表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
遺伝子フラグ  作者: 悠鬼由宇
5/7

伍の歌

新学期が始まった。


あれから里美と連絡を取り合っていない。と言うか、連絡をしても返答がない。

親友から無視されていることが未だに理解出来ず、かなりのショックを受けている。

直接顔を合わせれば状況は変わるかも知れぬという微かな希望は、教室で顔を合わせてもすぐに逸らされてしまい、粉々に打ち砕かれてしまう。

「よーし、新学期だぞお、お前らしっかり青春したかあ、ガハハハハハ」

笑い事ではございませぬ、大友教師。

「そんで、しっかり宿題終わらせたかあ、ギャハハハハハ」

クラスの殆どの生徒が釣られて笑い出す。

「そうかあ、全然終わってねえな。教科ごとに提出だから、今夜から死ぬ気で終わらせろ。何なら既に全教科終わらせている藤原にノート借りるのを黙認してやる。」

一瞬の沈黙。クラスの全視線が私を突き刺す。

低い、オオオオ、と言う声がクラスに響き渡る。

こんな時に、クラスきっての陰キャラの私にスポットを当てるとは何事ですか、大友教師。無言の避難の目を向けるも、

「おう、何ならクラスLINEに宿題全ページ載せろや。どうだ?」

甲高いオオオオオ、と言う歓声が上がる。

ホームルーム終了後、私の机の周りに人だかりが出来る。

その対応に追われつつ横目で里美を追うが、結局視野に入ってくることはなかった。


今日ほどクラスメイトと喋った日は無い。正直疲れた。

夕食後、彼にこの事を愚痴ると、

『そうか。ついにクラスメイトは咲良ちゃんの魅力に気付いてしまった、と言う訳かww』

最近彼は私を咲良、と呼ぶ。私も彼を健翔くん、と呼んでいる。

クラスLINEに参加するのが初めてで正直面倒臭いと愚痴ると、

『クラスLINEか、僕も時々対応に右往左往するよ。過剰な返信はせずに必要な情報だけ発信しておけばいいと思うよ。』

的確なアドバイス感謝します。

『如何いたしまして。それより、今度の日曜日、空いてないかな? 部活が体育館の修繕工事で無いのだけれど。』

勿論空いていますとも。

『海、行きたいのだけれど。一緒にどうかな?』

海! 男子と、それも好意を持った男子と、海!

是非御一緒させていただきたく存じます。

『良かった! 海水浴は無理だから、新江ノ島水族館にでも行かない?』

水族館。数年前に品川水族館に母と行ったきりである。

素晴らしい御提案に感謝いたします。

『電車の時間とか調べて明日にでも連絡するね。それじゃ、明日の朝、電車で!』

そう。新学期が始まり、彼との電車通学が再開されている。今朝もいつもの車両に揺られながら、社会的に黙認されている密接を満喫したものだった。

これから毎朝、彼と密接が続くと考えるだけで、里美との軋轢が大分緩和されている気がする。


『ふうーん。親友とそんなことが、ねえ。』

里美との軋轢の相談にうってつけな知り合い。清原女史のアンサーは。

『こーゆーラインじゃなくって、直接事情をちゃんと話す事! 明日にでもさ、体育館の裏か屋上に連れ出して、ちゃんと説明するんだよ!』

連れ出す、ですか。大人しく来てくれますかね?

『強引にさ、いいから来て! って感じで。』

溜め息一つ。私にそんなアオハルな行為が出来るであろうか?

