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遺伝子フラグ  作者: 悠鬼由宇
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陸の歌

ミッチの家は中目黒の駅から徒歩五分。ドブ川で鼻をつまみたくなる目黒川沿いの工場に挟まれたアパートの一室。夕方とはいえクソ暑かった日中のせいで、吐き気を催すほど臭い。

マジ臭い。

なのに足取りはチョー重たい。

どうして?

自殺って…

ボーゼンとしながらミッチのアパートに辿り着き、部屋の呼び鈴を鳴らす。


ミッチのママが悄然とした様子でももかを出迎えてくれる。

「桃香ちゃん あり がとう 来てくれて」

スナックのママをやってるミッチママ。髪にちょっと白いものが混じってるけど、ビックリする程のシャンだ。目は切れ長でまつ毛がチョー長い。顎の線が細く、ワンレンがメチャクチャ似合ってる。

ああ、ミッチが大人になったらこんな感じになるんかな、

そう思っていると部屋の奥からお線香の香りが漂ってくる。

その香りがももかを現実に引き戻す。

「良子は まだ 病院なんだ イアン室に いるんだ」

ミッチママはどこか遠くを見ながら、そっと呟く。

「ここには まだ いないん だ」

ももかはゴクリと唾を飲み込む。

「夏だから 暑いから シホーカイボー終わったら すぐに 焼いちゃうん だって」

もはや。抜け殻のミッチママを呆然と眺め続けるももかなのである。


「今朝ね、仕事から戻ると、良子が、いなかったの。また、いつものように、夜遊びしてるんだと思って、アタシそのまま、寝ちゃったの。」

狭い茶の間に敷かれた座布団に座りながら、仏壇の恐らくミッチパパの遺影を眺めながら、そして仏壇に灯された線香の香りに包まれながら、ミッチママの独り言のような話を聞いている。

「何度もね、電話が鳴ったの。時計を見たら、十時頃かな。警察からでね、壬生良子さんの家族の方ですかって。最初はね、ああ、また、補導されたのかなって。あの子中学の頃はしょっちゅう補導されていたから。ああそうですけど、何かって言ったら。良子さんが、都立大橋高校で遺体で発見されました、すぐ近くの大学病院にはんそーされたからすぐ来てくださいって。それでね、慌ててその病院に向かったの。そしたらね、イアン室に通されたの。白い布が顔にかぶさってて。お線香の匂いが すごくして 良子が そこに 横たわっていて」

全身を震わせて咽び泣くミッチママ。ももかも頭が真っ白。言葉が何も出てこない。


「学校のね、屋上にね、良子の荷物が置いてあったんだって そんなかに、入ってた、生徒手帳で、身元が、分かったんだって 良子はね 荷物を置いたまま 屋上の金網を よじ登って それで それで それ…」

人の苦悶する姿を初めて見た。全身から悲痛のオーラが立ち昇っている。

ももかも全身に鳥肌が立ち、ミッチが金網をよじ登る姿を想像し、そしてコンクートの地面にジャンプする様子を想像し、悲鳴を上げてしまう。

「ああ ごめんね ごめんね 辛いよね ごめんね」

思わずミッチママにしがみついてしまう。それからしばらく二人は抱き合い、鼻を啜り合う。

「その荷物にね、手帳が入っていたの そこにね、走り書きでね、『ももか ごめんな』って、書いてあったの ねえ桃香ちゃん、どうして、あの子、自殺なんか、したんだろう」

ミッチママがももかの服をギュッと握り締める。

ミッチ

あんた、まさか、

菅原くんのこと、そこまで……


それからポツリポツリ、ミッチと菅原くんとももかの話をミッチママに話した。途中、涙が止まんなくなって、ちゃんと説明できたか分からんくなったけど、なんとか話し終えた頃には夕陽が部屋に差し込んで仏壇に眩しく当たり、それ以外のものが真っ暗に見えている。

ミッチママはももかの目を見ずにずっと仏壇を眺めながら話を聞いていた。ももかが話し終えると、大きな大きな溜め息をふうーと吐いた。

「そう、だったんだ。あの子、好きな子が、いたんだ。知らなかったな、そんな年頃になってたんだ、あの子…」

がっくりと項垂れるその背に夕陽が当たり、埃の粒子がゆっくりと立ち昇っている。

「あの子、小さい頃から寂しがり屋さんでね… 四年前に旦那が事故って死んじゃった時は、相当塞ぎ込んじゃってね。でもアタシは生活のために昼も夜も働いてたから全然構ってやれなくて。気がついたら不良仲間とどっぷり連んじゃってて。でも、元々とっても頭の良い子で。中三の夏休みにちょっと勉強したらあっという間に成績が上がって。それで都立でもいいとこの大橋高校入れて それで…」

ミッチママは涙をこぼしながら懐かしそうな顔でその頃のミッチの話をしてくれる。知ってるよ、全部ミッチから聞いてるんだよ、とは言えず、ただ頷きながら話を聞いている。

「お友達が出来たよ、みんな良い子だよ、って。一瞬中学の時の悪い仲間を想像しちゃったんだけど、全然そうじゃなかった。アッコは背が高くて美人で、ノッコはお金持ちで頭が良くて、桃香は天然で可愛くて、って。顔を合わせるとあなた達の話ばかり、嬉しそうにしていたのよ。いつか会わせてちょうだいって言ったらね、ママになんか会わせられねえよって。アイツらがママで汚れちゃうよ、だって。ホント失礼な子よね…」

プッと吹き出しながら、目の涙を拭うミッチママ。

夕陽に照らされている遺影には笑顔のミッチパパが優しくママを見下ろしている。ふと気になり、ミッチパパはどんな人だったか伺う。


「この人はね、私が二十歳の頃に知り合ったの。私は高校中退して、東京に出てきて新宿のキャバレーで働いていた時にね、すごい大雨の時に傘を貸してくれたの。この人は早稲田の学生で、それから付き合い始めたの…」

混乱しているのだろう、話があっちこっちに飛んでいて内容を把握するのが大変だ…

「そしたらね、私が妊娠しちゃったの。この人は学校やめて働き出して。親に勘当されて。一緒に暮らし始めて。大型の免許取って、トラックの運転手になったの。良子が生まれた時の嬉し涙は、一生忘れない…」

…それは知らなかった。さすがにミッチはそこまでももか達には話してくれなかった。ミッチのパパって、ワセダ! それってチョー頭いいんじゃん!

