漆の歌
「そう言えば父さん、お爺ちゃんのお見舞いに今度いつ行くの?」
キッチンで塾の数学の宿題をしていた健翔が思いついたように健司に問いかける。
「ああん? 病院からくたばったって連絡が来てからでいいんじゃねえか?」
リビングでノートパソコンをいじっている健司が突き放すように言う。
「それはあんまりじゃん。いいよ、来週の練習試合の後にでも僕が行ってくるから。何か言付けある?」
「別に。」
健翔は大きな溜息を吐き、またプリントに向き合う。
余命半年って言われて、もう十ヶ月か。健司はノートパソコンを畳み、腕を頭の後ろに回し座卓の上で大きな伸びをする。
母親を亡くしてからの父親は酒浸りとなり、自分が渡米し失意のうちに帰国した頃にはすっかり立派なアル中に成り下がっていた。
これがかつて、文部省の事務次官候補の筆頭だった男の成れの果てなのか。
中学受験を控えた幼い息子の手を握りしめ、憐れさと憎しみの入り混じった感情を息子に悟られまいとした事を健司は思い出す。
父を区の紹介の施設に入所させ、ボロアパートを引き払い自分達は中古のボロマンションに入居した。
健翔が無事名門神宮中学に入学した頃には父の状態もだいぶ落ち着き、何十年かぶりにまともな会話が成り立つようになった。
以来、細々と父と子の関係は続き、それに孫と祖父の関係も構築されていく。健翔は祖父が大好きで、暇さえあると祖父の元へ遊びに行き、色々な話をしていたらしい。
特に。
東大卒の高級官僚だった頃の話は健翔のお好みで、帰ってくると如何にお爺ちゃんは凄かったのかをウザいくらいに健司に語るのだった。
「まあ、父さんもアメリカの大学で博士号取ったくらい凄いんだけどね。僕もお爺ちゃんや父さんみたいになれるのかなあ」
なんだこの謙虚なガキは。本当に俺の子なのか? 生前の明美に時々愚痴ると、
「貴方そっくりのナイスガイじゃない。ウフフ」
健司は後ろを振り返り、亡き妻の遺影を仰ぎ見る。
なあ明美、コイツだけは見守ってくれ。俺やオヤジのように、失意のうちに失墜することのない人生を送らせてやってくれ。
明美の遺影がピカリと光った気がした。
それにしても。
最近の健翔は妙に生き生きとしてやがる。
さては〜
「何お前、彼女でも出来たのか? ああ?」
大学教授らしからぬぞんざいな口調でキッチンに投げかけると、健翔の筆がピタリと止まる。
「んだよお、どんな子だよ。ああ、あれか、母さんソックリなんだろ、ええこのマザコン野郎が!」
健翔は父を一瞥し、
「母さんには、似てないかな。容姿も性格も。」
健司は手を叩きながら、
「マジか、お前ホントに彼女出来たんか! うわ、赤飯だ赤飯!」
「何それ意味不明。それに、まだちゃんと付き合った訳じゃ…」
「てか、どこまで行ってんだよ、もうしたのか? コラ!」
健翔はムッとして、
「下品。そんな質問には答えないし、もししても報告しない。」
健司はプッと吹き出し、
「んだよ、まだか。とっとと押し倒しちまえよ、何ならここでよ。ギャハ… ん? あれ? お前なんで赤くなってんの? あれれ、あれーー まさか、既にこの家に連れ込んだとか? うわ、マジか! 見た目によらずオマエ、やること早えなあ」
「そ、そんなんじゃ… ただ夏休みに一回、ここで一緒に宿題しただけで、その…」
「てことは、勿論押し倒した、と? っくー、俺の子にしては手の早いマセガキめ…」
「してないし! てか、父さん下品! 彼女に失礼!」
不意に健司は遠い日の記憶が蘇ってきた。
天然フワフワのお嬢様、いやお姫様。
地頭はいいくせに馬鹿なふりをして。
見たことないくらい美しく、そして気高く…はないな。実に庶民的で気さくで。うん、そうだった、そうだった。
今頃あのお姫様は何をしてんだろう。きっと良いとこの旦那とセレブに暮らしているんだろうな、こんな俺と違って。
藤原桃香。
この名を思い出す時、必ず胸がチクッと痛む。
一緒に出来たばかりのディズニーランドに行った。一緒に水着を買いに行った。そして一緒に湘南に行くはずだった。
ん?
そう言えば、
「おい健翔、お前友達と夏に海行くとか行ってなかったっけ?」
健翔はビクリと体を動かした後、硬直する。しばらくして、大きく深呼吸してから、
「行かなかったよ。」
「ふーん。おい、それって、その子と一緒に行く筈だったんじゃあ…」
健翔はキッと健司を睨め付け、
「その質問には答えられない。もうこれ以上彼女の話は聞かないでくれないかな。」
そうなんだ…
何だ、お前もそうだったんだ。
俺もお前も、海に行く約束を反故にされたのか。ったくどんな遺伝なんだよ…
健司は深い溜息を吐く。
「でもさ。今でもその子と繋がってんだろ。いいなあ、お前は。」
二度と口を開かない予定だった健翔は父のいつもならぬ物言いに若干心を緩和させ、
「いいなあって、父さんはその子とそれっきりになったの?」
「おいお前それ聞くのか? ったくクソリア充め。教えねーよ」
別に聞きたくもないし。そう呟くと健翔はペンを取りプリントにむかう。
「で? それっきりなの?」
三十分後。健司が思い出に耽っていると、健翔が憐れみの問いかけをする。
「ん? まあな。」
「どんな人? 綺麗な人?」
「超絶、な。」
「嘘っぽい。」
「バーカ。何なら証拠見せてやろうか!」
「えなにホント写真あるのほんと見せて見せて見たい見たい」
「なに食い付いてんだよ。ったく色ボケのガキが。」
よっこらせ、と立ち上がり、もはや宿題を放棄しリビングに駆け寄る息子に苦笑いしながら、健司は遠い昔の思い出を探しに寝室に向かう。
「へええー、これ、ディズニーランドじゃん。うわ、女子… うわっ これがバブル?」
思いの外食い付いてくる健翔をニヤニヤしながら見る。そうか、この頃って丁度今のコイツくらいの歳だったわ…
「うわあーーー」
「何だよ」
「こ、これ、父さん?」
「そーだぞ。」
「だっさ…」
「ウッセー。この頃は超絶ビンボーだったんだよ。服買う金なんかなかったんだよ」
「ああ、お爺ちゃんがお婆ちゃん亡くして、仕事辞めて…」
「そ。マジで生活保護受けてたんだぞ。逆に懐かしいぜ、あの貧乏学生の頃。」
初めてみる同い年の父に驚愕の表情の健翔。同じ面影を見たのだろうか、リビングの窓に己の顔を映し出し、しげしげと見比べたりしている。
だが、突然。
「えっ 父さん、この人…」
絶句しながら、震えた指で一人の女子を指差す。
健司はどれどれとその女子を覗く。
「ああ。この子だよ。俺を当日ブッチして、以降連絡取れなくなった、俺のお・ひ・め・さ・ま。どうよ、メチャクチャ可愛いだr…… 何だよ健翔、何だよ?」
健翔はその写真を穴が空く程見つめ、
「ねえ、他にこの人が写ってる写真… ああ、これも、うん。うわ、あああ、あああああ
… うわあああ」
こんなに狼狽える息子は初めて見る。何せ俺と異なり、どんな窮地にも笑って乗り越える凄い息子なのだが…
「この人、僕のかの… 女友達のお母さんにそっくりなんだけど。」
そこは彼女でいいだろう、バカめ。軽く吹き出しながら健司は、
「あっそ。因みにお前の彼女、名前なんつーの?」
「藤原、咲良ちゃん。」
健司の心臓が一瞬止まった。思考も停止した。故に呼吸が出来なかった。
なんだと?