『なるべく早目がいいと思うよ。でないと彼女、さっちゃんの事を忘れてしまうよ』

それは…

『明日がダメなら明後日。明後日がダメなら来週。頑張れ、おねいさんは応援してるぜっ』

一人っ子の私には何とも心強いお言葉を賜る。

スマホを充電器に差し込みながら、仮に上手く連れ出せた後、何と里美に説明すれば良いのだろうか。

まずは謝罪、だろうか。

彼のことを全く話さなかったことを深くお詫びする。

次に何故話さなかったか、の説明か。

ここは亡き父を大いに利用させてもらおう。父の異変と急死は常に報告していたので、彼のことは不謹慎に思え自重させてもらった、位な感じであろうか。

最後に今後の対応と対策だが。

里美とは変わらぬ付き合いを望みたい。そしていつか彼を里美にも紹介したい。

以上。

ベッドに倒れ込み、大きく背伸びをする。

これで里美が機嫌を直してくれるだろうか。日曜日に彼に相談してみるか。故に今週中は連れ出し作戦は決行せず、でいこう。

清原女史には明日にでもそう伝えよう。


明日の授業の予習でも、と思いベッドから身を起こすと、スマホが振動する。

小野氏からのメッセージである。

『連絡が出来なくて申し訳ありませんでした。仕事と出張が立て込んでいました。お父上の関係書類が全て整いました。今週末にでも伺いたいのですが、ご予定はいかがでしょうか?』

ガトーショコラ! 口の中に唾液が溜まるのを感じる。土曜日の夕方は如何でしょう?

『承知しました。午後三時頃に伺います。ケンズカフェ、持っていくね(絵文字)』

思わずガッツポーズ。何と素敵な週末なのだろう。父の書類が揃う、憧れのケーキを味わえる、そして彼と初めての海……

ああ、これで里美との関係が修復されたなら。

人生とはこんなものなのではないだろうか、何かが満たされれば何かが欠ける。七割の幸せが最も充実した人生なのかも知れない。

十五の私が言うのもなんだが、きっとそうに違いない。

里美のことは、所謂『棚上げ』状態で過ごすことに決定し、机の上に教科書を開く。


翌日の朝。

母に週末の話をする。

「いやだ。土曜日に小野さんが? 早く言ってくれなきゃ。ママ、アッコとランチとお茶の約束しちゃったわよおー」

高校からの親友との茶話会ですか。

「コロナで全然会えなかったし、パパの事もすっごく心配してくれてねー。もうお店予約しちゃったわよ、ねえ、さっちゃん一人で大丈夫?」

書類を受け取り、線香を上げてもらい、ケーキを共にするだけなので、私一人でも対応可能かと。

「そう。夕飯までには帰るから。デパ地下で何か買って行くからねー、小野さんも食べて行くかしら。聞いといてくれるー?」

承知。それと、翌日曜日なのですが……

半分寝ぼけていた母がハッとした顔となる。

「そう。菅原くんと、海。」

どうして母は彼の話になると表情が曇るのだろうか。

「ねえ咲良、」

背筋に冷や汗が流れる。母がこんな緊張した面持ちになるのは珍しい。

「菅原くんと、お付き合いしているの?」

恐らく。

「……そっか。咲良、里美ちゃんは元気かしら?」

はあ? 突然何を? まあ、元気ですが、一応。

「ふうん。あの、ね、」

何ですの?

「その… えっと…」

何か言いたげな母。間違いなく彼との関係を懸念している様子だ。

夏に我が家に来て顔を合わせるまではあれ程煽っていたくせに。あれ以来彼を気に入らない様子に、だんだん腹が立ってくる。

「わ、分かってるわよ、咲良の自由よそれは。でも、ね、彼は…」

話にならない。私は議論を放棄し、弁当を引ったくって玄関に向かう。


一体何が気に食わないのであろう。

顔?

亡き父の容姿を思い浮かべ、母が面食いでないことは知っている。なので爽やかイケメンの彼の容姿が気に入らない線はアリかも知れない。

礼儀作法?

それも問題なかった筈だ。ちゃんと母に丁寧な挨拶をしていたし、玄関先でもちゃんと靴を整えていたし。服装も白のボタンダウン、コットンパンツ。あまりに正統派すぎてぶっ飛んだ母好みのスタイルとはかけ離れすぎていたのか。

色々考えているうちに駅に到着し、ホームに降りると彼がスマホニュースを読んでいる。その背中を見た瞬間に、

遺伝子?

唐突に脳裏に閃く。

遺伝子的に母はこの彼を厭んでいる?

それは何故?

全く理由が思い付かない。母が彼を心底毛嫌いする理由が遺伝子の叫びだから?