「良子はパパが大好きで。仕事から帰ってくるとずっと付きまとっていて。あの人も多分ねアタシより良子のことを愛していたわ。うふふ、そうでしょアンタ。」

夕陽はいつの間にか街平線に沈み、薄暗い部屋の中でミッチママのハスキーボイスの呟きはいつまでも続く。

「だからこの人がトラックの横転事故で死んだ時。良子は気が狂ったようになっちゃった。学校にもひと月くらい行かなくって。その頃くらいから、手がつけられなくなって。この辺の不良達と連み始めて、喧嘩ばっかりして。アタシ毎月目黒警察署に頭下げに行っていたわ。その頃思ったの、この子には早く父親が必要なんじゃないかって。だからアタシと所帯持ってくれるっていう人を何人もあの子に会わせたわ。でも全然ダメで。益々荒れちゃって。」

それは、そうなるのでは… ミッチママ、単細胞すぎる…

でも、ミッチによく似ている。この思い込み、こうと決めたら即実行。

思わず吹き出してしまう。


「でもね。夏休みにね、突然勉強し始めたのよ。『高校くらいはちゃんと行かねえと』とか言って。元々頭の良い子だったのよ、だから…」

うん。さっき聞きましたよ。でも、知らんかった、お父さんがワセダかあ、それなら地頭はかなーり良いのは頷ける。てっきりパパも不良崩れとばかり思っていたので。

実際、全然勉強しないのに、成績は中の下くらい? 特に数学や物理はビックリするほど良く出来ていたかも。

ふとテレビの横を見ると、V H Sのビデオテープが山積みになっている。ああ、これは…

「ふふ。あの子、アニメが大好きでしょ? あれはアタシの影響。アタシがアニメ大好きでね、ビデオに録画して昔から良子と一緒に見ていたのよ。え? ゲーム? ああ、ファミコン! さすがにそれは… ああでもアタシが朝方家に帰ると、あの子眠たそうにゲームしていたわ。」

あれ? それって?

「うん。寂しかったんだと思う。アタシが帰ってくるのをゲームしながら待っていたんだと思うの。だからゲームなんてやめなさいなんて言えなくて、ね…」

究極の寂しがり屋。

ミッチ、あんたそれならもっと…

「本当に。あなた達は良子にとって最高のお友達だったわ。それなのに…」

それならもっと、バイトなんかしないでももか達と一緒に…

そう言えば、バイト。

本人は遊ぶ金欲しさと言っていたが?

「違うわよ。パパと同じ大学に行きたかったの。そのための貯金。」

息が止まった。


「去年の夏に何があったかアタシは知らない。でもあの子は都立のいい所に入学してパパと同じ大学に行きたい、って思ったみたい。ゲームもよくしてたけど、勉強もちゃんとしてたみたいよ、あの子。」

知らなかった…

ミッチがワセダ志望だったなんて…

聞いてないよ、知らなかったよそんなこと…

てっきりビギのワンピが欲しいからバイトしてるんだと思ってた。遊びの旅行に行くお金を溜めているんだと思っていた。

卒業したら、専門学校にでも行くんだと思っていた。

ずっと心の中で見下していた。この子は時代に流され雰囲気に呑まれるその辺のチャラい女子であると、決めつけていた。

ただ自分にない決断力、実行力には素直に感心し尊敬していた。だから友人としてなんとなく認めていた。

だが。

本当のミッチは。

想像以上に己を知り己を磨き切磋琢磨を厭わない、すなわち時代に流されず真の目的に一途な立派な学徒だったのだ!

どうして、言ってくれなかったの!

今すぐ話をしたい。

勉強の話、大学の話、そして将来の話

ミッチと真剣トークしたい

ああ

どうしてこないだあんなこと言っちゃったんだろう


ミッチはスガワラに合わないよ。

ミッチは大学とか考えてないんでしょ? 合わないよ全然。

諦めなよ。生きる世界が違うんだよ。


心のどこかで、あんな不良崩れのチャラい女にスガワラは絶対渡せない、そう思っていた。絶対にスガワラにミッチなんか相応しくない、そう確信していた。

だから投げかける言葉は辛辣になり、そこに込められた悪意は相当のものだった。そしてそれがミッチの心を完璧に破壊してしまったんだ!