藤原?
「父さん? どうしたの? って、ねえ、大丈夫? ねえ、ちょっと、父さんっ」
健司の意識が戻ると、そこは病院の個室であった。
* * * * * *
咲良は母の狂気に圧倒されている。
猫背にチェーンソーを構え、側から見るとホラー映画のワンシーンのような状況に怯え慄いている。
「お母さん、もう遅いし。こんな時間に、こんな事… 近所迷惑だよ」
桃香は咲良を睨め付け、
「早い方がいいの! でないと、お婆ちゃんも不幸になっちゃうんだよっ きっとすぐに死んじゃうよ、パパみたいに!」
もう何を言っても無駄だろう、この状態の母親に対して咲良は全くの無力であった。
この老梅を、菅原道真の怨念の遺伝子を持ったこの梅の木を切り倒し燃やさねばならない。然もなくば祖母に不幸が起きる、即ち癌が進行して手遅れになる。
この尋常でない理論を覆す反論がない。むしろ咲良自身がその考えに共鳴し始めているのだった。
「咲良、手伝いなさい、この懐中電灯で、そこの幹を照らして!」
言われた通りに、梅の木の幹にL E Dの光を当てる。
これでいいの? これで本当にお婆ちゃんは助かって、私は健翔くんと一緒にいられるの?
不安と期待が入り混じりながら、震える手で懐中電灯を照らす咲良であった。
「さあ、行くわよ、見てなさい、これで、全て、終わる、そして、全て、始まる…」
チェーンソーの音が深夜の街に響き渡る。
空を見上げると満月が煌々と輝いている。その光に照らされた桃香の姿はもはや人の姿には見えなかった。
「これで、さあ、これで…」
チェーンソーの回転する歯が梅の太い幹に当たると、耳を塞ぎたくなる程の音が撒き散らされる。
咲良も近所迷惑の四文字はとうに頭から消え、その歯が幹に徐々に食い込んでいくのを必死で見つめている。
何事かと近所の住民が集まり出す頃には、歯は幹の半分ほどに食い込んでいた。
音を止めた真っ赤なサイレン灯が家の前に到着した瞬間。
バキバキバキバキッ
壮絶な音をたて、自分の背丈の三倍ほどの高さの老梅は切り倒された。
我に返った咲良が母の顔を見ると、その表情から先ほどの狂気はすっかりと消え去り、その瞳から流れ落ちる涙が満月に照らされ、この世のものとは思ぬ美しさに鳥肌が立つのだった。
世田谷中央署から二人が帰宅すると、既に午前二時であった。
「非常識にもほどがあります。子供だってしませんから。深夜にチェーンソーで木を切り倒すなんて。訴えられても仕方ないですよ。」
警察で女性巡査長にこっぴどく叱られた二人は帰宅後、茶の間に座り込み、いや倒れ込む。
「ママ、警察に連行されたの初めてよお」
桃香が何故か懐かしそうに呟くと、
「私の人生で、まさかこんなことがあろうとは。犯罪者になろうとは… 未だに信じられないよ」
咲良は呆れたような、沈んだような口調で愚痴をこぼす。
「これって、前科になるのかな?」
「知らない。今度お婆ちゃんの弁護士の田中さんに聞いてみるわ。」
「酷いよお母さん。私もうすぐ十六だっていうのに… 既に前科者?」
「これも人生経験ってやつよ。きゃは」
桃香からは、この数日漂っていた狂人の気がすっかり無くなっている。咲良は安心した表情で、
「これで、お婆ちゃんの不幸は大丈夫なんだよね?」
「うん。きっと。多分。」
咲良はパッと跳ね起きて、
「多分? きっと? ちょ、ちょっと待ってよ、これ、もし全然違っていたらどうするのよ、お婆ちゃん良くならなかったら、健翔くんと一緒になれなかったら…」
珍しくたじろぐ娘を細い目で見ながら、
「大丈夫。絶対、これで大丈夫。あとは明日、切った木を燃やしちゃえば。あ、もう明日じゃん、そーださっちゃん、今からキャンプファイヤーしちゃう?」
ダメだこの女。まだ狂気が抜けていない。
「もう私、眠い。」
そう言って桃香を引きずりながら寝室に向かった。
そうは言いつつも、咲良は中々寝付くことが出来なかった。
これで本当に私の周りから不幸が無くなるのだろうか、そして無事に彼と結ばれることが出来るのだろうか。
軽薄な母親の言葉に乗っかって、ほぼ犯罪まがいのことをしてしまった咲良は、どうしても母の論理を信じ切ることが出来ない。
もしこれでお婆ちゃんの状態がすぐにでも良くなったのなら、正解だったのだろう。
でもそれは、もう少し先にならないと分からないはず。
どうなのだろう、あれは正しかったのだろうか、どうなのか。
悶々とする咲良は結局朝方まで寝付けなかった。
「咲良、なんかスマホうるさく鳴ってるわよ、さっきから」
重い瞼を開き、スマホを見ると九時。外は既に明るくなっている。
日曜日の朝から、一体誰が?