全く合理的な説明になっていない。

彼がこちらを振り向き、爽やかな笑顔を送ってくれる。

その瞬間に、母の懸念なぞ即吹き飛び、朝の幸せな時間の到来に顔が赤くなるのを感ずる。


     *     *     *     *     *     *


結局、里美とは全くコミュニケーションを取らないまま土曜日が訪れる。

クラスメイトもほぼ夏休みの宿題を終えたようで、昨日くらいから私の机の人だかりは影を潜めている。正直彼らへの対応が苦痛であったので、これは大いに助かった。

だが先日。里美がカルタ部のレギュラーになれなかったことを彼らの一人が話してくれた時は、大きなショックを受け思わず里美を目で追った。

里美は机に突っ伏して負のオーラを放っている様子。思わず椅子から立ち上がりかけ、すぐに座り直した。

すぐにでも交流を再開させたい。だが、時節ではない。

親友が悲しんでいる姿がこれ程までに辛いことを、昨日初めて知ったのだった。

今日も彼女はポツリと一人、寂しげな趣で本を読んでいる。

来週だ。来週早々に彼女と話をしよう。そして仲直りをし、彼女を大いに慰めよう。そう決意し、一限目の教科書を鞄から取り出す。


だが二限目に入る頃から私の意識は明日の小旅行で一杯になる。

着ていく服は何にしよう。水族館だから日焼け止めは不要だろうか、いや海辺を散策するかも知れないからしっかりと塗るべきか。それならば履いていく靴はスニーカーが良いか。それだとパンツ系で合わせないとならない。ワンピース系にスニーカーはN Gだ。それだとトップはシャツ? 長T?

「ではこの解釈を、藤原さん。」

……は?

教室が不気味な沈黙に包まれる。

「藤原さん。この歌の解釈をしてください。」

えっと、あれ、んん…

ああ、この額田王の。

熟田津で船出をしようと月を待っていると、潮も良い具合になってきた。さあ今こそ漕ぎ出そうではないか。

「……そうです、か。ではどうして船出に月を待っていたのでしょう?」

それは、夜の出船だったので月明かりが必要だったのでは? 更に月の引力による潮の流れも利用したかったのではないかと。

クラスがおおお、という低い声で満たされる。

「成る程。ところでこの船出とは、一体?」

六六一年、白村江の戦いに挑む船団です。

「完璧です。素晴らしい。ですが。」

古文の三条先生が苦笑いしながら、

「私の質問は、にきたつに、ではなく、あかねさす、の方だったのですが。」

これはしたり。申し訳ありませんでした…

「フッ。さしもの藤原さんも夏休みボケなのかしら。貴女にしては、抜かったわね」

ほお。流石カルタ部顧問の三条先生。ここはしっかりとお返しせねば。

はい。おおきみ!

教室がかつてない静けさに見舞われる。教室の体感温度が二度ほど下がった気がする。そんな中、三条教師がプッと吹き出す。そして遥か右前の方からもプッと吹き出す音が聞こえ。見ると里美が机に突っ伏して震えている。

この日以来、私のあだ名が

『ヌカちゃん』

となったことを後日、知る。


母が親友とのランチ会なので、駅近のスーパーで弁当を買う。九月の太陽は容赦なく街を照りつけ、気温は四十度近いのではと思わせる。

明日もこんなに暑いのだろうか、ハンドタオルを二枚持って行こうと決める。

それにしても。二限目の里美の姿に友情復活の光明を感じたのは間違いだろうか。私と三条師の掛け合いに反応してくれたのが心底嬉しかった。明後日、月曜日。絶対にこちらから声をかけよう。話をしよう。謝ろう。許しを乞おう。

明日の小旅行よりも、明後日の里美とのことで頭が一杯になり、危うく自宅を通り過ぎてしまう所であった。

それにしても、三条師。

歳のころは四十前後、我が校に赴任してすぐにカルタ部を立ち上げ。強豪ひしめく東京都で二度も全国大会へ導く名伯楽。部活に力を入れすぎ五年前に離婚、以来独身。以上はかつて里美から聞いた情報だ。

古文教師として質が高く、感性豊かかつ大胆な解釈が私のお気に入りだ。見た目は腰まで届く黒髪に人形のような白い顔。ほっそりとしたスレンダーな体系で男子生徒の人気が高く、女子生徒の憧れの女性でもあるらしい。