信用していた親友に、信頼していた親友に激しく罵られ否定され。

彼女は、私が壊したんだ。

私が、彼女を殺したんだ。

抜け殻のようなミッチママの小さな背中を眺めながら、取り返しのつかないことをしてしまった自分に愕然とする。


ミッチのアパートを出て、目黒川のドブ臭い匂いにハッと我に帰る。

八月十五日。

ミッチの命日を自分の記憶にメモリーする。


     *     *     *     *     *     *


週末に行われた簡単なお通夜とお葬式はあっという間に終わってしまう。

夏休み真っ只中ということで、連絡がすぐに行き渡らなかったのだろう、参列者は少なく、ももか達三人の他に何人かの生徒。数名の先生方にミッチの親戚筋、といった感じ。

霊柩車を見送った後、アッコとノッコをファミレスに誘い、全てのことを話した。

ももかのせいでミッチは自殺したんだ。ももかがミッチの秘めたる野望を知らずに、大学も行かないくせに生きる世界が違うとまで言った、と口にした瞬間。

バシャッ

アッコが泣きながらコップの水をももかにぶっかけた。

「サイテー」

ノッコが見たことのない鋭い目つきで呟いた。

二人は席を立ち、店から出て行った。

おしぼりで顔を拭きながら、これでいい。そう思った。

あの二人に向ける顔がない。

思いっきし憎んで欲しい。恨んで欲しい。

ミッチを殺したのは私なのだから。

怯えたウエーターが運んできた食事を三人分平らげ、会計を済ませて店を出る。

外は気が遠くなる程の夏であった。


家に帰り、身体に塩を振り玄関に入る。

自室に上がり、溜まりに溜まった留守電を巻き戻す。その殆どがアイツからのものである。

初めはブッチしたことに対する罵詈雑言であったのだが、途中からまた何かあったのか、と心配され始め思わず目が潤んでしまう。

全て聞き終え、消去する。

ベッドに身を投げ出し、天井を見上げる。

やはり、こうなった。

またしても不幸が、私を直撃した。

もう疑いようが無い。

アイツと距離が縮まると、アイツと心が通じ合うと、私に不幸が舞い降りる。

パパの死、親友の死。

もう間違い無い。

私とアイツは、近づいてはならない。

ベッドから跳ね起き、階段を駆け降りて庭に出る。そして炎天下でも泰然としている老梅に近付いていく。

そっと幹に触れる。そっと目を閉じる。

もうアイツとは会いません。連絡も取りません、だから

だからこれ以上、ももかを虐めないでください。虐げないでください。

これ以上、私の大事なものを奪うのを

やめてください

気が付くと右手の爪が木の幹に食い込んでいる。

左手で硬く硬直した右手を木の幹から離す。そしてしゃがみ込み、嗚咽する。

諦めよう。アイツのことは。

これ以上大切なものを失わないために。

そう決心し、老梅を後にする。


桃園の誓い、ならぬ梅園の誓い。

早速それは功を奏する。

翌週とある夜。アッコとノッコに宮下公園に呼び出される。

私が現れるや否や、アッコは私の顔を力一杯叩いた。私は避けもせずそれを受け止めると、更にビンタが頬を叩く。

アッコは大粒の涙を流しながら、そして大声で叫びながら私の頬を叩き続ける。やがて鼻血が流れ出し私の白のワンピは赤いドット模様になっていく。

口の中は血の味がし、何発目かが左耳を直撃してからは音が聞こえなくなる。

叩き疲れたアッコがうずくまり号泣する。

血まみれの私にノッコがしがみついたかと思うと、何度も何度も私の胸を両の拳で殴り付ける。

気が付くと周りは野次馬が出来ており、警察を、なんて声が聞こえたので、うずくまるアッコを無理矢理立たせてしがみつくノッコを引き摺りながらその場を立ち去った。

山手線の高架下で息を切らせながら、二人を眺める。

息を弾ませながらアッコが、

「ごめん。ちょっと、やり過ぎた」

よく聞こえなかったので右耳で聞き直すと、

「いいよ。今度はももかの番。さ、いいよ」

と言って顔を突き出すものだから、血まみれの唇のまま、頬にキスしてやった。これでおあいこだからね、と言うと、

「これ、だから、ももか…」

そう言ってまたも号泣し始める。


四十九日が過ぎ、三人でミッチの墓参りをしたのは秋になってからだった。

目黒不動尊での納骨式に制服のまま参列し、その後近くのファミレスでミッチの思い出話に明け暮れた。

ミッチが早稲田大学を志望していたことを知ると彼女たちは驚愕し、三人でその意志を果たそうと誰ともなく言い、以来私達は渋谷や原宿での徘徊をやめ、勉学に勤しみだした。

二年生、三年生と三人はクラスは別々になるがその仲は揺らぐことはなく、然しながら勉学に勤しむ誓いは徐々に衰えを見せ、気が付くと渋谷、原宿の街を三人で徘徊したものだった。

「息抜き、息抜き。これくらいミッチも大目に見てくれるって」

「だよねー、ちょっとくらいいいよねー」

クレープを頬張りながらノッコが笑顔で言い放つ。

そんなノッコは早々に早稲田大の推薦を手にし、私とアッコは二人受験戦線で死闘を尽くす。

されど受験の神とミッチは首を縦に振らず、アッコは青学、私は法政大と後一歩及ばなかった。

「まあ、頑張ったよ。うん。現役で青学、法政なら、よく頑張った!」

と一人ミッチの遺志を全うしたノッコにコーラを頭からぶっかけて、私達の高校生活は終了した。


     *     *     *     *     *     *


大学に入り、何人かの男と付き合った。

けれど半年も持たずに別れてしまう。

どうしても、

どうしてもアイツが心から離れない。いや、遺伝子から離れない。

どんなにイケメンであっても、ついアイツと比べてしまう。どんなに賢い男であっても、アイツの方が優秀だったなと思ってしまう。

成人となってからは月一で飲むアッコとノッコにそのことを愚痴ると、

「ミッチの呪いだね。ももかは一生、男と結婚出来ないに違いないっ」

や、やめてよ… それマジで怖いんだけど…

「なーんて、笑って話せるよーになって。逆に懐かしいね、あの頃」

既に留年が確定しているノッコに、あんたもミッチの呪いばっちしかかってんじゃね、と揶揄うと、

「行こう、お墓参り… 原宿のクレープ持って、墓参るぞお」

因みに私は、月命日である十五日は毎月ほぼ欠かさず墓参りをしているのだが。


流石のバブル景気も終焉に近づき、私達の就職活動は氷河期に突入してしまう。それでも墓参を欠かさなかった私はなんとか大手住宅メーカーの内定を貰い、社会人となった。

まだまだセクハラパワハラ全盛期であり、かつ体育会出身の脳筋者が多いこの業界で私は仕事にプライベートに翻弄される。

受付に配された私は枕営業もどきの接待なんてザラであり、幾度となく枕に頭を沈みかけるも守護神ミッチの謎のパワーが私の身を守ってくれた、気がする。

入社二年目、取引先の重役に京都に連れて行かれ、そのまま高級旅館に拉致されかけるも、その重役が入浴中に心筋梗塞を起こし病院に運ばれたのでギリ助かった。

入社三年目の忘年会では営業部長に拉致られ、都内某高級ホテルに監禁されてしまったが、その行為の直前にその重役は吐血し、病院の検査の結果肺がんのステージⅣと診断された。

いつからか私に二つ名がついていた、その名も

デス・ピーチ

藤原桃香を落とそうとすれば必ず不幸が降りかかる。

入社四年目の春、とあるイケメン新入社員が

「絶対落として見せますよ」

と私に狙いを定め、なんとか私を都心の高級マンションに連れ込むも、いざ突入!の瞬間に火災警報器がマンション内に響き渡り、全裸でエントランスに駆け降りて行った彼は、

「絶対何か取り憑いてますって。なので何人もあの人を落とせるとは思えません。賭けてもいいですよ。あ、これ賭け金です」

入社七年目にはその賭け金が積もりに積もり、百万円を超えていたらしい。


アラサーを超え、マジサーとなっても脳筋男たちの執拗な誘いは全く絶たず。

三十一の歳に二十三歳の新入社員の男子に真剣に求婚されたのには絶句した。

「藤原さん。どうか私に御利益を…」

私の周りには若手の女子社員が群がり、男を手玉に取るノウハウをなんとか手にしようと必死になっている姿が笑えた。

私が使っている化粧品はすぐに彼女たちに周知され、私が行っているスポーツジムには入会希望者が殺到したと言う。

「そろそろさあ、スガワラくんの呪いを振り払ったら?」

笑いながら二歳の赤子をあやすアッコが言うも、

「いいや、まだまだ。私が行ってからにしてちょうだい」

とノッコが首を横に振る。


二〇〇三年。三十三歳の歳を迎えた私は、とある取引先の男性に激しく求婚され、それを受諾した。

大手空調機器メーカーの営業課長。背は高からず低からず。ガッチリした体型に銀縁眼鏡。周囲にとても気のつかえる人で、営業職にしては脳筋度が低く、卒業した大学が明治大学というのも少し気が楽かな、なんて考えその年のうちにさっさと式を挙げてしまった。

