銀の裏地の裏ばかり
一月前のことである。
「……なんですって?」
宿屋の端の部屋、広々とした一室で椅子に腰掛けた青年は眉間に軽く皺を寄せながら、テーブルの向こうへ聞き返した。太い蝋燭が三本載る燭台がゆらゆらと照らすそこには、老人と呼んで差し支えのない、疎らな白髪頭の男が立っている。
本来ならばもっと赤みが強いはずの顔色は悪く、目の色も濁っている。吐く息にはなんともいえない、臓腑の病特有の臭気があった。
「メルシェルーまで手紙を届けてほしい」
低く、重たい声で彼は繰り返した。
ややくたびれてはいるが上等の仕立ての上着に手を突っ込み、拳を叩きつけるようにテーブルへと下ろす。重い革袋がテーブルを打った。革袋を握ったままのがっしりした手の薬指には、細い銀の指輪とその倍以上の太さの金の指輪が嵌められていた。意匠は蔦葡萄、黒ずんではいるがなかなかの品だ。
仕事人と依頼人。一言で言い表せば、二人はそういう関係である。
「どうしても届けてほしいんだ、頼む」
男が願いを繰り返す。仕事を請け負う立場の青年――”運び”は、肩から腕まで一本に強張った男を見上げ、青い目をゆっくりと瞬いた。蝋燭の赤い火に照らされた彼の双眸は、炉にくべられた金属か宝石のように光っている。
もう一度瞬きして、足を組みかえる。腕置きにあった手がテーブルの端に載せられた。薄い唇が動く。
「私、もう別の仕事頂いてるんです。それで此処に来てるんですよ。他に頼んだ方が早いでしょうや」
「此処の奴らは信用できない。だから、アンタに頼むんだ」
艶消し革の手袋に包まれた右と左の指が緩く絡むのを、誰も見ない。相対した二人は互いの顔だけを見て言葉を突き合わせている。押しても引かない、弛まない声同士の張り詰めた応酬だった。
「そう仰られましてもね、ちょっと大仕事なんですよねぇ。ざっと一月、領から出るわけに行かなくて」
宿に着いた直後に訪れた客人に言いながら、二十代半ばの若輩は考えていた。大仕事のこれからの算段、知り合いに頼まれた大派閥ロイネン傘下カルニー党への魔石輸送、人間の配置、書類の申請、メルシェルーまでの距離、革袋の中身の多すぎるだろう代価、目の前の男の名前と、誰に何の手紙を届けたいのか……
何かを考えながら他を喋るのは彼の得意とするところだ。
思考を弄する部屋の主、椅子に座る、灰色の髪に白い肌の淡い色合わせの中央民族を見下ろし、男は絞り出すように喉を震わせ口を開く。その目は相手とは対称的に、深く黒々としていた。
「終わってからでもいい」
聖堂で何かを祈るようなその声に、運びは眉を上げた。
そこで初めて絡んでいた視線が逸れ、彼の目は横の燭台に注がれる。揺らめく三つの炎。溶けた蝋が滴り、木肌のような凹凸を新たに作り出す。
暫し、場を支配したのは沈黙だった。先程まで拮抗していた声がじりじりと四隅の暗闇に染みこんでいく。
不意に、結ばれていた手が解ける。運びが肩を竦めて立ち上がった。
「そんなに仰るんでしたら、終わったらお伺いします。それでよろしい?」
首を傾げると伸びた髪が肩に触れる。絡むそれを指先で解しながら、彼はテーブルの横を回って男へと歩み寄った。
身長差は頭一つばかり。北方に相応しい肉付きの良い偉丈夫を見る目は、袖に、襟元に、顔にと上げられた。再び二人の眼が合う。
「でも、他の運びにした方がいいですよ、アンタ様、あんまりよろしくなさそうですもの。――前金は結構です。他のアテが見つかった時面倒でしょう。やるとき頂きますから」
テーブルに張り付いたように動かなかった革袋を痩せた腕が引き剥がす。男の胸へと押し付けて、運びはすっと指を立てた。
「終わったら、伺いますが。やるとは限りませんから、そこのところは誤解なさいませんよう。では、三十日後に」
囁くように忠告し、指はそのまま、扉の方へと向けられた。男は重々しく頷き、緩慢な動作で踵を返す。運びは立ち去るその背をじっと見ていた。
「頼む」
男は最後にも、痛切な声で言った。