授業中は物静かだが部活では鬼と化すらしい。そのギャップも人気の一つだと言う。

三条師が担任だったなら大学進学を含め色々相談に乗ってもらいたいものだ。脳筋、もとい、大友教師よりも遥かに有益な助言を賜れそうである。

買ってきた弁当を食べ終え、時計を見ると一時半だ。三時に小野氏が来訪するので慌てて母のやり残した家事に取り掛かる。

庭に干された洗濯物はカラカラに乾いていたので取り込んで畳む。リビングとダイニングに掃除機をかけ、キッチンに積み上げられた食器を洗う。

どうして母は食器洗いを厭うのだろう。休日などは朝、昼、夕食分の食器がシンクに残されていることもままある。祖母が大変几帳面で炊事しながら食器洗いをしていく要領の良さを示しているのに、何故に娘はこんなにも乱雑なのだろう。

キッチンを片付けて時計を見ると二時四十五分。しまった、間も無く小野氏が来てしまう。家事をこなし汗だくの部屋着を着替えに自室に上がり、髪を整えているとインターフォンが鳴る。


「ご無沙汰です、ああ、元気そうで良かった。」

爽やかなサマージャケットにコットンパンツ。パッと見でとても三十代には見えない小野氏が素晴らしい笑顔でお土産のガトーショコラを渡してくれる。

キッチンで父の書類関係を渡され、母から預かっている判子を一枚一枚丁寧に押していく。

「今時ハンコなんておかしいよね。ウチの会社、頭硬いんだよなあ。こんなの全部メールで確認でいいのにね。」

書類の確認と捺印で二十分ほどかかったであろうか。それにしてもこれらの煩雑な書類を一切取りまとめてくれた小野氏に感謝の意を伝える。

「全然。気にしないで。お父さんには本当にお世話になったから。これくらいは当然だよ。あ、それよりケーキ。新作が出ていてさ、試しに買ってみたんだ。」

口角から涎が垂れ落ちるのを防ぐのに必死となる。開けてみるとツンと洋酒の香りが。

「今一番人気なんだって。さ、食べよう」

小野氏は昔から甘党なのですかね?

「元々お酒は強くないんだ。会社入ってから部長に鍛えられ… あはは…」

あ、気になさらず。父の話、ちょっと聞きたいかも。

「いやあ、元気な方だったなあ。エネルギーの塊、って感じ? 何事にも全力投球、熱い人だったよ。」

それって、相当ウザかったのでは?

「そんなこと… なかった… と思う」

三秒間目を合わせ、二人で爆笑する。

それにしても。このガトーショコラ、本当に美味しい! ちょっとお酒が強い気がするけど、口当たりは良くいくらでも食べれる感じ。

「お母さんの分はこっちね、ささ、もう一個食べて食べて」

おおお、神ですか貴方は。遠慮なく二つ目に取り掛かる。二つ目もしっかりと洋酒が効いており、しかしながら爽やかな甘味に大脳皮質が蕩けそうだ。

「そうそう。俺が入社してすぐの時にさ、まだ部長が室長だった時かな、得意先との会食に連れてってもらってさ、」

父の会社での姿を明るく楽しく話してくれる。徐々に笑いが止まらなくなり、

「そんで五年前かな、社内旅行の時にさ、夜の宴会の時に隠し芸やらされたんだけどさ、なんと部長が「お前ら全然なってない、俺が手本見せてやる!」っていきなり脱ぎ出してさ、」

何それ、バカじゃない、キャハハハハ!

おうちでもソートーおバカだったけど、会社でもおバカさんだったんだあ。あんなたるんだブヨブヨのおなか見せられて、みなさん困ったちゃんだったでしょー?