積もりに積もったデスピーチ掛金はそのまま結婚祝いとして授与され、結婚式代が浮いてラッキーだったものだ。

私はそれを機に退職し、会社での藤原伝説は終焉する。

私の実家で新婚生活を過ごし、私は専業主婦道を邁進する。

三年後、女の子を授かり、夫の強い意向で

咲良

と名付けた。


その頃にはアイツを思い出すことも少なくなり、主婦道と育児道にこの身の全てを捧げる。夫は順調に出世街道を突き進み、咲良が三歳の頃に室長に昇進する。

「どうだろう、家を買わないか?」

オートロック、床暖房、ビルトインクーラー、食洗機、ウオッシュレットに心を奪われた私はその意見に大賛成し、母の援助の元今住まう分譲戸建住宅に引っ越しをする。

それからは日々の過ぎゆくことの何と早いこと。

咲良はあっという間に幼稚園を卒園し、地元の公立小学校に入学する。

私の子供の頃には何もなかったこの街も徐々に活気付きだし、便利なお店やお洒落なカフェ、レストランが年毎に立ち並び出す。

ママ友とお茶をしながら日頃の育児道の愚痴を言い合っていると、これが幸せというやつなのかな、と思ったりした。

その頃には半年に一度のアッコ、ノッコとの食事会の際、

「スガワラくん、どうしているかねえ」

なんて話が出るとそれから数日はアイツのことを思い出したりして。

でも一週間もすればすっかりアイツのことは忘却の彼方、そんな事よりも今夜のおかずどうしよう、なんて悩む日々の過ぎゆく脚の早いこと、早いこと。


夫は咲良を中学受験させたい意向だったようだが。

ママ友の話では、三年間は母は受験にかかりきりになるわよ、なんて脅され。

それとなく咲良に意向を伺うも、本人にその気は全くなく、それを理由に夫の意向を却下する。

その頃から夫は直属の部下達をよく家に連れて来るようになり。

私も遠く離れた実社会の息遣いを聞けて、それはそれで割と楽しかったりして。咲良も中学生の途中までは彼らと仲良くしていたが、ある時から心に壁を作り、彼らの来訪を拒むようになった。

同時に、その時期から咲良と夫の間に溝が生じ、家庭内はギスギスした感じになってしまう。

アッコに相談すると、

「そんなもんだって。ま、中にはパパラヴ!がずっと続く子もいるわよ、でもそれもどーかなあーって思うよ私は。いいんじゃない、さっちゃんはパパから自立しようとしているんだから。応援してあげなよ」

そんなもんか、あれ自分はどうだったっけ、と亡き父を思い出そうとして、愕然とする。

ちょっと、待て。

まさか!

まさか?

亡き父、祖父。いずれも娘が十五の歳に不慮の死を迎えている。

まさか…

咲良の父も?

私の夫も?


咲良が中学三年生になる。

私の不安が的中するならば、来年咲良の父は不慮の死を遂げる。

冗談では無い、今のこの平和に満ちた生活を失うなんて有り得ない。

この憤怒にも似た不安が強く私の心に住み着こうとした頃。コロナウイルスが全世界に蔓延し始める。この街にも、我が家庭にもその脅威は容赦なく押し寄せて来て、その対策と対応に追われると同時に夫を亡くす不安はどこかに消し飛んでいった。

家族を守らなくちゃ。咲良を守らなくちゃ。

元々ズボラで怠け者だった私は心を入れ替え、掃除洗濯炊事に細心の注意を払い、殺菌除菌防菌に明け暮れたものだった。

幸い家族に感染者を出す事なく一年が過ぎ、そんな中で最高の喜びを咲良が私に与えてくれた。それは。

私の母校、都立大橋高等学校に入学を果たしたことだった。


アッコとノッコと、そしてミッチと出会った学校。

ミッチとさよならした学校。

そして、

アイツとの邂逅。

あまりに充実し、あまりに切なかった学生生活。

その同じ舞台に、愛娘が通学する!

どうかあなたは私以上に充実して欲しい。

どうかあなたは私以上に悲しい思いをしないで欲しい。

どうかあなたは、普通の出逢いをして欲しい。

咲良が弁当を携え家を出る時、常に私は心の中でそう祈っていた。


元々どちらかと言えばコミュ障な愛娘が入学早々に親友を作ったと聞かされ、思わず涙がこぼれた。

咲良、

あなたも見つけたんだね、一生の友達、ずっ友を。

「何そのずっ友って? 薄気味悪いんだけれど。ねえお母さん、そう言う若者言葉使うの、とっても痛いよ。」

コミュ障のあなたに言われたくなかったのだけれど。

それでも。

良かった。本当に良かった。

あとは、素敵な出逢い。普通の出逢い。

そう思った瞬間。三十数年前の憂いが脳裏をよぎり、背筋が冷たくなる。

アイツと知り合い近づいた途端にパパが亡くなった!

ちょっと待って。

胸がざわつく。私の中の遺伝子が何かを叫ぼうとしている。

ダメ、出逢っちゃダメ!

慌てて玄関を飛び出し咲良の後ろ姿を追おうとして、足を止める。上げかけた右腕に春の日差しが目ざとく差し込む。

その日以来、咲良が出逢いませんように、そう祈りながら娘を見送るのだった。


運命の悪戯? それともこれが定められた宿命? 

七月に入り梅雨明けも間近の頃。

どうやら咲良に気になる男子が出来たらしい。

内心では身も凍る思いでそれとなく彼の人となりを聞き出そうとするも、中々白状せず。写真を一目見たいと思うも却下され。

日一日と渦巻く不安を隠しきれないまま夏に入ろうとするある日。

取引先との接待ゴルフを終えた夫が恐る恐るメッセージを送ってくる。

『部下達がどうしても家にお邪魔したいと言っているんだ。咲良、どうだろうか?』

どうだろうかって言われても…

この数年ろくに会話していない父と娘。そんな父の会社の部下達が急に我が家を訪れる。絶対に嫌がるだろうと思いつつ咲良に振ってみるとー

「いいよ。別に。」

何故か頬を赤らめながら、そしてスマホを握りしめながら答える我が娘にホッとすると共に得体の知れない不安が胸に高まって来るのを感じる。それを悟られぬよう、夫に咲良は大丈夫みたいだよ、とメッセージを送る。


数年ぶりの部下達の訪問。

たまに電話で話すことはあったが、長らく夫に仕えている安倍ちゃんは室長に昇格して本当に嬉しそうだった。

初めて会う中堅の小野君。夫と同じ大学卒でいかにも営業マンという感じだ。でも今時の若者らしく、スッとしてシャキッとした感じに好感を持った。

いかにも体育会出身、の若手女子社員の清原さん。元大学のゴルフ部で夫より遥かに上手だという。憧れの目で私を見る彼女に、つい寿退職前の若手女子社員達を思い出し、クスッと笑ってしまう。