§
「我らの仕事と、我らに!」
笑う声が弾ける。次いで、杯のぶつかり合う音。喉を焼く火酒が波を打つ。
騒音と呼ぶに相応しい音が湧き起こる。注意して聞き分けるとそれは、自分たちの仕事振りを讃える男たちの声だった。そして、酒と料理を望む声。
一息に乾した杯に間髪入れず差し出される瓶の口。音を立てて注がれるのは、平素彼らが愛飲しているものより一つ格上の香りの良い物だ。
仕事明けの人々が集う酒場は活気と熱気に満ち溢れていた。
「いやぁ、いい仕事だった。最高だ」
「これで愉快に年が越せる。さすが大党傘下は払いがいいな」
十余名の”運び”と”護り”、多少非合法な、悪党相手の魔石輸送に従事した者とその護衛。仕事を共にしていた彼らの公用語には北の強い訛りがある。そして皆同じように、しっかりと肉のついた体で、赤い肌だった。その中に一人だけ混じるどれにも当てはまらない男は、騒がしい彼らに囲まれながら黙々と料理を胃に落としていた。
灰色の髪、銀を透かしたように見える青い瞳。リーシルと名乗る運びの彼だけは仕事の成功を喜ぶのではなく、フォークを銜えながら何かを考えている顔だった。
「おい、やに静かだと思ったらがっついてんな」
一言なにか伝えると、二言にも三言にもなって返ってくる。口先が達者な”運び”たちの中でさえそう揶揄される男だ。口を閉じているのを見咎められて、手にしていた杯にぶつけられるのは同じ形の杯ではなく瓶の側面。まだ半分ほど残っていたところに危うい勢いで追加が注がれる。
「食え喰え。野っ原で行き倒れしそうなナリなんだからよ。しかしなんだ、何か気に食わないか」
また一人、これは護りの男が横にどかりと座ってリーシルの肩を叩く。二枚三枚と重ね着していてもそうと知れるほど薄い肩である。叩かれた勢いを消せないままやや前に傾いで、今度は自分から酒杯をぶつけて彼は笑った。空いたフォークで羊の臓物詰めを突きながら口を開く。
「いいえ、上々でしたよ。受取りにも素直な奴が来たし、雪が降るのが遅くて助かりましたやね。あと、ついでにアンタ様がたの腕も良かった。ヘマがないのは運がいい。お上の大党様も上機嫌でしょうよ」
何処のものともつかない奇妙な言い回しはよく通る声で、騒々しい中でもテーブル一つ分を支配した。トントンと述べ、ついでと付け足すと、酒気帯びの笑いがどっと起こる。それに機嫌よく肩を揺らして、彼は軽く杯を煽った。
水増しは野暮と、この地方の慣習どおりの混じり気のない琥珀酒は最初と同じように喉に流し込まれる。生白い喉そのままに、リーシルは杯を高々と掲げた。
「幸運な我らに。――で、更に腕利きの私はこれからまたお仕事なんです。まだ契約未満ですけどね。さっさと喰って出向くに限る」
乾杯の文句に皆が揃って杯をぶつけていく。音を上塗りするかのように歓声が上がり、会話が再開される。会話というよりは、歓声に続く野次か合いの手のようだったが。
「これだけ稼いでまだ足りない! 貢ぐ相手でもいるのか?」
「そういうお前はそろそろお家に帰らないと、愛想つかされるんじゃあないかぁ」
「違いない。お前には勿体ない嫁だ」
「僻むなやもめ野郎!」
「リーシル、アルバネン党か? 幹部たちが声をかけて回ってるそうだが」
「ありゃ、何を運ぶんだ。また軍に目をつけられそうな代物じゃないだろうな」
「そりゃ存じ上げません。私だってずうっとアンタらといたんですから。この仕事に邪魔だからって、弾いてたでしょ、あの木っ端党は」
酒が回った者たちがどつき合いを始める傍ら、詮索に返されるのは愛想笑い。この町を根城にする小悪党の名前に首を振りつつ、鴨肉の切れ端を大皿から攫って口へと押し込んだリーシルは立ち上がる。
「それじゃ、ちょいと出てきますよ」
肉を噛みながらぐっと手袋を直した手は、椅子の横に立てかけてあった銀の棒を握る。涼やかな銀の輝きは剣を持たない彼にとっての唯一の武器、細かな蔦模様が浮き彫りされたイルジィエル硬銀の魔法具だ。