「いやいや、部長の体を張った姿に皆大爆笑してたわ、マジでウケる、ギャハハ」

きゃはは。はずー。だっさー。そんなん、見たくねー。きもー。

「こらこら。娘さんがそんなこと言ってはいかん。あのお父さんの脱ぎっぷりは会社の都市伝説なんだから。ギャハハ」

ムーリー。オッサンの裸なんか、見たくねー、キモー。ださー。あはははー、うわ、なんかちょー気持ちいい! おのしゃん、お話おもしろいー、もっとしてー、もっともっとおー

「ちょ… 咲良ちゃん、マジの酔っ払い? あれ?」

何それー、ウケるー、きゃはははー、マジわかんなあーいー

頭くらくらー、でもふわふらー、ってこの感じ、ウケるー


「ちょ、咲良ちゃん、こんな所で寝ないで… お部屋どこ?」

上でえーす。上だよおー。ふわふわー。飛行機乗ってるみたいー。飛行機、おきなわー。楽しかったあー。おばあちゃんもいっしょ。美ら海すいぞくかんー、あー、あしたもすいぞくかんー、わーいわーい

「へえー、細い割に、いーじゃんいーじゃん」

ああー、あしたの水着! やっば、スクール水着しかないよお、あとで買いに行かなきゃだよねえー、小野しゃん。どんなのにあうかなあー

「そーだねえ、じゃあ動画に撮っておくねー」

ああー、あん時のビデオ、リビングにあったかなあー、あれー、パソコンに入れたんだっけ? どっちだっけ? あれー? おばあちゃんちに置きっぱだったっけー?