あの日は珍しく、本当に珍しく咲良が積極的に会話を続け、久しぶりに盛り上がり充実した夜であった。

あったのだが……


その数日後。

夫はコロナ陽性と診断され。


程なく帰らぬ人となりけり さほどのおどろきに唖然としにけり

よもわが不安がうつつにならむとは思ひもやらざりき

それより日ごろなにも考ふべからざりき


人の命の惜しくもあるかな


     *     *     *     *     *     *


二週間過ぎき

をひとの思ひでが走馬灯のごとくあたま駆けありけり

何する気力なくただ床にふせり

いかでかかる宿世のがり生まれきけむ

いかでかかる宿世のがり生みにけむ

ただただ去ることを考えつゞけたりき


「お母さん 大友先生が、お話しできないかって。」

我が子を見上ぐ

思へるよりすがらにめざめしくせるむすめを見上ぐ

このままにはえいかず

あな、

このままじゃ、駄目

ああ、ちゃんとしなくちゃ シャンとしなくちゃ

咲良から子機を受け取り、耳に当てる。


懐かしい、脳筋の戯言が意外に耳に心地良い。

かつて私が勤めていた会社によくいた人種の、気合と根性が主体の一言一言が今は胸に染み入る。

若い頃はあれ程毛嫌いしていたのだが、この歳になってこんな境遇にいる私には何よりのカンフル剤なのかも知れない。

「お母さん。咲良さんのためにもね、頑張んなきゃ。彼女、一人で頑張ってるよ、お母さんの分までしっかり頑張ってるよ。辛いのは自分だけじゃないよ、周りもみんな辛いんだから。自分の背負ってる十字架だけが重い訳じゃないんだからさ、」

あんた、クリスチャン? とツッコミそうになり、思わず吹き出してしまう。

そうよね。そうだよね。

十五の咲良が健気にも頑張ってるのだから。

私も頑張らなきゃ。

電話を切った後、久しぶりに咲良に食事を作りたくなった。


徐々に周囲の物の色が見え始め、音色が聞こえ始めた頃。

大友先生がお線香を上げに来てくれた。

久しぶりに赤の他人と会い、じっくりと話した。

先生の哀悼の視線の中にオスの視線を感じ、思わず溜息が出てしまう。ああどうして脳筋系の男は女性を狩猟の対象としか見ないのだろう。

それでも今の私の精神状態には彼の快活さと明朗さはそれなりに助けとなり、日一日と藤原家の不幸を忘れさてくれるものではあった。

ところが彼は段々調子に乗ってきて、夕食を食べたいだの言い出したものだからそろそろ締めにかかろうと思った頃。

「お母さん、ちょっと相談があるのだけれど」

耳まで真っ赤にして。そう言えば咲良の出逢った男の子。夫の件ですっかり忘却していたのだが…

確かあの名門神宮高校に通う、えっと、何くんだったっけ?

「菅原健翔くんですけれど」

一瞬、息が止まる。

え? 今、何て?

スガワラ、くん?

まさか

背筋に冷たい汗がつうーっと流れ、全身に鳥肌が立つ。

スガワラ。

間違いない、今回の夫の死は。

遺伝子の呪いに間違いない。


その場をなんとか取り繕い、怪訝な顔をする咲良を家に残し慌てて家の外に出る。

近くの公園のベンチに座り込み、頭を抱える。

ああ

まただ。

どうして?

咲良はスガワラくんと出逢い、そして夫は亡くなった。

そして、

これ以上咲良が彼と親交を深めていけば…

大切な何かが、また失われてしまう。

ミッチ、ねえミッチ

私、どうしたらいい? どうしたら咲良を

咲良が嘆き悲しむことにならないように

どうすればできるのかな

必死に問いかけるも、残酷な日差しがただただ私を突き刺すだけであった。


スガワラくんが家を訪れる日の朝。

咲良は緊張した趣でヨーグルト飲料を啜っていた。

溜息を隠しつつ、どうすればこれ以上この子が不幸に足を踏み入れないかを模索しようとした瞬間。

菅原、健翔、くん?

ま、まさか

あの、スガワラの息子?

頭をハンマーで殴られた感を覚え、咲良に庭の掃除をするよう指示した後寝室に上がり布団に倒れ込む。

菅原健司。

あのスガワラの本名だ。

有り得ない。

だが。

もし、スガワラくんが、あのスガワラの息子であるなら…

逢える?

スガワラに、逢える?

この数日の不安と恐怖心が一気に晴れ、ときめきにも似た思いが胸に溢れかえる。

この歳になって、アイツに逢える…

忘れたくても、忘れられないアイツに、この遺伝子に深く刻まれたアイツに、また…

いや。

そんな偶然がある筈がない。絶対に違う、ただの偶然だ。運命の悪戯だ。

きっと、

一目で分かる。

アイツの息子だったなら、一目で見抜く自信がある。

布団から起き上がり、窓から咲良の手抜き作業を見つめる。

さっちゃん、きっとあなたより、

私の方がスガワラくんに会いたいんだよ。

フッと息を吐き、リビングに降りて掃除を始める。


「あ、初めまして、神宮高校の菅原健翔です。」

見間違えようもない。

アイツの目。アイツの鼻筋。アイツの喉仏。

挨拶もそこそこに、二階の寝室に駆け込み布団にまたもや倒れ込む。

ああ、

会いたかった。ずっとずっと、会いたかったよ。

枕に顔を押し当て、声を押し殺しながら泣いた。涙がどんどん枕に染み込んでいき、それでも泣いた。

何という運命

何という宿命

アイツの存在を明確に認識し、歓喜に体の震えが止まらない。

しばらくして。

これから訪れる不幸に身を凍らせる。

一体何が、咲良に?

どれだけの不幸が咲良に襲い掛かるのか?

私は知っている、それを避けるには。

それを避けるには、咲良を彼から遠ざければ良い。と。

でも、

そうすれば、私がアイツに再会するチャンスが二度と無くなってしまう。それにまた私がアイツと関われば、今度はどれ程の不幸が私を襲うのだろう。

まるで針鼠のジレンマだ。

ああ、

一体どうすれば、

どうすれば咲良も彼も、私もアイツも

何事もなく結ばれることが出来るのだろう…


さればいかがすべからむや

いかがせば我らに果報や訪れむ

どなたか教えたまへねがいたてまつる

我ら救ひたまへ


こぬひとをまつほのうらのゆうなぎに

やくやもしおのみもこがれつつ


不意に頭の中に響き渡る。何なのだろう、この歌は?


やくや…

やくや?

焼く、や…?


     *     *     *     *     *     *


何度か咲良が寝室に私の様子を見にきたが、私はさっきの頭に響いた歌が気になっていたのでおざなりの返事をしていた。

全部を思い出せなかったが、妙に印象的だった

やくやもしおの

は忘れずにスマホにメモしておいた。

スガワラくんが帰宅した後、夕食を作っていると

「お母さん。火曜日にね、里美が遊びにきたいって言ってるのだけれど。構わないよね?」

咲良の親友だ。全く問題ない、いや寧ろいてくれた方が脳筋避けに丁度いいと思いつつ、そう言えば彼女はカルタ部に所属している事を思い出し、ひょっとしたらこの歌のことを知っているかも、いや知っているに違いない、そう確信し、咲良に快諾の意を告げる。