腕の長さほどの杖で横に群がる連中をすいと退け、黒いクロークを羽織った運びは颯爽とその場を後にする。見送った人々は付き合いの悪さに暫く文句を言ってみるのだが、それも酒の肴に過ぎない、他愛のないやりとりだ。小言はすぐに宴の音に飲みこまれた。
§
酒場の熱気の届かぬ寒空の下、運びは町の中央から少し外れた屋敷の前に立った。
二階建てのどっしりとした建物はこの辺りによくある黄褐色の石造りだったが、他に見る家々よりも一回りか二回り大きい。町の中ではかなり優良な部類の、いわゆる一等地にある住宅だ。
裏にある林と池も一人が所有する土地で、所有者の名はスティアン・ベランジェ。優れた肖像画家として貴族たちに持て囃され、町の誰もが羨む生活を送ったが、妻の死去と共にその財産以外の幸福を失った男。息子にも見放され一人になってなお、身に余す財と屋敷を手放さない老人。使い道のない財産に固執し、人を嫌い、家事手伝いの一人も雇わない男だと、リーシルは聞いていた。
古今東西で聞く悲劇のパターン。腐るほどの悲劇、時には惨劇を見た運びにしてみれば特別に同情する相手でもなかったが、一月前に自分の元を訪れたスティアンの言葉を彼は一言一句違わず覚えている。町の”運び”たちは信用ならないと言ったのも、自分に仕事を依頼するときの血を吐くような声音もだ。
リーシルはもうほとんど、この仕事は自分の手の内だと感じていた。仕事終えた後の心地よい高揚の中で一月前をつぶさに思い出し、その手触りにそう直感した。スティアンは他の誰にも仕事を頼んでいないだろう。ならば、よほどの悪条件でなければ、領境を超えた隣町のメルシェルーまで赴き、手紙を届けてやろうと思っていた。
夕方を少し過ぎたところだが、北の地はもう随分と暗く寒い。灯りと銀の杖を手に、訪問者はほうと息を吐いた。
扉まで歩み寄った彼は錆びついた叩き金を起こして、少し迷った。結局二回、少し間を空けてまた二回、と扉を叩く。これはこの地より南の町での作法だった。この町では皆、続けて三回打つ。聞きなれない音は一種の証明になる。
「運びです。仕事のお伺いに参りました」
酒場とは違い風鳴りもない静かな場所で、その声は確かに中まで届いたはずだった。しかし、家はしんと静まっている。顔を上げ、耳目を欹てた彼だったが、たっぷり時間を置いても何かが動く気配はなかった。正面から見える窓は全て暗い。普通であれば留守であると考えるのが妥当なところだった。
叩き金を握っていた右手が離れ、つ、と扉の表面をなぞって下に落ちる。取っ手に手をかけて押すと、僅かな抵抗の後に扉は開いた。
隙間だけ作って動きは止まった。目尻の下がった目がすうと細められる。
彼は一歩踏み込む前に手を入れ替えた。灯りと共に左手にあった銀の杖を右手に、順手になるよう移す。魔力を秘めた銀の表面が、薄く翳った月の光を冷ややかに弾く。
扉は慎重に押し開かれる。
家の中は冷えていた。短い廊下を抜けて次の扉を開けてもそれは変わらず、客人を迎え入れるには向かない空気が流れている。やはり、部屋に灯りはなかった。
部屋自体は片付いている。と、形容するよりも、物があまり無い。広い居間には暖炉とテーブル。椅子が五つ。棚はほとんど空で、それなりに目の利くリーシルがみても価値のある物は見当たらない。テーブルの上に置かれた、柔らかい曲線を持った色硝子の水差しの中にも水は無かった。
暖炉を覗くと死灰だけが積もっている。掻き出した後も見当たらないので、リーシルはその上に手を翳してみた。冷えた指先に、いくらか、微かな温もりが触れた。
床に敷かれた毛足の短い絨毯を杖の先が撫でると、埃が攫われて細い線が残る。暖炉脇から上へと続く階段にも埃が溜まっていた。人を雇うこともないという独り身の男の家とすればそう違和感のあることでもないが、それにしてもかなりの物である。多額の財産を所持している者の家とは言い難い。重なり合う足跡が模様のようでもあった。