起動画面には何と彼からのメッセージが幾つか送られているではないか。
まさか、何か彼に不幸が…
咲良は全身の血が凍って気がした。
慌てて飛び起き、布団の上で震える指でスマホをスワイプする。
『実は昨晩、父が倒れて救急車で病院に運ばれました。一時は心肺停止となって危篤状態となりましたが、駆けつけてくれた救急隊員の処置によって幸い今は小康を得ています。僕は元気ですのでご安心を。』
咲良は一瞬凍りついたが、メッセージを何度も何度も読み返し、ホッとする。
「お母さん、健翔くんのお父様が、昨日の夜倒れたって」
朝食の準備をしていた桃香は持っていた皿を落とした。目を見開き、口を震わせる母親に、
「ちょ、お母さん… 大丈夫? ああ、でも今は落ち着いているみたいだよ。」
「そ、そう…」
「これってさあ、あの木を切ったせいなのかな?」
「…分からない。でも、無事だったのなら… アレなんじゃない?」
「アレ?」
「…さ、朝ごはん食べちゃおう、それからとっとと燃やしちゃおう。」
落とした皿を片付けながら、震えた声で桃香は自分を奮い立たせる。
咲良は手を切らないように片付けを手伝いながら、本当にあの梅を切って良かったのかどうか分からなくなり、大いなる不安に苛まされるのだった。
* * * * * *
「ビックリしたよ、急に倒れちゃうから。」
「ああ、悪い悪い。俺もビックリだわ、こうして無事にしてんのが。」
医師によると、心室細動による循環機能停止。救急隊員が到着するまでの間に、健翔が心臓マッサージを続けていたのが生死の分かれ目だったらしい。
「お前が余計なことすっから、生き返っちゃったじゃねーかよ。せっかく母さんのトコに行こうとしたのによ。」
プイと横を向いた健司の本心を察知した健翔は、
「ハイハイ。二、三日入院したら退院できそうだって。それより。コレステロール値が高過ぎだって、ちょっと食生活考え直さないとだね。ふーむ…」
健司の血液検査の結果はそれ以外もボロボロであり、根本的な生活改善が必要だと医師から言われた。
健司は窓の外の曇り空を眺めながら、大きな溜め息をつく。
ここ最近マジで生きてる意味を見失ってたな。
大学院を出て博士号取って、新進気鋭の経営学者なんてチヤホヤされてたあの頃が花だったわ。
とんとん拍子でサンノゼ大の教授になって、本を出したり講演やったり。でっけえ家買って、可愛い日本人留学生を嫁にして。
調子こいて部長選挙なんかに出馬したのが間違いだったわ。
参謀を買って出たマイクがジョゼの腹心とは知らなかったわ。奴らに嵌められて落選して、その上大学から追放されてよ
健翔の受験を言い訳にしたけど、ホントは居場所が無くなったんだよな。
日本に帰って何とか溝の口大の職にありついたけど、相変わらずの年功序列? 未だに准教授だしなあ。
一昨年には明美が逝っちまうし。生活は健翔が頑張ってくれてるけど、正直グッチャグチャだし。収入もイマイチだし。
マジでこのままおっ死んだ方が、コイツの為だったかもな。
あーあ、今分かったわ、親父の気持ち。あの頃酒浸りだった親父の気持ち。
職場の権力闘争に敗れ、己の存在意義を見失い、伴侶に去られ生活が乱れ
酒にでも逃げなきゃやってられんかったんだ。
なのにあの頃の俺は親父を蔑み、現況から逃げ出すことばかり考えて
親父よりも俺の方がずっとクソだったわ。そんな俺に比べて、なんてコイツの清々しいこと。
ホントに俺の子か? 俺の遺伝子なのか?
あーあ、コイツの人生の足引っ張るマネだけはしたくねえわ。コイツにはちゃんと幸せになって欲しいわ。
明美みたいな嫁さん貰っ……
あれ?
そういえばコイツの彼女…
「おい健翔。お前の彼女、何つったっけ?」
健翔は苦虫を噛んだような顔で、
「その話をしたら急に倒れたので。今は、やめとこうよ。」
健司はかぶりを振り、
「大丈夫だ。何故ならここは病院だからだ。」
プッと吹き出しながら、
「仕方ないなあ。あ、ちょっと待って、その彼女から返信来たから。返事しないと」
そう言って病室から出ていく息子の背中に、
「今時病室でスマホしたっていいんだって。ったく頭固えのはジーさま譲りってか」
クックと笑いながら、ストローの付いたコップの水を啜る健司であった。
二十分ほどして健翔が戻った時、健司はウトウトしていた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「別に。で、何だっけ、彼女の名前」
健翔は首を横に降りながら、
「それよりさ。あの写真の女性の話が聞きたいな。あの人は父さんの彼女だったの?」
健司はクックックと笑いながら、
「んーーーー、微妙。あの子との関係かあ。まあ、お前が判断しろや。」
そう言いながら健司は訥々と語り始める。
初めて会ったのは、俺が三軒茶屋に住んでた頃。通学の新玉川線の電車の中だったわ。中年のハゲデブに痴漢されてたのを助けてやったのが馴れ初めって奴。
「新玉川線? って、田園都市線のことだよね?」
そーそー。いつの間にか名前変わっちまって。そん時はあの子は慌てて逃げ出したから何もなかったんだわ。ただ、今まで見たことねえ美人ちゃんだったから、こっちも呆然としてその背中をずっと眺めてたわ。もう二度と会うことねえか、こんな痴漢電車に乗ってくることも、なんて思ってたら、次の日に乗ってきてビックリだったわ。改めて眺めたら、その辺のアイドルより全然可愛かったよ。
「…声、かけなかったの?」
あまりに尊すぎて、口がきけなかったんだよ。俺はこう見えて究極の照れ屋だからな。笑うな。ただ、あの子が電車降りてこっち振り返ったから、口パクで(明日)って言うのが精一杯。そしてら次の日、また一緒になって。であの子が池尻大橋の駅で電車降りるときに腕掴まれて一緒に降りたんだわ。それがあの子と喋った初めてだったな。
「…よく覚えている、そんな昔のこと」
忘れられねえよ。あの子のことだけは。それでな、詳しい経緯は知らねえけどこっちの生徒とあの子の同級生の四対四でディズニーランド行くことになったんだわ。アレにはぶったまげたわ、俺あん時学校に友達いなかったから。違うクラスの名前も知らねえ奴らと、あの子とその仲間達と、俺。今思ってもよく分からねえ組み合わせだよ。俺もよく参加したよなあ、若さ故の過ちって奴か?
