聖王国の騎士団に、一人の竜の娘が追い詰められておりました》
「ヤニクラ?竜の娘?なにそのゲーマー心をくすぐる単語は!」
《かなり面倒なことになっているようですが》
「なに言ってるのクロ!絶対星五キャラだよ!この目で見ないなんて勿体ない!行くよ!」
私の好奇心が、踊る様に顔を出す。クロに案内されるまま、音を立てないように、こっそりと茂みから様子を伺った。
開けた小広場で、十数人の騎士たちに囲まれ、一人の少女が膝をついていた。太陽の紋章が刻まれた純白の鎧は、聖王国の騎士団のものだろう。彼らが向ける剣先には、敵意と侮蔑が満ちていた。
囲まれている少女は、ボロボロの旅装束をまとっていた。幻想的な白銀の髪は土に汚れ、気品のある顔立ちは悔しさに歪んでいる。その金色の瞳は、爬虫類のように縦に長く、髪から覗く小さな角が彼女が人間ではないことを示していた。
「私の予想通り……SSR美少女だ」
少女は深手を負い、荒い息を繰り返しながらも、決してその瞳の光を失っていなかった。
「たとえこの身が最後になろうとも……母様から受け継いだこの血と誇りだけは、決して屈しない!」
「誇りだと? 魔の穢れた血を持つ貴様に、そのようなものがあるはずもなかろう。我ら聖騎士団の使命は、貴様ら魔族を根絶やしにし、この地を神の御心に適う清浄な土地とすること。そのための生贄となれ」
騎士団長と思わしき男が、少女を侮蔑の目で見下し、己の正義に酔いしれるように言った。
少女の姿に、私は学校の教室で孤立していた、かつての自分を重ねていた。周りから奇異の目で見られ、誰も理解してくれなかった、あの息苦しい日々。
ほんの一瞬だけ、胸がちくりと痛んだ。
《……主よ。いかがいたしますか?》
いかがとは、助けるか助けないかを問われているのだろう。
クロの問いかけに、私はふるふると首を横に振った。
「いや、無理でしょ。どう見てもこっちのレベルじゃ歯が立たない。あの子には悪いけど私も死にたくないし、関わったら面倒なことになるだけ。行くよ」
私は自分の身の可愛さから、即座にその場を離れることを選択した。
だって、しょうがないじゃん。私はさっきこの世界に生まれたばかり。常識もなにも知らない。実はあの女の子が超悪い奴って可能性だってある。今はこんななりだが、私も元は人間。騎士たちが正義の味方かも知れない。
それに、私は前世となにも変わっていない。最弱の引きこもり。かっこいい主人公ではないのだ。
「もう無駄な抵抗は辞めろ魔族よ。お前の母親や一族のように泣き叫んでさっさと死ね」
騎士団長と思わしき男が、少女の髪を鷲掴みにして嘲笑う声が聞こえた。
「……黙れ」
少女の唇から、か細く、しかし、燃えるような憎悪を孕んだ声が漏れた。
「貴様らのような下衆に……母様たちの誇りが……分かって、たまるものかぁっ!」
叫びと共に、少女は最後の力を振り絞って騎士団長の足に噛みつこうとした。だが、その哀れな抵抗は、騎士の無慈悲な蹴りによって、いとも容易く中断させられる。
「ぐっ……!」
地面に叩きつけられ、泥を舐める少女を見て、騎士たちは腹を抱えて笑った。
「所詮は半端者の竜もどき。神に作られし我ら人間様に逆らうこと自体が間違いなのだ」
騎士たちの下卑た笑い声が、森に響く。
「母様……みんな……」
「見ていられないな。魔の血に汚され、生きるのも辛かろうに。貴様のような者が生きているのは、世界の穢れだ。我らが慈悲で、その無価値な生から解放してやる!」
私の足は言葉とは裏腹にその場に縫い付けられていた。
《主?》
脳裏に蘇るのは、前世の記憶。クラスメイトたちの無邪気な悪意と共に投げつけられた言葉。
──『ていうか、毎日そんなに辛そうなのに、なにが楽しくて生きてるの? 正直、見てるこっちが可哀想になるんだけど』
身体が弱く、なにをしても要領の悪い私は普通に生きることさえままならなかった。三日に一度は熱を出し、運動をすれば必ず怪我をする。みんなにとっての普通は私にとっての苦行だ。
なにが楽しい?なにも楽しくなんてない。辛そうだとか可哀想だとか思ってもいないのに勝手に憐れむな。
私を六畳間の薄暗い世界に縛り付け、生きているだけで周りを不快にさせる罪なのだと思い込ませ、心を殺した呪いの言葉。
憧れた普通。憧れた生活。
私はあの女の子の辛さを知っている。誰よりも、私が一番その痛みを知っている。
神様でもいい、一度くらい誰かに助けてほしかった。
腹の底から、灼けるようななにかがせり上がってくる。それは、今まで感じたことのない、純粋な殺意にも似た、どうしようもない怒りだった。
ぴしり、と周囲の空気が凍てつく。私の足元から、黒い影がじわりと染み出していくのが見えた。
「……ねえ、クロ」
私の声は、自分でも驚くほど低く、冷たく響いた。
《! 主よ……その力は……》
「私って神様だよね。なら……なにをしても許されるよね?」
私の言葉に、クロが歓喜に打ち震える気配がした。
直後、騎士団が一斉に竜の娘へと襲いかかる。
「魔族よ、死ねぇ!!」
「──うっ!」
だが、その刃が彼女に届くことはなかった。
まるで空間を歪めるかのように、音もなく現れた液状の漆黒の障壁が、全ての攻撃を飲み込んでいく。
「な、なんだこれは!?」
「ひ、ひぃ!」
剣も、魔法も、その黒い壁に触れた瞬間に無力化されていく。
何が起きたか理解できず、恐怖する騎士団。
やがて、その黒い壁がゆっくりと、内側に向かって渦を巻くように解かれていく。
その向こうから姿を現したのは──背中から黒い触手を生やした赤眼の少女だった。