4.遡る出会い
果ての見えなかった王妃教育は、コツさえ掴めば滑り落ちるように終わりへと向かった。要は、国の顔たる王を支える国政の技能を全て身に付ければいい。王妃になってしまいさえすれば、あの恐ろし気な社交界で頂点に君臨する必要も無くなるので、それが学習意欲を掻き立てた面もある。
その甲斐あって私は13歳から15歳の時間に、いくらかの暇を得たのである。
とはいえ、その余った時間を何に使えばいいか、よく分からなかった。
人付き合いは好んでする質ではないし、かといって一人で時間を使い潰すのも難しい。
結局私の自由なる最初の一日は、屋敷の自室で窓の外をボーッと眺めているだけで終わってしまった。あらゆるものを詰め込んで生きてきたこれまでに比べて、圧倒的な無が心に満ちた。……こういうのを心の安息と呼ぶのだろうか?否。空っぽを持ち歩いて笑えるほど、私は鈍くは居られない。
屋敷に居ても仕方がないのは分かった。なら、明日は外に出てみよう。窓の外を流れる雲は、茜色に染まっている。そんなものにさえこれまでは気付けていなかった。外に出さえすれば、私は何かを得られるかもしれない。
私が一人で出歩ける範囲は、警備が行き届いた王都内に限る。その行動範囲内で暇を潰せそうな場所となれば、貴族街と平民街の間にある神律蔵書館が一番に頭に浮かんだ。
過去の王妃たちの日記でも読めば、将来的にも何か役に立ちそうだ。そんなただ無為に過ごすだけではない動機も思いついたので、私の足は機敏に蔵書館を目指した。
そこで、私の未来をひっくり返す出会いがあるとも知らずに。
蔵書館に入るのは初めての事だった。
外から見ても大きいけれど、中はそれ以上に広く感じられる。増え続ける日記を保管するため、女神ナクラマクラーシャが空間を捻じ曲げていると入り口の説明書きにあった。
神の御業に神聖なものを感じそうになった時、私の側を幼い子供たちが笑いながら走り抜けていった。神が常に見守る場所なので、託児所として利用する例もあるらしい。蔵書館の使い方としてはおかしいけれど、ナクラマクラーシャ様は平和を司る神でもあるため、容認して慈愛心から子供たちを見守っているのかもしれない。
私は騒がしいのは好まないため、子供たちの遊んでいる場所から離れた。案内のようなものも見当たらず当てもなく動き始めたため、ここからどうするべきか見当もつかない。
ふと立ち止まって周囲を見回す。どこを見ても、目に映る物は同じ。日記の詰まった棚に挟まれ、食べ過ぎたみたいに胸の辺りが詰まる。今、私は数千の全く知らないものに囲まれている。どれであろうとそれを開けば、誰かが生きた足跡を辿る黒い線が交差を描いている。それをイメージするだけで、燦然とした期待が肺に溢れそうになった。
ここなら、心を満たすことなんて簡単なことなのかも。
「こんにちは~」
「ひょあ!?」
感傷的なところに突然声をかけられた。想定外で、情けない声で反応してしまう。
「あ、ごめん、驚かせちゃったね」
「……」
わざわざ私を選んで話しかけて来る意図への警戒で睨もうとするも、今は変装中で誰も私が公爵令嬢だとは思わないだろうから、あまり警戒は必要ないと思い至る。行き場を無くした睨みは変な声を出させられた恨みに乗せて相手に向けた。
相手は同い歳くらいの少女だった。変装後の私と同じ黒髪は平民にありふれた色だ。同年代の貴族子女は全員把握しているので、髪色に関係なく平民なのは確実だ。なんというか、その瞳は貴族特有の疑心と値踏みを糾ったものと違い、警戒するのも馬鹿らしくなるような呑気な雰囲気に揺れている。
「なんか、フラフラしてたから気になって。見ない顔だし、ここに来るの初めて?」
「えぇ……。まあ」
「そっか。何か探してるんだったら手を貸そうかなーって思ったけど、余計なお世話だったかな」
私の態度が友好的でないと判断されたのか、少女は苦笑いを浮かべて半歩退いた。
……多分、ここで相手にするのを止めれば、彼女とは二度と関わることは無い。枝から落ちた木の実が川を流れてゆっくり別の地へ運ばれていくのを、岸から見届けるように。