「あれ? それって西園寺さんと周防さん?」
そーそー。今や大企業の部長様コンビ。あと右近な、喜多見の不動産屋。今のボロマンション仲介してくれた奴、覚えてんだろ。ハッハッハ、あの写真じゃ気づかなかったろ、アイツらすっかり肥えちまったからなあ。そうだ、今度あの写真持っていって見せてやろう。アイツら俺みたいに心臓止まるかもな、うわ、楽しみになってきた、クックック
「それで、あの女性と仲良くなったんだ?」
よく覚えてねーんだけど。ちょっとヤンキー入った子がいたろ? その子が実は俺狙いだったんだって。でも俺はその子と全然話し合わなくて。気が付いたらあの子―桃香ちゃんな。桃香ちゃんとずっと回ったんだ。桃香ちゃんは天然でな、見た目はバカっぽい感じなんだけど実は賢くて。あのギャップと美貌にクラクラだったな。うん、あの時に俺はすっかり桃香ちゃんに惚れちまってたよ。うん。
「桃香さん、か。で、その後は?」
それから毎日電話で話すようになってな。夏休みに入って、二人で海に行くことになったんだわ。そ、お前と同じ感じで。あ、お前と違うのは、あの頃オヤジが引き篭もりの酒浸りだったから俺はドカタのバイトやってたんだぞ。遊ぶ金? ちげーよ、塾代稼いでたんだよ。んで、桃香ちゃんが海行こうって言うから、バイト休ませてもらって、念のために次の日も休みとって。何故って、そりゃあお前、男になる為よ。わかんだろ? で、だ。こっちはど緊張して待ち合わせ場所で待てど暮らせど。結局、桃香ちゃん来なかったんだ。そ、お前と一緒。
「まさか、だけど。桃香さんに何かあったの?」
お父さんがな、飛行機事故で亡くなっちまったんだ、その前の日の晩に。でもこっちは… って、どうした健翔、顔が真っ青だぞ、え? なんだって! お前も同じだった? ええ? 彼女のお父さんがコロナで… 嘘だろ、あれ、ちょっと待てや、お前の彼女の名前って…
「藤原咲良ちゃん。桃香さんの、娘さんだよ。」
心電図の心拍数が上限をはるかに越え、病室内にけたたましい警報が鳴り響いた。
* * * * * *
「お母さん。健翔くんのお父さん、全然平気みたいだって。二、三日で退院できるらしいよ」
朝食後、スマホを眺めながら咲良が桃香に告げると、明らかに表情が明るくなり、
「そっか。うん、良かった。さ、さっちゃん、あの木を焼いちゃおう。」
本当にそれでいいの? お婆ちゃんも、健翔くんの父上もそれで救われるの? そして私達は?
未だ不安に苛まされている咲良に、
「もうやるっきゃないよ。ここまで来たらさ。ママは覚悟決めたよ。あの木を燃やしたらさ、ママは……」
不安げに見つめる咲良に思わず言葉が詰まる。それでも勇気を振り絞り、
「さ。お庭に行くよ。玄関の着火剤持ってきてね」
やや緊張した面持ちで桃香は咲良に指示を出した。
充電を終えたチェーンソーを抱え庭に立つと、昨日切り倒した老梅が妙に生々しく庭に転がっている。倒れた際に花壇が一つ半壊していた。
切り倒した梅の幹は五十センチ程の太さで、よくぞ女性の細腕で切り倒せたものだ、咲良は昨夜の常軌を逸した母の姿を改めて思い出し、背筋が冷たくなる。
「とにかく、できる限りにバラバラにしちゃおう。さっちゃんは細い枝を切り取ってくれる?」
そう言いながら桃香はチェーンソーの電源を入れ、倒した幹に歯を入れ始める。
重たげな曇り空の下、桃香は次々に幹を分断していく。咲良も母の指示通りに細い枝を鎌で切り落としていき、昼前にはすっかり分断された梅が一箇所にまとめられていた。
「さ。火をつけようか。」
こぬひとをまつほのうらのゆうなぎに
「これで。全部、おしまい。」
やくやもしおのみもこがれつつ
「これで。始まり。」
集められた木が激しく燃え始めた。白い煙が真っ直ぐに立ち上る。風は全く無く、煙はどこまでも高く、昇竜の如く天を目指し昇っていく。
咲良は口を開けたままその様を眺め、心の中で何かに祈り始める。
お婆ちゃんが良くなりますように。
健翔くんの父上が回復しますように。そして、
私と健翔くんがいつまでも、いつまでも…
梅が半分ほど燃えた頃。
またしても音なき赤いサイレンが家の前に現れた。
「非常識にも程があります! 明らかな条例違反! 一体あなた方、近所迷惑という言葉をご存知ないのですか!」
世田谷中央署の生活安全課の狩野巡査部長は絶叫する。
何なのだ、この親子は。昨晩あれ程近所に迷惑をかけ、こっぴどく注意したというのに。半日も経たないうちにまた通報されるとは。
「ご存知ですよね、東京都では環境確保条例により野外焼却は禁止されています。あれだけの木を燃やしたらダイオキシンもバンバン出るし、煙も匂いも凄いし。それよりなにより。あなた方、ちっとも反省していませんよね、もう信じられない!」
昨日が騒音、今日が焼却。狩野は頭を抱えながら、
「今後も条例に従う気はないんですか? ご近所の迷惑を考えないのですか?」
すると母親は毅然とした態度で、
「二度と。ありませんから。もう、済んだことですから。安心してください。」
確信犯はこれだからやりづらい。もし無知故の違反なら、きちんと条例や法律を教えれば納得してくれる。だが、知っていてわざと犯す者は、この母親のように全く反省の意思がない。
このまま釈放して良いものか悩んでいると、後ろから課長が、
「ところで、梅子さんはお元気ですか?」
桃香はニッコリと笑いながら会釈をしつつ、
「先日食道がんと診断されて、今入院中なんですよ。ステージⅡだから手術はしないって。」
課長は身を乗り出し、
「えええ! それはそれは… どうぞお大事になされてくださいね、あ、お嬢さんも介護疲れとかで倒れないようにしてくださいね。」
母親はニッコリと笑いながら、
「ハイ、ありがとうございます、課長さん。それでは失礼しまーす」
そう言うと娘を連れてさっさと出て行ってしまった。
唖然としながら狩野は
「ちょ… 課長、いいんですか? こんなに簡単に返してしまって…」
「いいんだよ。これが警察の闇ってやつだから、覚えておいてね。はっはっは」
後ろに手を組み笑い去っていく姿を呆れ顔で見続ける狩野なのである。
帰宅後、産廃業者に連絡し、燃え残りを処分する手続きが済んだ後。
「終わったあー。ああー、スッキリしたーー」
ソファーの上で大きな伸びをしながら桃香が叫ぶ。
全く。信じられない親、いや大人である。半日で二回も警察沙汰の問題を起こしておいて、この脳天気さ。自分の実の母だと思いたくない気持ちで咲良はスマホを眺める。
この半日のあらましを里美にメッセージすると、直電がかかってくる。
「さっちゃんー、平気かあー、大丈夫かあー、でもごめーん、爆笑したわー 咲良ママ、サイコー、きゃははは」
「ちょ… 笑い事じゃないよ。私、警察に連行されたの初めてだよ。しかも半日で二回も。」