「よおーし、ゆっくり入れるからねー」

あのビデオさあ、さいきんぜんぜん見てないなー。そー言えば、スマホでなんとか見れるといーなー。

いたっ

いててて

「大丈夫、大丈夫。ぜーんぶ入ったよおー」

いたたた

おとーさんも、おかーさんも、おばあちゃんも、みーんな、いたたたた

うわなにコレ、マジいたたたた

さとみもノーキンも、みいーんな、いたたたた

「ふーーー、スッキリー。うわー、出てき……」

けんしょーくんも……


     *     *     *     *     *     *


「…らちゃん、ちょっと咲良、咲良!」

母の悲鳴のような掛け声でようやく我に帰った。

頭が痛い、脳髄にガンガン金槌で打ったような音と痛みを感ずる。

ゆっくりと目を開くと、驚愕の表情の母が私を見下ろしている。あまりの頭痛に再度目を閉じると母が駆け寄り、私を抱き締める。

一体何が起きたのだろう、気付くと私は全裸でベッドに横たわっていた。

母は私をきつく抱きしめ、嗚咽を漏らす。

窓の外はすっかり暗くなっており、ベッドサイドのデジタル時計は七時前である。

「どうして… こんな… あなた一体…」

何をそんなに悲嘆しているのか分からず、その旨を伝えようとした時。別の痛みを覚える。

頭痛とは別の痛み。下腹部における疼痛。

一瞬にして、自分の身に何が起きたか理解し、ショックで目の前が真っ暗になり気が遠くなっていく。


次に目覚めた時には母がバスタオルで私を包んでいた。

「シャワー浴びれる? 出たら病院行こうね。ママが連れて行ってあげるね」

目を真っ赤にした母が優しく問いかけてくる。私は心虚のまま頷き、言われるがままに浴室に向かう。

熱いシャワーに打たれるも、全く思考は停止状態。途中母が入ってきて、きめ細やかに私の身体を洗浄してくれる。

母の着せ替え人形と化した私は人形の心のままタクシーで病院に連れられる。

病院では祖母が待っており、祖母に抱きしめられた温かみが氷と化した私の心を少し融解させる。

検査の後、すぐに処方された薬を飲まされ、その日は祖母の家で泊まった。

思考停止状態で微睡む中、母と祖母の言い争いを聞いた気がした。


翌朝。

敷かれた布団から起き上がれずに目を開けたまま古びた天井を眺め続けていた。

朝、昼の二回、母が私に布団に入ったままお粥を食べさせてくれた。

夕方。急に体が震え出し、布団の中で身体を丸めていると母が布団の上からしっかりと抱きしめてくれ、少し落ち着く。

食欲は全くなく、母の手を握りながらそのまま寝てしまった。


月曜日。

祖母が朝粥を食べさせてくれる。ほのかにごま油の香が漂い、食欲を刺激し全て平らげる。その後祖母の介添えで布団から立ち上がり、応接間のソファーに座らされる。

庭の緑が目に眩しく、自然に心を癒してくれる。

昼前に母が戻って来る。私の着替えや身の回りのもの一式を持ってきてくれたようだ。

母と祖母が小さな声で話し合っている。警察、とか会社、という単語を拾うも思考停止の私には全く響かず、ただ庭の緑を眺めていた。

午後、祖母の運転する車で病院に向かう。

検査後、別の診察室で医師に話しかけられるが一切返事を出来ずにいた。

祖母の家に帰宅後、祖母の作った夕食を食べる。味は殆どしないが何処か懐かしい感じに少し心が溶ける気がした。

処方された薬を飲み、敷かれた布団で寝る。


木曜日。

祖母の怒鳴り声で目が覚める。

「証拠も医師の証言もあるんだよ、いい加減な処分なら出る所に出るからね、いいかい!」

あは、懐かしい。私も小さい頃によく祖母に怒鳴られたものだ。特にこの庭の梅の木に登っていた時なんて、お尻を強く引っ叩かれたなあ。

クスクス笑っていると母が部屋に入ってきて、私の様子を見て口に手を当てて突如涙ぐむ。

「咲良ちゃん… どう した の?」

祖母の逆鱗につい昔を思い出した、と言うと、

「お婆ちゃんったら。声が大きいから、もう。」

そう呟くと母も泣き笑いの表情になり、しゃがみ込んで私をそっと抱き締める。

母の抱擁に癒やされていると、祖母が部屋に入ってきて、

「ったく、ボンクラどもが。話になりゃしないよ。」

と愚痴るのでまたプッと吹き出す。

祖母はハッとした表情となり、するとすぐにいつもの落ち着いた表情に戻り、

「朝ご飯。みんなで食べようかね」

温かい味噌汁、祖母の漬けた漬物。想像しただけでお腹がギュルギュル鳴る。

私は強く頷き、しがみ付く母を振り払い、祖母に手を引かれ茶の間に向かう。

朝食後、祖母の許可を貰いシャワーを浴びる。

祖母は朝から入浴すると、

「小原庄助のつもりかい? 身上潰すよ!」

と意味不明な事を言い怒り出すのは昔からだ、と母が笑いながら教えてくれる。

へ? 母よ、小原庄助氏を存じ上げない?

「知らないわよ、誰? 政治家?」

私は呆れ果て、髪を乾かしながら朝寝、朝酒、朝湯の逸話を語ると、

「なんでそんなこと知ってるの? それ受験に出るの?」

いいえ。然しながら一般常識ではないかと。

「そっか。じゃあ私も朝シャンやめよっかな。」

母よ… 娘に諭される哀れな母よ…


昼食後、祖母が外出し、古民家に母と二人きりになる。

母が持ってきてくれたスマホに充電器を差し込むと、彼からの連絡が二十件ほど、そしてー

里美からの連絡が、三件!