書斎に続く扉を開けようとしたリーシルの手が止まる。取っ手の上にはまた埃が積もっている。廃屋のように年季の入った様子に、スティアンは此処に住んでいないのでは、との考えが過ぎる。
が、彼はすぐにその考えを打ち消した。あれほど熱心に仕事を依頼してきた男が気軽に居場所を変えるとは思えない。
リーシルは目線を天井、二階へと移して、ためしに近くの椅子を蹴り上げてみた。テーブルにぶつかって派手な音がする。しかしその後は静まり返って、何もない。
静寂の中に身を置く時間は長くは無かった。彼は黒い裾を引いて二階へと上がり、杖をやや上向きに構えながら左右に続く廊下を確認する。それぞれに三つ、部屋が連なっているのが見えた。二階の雰囲気もさして下と変わりなく、金持ちの家と言うよりは、何年も放って置かれた廃屋のようだった。
彼が右を選んだのは直感だった。迷わず一番奥に立ったのもそうだ。
灯りを翳してみると、扉の表面には何かの板を打ち付けて剥がした痕が残っている。そこにもいくらか埃が付いているのを見ると、最近のものではない。扉に馴染む古びた取っ手の上には埃がない。それだけを確かめ、リーシルは静かにその扉を開けた。
部屋の中は他よりも明るかった。
一瞥した運びの動きが止まる。黒衣に覆われた胸が微かに上下して、深く、息が吐き出された。
「……だから言ったじゃねぇかよ、もう」
月明かり差し込む明るい部屋の真ん中に、家の主は居た。苦悶の表情で床に横たわるスティアン・ベランジェの頬は暗い灰色に見える。
他と同じように物が少なく、埃の多い部屋の中で彼は死んでいた。刺されたり、殴られたりしたような血の色は無い。それが運びを安心させた。
胸に当てられた手には、運びが一月前に見た革袋がある。約束の日、もう一度彼の元へ赴こうとした痕跡だった。
溜息を吐いて頭を掻きながら、リーシルは部屋をぐるりと見渡す。やはり碌な調度品は無かったが、外から光を取り入れる大きな窓の下には蓋付きの箱が置かれていた。親子鹿と葡萄の彫刻があるその箱の表面には、埃が積もっていない。
抱えるほどの大きさに反して軽い蓋を開けると、底には乱雑に手紙が重なっていた。
「――ポール・ベランジェ……息子か」
上にあった物を取り上げ、小声で表書きを読み上げる。癖の強い曲がった文字は、それでもそうと読めた。他をいくつ取り出してみても、宛名は同じ名前、似たような文字の列。全部で十一通。どれも父に憤って家を出たと噂の息子の名が記され、同じ大きさに畳まれ、同じように糊封がされている。そうして似通ってはいたが、紙やインクの色味から書かれた時期の開きも窺えた。
運びは全てを箱から取り出し、端を揃えて懐から取り出した紐で纏める。慣れた仕事は瞬く間に終わり、手紙の束はクロークの下へと押し込まれた。
そうして品を整え箱の蓋を戻そうとした時に、違和感がリーシルの動きを止める。数秒静止した彼はすぐにその原因に思い至った。
箱の外と中とで明らかに高さが違うのだ。
運びの手が底板の四隅を順番に押していくと、最後で底板が外れて浮く。”運び”には馴染みの、十年ほど前に貴族の間でも流行った二重底の仕掛けだった。
底板を取り出すと、先程取り出した手紙よりも厚手の紙で作られた、形式ばった封書が現れる。宛先は他と変わらずポール・ベランジェ、文字もスティアンのものだったが、一通だけ明らかに様子が違う。
最後の手紙にリーシルが手を伸ばしたそのとき、ガンガンガン、と無遠慮な音が立て続けに響いた。ポール・ベランジェの名に触れていた指先が跳ね上がる。
「ベランジェ、居るんだろう! いいかげんにしやがれ!」
間を空けずに、ドスの効いた声が外から怒鳴った。堅気ではないと自己紹介するような声だ。アルバネン党、という単語がリーシルの頭に浮かぶ。
一通だけ上等紙で書かれた手紙。管理を怠ったという以上に、物の置かれていない家の中。借金の取立てのように叫ぶ悪党の声。運びを当たっていた悪党たち。リーシルは何故スティアンが町の運びたちを使いたがらなかったのか、大凡理解した。予想していた事でもある。