「それな。サンジョー青褪めて心配しとったよお、後で連絡してあげな。」
電話を終えた後、大橋高校カルタ部顧問の三条先生に簡単な経緯を書き込み、自分は法的に全く問題ない、と送付する。
「さーてと。で、さっちゃんさあ、健翔くんのさあ、お父さんなんだけれどさあ…」
先程とは全く別の表情で桃香は咲良に語りかける。
話を聞きながら咲良は大いに戸惑っている。自分の母親が、顔を真っ赤にして拙い言葉で娘に相談というかお願いをしているのだ。
正直それはどうか、と思うのだがこれだけ真面目に頼まれると無碍に断れず、
「ちょっと待っていて。相談してみるよ」
慌てて咲良はスマホを弄り出す。しばらくのやり取りの後、大きな溜め息を吐きながら、
「お母さん。本当にいいの?」
パッと華やいだ笑顔の母。こんな幼げで儚げな表情を咲良は初めて見た。とてもアラフィフの女性とは思えない。呆然とそんな母親を眺めていると、
「お風呂入ってくるね、焚き火臭いから」
着ていたトレーナーの匂いを嗅ぐと、確かに焦げ臭い匂いがついている。母の後に自分も風呂に入らねば。
ふと、祖母の様子が気になり、連絡してみる。
「それがさあ、意外と美味しいのよ病院食。それに病室はとっても快適だし。このウォッシュレットって最高ね、早速ウチにも付けちゃおうかしら。ああ、それよりそっちは? 警察沙汰になるような変な騒ぎを起こしたりしてないだろうね?」
あははは、と大笑いして誤魔化し、電話を切る。
* * * * * *
「大丈夫ですよ。血中酸素も血圧も、体温も正常です。ちょっと興奮しちゃっただけよね。」
中年の女性看護師が笑いながら病室を去っていく。
健翔は大きく息を吐いて、
「ビックリさせないでよ。いくら病院内だからって…」
「知るか。ビックリしたのはこっちだわ。ったくこんな偶然ってあるのかよ、未だに信じられねえぜ。あの桃香ちゃんのお嬢ちゃんが、お前の彼女だったなんてよお」
「だーかーら。まだ彼女じゃないって。それに驚いたのはこっちの方だって。まさか咲良ちゃんのお母さんが、父さんの想い人だったなんてさ。偶然どころか奇跡だよね。」
よっこらせ、と健司は身体を楽な姿勢にし、
「それで? お前の方はどんな風に知り合ったんだよ。お父さんに話してごらんなさい。きっと楽になるぜ、クックック」
楽になるって… どういう意味だよ、と呟いてから、健翔は静かに語り始める。
初めて逢ったのは、田園都市線のホーム。僕が歩きながらスマホでニュース読んでいたら女の子にぶつかっちゃって、その子がスマホを線路に落としちゃったんだ。駅員さんに報告して拾いあげてもらってホッとした時にさ、まじまじと彼女の顔を見て。うん、一目惚れかな、僕も。この世にこんな美しい女子がいるとは思わなかったな。全身を貫く衝撃ってやつ? ずっと鳥肌が立ったままだったな。
「出会い方まで、そっくりじゃねえかよ。なんかちょっと怖えわ…」
それはこっちの台詞だよ。駅員さんに拾ってもらったスマホの画面が割れちゃってて、彼女すごく狼狽えていて。ああ、僕が何とかしてあげたい、そう思って連絡先を聞き出して、後日弁償するから、って言って。え? 勿論。また会いたいから、に決まってるじゃん。それで週末に桜新町の駅近のドコモショップで待ち合わせして。忘れもしない雨上がりの午後にさ、遠くから走ってきたんだよ。その姿はまるで羽の生えた天使のようでさ。
「天使って… お前大丈夫か? 笑えるぜ」
それで修理に一週間かかるって言われて。じゃあまた来週ここで会おうって約束してさ。気が遠くなる程舞い上がっていたな。だってこんな可愛い子と二人きりでまた会う約束したのだから。だけどその二日前に父上がコロナに感染したので当分家から出られない、って連絡が来て。会えないショックと彼女も感染しないか心配で気が狂いそうになっていたな。お陰で期末の最終日の試験、ボロボロだったよ…
「あー、あん時な。お前死人みてえな顔してたよな。そっか、そんなことがあったのか。」
しばらくして父上が急死したって連絡が来て。あの時ほど自分の無力さを嘆いたことはなかったな、だって僕は彼女に何もしてあげられなかったから。慰めたり元気付けてあげたり。実用的な手助けもできなかったし。ただただまた連絡が来るのを毎日スマホを睨めつけていたんだ。辛かったよ、あの頃。
「そっか。お前も、大変だったんだな。」
夏休みも終わり頃かな。もう我慢の限界でさ、こっちから連絡をしてみたんだ、そうしたらようやく彼女から連絡が来て。あの時の感激は言葉では言えない。返事をくれた、もうそれだけで大喜びさ。それから夏休みの宿題を手伝ってあげる名目で何度か彼女と会ったんだ。その時だよ、桃香さんにお会いしたの。彼女の家で宿題することになって、彼女の家にお邪魔した時。ほんっとに綺麗な女性。思わず見惚れちゃった。だけどさ、なんか嫌われてたみたいで。僕を一目見てそれっきり。一度も下に降りて来なかったんだ。
「お前が? 嫌われてた? ちゃんと服着て行ったか? ズボン履き忘れたとか?」
履いてたし! ちゃんと挨拶もしたし。お土産は忘れちゃったなあ。その時はまだご主人を亡くされて気落ちしているんだろうな、と思って気にしなかったんだけど。それはさておき。新学期に入ってから、二人で海に行くことになったんだ。僕はその機会に告白しようと思って。電車の時刻、水族館のチケット、レストランの予約。ネットで色々調べてさ、準備は万全。緊張して駅で待っていたんだけど… 待てど暮らせど…
「……一緒だな。俺と。キツかったろ?」
だね。人間不信になりかけたよ。部活やってなかったら、自暴自棄になっていたかも。それまで毎日同じ電車だったのに全く来なくなって。完全にフラれたと思い、それからは勉強と部活に専念して。だけど月日が経っても全然彼女のことを忘れられなくて。むしろ想いがどんどん募っていっちゃって。どうしてドタキャンされたかなんてどうでも良くなって、それよりも一目会いたくて、一声聞きたくて。
「…それ、な。」
忘れもしないよ、あの気の狂いそうになっていた日々。毎日毎日スマホを眺めては落ち込む日々。本当にキツかった… そんなある日に、突然彼女から連絡が来たんだ。二度と離したくない。そう思って強引に会う約束をして。何があったかなんてホントどうでも良くって、ただただ彼女に会えることが嬉しくって。久しぶりに会った咲良ちゃんは、本当に美しかった。秋の暖かい日差しを受けて光り輝いていたんだ。一目見てさ、全身が震えたよ。心が震えたよ。
「よかった、な。再会出来て…」
うん。その時にさ、偶然部活の仲間と遭遇して、みんなも驚いてたよ。あんな可愛い子は見たことがないって。河原たちが調子に乗って友達紹介しろって言ったらさ、一応声はかけてみるが確約はできない、って言ったんだ。ちょっと不思議な子なんだけど、最高でしょ? 今度一度会ってみない?
