とある公爵令嬢の日記①
《664年10月4日》
『よっ』
『や』
『今日はこれとかどうかな?』
『どんな小説?』
『なんか、ものすごい美人な平民が、貴族のお坊ちゃんたちに取り合われる謎作』
『面白そうね。読むわ』
――サラからまた小説を薦められた。
私が気に入ったと伝えた小説に合わせて、徐々に傾向を定めてくれていっているみたい。
私は、人と人が何らかの幸せな関係を紡いで終わる話を特に好んだ。
現実の人間関係もこれくらい簡単であればいいのだけれど、残念ながら現実は甘くない。
他の人もそう思っているから、その反動がこの類の小説を生み出す原動力になっているのだろう。
《664年12月16日》
『今日は居ないのね』
――サラも私も毎日蔵書館に通うわけではない。
だから、行けば必ずサラに会えるわけではなかった。
会う約束もしなかった。
会えなかった日は新しい小説を探して、次に会った時にサラと分かち合うのも楽しいから。
……私から約束を言い出すのが恥ずかしかったとか、本当に少しだけど、そういうのもあるかもしれない。
《665年2月30日》
『サラ、ウェルガモット夫人の新しい小説を見つけたわよ』
『ほんと!?何系!?」
『残念ながら恋愛物じゃなかったわ』
『てことはわたしのアタリか!やったね』
――私からサラに薦めることも次第に増えていった。
サラの好みに合わせた小説で喜ばれるのは、私自身の好みに合う小説を見つける事よりも嬉しかった。
《665年4月1日》
『サラ、何してるの?』
『え、小説読んでるだけだけど?』
『いやそうだけど、そうじゃなくてその体勢』
『?変かな?楽でいいんだけど』
――サラは、結構だらしない面が多いと分かってきた。
既に示し合わせずとも集まるようになっていた隅にある窓際の一角。
いくつかの椅子とソファーが設置されているそこで、ソファーの座る部分に頭を乗せ、床にお尻を付けて、足で欲張り領主のように領地を広げる姿は、私には到底真似できる気がしない。
そういうところに、私は段々困らされることになっていった。
《665年6月5日》
『サラ、あんまり高いところに上ると見えるわよ!?』
『あー、んじゃルナが見といて』
『へぁ!?』
――梯子を使って高いところにある日記を漁っていたサラに、スカートなんだから気を付けていう意味の注意したら、心臓が止まるような返事をされた。
言われるままにスカートのひらひらの内側に意識を注いでしまう。
実はバランスを取るために太ももをプルプル痙攣させているのを知り。
そこから先を見るまでの一瞬は、本当に見て良いのか、罠なのか、その合間を駆け巡るように凄まじい速度で思考が加速し。
見といて、というのが誰か来ないか見といて、という意味だと気付き、全身から熱が噴き出した。
私はなんて勘違いを、いや、どう考えてもサラの言葉足らずが悪い。
私は言葉通りにしただけで、恥じるものなど何もない。
ないないないないないないない!