「はいはい、こちらにいらっしゃいますよ、くそったれ」
小さく毒づきながら、横に置いていた火を消し、手紙を懐へと滑らせる。一段暗くなった中でも慣れた作業は手際よく、底板と蓋とを元のように戻し、消えた灯りと杖を手に――バタンと乱暴に扉を開ける音がしたのに慌てながら、固くなったスティアンの手から革袋を引き剥がす。爪が食い込むほどきつく袋を握った左手には銀の指輪が薄く光っていた。
リーシルは急いで窓を開く。真っ先に目に飛び込むのは葉を落とした樺の木の列。その奥に凍りついたように静かな水面が見える。下を覗きこむ。この高さだと降りると言うより落ちることとなる。積もっている雪が薄いことは前の仕事と今までの道で十分に知っている。横の壁に手を這わすが石の凹凸は少なく、とてもではないが、伝って降りれる類ではなかった。また前を見るが、木の枝は腕を伸ばしても届かないところにある。
大股で踏み込んで、謙虚さの欠片もなく進む足音は二つ。やりとりをする声も二種類。どちらも柄が悪く、悪態を吐きながら――階段に足をかけた。運びと、スティアンの死体がいる部屋に近づいてくる。
彼は振り返って部屋の出口を見た。大きい扉ではない。廊下もそう広さがあるわけではない。さすがに音だけで体格までは知れないが、平均して体格のいいこの地の男たちと揉み合って打ち倒す自信が、彼にはない。声の主が女だという確率はすこぶるに低い。
舌打ちした彼は窓枠に足をかけ、二階に辿りついた足音を聞きながら息を吐き出した。白く濁る。口を結び、瞬きを一回。
手紙を抱えた懐を押さえ、風を切るほどの勢いも無く銀の杖が振られた。淡い緑色の光芒が尾を引いて闇を裂き、輝く先端が木に据えられて二秒。時期外れの草いきれが、風一つ分だけ池の傍を吹きぬける。
その奇妙な匂いの後、ざわりと葉音が満ちて樺の太枝が窓辺へと差し伸べられる。黒衣の裾を翻し、後ろ手に窓を閉めた運びは古い森でもなかなか見ない大樹の枝を伝い、幹を伝い、転げるほどの慌しさで地上へと降りた。華麗とは言い難い着地と、彼の背で最後の扉が開くのとは、ほぼ同時。
運びの足が地についた途端、魔法の大樹は息絶える。残っているのは元の細い樺の木だけで、草の匂いも既に無い。
スティアンの死体を前にして騒ぐ声を小耳に、リーシルは振り返らずに走った。宿へと駆け込み、出迎えた店番から鍵を捥ぎ取り、荒々しく荷を整えて休む間も無く部屋を出る。
目を丸くしている馴染みの男に、鍵と財布を同時に投げ渡す。
「おい、なんだってんだ!」
「そりゃ私が言いたい。馬借りますよ」
「今から?」
クロークの下に杖帯を締めていた運びは顔を上げ、驚く相手に笑って口を開いた。小袋から取り出した白い魔石の欠片を燭台の火に近づけ、光が移ったのを確認すればカンテラの底に転がす。
「急用でまたライグデムに。悪いけど馬は組合通して返します。色付けたから勘弁してください。あと部屋、残ってる物は好きにしていいですよ。世話んなりました」
厩舎のある方、渡した財布、今まで借りていた部屋、と順番に指差し早口に告げて、支度を終えた彼は用意された馬具を奪い、早歩きで外の厩舎に向った。
魔石灯を掲げて馬の様子を確かめ、元気な栗毛を見つければ手際よく鞍を載せる。急いではいても丁寧な動きに、馬は機嫌よく従った。
通りに出たリーシルは周囲を見渡してみたが、まだ誰かが追ってくる様子はなかった。馬に跨ってようやく落ち着いた彼は安堵の息を吐き出し手綱を繰る。
――スティアンの死体を見つけた彼らは、目的の品がないことにすぐ気づいただろう。一人は部屋を掻き回し、もう一人はすぐに仲間たちに連絡するはずだ。そして屋敷の裏手に続く足跡を見つければ、当然、誰かが既に持ち去ったと考える。