そして火曜日。

初めて会う里美ちゃん。今風の女の子だ。咲良とはお世辞にも合いそうもない。渋谷や原宿で屯している感じの娘である。

だが話を聞いているうちに、実は深い教養を持つ芯のしっかりとした子だと気付く。

脳筋教師と咲良が夏休みの宿題についてリビングで打ち合わせをしている時。里美ちゃんにスマホを見せ、やくやもしおの、という和歌を知らないか尋ねる。

「ああ、それって。定家の『こぬ人を』ですよ。藤原定家っす。百人一首を作った人っす。」

藤原定家。

聞いたことがある。あれ、確か母が昔、ご先祖様話で何やら言っていたような…

因みに、その歌の内容を聞いてみると、

「松帆の浦って所で夕方に焼いてる藻塩のように、来てくれない人を想って恋焦がれちゃう、って意味ですけど。え? 松帆? 知りませーん。何処ですかねえ。え? 藻塩? 塩のついた藻? わっかりませーん」

この子、全然ダメ。歌の一語一句の意味を掘り下げず、ただ歌の調子だけで札を取ろうとしている。

これではカルタ部のレギュラーには程遠かろう。そう思いながらも、あの時私の頭に響いた歌が何か分かったので、一応心の中で感謝する。

感謝しつつ、咲良のスガワラくんの話を暴露すると、表情が凍りついてしまった。あ、しまった、やっちったかも… てへ、ぺろ。


何故に藤原定家の歌が私の頭に?

そしてこの歌が私たち藤原家と菅原家の不幸を取り除くキーワード?

そう思うと居ても立ってもいられなくなり、スマホで色々調べてみるも、サッパリ分からず。

取り敢えず、この定家って人と我が家との関係を確認したく、母の住む実家を訪ねる。

「あーーら珍しい。それで? 正さんのことは踏ん切りついたのかい?」

ええ、まあ、それは何とか。それより母さん…

「へ? 家系図見せろ? 何だい急に?」

実は、かくかくしかじか…

「はあ? 藤原定家と我が家の関係だって? 一体どんな風の吹き回しなんだい?」

それは、その、かくかくしかじか…

「ふーん。急に頭に浮かんだのが、『こぬ人を』だった、と。ふーん。まあいいや。ああ、家系図出してくる用もないよ。そもそもウチのご先祖様はねえ、」

小一時間程かけて何とか理解出来た。

それは。


私達の祖先。その名は藤原時平。

そもそも藤原家の始祖は藤原不比等(鎌足)であり、その四人の子供が藤原四家と呼ばれた四つの家、すなわち藤原南家、藤原北家、藤原式家、藤原京家を創立した。

そのうちの藤原北家は藤原房前が創設し、最初は他家に押され気味であったのだが、八一〇年の薬師の変以降、四家の中でも最も栄えたと言われている。

藤原時平の父は藤原基経と言い、平安時代前期に清和天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇に仕え、史上初の関白に就任した人物だ。

時平はこの基経の長男として生まれ、若くして栄達を極めたのだったが菅原道真との抗争ののち、九〇九年、三十九歳でこの世を去ったのだ。


そして、藤原定家。

平安時代末期の一一六二年に生まれ、鎌倉時代初期の一二四一年に死去。

藤原北家の嫡流であった藤原道長の六男、藤原長家を祖とする御子左家の系流に生まれ、政治よりも歌道の家として有名であったそうだ。

時平は北家の嫡流ではなく、弟の忠平が嫡流となり道長はその三代後の嫡流であった。そして道長の五代後の御子左家嫡流が定家だったので、我が家のご先祖の時平と定家は藤原北家系列の範疇に収まる関係であったと言えるだろう。


ああ、何となく分かった。

いや。

鮮明に分かった。

時平と道真の抗争、道真の遺恨。

その恨みは太宰府の飛梅の遺伝子に深く刻まれ、現代に伝わった。

藤原家、許すまじ

何の偶然か、私のお婆ちゃんがその梅を手に入れてしまった。

以来。

藤原家の娘が華を咲かせる頃に、菅原家の男子が接近する。それが引き金となり、藤原家に不幸が降りかかるー

そしてそのループを断ち切る唯一の手段。

それが。

やくやもしおのみもこがれつつ

つまり。

深い悲しみと憎しみの遺伝子を持つその梅の木を、焼き焦がす

それしかない。

不幸が舞い降りることなく咲良が菅原健翔と結ばれ、私が菅原健司と結ばれるには

これしか、ない。


だが、私にそれが出来るであろうか。

父が愛し、祖母と母が育んだこの老梅を焼き焦がすことが、

この私に出来るのであろうか…

藤原家のシンボルツリーを見上げながら、戸惑い躊躇うことしか今は出来なかった。


     *     *     *     *     *     *


九月に入り、咲良の新学期が始まる。

私に似ず、夫にも似ずに咲良の学校の成績は素晴らしいものである。本人曰く、

「早慶は絶対行くので」

明大卒の夫と法政卒の私の憧れの早慶を目指す娘を驚きの眼差しで見守っている。

ところが、である。

夏休み終盤くらいからだろうか。

「私、国立も受けてみたいかも。」

それって… まさか?

「うん。東大。」

危うく目玉が飛び出そうになる。は? 東京大学、ですか?

ここの所日常と化している脳筋男からの電話で、その件を聞いてみると、

「うん、あと二年頑張れば行けるかも知れませんよ。何しろ一学期の期末考査で学年三位の優秀な生徒ですからっ ガハハハ」

一応進学校の教師の言葉なので一旦引き取ることにし、夜にアッコに相談入れると、

「さっちゃん凄いね… その、神宮高校の彼との付き合いの副作用じゃね?」

副作用って…

「ま、詳しい話はさ、土曜日のランチの時によろー」

そうなのだ。コロナの影響でアッコに二年ぶりに会うことになっているのだ。残念ながらノッコは出張で参加出来ず、二人で旧交をぬるぬるするのであーる!


翌朝。咲良が土曜日に夫の部下だった小野さんが死亡退職金などの関係書類を夕方に持参してくれると言う。その日はアッコとランチとお茶をするから帰宅は五時過ぎになると思うと言うと、

「書類と一緒にね、ケンズカフェのガトーショコラ持って来てくれるんだって。神だよね小野さん」

私の分をちゃんと残しておくよう念を押す。それと帰りにデパ地下でなんか買って行くから小野さんも食べていくか聞いといてちょうだいな。

「それとね… 日曜日なんだけれど。」

はい? 私は何の予定もないわよ。

「菅原くんと、湘南に行ってこよう、かと。」

寝ぼけていた頭が急に高速回転しだす。え、ちょっと…

「あ、ちゃんと夕食には戻るから。それに、その、節度ある行動をするから、心配しないで…」

三十数年前の事が明瞭に脳裏に蘇ってくる。

あの日、アイツと出かけるはずだった湘南。アイツと一緒に見るはずだった湘南の海。そしてアイツと一緒に大人になる筈だった…

咲良の菅原くんは、完璧としか言いようのない好青年である。父親に似たイケメン、見上げる程の高身長。日本有数の進学校に通い、初対面の彼女の親にも爽やかながらもしっかりとした挨拶のできるコミニュケーションスキルを持つスーパーD Kだ。

亡き夫の評価は私以上で、

「そんな男の子、既成事実作って囲っちまえ」

なんて妄言を吐くほど。

正直、表情の変化に乏しくファッションやメイクに興味なし、かなりのコミュ障の我が娘には勿体ない男子と言えよう。

しかし、だ。

咲良が、これ以上彼と付き合いを深めていけば…

遺伝子に組み込まれた、恐ろしい呪いが…

咄嗟にミッチのことが頭に浮かぶ。ねえさっちゃん、堀川さんは元気にしているの?