「そうだな。いつか、な。」
「いつか、じゃなくて。今日、会ってみない?」
「ハア?」
健司の空いた口が塞がらなかった。
「でも、お前は良かったな。再会できて。あーー、羨ましい。俺は渡米するまでずっと辛かったわー」
健翔はニヤリと笑いながら、
「これも日頃の行いの賜物じゃない。へへへっ」
「ばーーか。あーー、マジでムカつく。なんでお前は再会できて、俺はずっと一人きりなんだよ。不公平だろ」
「いいじゃん。母さんと出逢えて、僕が生まれて。それとも、桃香さんと添い遂げたかった?」
ガバッと身を起こし、
「そりゃそーだよ。あんないい女と一生一緒にいたかったわ。」
「それ。ホント?」
三十六年ぶりに聞くその声。
その声の主を見上げる。
健司は驚愕する。
あの頃よりも更に輝きを増した美しさ
忘れたくても忘れられなかったあの笑顔
聞きたくて、聞きたくて気が狂いそうになった、この声
心電図の警報が鳴り響く病室。三十六年ぶりの邂逅はそんな騒々しさの中に果たされたのだった。
* * * * * *
「一応心肺停止状態から戻ってきた患者さんなの。病室では静かに、安静に。いいですね!」
ムッとした看護師は警報の停止ボタンを押すと、この忙しいのに全く、と呟きながら病室を出て行く。
ニッコリと見つめ合う息子ととんでもない美少女を交互に眺め、
「これ、一体、なんなんだよ…」
と呟く。
何故か仁王立ちしている美魔女が健司をキッと睨め付け、
「それより。どーして連絡してこないかなあ。渡米したなんて知らなかったよ。一言教えてくれたって良かったんじゃね?」
「いやいやいや、お前こそどーしてあん時、来なかったんだよ! 俺は夜まで駅で待ってたんだぞ!」
「仕方ないじゃん。あの前の日にミッチが自殺しちゃったんだから。」
「なん…だと… ミッチって、あの壬生さん、か?」
「そ。だからアンタと海行ってる暇なってなかったのよ。知ってたでしょ、あの子アンタに気があったの。」
「マジか… って、何でそれを教えてくれなかったんだよ! 幾らでも連絡できただろ。ああそうだ、俺がいくら留守電入れても全然連絡してこなかったよな、何でだよ!」
「だって。これ以上失いたくなかったから。」
「ハア?」
「パパ、ミッチ。大切な人をこれ以上失いたくなかったの。分かるでしょ?」
母よ、それは絶対に分からないと思います。咲良は大きな溜め息を静かに吐き出す。
「それよりも。どうして渡米前に連絡してこなかったのよ! この薄情モノ!」
ええええ… 事情を把握しきっていない健翔は驚愕の目で桃香を見つめる。その視線を受け取り、桃香は艶然と
「健翔くん。もう大丈夫。これからは仲良くしようね。ねえ、まだ咲良のこと好き?」
唖然とする健翔の腕を取り、
「お母さん。ちょっと外出てくるから。」
そう言い捨てて二人は病室を去っていく。
病院の庭にあるベンチに腰掛ける。
重苦しい曇り空は相変わらずだが、咲良の心はスッキリ秋晴れだ。
「ごめんね、母があんなこと。」
「はあ、まあ、うん。」
「それより。これで良かったのかな、母と父上を会わせちゃって…」
「良かったと思うよ。あんな狼狽えた父さん初めて見たし。」
笑いながら健翔は、
「それより。お母さんが言っていた、もう大丈夫って、何?」
咲良はベンチから投げ出した両足をブラブラさせながら、
「話せば長いんだけど。それにとても信じてもらえない話なのだけど。聞きたい?」
「まあ、一応聞いておこうかな。」
「夜までかかっちゃうかもだよ?」
「僕は…構わないけど」
赤面しつつ健翔は答える。
「じゃあ、何から話そうかな、そうだ、私のご先祖様なんだけれどね、……」
触れ合う肩の温もりを感じながら健翔は咲良の語りに聞き入っていた。
「どお? ウチの娘。気が効くでしょ?」
「ま、まあな。それにしてもあの子、咲良ちゃん? とんでもねえ美少女だな、クソモテるだろ?」
「うーーん、見た目はね、あんなだからモテそうなんだけど。でもコミュ障だから、どうかなあ。それにちょっと変わってるし。」
「お前が言うか! それより。旦那さん、亡くしたんだってな、御愁傷様。」
「そういうアンタも奥さん亡くしたんだって? ごしゅーしょーさま」
健司は唖然としてからプッと吹き出す。変わってねえ。あの頃と何一つ変わってねえ。
これってまさか夢なのでは? それか実は俺は昨日死んじまって、パラレルワールドにでも飛ばされたんじゃあ…
「電話。しようとしたよ。何度も。」
桃香が憂げな表情で呟く。
「声聞きたかった。会いたかった。ずっとずっと。」
健司は唾をゴクリと飲み込み、
「じゃあ、何で連絡してこなかった? 何で俺を、捨てた?」
桃香はその大きな瞳で健司を見つめる。ああこの瞳。あの頃と一緒だ、今にも吸い込まれちまいそうだ。忘れようにも忘れられないこの瞳。マジでこれ夢なんじゃねえか…
「何から話せばいいかなあ。ああそうだ、アンタんちって菅家の末裔? って聞いたこと覚えてる? ……」
* * * * * *
二〇二四年 四月。
「あんた達、支度できたのかい? いつまでもここに駐車できないんだから。桃香、あんたこんな老人にいつまで運転させるんだい。」
「ごめんねお婆ちゃん、私は準備整っているのだけれど母さんが…」
「分かってる。ったく幾つになってもチャラチャラして。本当にウチはあんただけが頼りだよ、いいかいしっかり勉強してなんか資格でも取って。まあ天下の東大生だから食うに困らないわね一生。」