勿論、誰か探しが始まる。彼らが欲しているのはスティアンの財産、今となっては遺産だ。必要なのは相続の権利を裏付ける品。国に定められた形式の、本人の手による文書と、証明になる物品。多くは装飾品などの、家督と共に継承されるはずの何か、だ。
それは今全て、運びの懐にある。
「此処の奴らは信用できない。……誰に強請りの悪党の息かかってるか知れないから、ですかね。奴らもなかなか狡いことやるよになりました」
最初で最後の会話、生前のスティアンが発した言葉を舌に乗せ、彼は馬を急がせた。
町を根城にする悪党の一派、アルバネン党。有り体に言えば彼らは、スティアンが貯えていた財産を搾取していた。屋敷にまるで物が無かったのは彼らの為だ。
資金調達、と言えばまだ聞こえは良いだろう。古くからの貴族家には手出ししづらいが、成り上がりの富豪には、彼らは躊躇しない。商売話を持ちかけたか、非合法な娯楽でも提供したか、何か脅しの材料でもあったか。手はいくらでもある。ともかく、大した後ろ盾も無いアルバネン党はそうして金を作っていた。
ただ、一番の旨みである土地と家だけは、スティアンが手放そうとしなかった。最後の財産、家族との思い出のある場所を悪党に蹂躙されるのは、彼には我慢ならなかった。相続の法を盾にスティアンは逃げ続け、受け渡しの書状を書くことはせず、家督継承の品が何であるかも秘匿し続けた。
しかし、それも長続きはしない。老人の体には不幸が折り重なるように、病が根を下ろした。
……ただし、スティアンが最近まで無事でいたのもそれが理由である。脅し、痛めつけて奪う必要はないとアルバネン党は判断したのだ。待っていれば彼は息子に、屋敷を譲るための文書を書くに違いない。それを掠め取ってやればいい。そう、手緩く小心な悪党たちは考えた。
果してその通りになった。だが、スティアンにとっての幸い、アルバネン党にとっての厄介は、その駆引きの間に割って入る者たちが居たことだ。別の党からの依頼を受けた運びが、輸送のルートを確保するべく町を訪れた。
それからスティアンは約束の一月後まで抵抗を続けた。一月、けして短くはないその時間、いつ心臓を止めるか分からない病と闘いながら、いつ痺れを切らすとも分からない悪党たちを相手に、かの男は家を守りぬいた。成果は運びの手元にある。その成果を間違いなく息子のポール・ベランジェへと届けることこそ、スティアンが運びに望んだ仕事だ。
顔に泥を塗られた気分のアルバネン党がもはや損得も気にせず、林檎よりも赤い顔で邪魔をしにやってくる――考えて、リーシルは口角を上げた。彼は酒の席で木っ端党と言った小党風情に、自分の仕事に触れさせてやる気は微塵もなかった。
距離だけで考えれば、メルシェルーまで行くには一晩馬を走らせれば済む。が、その街道の間には北方領と西方領の領境が寝そべっている。領境越えには特別な通行証が必要で、この町でそれを申請している暇はない。そして、朝まで待っていれば身と手紙に危険が及ぶのは明らか。運びはすぐに進路を変更し、最善の道を選ぶ。
リーシルの手にあるのは、昨日までの依頼の為に取られた、夜明けまで有効の通行証だ。行き先は北方領内の隣町ライグデム。西に街道を一本。ライグデムもまた、領境を隔ててメルシェルーと隣接している。
一度ライグデムに入り、追っ手を撹乱して、メルシェルー方面への通行証を申請、速やかに西方領へと抜ける。
少々の遠回りになるが最善の手だ。通行証を馴染みの所で偽造れば二日かかるところも半日で済み、およそ一日でメルシェルーに着ける。
運びはちらと町を振り向いた。遠くの高台で列を成して走り出した者たちがいるように見える。その辺りがアルバネン党の住処だと、運びは知っていた。今更遅い、と彼は思う。
「ライグデムまで。ええ、また、ですよ」
確認の緩い門を抜け、馬は街道へと駆け出した。
黒い裾を靡かせるその背を追うように、山の向こうからは灰色の厚い雲が広がり始めた。雪を蓄えてやってくる冬の覆い。それすら厭うように、運びは馬を急き立てた。
§
白けた冬の朝が照らす部屋に、男は居た。