私は川面に身体を伸ばす。まだ掬い上げるのが間に合う距離で、見たことが無いその木の実がどんな味で匂いで感触なのか知らないままなのが、勿体なく感じた。知ってどうなるのか、そこは自分でもよく分からない。
「その、探している日記があるのだけれど、どこか分からなくて。是非教えて欲しいわ」
「お、そっかそっか。何分この物量なので任せなさいとは言えないけど、力になるよ」
手を伸ばすと、柔らかくて温かい感触が返って来た。ポッと心に夕日が灯るようで、現時点では少なくとも無益には感じられない。
「それで、探している日記とは?」
「歴代王妃の日記よ」
「うわ。いや、うん。そう来るのね」
頼もしく感じていた少女の反応は、一気にグラついたものになった。なんというか、知っているけど言いたくないみたいなものが、うわ、には含まれていた。
「あれは止めといた方が良いよ。君は多分私と同じで成人してないでしょ。まだ早いと見るね」
「あなたは読んだことがあるみたいね。成人してないのに」
「し、知らなぁいよ……」
少女は横に並んだ日記の内一つを指先でカタカタ弄び始めた。どういうごまかし方だ。平民の感性は謎だ。そういえば、平民にため口で話されていることに今気づいた。案外不快なものではないことに驚く。
まあ、今の反応でどんな内容なのかは察しがついた。私たち公爵家生まれの人間が書いたものであるのと合わせて考えて。
公爵家は、特別なのだ。王を支えるのに十分な能力を生まれ持っているのが確約されていて、その素晴らしい能力の反面、呪いも代々受け継いでいる。結婚相手に対して異常な執着心を抱く呪いだ。過剰に付き纏ってくる王妃に耐え切れず、精神を病ませこの世を去った王もいたという話もある。
以前、王城の中庭で叔母上、現王妃が現国王の背中をヒールのかかとで踏み躙っていたのを見かけた。どういう流れでそうなったのかは分からない。ただ、その時目の当たりにしたものが他人事ではないと思うと恐ろしい。
ああはなりたくないと婚約者であるこの国の王子も思っているらしく、よくご機嫌取りのお茶会に誘われる。気持ちは分からないでもない。けれど、そういうのは私には逆効果だった。今のところ私は別に王子に対して執着的な感情を持っていないし、接触を図られる度にむしろ嫌な気分が募るだけである。私は王子に対して国に定められた婚約者として以外の感情がなく、呪いがあまり表出していないように思われる。
……話が逸れたけどともかく、望んだわけではない呪いに振り回された先達の日々が綴られていると思われる日記を。
「あなたが読んだのなら、私にも読む権利はあるわよ。案内しなさい」
別に、取り立てて読みたい訳ではなかった。歴代の王妃の日記を読みたいというのも、ここに足を進めるための動機の一つにすぎず、その気持ちは何だか薄れてしまっていた。
でも、この子に止められて、はい読みません、となるのは気に入らなかった。貴族は平民を従わせなければならない、ずっとそう言い聞かされてきたせいかもしれない。
しかし、私に従うべき目の前の平民は、そうしなかった。はい分かりました、と歩き出さず、天井を見上げて面白いことでも思いついたように口元を曲げていた。
「んー、じゃあこうしよう。わたしがここで一番おすすめのしょー……日記を渡すから、それを読んでも面白いと思わなかったら、君の望む場所へ案内するよ」
後にして思うと、彼女の『同じ日記を共有して読む仲間が欲しい』という願いが一方的に反映された提案だった。少なくともその時点では私に何の利点もない内容だ。平民に従うなんて、それだけで面白くない話だ。
でも。
彼女の期待の熱は、これまでに触れたそんなものよりも温かくて、私の中の期待と溶け合った。
「……分かったわ。あなたが言う日記を読ませて」
ついそう答えてしまってから現在に至るまで、私はいくつもの日記を彼女から薦められ、読むことになる。
彼女が書棚から抜き取ってくる日記はどれもでたらめな内容で、おかしくて、面白かった。読み終わった後、その特に良かった箇所を言い合うのもまた楽しかった。
貴族とか平民とか、すぐに関係無くなっていった。平民にはありふれているらしい友達というものを、私は得たのだ。