「そんな事ないよ。しっかり勉強し続けなきゃ。それよりお婆ちゃん、入学式の後に菅原さんのお墓参り行くんだっけ?」
「そのつもりさ。それにしてもねえ、まさかあの人の最期を看取る事になるなんて。人生何があるか分からないよ。」
「もう二年経つっけ? 今年三回忌じゃない。みんな集まれるのかなあ…」
梅子は大きな溜め息を吐く。
「全くさ。夏には健司さんと桃香、ボストンに行っちゃうんだっけ? 三回忌の集まりに来れる筈ないじゃないか。」
「でも、凄いよね健翔くんのお父様。ボストン大学の客員教授になるんだもんね。でもまさかお母さんがついて行くとは思わなかった… あの人英語喋れるの?」
「それはこっちが聞きたいセリフさ。ま、あの子バカだから何とでもなるんじゃないか。」
咲良はプッと吹き出しながら、
「実の娘に何という… でもボストンかあ。一度行ってみたいなあ。ねえお婆ちゃん、絶対一緒に行こうね。」
「嫌だよ私は。行くなら健ちゃんと二人で行っといで。飛行機に十時間も乗れるかい。冗談じゃないよ。それよりも! ちょっと、桃香! 早くしなさい!」
五十過ぎて実の母にこんな風に叱られたくないなあ、ま私の場合は逆になりそうだけれど。咲良は未だ降りてこない母親を見限り、早々に梅子の乗用車に乗り込む事にする。
「おい、ネクタイ曲がってねえか? え、寝癖? んなもんどーでもいいんだよっ」
「ったく… あっちでは服装って割と大事なんじゃないの? アメリカのエリート層はまず相手の服装や着こなしをチェックするって書いてあったけど。」
「大海原を渡ったら、な。いいんだよ日本なら。」
「まあ、いいけどさ。それより、式の後にお爺ちゃんのお墓参り、行くよね?」
「やだよ。行かねえよ。」
健翔は呆れ返り、
「あのさあ、子供じゃないんだから。藤原家はみんな来てくれるんだよ。ちゃんとしようよ、そう言う所はさあ!」
健司は驚いた顔で、
「な、キレることねえだろ。ったく、わーったよ、行きますよ。行けばいいんでしょ!」
「全く。お葬式の時も全部梅子さんに任せっきりにしてさ。実の孫として本当に恥ずかしかったよ。あーあ、今日の入学式、お爺ちゃんに来て欲しかったなあ。」
「それな。自分と同じ大学に孫が現役合格だもんな。ま、天国で周りに自慢しまくってんじゃね、今頃さ。それにしても… 咲良ちゃんよお、よく頑張ったよなあ。まさか現役で合格するとは思わなかったわ」
そこは同意。とは口にはせずに、健翔は軽く頷きながら、
「模試は最後までD判定だったんだけどね。本番に強い子なんだって僕も初めて知ったよ。」
「それな。しっかしお前ら、遊びにも行かずこの二年間、よく一緒に勉強したなあ。そこだけは素直に感心したわ。あ、伊豆に温泉旅行には行ってたか。ったくマセガキどもめ。」
「な… ちゃんと勉強してたって、向こうでも!」
父親はニヤリと笑いながら、
「一体ナニノベンキョウをシテイタノデスカ?」
耳まで真っ赤になりながら息子は、
「フツーに塾のプリントとか、過去問とか、あとノートをまとめたり単語帳作ったり…」
「あー、そーゆーのいいですから。さて、ぼちぼち出るか。って、式何時からだっけか?」
健翔は時計を仰ぎ見て絶叫する。
「あああああ… 遅刻しちゃうよ! 嫌だよ入学式から遅刻なんて! さっちゃんに一生馬鹿にされちゃうじゃないか! さ、行くよ、駅まで走るからね!」
「こ、こら、心臓病持ちの老人を走らせるんじゃねえ」
「た、タクシー呼ぶ? そんで三茶まで行って…」
スマホを操作しながら一人家を出る健翔である。
二〇二四年 七月。
「そーいえば、ももかアメリカ本土って初めてかもー チョー楽しみなんですけど。」
ボーイング787型機のビジネスシートにちょこんと座りながら、桃香ははしゃぐ。
「あれ? 学生時代、アメリカ行ったって言ってなかったか?」
「それはグアム。本土は初めてなのだあー」
「ふーん。」
「健ちゃんって、昔渡米した時泣いた?」
「ハア? 泣くわけねえだろ」
「ウソだあ。これでもう二度とももかに会えないかもって、くすんくすん泣いたはず!」
健司はハッとした顔をした後、断固として否定する。それをニヤリと笑いながら夫の肩にもたれかかる桃香。
ポーンと言う音が二回鳴り、
「ご搭乗の皆様。陶器は間も無く離陸いたします。シートベルトを腰の深い位置までしっかりとお締めください。」
桃香は左手を健司の右手にきつく絡め、満面の笑みで小さな窓から外を眺めていた。
食事の片付けが終わり、機内は薄暗くなる。
健司はあっという間に鼾を立て寝てしまった。その横顔を眺めながら、桃香はこの数年のことを思い返してみる。
まさか。この人と再会できるとはホント思わなかったなあ。すげーな遺伝子の叫びって。亡くなったパパもほんといい人だったけど、ごめんねパパ、やっぱももかはこの人じゃなきゃダメっぽいよ。この人と再会して、一緒になって。ももか、初めて生きているって実感してるんだ。毎日がキラキラしてるんだ。変哲のない街路樹が美しく見えて仕方ないんだ。そーなの、この人と一緒だと何をみても美しく感じ、何をしていても楽しいの。だからボストンに行くって決まった時、一ミリも迷わなかったな。この人となら火星でも金星でも楽しくやっていけるよ。
さっちゃん。もう一人で大丈夫だよね、お婆ちゃんもいるし、ママがいなくても大丈夫だよね。今日でももかはママ卒業しまーす。そーです、これがももかの卒業式っ 何ちって。てへぺろ。