本来ならばこの時間、赤々と燃え盛っているはずの暖炉は静かだった。残り火はもうすぐにでも潰えそうに燻ぶっている。部屋は静かに冷え始めていた。男が握る手も冷たい。
蹄を打ちつける音が大通りからやってきて、彼は息を止めた。
隣で眠る妻と子に目を向ける。白い光の中、寝台の母子は実に美しく、幸福そうに見えた。
「……」
蹄の音は家の近くで止まったようだ。戻ってきた静けさの中、男はゆっくりと強張りを解く。部屋はまだ、息の形を示すほど冷えてはいない。彼は横に置かれていた杯を手に取った。
この静寂が永劫に続けばいいのだ。そうすれば、傍らに眠る家族も、自分も、ずっと穏やかに居られるのだ。永遠に。この静寂は救済だ。
男はそう夢想していたが、安寧は容易く切り開かれた。
蹄の音に代わって靴音が近づいてくるのだ。
そして、扉を叩く音が響く。さして乱暴なわけでもないのに、家自体が震えるようだった。
男にはさっきまでの音と、その音と、全てが一続きに思えた。どれ一つ欠けては成り立たない、完璧な順番の組み合わせのようにさえ思えた。彼は子供の頃に持っていた宝箱の縁を飾っていた、切れ目のない美しい組模様を思い出していた。その模様の一筋は蔦となって伸び、果実を実らせ、蓋に描かれた獣の親子の恵みとなっていたのも、同時に思い出した。
「”運び”です」
過去の夢想に構うことなく、音はまだ続いていた。
壁を隔ててもはっきりとするその声がいつも手紙や荷を持ってくる運びの声とはまるで違ったので、男は無意識に顔を上げてしまった。
「ポール・ベランジェ氏に手紙をお持ちしました」
「手紙?」
見計らったように続きを述べる声。呟きが男の渇いた喉から漏れる。
自分はもう二度と言葉を発しないだろうと思っていた男にとって、それは驚くべきことだった。彼は慌てて俯き、手元に眼を向けた。
――自分は何をしているのだ。応じてはいけない。聞こえてくる声は知らぬ男のものだ。よからぬ輩の罠に違いない。そうでなかったとして、この平穏を乱す者には違いないのだ。無視をして、いなくなるまで、黙って、
「スティアン・ベランジェ氏からの手紙です。開けていただけませんか」
小さな反復は、外の男には聞こえていない。それだのに、まるで会話のように、言葉はぴたりと見事な時間に発される。懐かしい父の名前に、男、ポールは三度現実に引き戻される。
もし見たものがいるならば、まるで魔法のようだったと証言するに違いない。気づけば彼は杯を置き、玄関まで歩き、扉を開けていた。冷たい扉の感触に怖気づくこともなく、彼は外の世界に連れだされたのだ。
冷えた空気が一斉に強張った体を取り囲む。
外には男が立っていた。四角く切り取られた見慣れた外の風景を背に、寒さにくすむその中に、不似合いなほどはっきりと印象的に佇んでいる。冬空の下を駆けてきた彼の肌は白く、それがまた驚くほど、黒衣と共にくっきりと映えている。
時が止まったようなポールの錯覚は、澄んだ色味の青い目とかち合ったところで終わった。強く冷たい風がクロークと髪を揺らし、男が発した明瞭な声が、彼を急激に現実に引き戻す。
「ポール・ベランジェ、ですね。ライグアーデのスティアン氏からお預かりしました」
「父からの、手紙?」
自分よりも若く小柄な男が口にするのに、ポールは萎縮したように小声で繰り返した。運びは頷き、手にしていた手紙を受取人へと差し出す。ポールはまた、無意識に手を出していた。
手に触れた予想以上の厚さと重みに彼は驚いた。分らず屋の父親の送る手紙など礼儀も思いやりもない薄っぺらな物だろうと、彼はどこかで考えていたのだった。
「これを、父が」
しかし今届けられた手紙は、親が子に送る物としての膨らみを確かに備えていた。ポールは茫然とした。こんな朝にこのような物が届けられるのは、一体なんの冗談だろう、と。