《664年7月27日》
『ふぁあ……眠くなってきた。やっぱソファーは駄目だね』
『私は眠くならないし、硬い椅子よりこっちの方が好きだけど』
『そっかぁ。それじゃ、ちょっとだけ寝るからいいタイミングで起こして』
『え?えっ!?』
――ソファーに並んで小説を読んでいたら、突然サラが私の方へ倒れてきた。
理解を置き去りにする目の前の現実。
私のふとももの上に、サラの頭がある。
私を枕に、サラはすぐに寝息を立て始めた。
呆然。
困る。
その柔らかそうな頬に顔を近づける。
花とは違う、コクのある甘い香りが広がっている。
これは、マズい。
こんな無防備なサラと触れ合うなんて、どうにかなる。
私は、私自身の呪いを自覚するようになっていた。
結婚相手に異常な執着を見せる呪い。
どういうわけか、婚約者である王子ではなく、友達であるサラに対してその兆候が表れたのだ。
それが、暴走しそうになる。
味わいたい。
リンゴのような頬を。
骨ばった鎖骨を。
頬、鎖骨ときて、服の下に隠れているあらゆる部分を。
美味しそうなのだ、サラは。
その表面に舌を這わせたら、きっとこれまでに食べたどんな高級料理よりも、甘美な味がする。
駄目だ、そんなの絶対に気持ち悪い。
すれば、二度とサラは私に心を許さなくなる。
いや、サラは呪いのことを知っている。
私が公爵令嬢であることを明かせば、呪いのせいにしてしまえるかもしれない。
色々考えが巡った。
けど、やっぱり駄目だ。
呪いであっても、サラに望まない嫌なことを受け入れろだなんて、言いたくない。
命令と取られれば、私たちは貴族と平民の間柄に成り果ててしまう。
まるで私を警戒していない呑気な寝顔。
それを守るのも壊すのも、私次第。
サラの無垢を守りたい、壊せない。
耐えよう。
肩の温もりに手を伸ばし、落ち着きを得る。
過分に望まなければ、このかけがえのない温もりがしばらくは私の物となるのだから。
『もうパンはいいよ~お母さん……じゅる』
『………………………』
私の指は、耐えることを選んだはずの私の理性は。
気が付けば彼女の口元に伸びていた。
雫が私の服に垂れるよりも早く、掬い上げていた。
駄目だ駄目だと言い聞かせてきて、結局私は駄目だった。
甘い味がした。
サラの唾液が甘いことを世界で初めて知ったのは、私だ。
多分神様ですら知らないはずだ。
そういえば、この蔵書館は神様が見守っているらしいけど、今のも神様は見ていたのだろうか。
飴のように自身の唾液に溶け合わさるその曖昧な境界を、舌でなぞる。
罪にも似た味を限界まで大切にしながら、何が見える訳でもない天井を仰ぐ。
飲み込み、全身を脱力させる。
ふわふわとした虚脱感があり、あると思われた罪悪感と自己嫌悪はさほどでもなかった。
何も無かったと今の内に思い込めば、その通りにできる気がして、私も暫し目を瞑った。
これでしばらくは耐えられるだろうし、サラの味を知りたいなんて思わないでいよう……。
《665年9月3日》
――誕生日。
ヴィクタレオン王子に呼ばれた。
王子が用意したパンが美味しかったので、珍しく嫌な気分にならなかった。
贈り物の香水も一級品で、香りが強くも上品なので、付ければその香りでサラへの欲望を抑えられるかもしれない。
明日試してみよう。
《665年9月4日》
『あー、暑いよねぇ。いつの間にか日差しが直撃だ。ていうか、あっつー……』
――……そういうのは困るって、いい加減分かってくれないだろうか。
言えない私も悪いのかもしれないけど。
でも言えないものは言えない。
暑さを和らげるために服の襟元を手で伸び縮みさせるサラは、私からすれば目の前で最高級の肉を焼かれながらその煙を扇で扇がれているようなものだ。
紛らわす為の香水は無意味だと判明した。
程よい塩気も確約されていて、魅力的で、目を離せなくなる。
見すぎて怪しまれ、私の言いたいことをサラが当てるという話になり、私の首元に顔を近づけられた時はもう全部バレていておしまいなんだと思った。
これからどうなるのか、軽蔑されるか、それとも。
それともがあれば、私は、サラと。
『ずばり、貴女が言いたかったことは』
『昨日がルナの誕生日だったんだね!』
……結果は、サラの答えは的外れで、でも昨日誕生日だったのは事実だったから、正解ということにして、本当の私の気持ちが伝わることはなかった。
伝わってたらどうなっていたのか、気になるけれど分からないことは一旦忘れる。
代わりに、その後飲んだサラの飲みかけのリンゴジュースの濃厚な味は忘れないでおこう。