咲良は一瞬動揺し、

「べ、別に。普通だけれど」

普通じゃない。きっと堀川さんと何かあったのだ。ミッチとの確執がありありと思い出され、そしてその不幸な結末も…

額に汗が滲む。どうしよう。このままでは咲良は親友を失ってしまう。

言うべきだろうか、これ以上彼と関わってはならない、と?

リビングの仏壇に目が行く。パパ、言ったほうがいいよね、それがこの子の為だよね…

勇気と力を振り絞り、あまり彼とこれ以上… そう言いかけた時。

「どうして? なんで? どこが気に入らないの? 前からそうだったよね、私分からない。お母さんが彼を気に入らない理由が全然分からない!」

そう叫ぶと咲良は作っておいた弁当をひったくり、学校へ行ってしまった。


「マジで? 嘘でしょ?」

アッコが絶叫しながら席から立ち上がる。

土曜のランチを楽しむ客とスタッフが一瞬にして凍り付く。

すいませーん、と苦笑いしながらアッコは席に座ると、

「さっちゃんの彼氏、あの菅原くんの息子さん… そんな偶然ってあるの? なんかちょっと怖いね…」

ねえ、私どうしたらいいかな。なんかこのままじゃまた良くないことが起こる気がするの…

「さ、さすがにそれは考えすぎじゃね? あ、でもさっちゃんがその彼と付き合い始めたら、正さんが… そっか、あん時と一緒って桃香は考えてるんだ…」

うん。だからこのままだと咲良にも私と同じ苦しみが、そして咲良の親友にそれ以上の…

「それはないと思うぞ。ないと思う、けど… でも確かにさ、桃香が菅原くんと別れてからはフツーに学校生活送ってたしなあ。いやいやいや。でもだからってさっちゃんに別れなさいなんて言わんでしょ、フツー」

だよね。だよね。でもね、でもね…

「分かる! あんたの気持ちも十分分かる。ならさ、その話をさ、ちゃんとさっちゃんにしてあげなよ。それでさ、これからどうするかはさっちゃんに決めさせなよ。すっごく頭良い子だから、ちゃんと理解してくれると思うよ。うん。」

スタッフが恐る恐るメインの魚料理を運んでくる。アッコは満面の笑顔でさっきはごめんね、もう大丈夫だから、と告げると彼女はホッとした表情でどうぞお楽しみくださいと言って去って行く。


ランチを終えた後、道玄坂のカフェでまったりとアイスラテを啜る。

話は専ら、スガワラについて。

アッコがスマホを眺め続け、あっと声を上げる。

「これ、あの菅原くんじゃね?」

スマホを私に向ける。

そこには、ああああ…

五十一歳のアイツがいる…

「スッゲーじゃん。高校卒業後、渡米しロサンゼルス大学を卒業。同大学で経営学の博士課程を終え、サンノゼ大学で経営学の教授…って、マジ凄くね? 息子の中学受験のために日本に帰国後、溝の口大学経営学部の教授… 空いた口が塞がらん…」

そっか。

夢、叶えたんだね。

(やっぱりアメリカ、早く行きてえなあ)

夢、実現させちゃったんだね。

それにしても。

溝の口大学って、すぐ近くじゃん。

高鳴る鼓動、舞い上がる想い、

すっかりデパ地下行くのを忘れ、桜新町の駅を降り、家に向かう。


あれ? リビングの電気が付いていない。鍵を開けて玄関に入るも、男物の靴は無く、ああ小野さん急用でも入ったのかしら、とキッチンに入ると、しっかりとチョコの付いたお皿が二枚。

紙のボックスにちゃあんと私のガトーショコラが入っているのでニンマリとする。

それにしても。

部屋は真っ暗、小野さんは帰宅済み、さっちゃんは部屋でお勉強かしら、と二階の咲良の部屋を覗くと咲良が全裸で寝ているし。

呆れ果てて近付くと、異変を感じる。

何だろう、この臭い…

えっ……

この臭い、まさか、男特有のあの臭い…

咲良の下腹部に目が注がれ、思わず悲鳴を上げる。


意識は遠くなり、心の中で絶叫する。

どうして、何故、

こんな不幸を受けねばならないのっ


     *     *     *     *     *     *


検査の結果、ひどい傷などはみられないが感染症や妊娠の恐れは否めないので薬を出してもらった。

人形のようになってしまった娘の姿は直視に耐えられず、母に連絡し簡単に事情を説明するとすぐに迎えに来てくれる。

私たちは実家に入り、咲良を寝室に寝かせる。

茶の間で母は熱いお茶を一口啜ると、

「どうして、こんなことになったんだい。」

大まかな事情を母に話す。私も相当に動揺していたので、正確に伝えることは困難であった、が何とか母に伝え切ると、

「当分ここにいることだね。それと弁護士の田中さんに月曜日になったら相談しようかね。その腐れ外道を地獄に叩き落としてやるっ!」

久しぶりに母の般若の様相を見た気がする。母は昔から人の道に反したことに対して、常人からは信じられない程の対応を示してきた。

今はそんな母が頼もしくて仕方がない。


そんな事よりも。

予想通りに、事は起きてしまった。

私の推測はほぼ間違いないだろう。

それを最終証明しようと、母にある事を問う。

「へ? 私が十五の頃に付き合った男の名前? 何でそんなことお前に話さなきゃならないんだい。冗談じゃないよ、だーれが話すもんかい。くだらない。」

ねえ、その人って、もしかして、

菅原さん?


母は口に含んでいた静岡のお茶を口から垂らしてしまった。

間違いない。

これで、私の推測は正しかったことが証明された。


私たち、藤原の女子が菅原の男子に近づく時。

父や友人を失い、本人も傷付く。

その不幸を逃れるには、菅原の男子を遠ざけるべし


ふと庭の老梅が頭に浮かぶ。

ああ、そうだ。

この不幸の源は、すぐそこに生えし梅の木なのである。

藤原、そして菅原の両家の不幸の源。

こぬひとをまつほのうらのゆうなぎに

やくやもしおのみもこがれつつ

もし私がこの梅の木を切り倒し、火にかけてしまえば

三代続いたこの不幸はこの世から消え去るのであろうか?


「なんだって? あの木を切り倒す? あんた、ちょっと疲れてるんだよ、お風呂入って寝ちゃいなさい、ね。」

そうじゃなくて! あの子の為にも、私の為にも、切り倒さなくちゃダメなの。あの木のせいでみんな不幸になっているの!