彼の心に、波が訪れた。スティアンによく似た顔が痙攣のように震える。最期ぐらい、などと思って立ち上がってしまったのが愚かだったのだと、少し前の自分を呪った。彼の手の上で手紙は恐ろしく重たく感じられた。
彼はこれから起こる出来事が自分を奈落へと突き落とすことを予感した。既にその暗き底に座したと思っていた彼にとって、予感はこの上ない絶望だった。
そして現実は予感に沿う。
「私書十一通。確かにお届けしました。それと、」
堪える間もなく、畳み掛けて重なる現実にポールの目が大きく見開かれる。驚愕というよりは、愕然の表情だった。白い白い紙の色が黒い目を射る。柔らかな語り口が処刑の鐘のようにポールの心を揺さぶった。
「こちら。私は開けられませんので予想になりますが、継承印も同封されているかと――」
「どうして、」
滔々と述べていた運びは、絞り出された声に手元へと落としていた顔を上げた。今の声はあの声に似ている、と思った次の瞬間には、更に高い位置まで持ち上げられている。
「どうして、もっと早く来なかった!」
運びの胸倉を掴みながら、ポールは怒鳴った。口が裂けるほどの勢いで咆哮した。
何故、との思いが彼の胸を、喉を、押しつぶすように溢れ出た。凄まじい、吐気に似た不随意の激情が彼の体を占拠する。
怒りと悲しみの入り混じった声。いつもどおりの日常がたゆたっていた昼前の通りに、それはよく響いた。
「あいつはいつだってそうだ! 遅いんだ、遅いんだよ! 母さんのときもそうだった! 手遅れなんだよいつも! 遅すぎるッッ!」
息苦しさに顔を歪めながら、リーシルは絶叫する男を見下ろした。腰に吊った杖を握ろうとして思いなおす。
動いた彼の右手には財産相続の為の文書があった。真っ白のそれが光の只中、黒い服の横でひらと揺れる。糊付けされた封の上には蝋が垂らされている。その左に遺産相続文書の文字が、右にベランジェの署名が滲んでいる。
「そんなもの、今更、何の役に立つ!? お前だって――お前、何処で何をしていたんだ! どうして間に合わなかった! もっと急いで、これを届ければ、さっさとこれを届ければ、怠けやがって、くそっ、」
声は止まない。痩せた体が地面へと投げ出され、嫌な衝撃を足に得た彼の眉が寄る。それでも手を離れなかった封書をポールが捥ぎ取る。
こんな物、とポールは封書に手をかけた。雪でも踏むような音がした。体裁の整った手紙は彼の手の中で滅茶苦茶に引き裂かれ――細い金の軌跡が震える男の手と地を繋いだ。
手紙の隙間から零れ落ちた金の指輪は澄んだ音を立てて跳ね、転がって、ポールの足元で止まる。上に手紙の残骸が折り重なった。
「お前も、あいつも、俺を不幸にしようと思ってこうしてるんだ!」
通りに、何事かと驚いた住民たちが姿を見せ始めた。遠巻きに向けられる視線に気づかず、彼は焦点を定めない目で震えていた。彼の顔は酷く蒼褪めている。
リーシルはまだ立ち上がらずにその様を眺めていた。
これほどの大声を聞いても、男の慟哭を聞いても、彼の妻と子は目を覚まさなかった。当然である。
スティアンの屋敷と同じように物の少ない家の中、置かれた毒の杯の三つのうち二つは既に乾されていたのだから。
「あいつは死んだのか? 死んだのか! あの野郎は、俺に詫びもせず、一人で、勝手に――今更!」
虚しく静まった家を背に彼は叫んだ。その瞳が束の間だけ運びを捉える。父親によく似た目だった。眦の深い、吊りあがった、黒々とした。激しい感情を煮詰めて湛えた。
それを受け止め見返すのは、対照的に澄んだ、青硝子のような瞳。運びは記憶の中で、似て非なる二つの眼差しを重ね合わせる。白く冷えた頬が緩み、微笑みが表面へと浮かび上がった。
「そうですよ。――もっと喜ばれたらいかが?」
いつの間にか、鈍色の雲が町を抱き込んでいた。
雪のちらつき始めたその下、擦り切れそうな薄着で一人立ち竦む男に、仕事を終えた運びは吐き捨てた。
どの雲にも銀の裏地がついている
(たとえ不幸な出来事でも、良い面はあるものだ)
けれどその表地ばかり見るときもあるだろう。