さー、人生の折り返しはとっくに過ぎておりますの。明日から全力で二人で人生を楽しもーね、健ちゃん。三十六年も我慢したもんね。長かったよね。辛く苦しかったよね。もう会えないだろうなってお互い思ってたよね。明日からは、一日一日大切に生きようね。死ぬまで一緒に笑っていようね。約束だよ、もう一人にしないでね。もう一人にしないからさ…
トイレから戻ると、桃香はスースー寝音を立てている。薄暗がりの中でもハッキリとその美しい顔が浮かび上がっている。
…何か、未だに信じられねえ。こんな美人と再婚できたっつーことより。十五のあの日以来忘れようにも忘れられなかったコイツと今こうしていることが、信じられねえ。そーだよ桃香。俺はあの日、飛行機の中で涙が止まらなかったんだよ。これで二度と会えねえ、永遠に会うことはねえ、ってな。クソ忙しかった大学生活の最中に何度お前のことを思い出し、一人涙したことだろう。明美と出会い、結ばれてからは流石にその頻度は減ったけど、それでもお前を忘れることなど出来なかったわ。だから、健翔の彼女の母親がお前だって知った時、マジで心臓止まったよ。出来のいい息子が助けてくれなきゃ、あのままおっ死んでただろうな。なあ健翔。何一つ親父らしいことをしてやれなくて悪かったな。その上昔惚れてた女とアメリカに行っちまうなんて、マジでサイテーな親父だよな。ま、お前はこんなサイテーな父親になるなよ。家族をキッチリ面倒見るちゃんとした父親になるんだぞ。咲良ちゃんとなら何とかなるんじゃね? 知らんけど。さてと。あーあ。口を開けて涎垂らして寝てやがる。超絶美人が台無しじゃねえか。でもこれがいいんだ。お前の一挙手一投足を俺は全部肯定してやる。死ぬまで肯定してやる。もう二度と離さねえからな、覚悟しとけや。
成田空港からの帰りのネックスの中。
「とうとう、行っちゃったね。あの二人、本当に仲良くやっていけるのかしら。私相当心配だわ。」
車窓に広がる緑を悄然と眺めながら、健翔は大きな溜め息を咲良に分からないように吐き出す。そして、
「それは僕も同じ。ボストン大学でもイキって学長選挙に出るぞ、なんて… 真剣にやめて欲しいよ。」
「それなっ 母さんも一緒になって大暴れして… 意外に早く日本に戻ってくるのでは?」
二人は顔を合わせ、プッと吹き出す。
「それよりさ、僕まだ実感湧かないよ、咲良ちゃんと同棲を始めるなんてさ。」
「あらそう? 借りていたマンションを引き払ったのだから、行き場はたった一つじゃない。いい加減観念したら?」
「観念って… 咲良ちゃんは、緊張してない? 僕はホラ、この手汗…」
「大丈夫よ。私もほら、こんなに手汗。」
こんな時って女子の方が強いよなあ。男の方が腰が引けちゃうんだよなあ。苦笑いしながら健翔は手汗をズボンで拭ってから咲良の手をギュッと握る。
しばらく車窓を眺めていると、いつの間にか咲良は寝息を立てて健翔の肩に寄りかかっている。より咲良が寝やすいように、腰をちょっと引いて肩の位置を低くする。
あっという間だったなあ、この二年間。それにしても本当に咲良ちゃんは良く頑張った。東大進学者が年に一人いるかいないか、と言う環境の中で、コツコツ勉強を重ねて。二年前梅子さんに看取られて亡くなったお爺ちゃんには悪いけど、今や僕が最も尊敬する人間は、キミなんだよ、咲良ちゃん。そんなキミと同じ大学に通えるだけで幸せなのに、今日から一緒に住むなんて… まるで映画か小説のようだね。そうそう、この間梅子さんが「あんたら早く籍入れちゃいなさいよ。それでさ、健翔くん苗字変わってもいいわよね、だって私が死んだらこの家アンタらにあげるんだからさ」なんて言われて度肝を抜かれたよ。あ! プロポーズの言葉、これはどうかな? 「藤原健翔になっても良いですか?」うん。我ながら傑作。待っていてね咲良ちゃん。時節が来たら、必ず。
頭がカクンとなり、ハッとして目覚めると電車は千葉駅を過ぎたあたりである。半分寝ぼけながら見上げると、健翔は軽い鼾をかきながら頭が上下に揺れている。
いつ見ても、美しいお顔。私なんかには本当に勿体無い程素敵だよ。こんなガリガリで貧乳で、ギリギリ大学に受かるような女は貴方は相応しくないのでは? それに。一生言わないけれど、私は… こんな卑怯な女なのです。貴方に決して言えない秘密を持った女なのです。だから私は貴方に全力で尽くしていく。何ならこの命を捧げてもよい。貴方がそうしろと言えば、躊躇なく刃を喉に突き立てて見せましょう。それ位。貴方が大好きです。貴方を愛しています。心の底から、愛しいです。きっとこの想いはお婆ちゃん、お母さんのD N Aの二重螺旋が解かれて複製されたのかもね。そんな遺伝子レベルで、貴方が愛しいです。先日お婆ちゃんが、「あんたら早く籍入れちゃいなさいよ。入籍の時にはね、藤原の家に入ってもらうんだよ。そうしたらこの家、アンタらにあげちゃうからさ。」と言い、腰が抜けたわ。そんなこと言える訳ないじゃない。私は菅原咲良、になりたいの。ならなきゃいけないの。藤原健翔になったのなら、彼は娘の十五の歳に亡くなっちゃうから。だからもう藤原は私で終わりでいいんじゃない? まあ夫婦別称もアリだけど。でも一つだけ確かなのは、私は貴方のお嫁さんになる。ここだけは譲れない。誰が何と言おうと、私は菅原咲良になる! 絶対に!
かくとだにえやはいぶきのさしもぐさ さしもしらじなもゆるおもひを