「桃香、桃香。分かったよ、うん。でも、その話は明日にしようね、今日はもう休みなさい。疲れているのよ、あんたも。」

母は全く取り合ってくれなかった。


翌朝。

咲良に朝粥を食べさせた後、庭に出てみる。

九月の初旬、残暑は厳しく未だにセミの鳴く声が姦しい。庭の木々の緑は深く、母が丹念に育てている向日葵やマリーゴールドが酷暑に硬直している。

老梅。これが諸悪の根源。

だがそんなドス黒いオーラは全くなく、濃い緑の葉が音もなく揺れている。

この梅の木の由来は昔から耳タコな程に聞かされている。母の母、すなわち私の祖母が貰ってきたのだ。福岡の太宰府の飛梅から株分けされた、由緒正しい梅の木なのだから末代まで大事に育てるように、祖母は母と私に口酸っぱく語ったものだった。

当時はなんて神々しい梅なのだろう、と感嘆したものだった。

だが今は

どうやってこの木を倒し、火をくべ、焼き焦がそうか

それも、なるべく早くしなければ、できれば今年中にでも…

それは咲良の幸せのため、そして私の…

だが、母は全力でそれを阻止するであろう、理由が余りに斜め上なのだから。

とすれば、母がいない間に、ささっと事を進めねば。だが、母が丸一日家を空けることはこの酷暑の中滅多にない。

来月だ。秋になれば母は温泉だ秋の味覚だ、と外出する機会が増えよう、よし、その隙に…

暗く黒い情熱の炎が私の心に燃え上がる。

ああ、そうだ。あの脳筋にでも手伝わせよう。私が自らの手で切り倒すのは流石に躊躇してしまうだろう、だが私の指示であの脳筋に切り倒させてしまえば…

きっと喜んで二つ返事で手伝ってくれるだろう、その為にも今後少しだけ毎日の電話の時間を伸ばしてやっても良い。

そのうちに調子に乗って二人で出かけたいなどと言い出すかもしれない。それも甘んじて受けてやっても良い。その代わりにーこの忌々しい梅の木をー


咲良が菅原くんと連絡を絶った効果は即座に現れる。

数日後の検診で、咲良に感染症や妊娠の可能性がないことが分かり、母と共に心底ホッとする。

母は弁護士と相談し、夫の元部下の安倍氏を呼び出し事件のあらましを伝える。安倍氏は驚愕し凍り付く。

立ちすくむ安倍氏に、あなたのすべき事、を伝えると更に硬直してしまう。私は彼の胸ぐらを掴み、何なら私の手で全てやってもいいのだけれど、と脅すと祖母と弁護士が私を彼から引き剥がす。安倍氏はガクガク頷き我が家を後にした。

安倍氏は即座に小野の出社を停止、信頼できる部下数名と小野自宅に乗り込み、スマホ及びパソコンに収められた無数の動画、画像をその場で削除した。クラウドのアカウントを停止させ、全ての破廉恥な画像動画をこの世から消し去った。

その後緊急役員会議が開かれ、小野のメキシコ支店出向が即決され、片道切符と共に翌日には成田空港へ向かったらしい。

後日、母の元には和解金が相当額振り込まれ、税務処理の後に私の口座にも相当額が振り込まれた。

その週末には咲良もすっかり回復し。

どうやら疎遠となっていた堀川さんと連絡が復活したのが大きかったようだ。苦しい時に助け支えてくれる存在。それさえあれば、人間は何とか這い上がれる。これは私の実体験が証明している。

堀川さんの助けと支えにより、咲良は登校できるまで回復し。


     *     *     *     *     *     *


時は移ろい、季節は秋に。

母はちょいちょい出かけるようになったのだが、丸一日家を空ける日には私か脳筋の都合が合わなく、私の倒木作戦はズルズルと引き伸ばされている。

余りにしつこいので、とある日曜日の夕方脳筋とお茶をする。その際にちょっとしたお願いがあるのだけれど、と言うと

「何でもしますよ。特に力仕事ならお任せくださいよ、ガハハハ… え? 庭の梅の木を切って欲しい? 楽勝っすよ、ラクショー。五分で倒して見せますから、ガハハハハハ」

帰りにストップウォッチを百均で買ったのは言うまでもない。

あとは注意深く母の動向を探り、隙を見つけて脳筋と共に作戦を実行するまでだ。


会社からの示談金で母は屋根の葺き替え工事をすることにした。好都合である、工事のどさくさに紛れ、ああ間違えて梅の木折っちゃいました、もアリなのではないか。

決行の日近し、緊張を新たにした頃。

咲良が突如、

「お母さん、菅原くんに対して感じ悪かったよね、初めて会った時から。そろそろその理由を教えてもらいたいのだけれど。」

夕食後、リビングで何でもない話をしていたら、突然咲良が切り出してきた。

「パパもいい人だって褒めていたんだよね。ねえ、どうして彼のことを良く思わないの?」

それは… と言いかけると、

「あとね。実は私、一つ思うところがあるのだけれど。」

咲良が青褪めた顔で呟く。

まさか。

あなたも、気付いてしまったの?

藤原の家と、菅原の家の…


「もしかしてね、私と菅原くんが付き合ったことが、お父さんが亡くなったこと、この間の事の原因じゃないかな、って。彼と仲良くなるとあんなことが起きて、彼と離れると何もなくなって。もしかして、お母さんはそれを知っていたからいい顔をしなかったのかなって。」

流石我が娘。大まかな解釈は当たっているではないか!

「でもね、どうして私と菅原くんが仲良くなると不幸になるのか、サッパリ分からなくて。これって、私は一生彼の側にはいられないって事じゃない。ねえお母さん、何か知っているならば教えて欲しいのだけれど。」

いいでしょう。機は熟しけり。

週末に母に家系図を見せてもらうよう言うと、眉をハの字にして首を傾げる。その後、全ての話を包み隠さず話すと言うと、咲良はゴクリと唾を飲み込みながら頷く。

そして。

彼と、菅原くんと連絡を取りなさい。そして会って話をしてきなさい。

咲良は反発するも、私の勢いに押され、渋々頷いたものだった。


これで良い。

咲良が彼と再会した後。必ず何か不幸が起きる。

それに乗じて、あの梅の木を切ってしまおう。そして燃やし、焦がすのだ。

それで全てが終わる。

そして、全てが始まる。

もう脳筋の手を借りる必要はない。

私と、咲良でやる。

二人で、二人の過去を断ち切り未来を切り開いてみせる。

スマホでAmazonを開き、電動チェーンソーを約二万円で購入し、送り先は実家とする。更に着火剤も購入し、同じ送り先にする。

これで良い。

全ての準備は整った。

あとは、更なる不幸を待つだけだ。

私の中の冷たく黒い情熱が徐々に熱を帯び始めだす。


そして。

その不幸はすぐに目の前で発生する、それも

最高のシチュエーションで!


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