私の心がパッと晴れ渡り、慌ててメッセージを開く。

『大友先生が風邪引いたって言ってたけど。大丈夫ですか?』

『もしコロナとかだったら言ってね、クラスでちょっと噂になっていますので』

『本当に大丈夫かな? ちょっとでいいから、声が聞きたいです。心配で胸が押し潰されそうです』

読み終えた後、何故か涙がポロポロ溢れてくる。スマホの画面に涙の雫が幾つも落ちては弾け散る。

涙を拭いていると、新しいメッセージが届く。

『既読ついた! 声、聞けるかな?』

私は通話ボタンをそっとタップする。未だかつてない高揚感に心が躍り上がる心地だ。

「咲良! 大丈夫? ねえ、大丈夫なの?」

そんな怒鳴らなくてもよく聞こえているから。そう伝えると、

「うん うん ごめんね ごめんなさい 咲良…」

突如涙声になり、譫言のように謝り続ける里美に、コロナではないが今は話せない、いつか必ず話すから待っていて欲しい旨を告げると、

「分かった。ウチ待ってる。それで、学校には来れそうな感じ?」

今週はちょっと… 来週にはきっと…

「そっか。おっけー。あ、ごめん六限目始まるかも、部活終わったらまたラインするからっ」

変わらぬ慌ただしさに口角が上がる。

そう言えば私も随分鼻声だった気がする…


心がすっかり晴れ上がり、数週間ぶりに心が充実しているのが感じられる。

「誰―? 里美ちゃん?」

母が雑誌を眺めながら呟くので、そうだよと言うと、

「ホント優しい子ね、また連れてらっしゃい。今度は脳筋抜きで。キャハ」

……酷い母だ。自分が塞がっていた時にはあれ程助けてもらった人なのに。

「んーー、そーだけどおー。やっぱ脳筋はダメよおー、知識無さすぎー、話が筋肉質過ぎるー」

何そのタンパク質否定発言は? 小原庄助氏を知らなかったくせに、よくぞ己を棚に上げて…

「えーー、そんなことないわよお、ママだってやれば出来る子なんだからっ」


大きな溜息一つ。

ふと彼からの大量のメッセージに目が移る。

無理。

開くことが出来ない。

理由。

汚れてしまった故。

彼からのメッセージをまとめて削除する。

これでいいのだ。

心も身体も穢れてしまった私は、彼に相応しくない。

彼の清廉潔白な存在の隣に位置するには、私は相応しくない。

これで、いい。

そうだよね、お父さん?

仏間の父の写真に問いかけるも、返事はあるはずも無く。

庭の古梅に目を移す。

口では言い表せれない不安が押し寄せてくる。

私は立ち上がり母の横に座り、母にしがみ付く。

母はハッとした表情となり、慌てて私を優しく抱擁してくれる。

すると言い知れぬ不安は徐々に離れて行き、気がつくと母の膝枕で午睡していた。


     *     *     *     *     *     *


時はゆっくりと移ろい、私の心の傷も徐々に癒やされていく。

中間テストを終え、秋の学園祭を終える頃にはすっかりと私の心は平常に戻っていた。

然しながら、満員電車での男性との接触、男子生徒からの何気ないボディータッチには激しい動揺を隠せず、通学は比較的空いているバス通学に替えており、また男子生徒とは一定の距離を身体的精神的に保っている。

然しながら、乗っている筈のない彼の姿をつい追ってしまうことは、未だにやめられない。


里美との仲は以前にも増して深くなった気がする。

彼女には未だあの事件の全容は話せずにいる、だが彼女はそれを詮索することもなく、穏やかに時には激しく私に接してくれている。

「さっちゃん! 聞いて聞いて! ウチ、やったよ! 秋の新人戦、レギュラーだよ!」

カルタ部の秋の新人戦。彼女はついに念願を叶えたのだ。

私は彼女の手を握りしめ、これも日頃の鍛錬の賜物だねと喜びを分かち合う。

「いや。これもさっちゃんのお陰だよ。マジで!」


お陰と言うほどのことではないと思うのだが。実は文化祭の際、カルタ部の実践方式の実演を見学した時に、顧問の三条教師に問うたのだ。何故に堀川里美はレギュラーに在らずか、と。

師曰く、

「あの子はね、感はいいの。耳が良いと言えば分かるかしら。でもね、歌に対する理解力が全然足りない。所謂勉強不足、なの。」

何故に歌に対する理解力が必要なのか?

「大会で上に行くとね、心も身体も激しく消耗するの。そんな状況下で一枚でも多く取るにはね、歌に対する愛と理解が必要なの。それがあるとね、どんなに疲弊していてもパッと札が光って見えるのよ。運動で言えば、ゾーンに入った状態って言うのかしら。そんな状態になるにはね、百首全てを深く理解し愛せないと駄目なの。」

そこまで… 求めるのですか、生徒に?

「そこまでしないとね、全国大会なんて絶対に無理。」

その厳しさが独身の理由なのですね、とは流石に言えず。ただ、はあそう言うものですかと呟くと、

「藤原さん、彼女にそれとなく言い聞かせてくれないかな。」

いや、師が直接言った方が…

「それじゃ意味ないわ。顧問が言ったから仕方なくやる、では本人の実力には決して成らない。言われたことしか出来ない人間に育ってしまう。」

私の言うことを彼女は受け入れますかね?

「それは二人の友情の温度次第じゃないかしら。」

友情の温度、ですか?

「ええ、そう。温度が高ければ高いほど、凝り固まった心も溶けやすい。そうではなくって?」

友情とは金属みたいなものですか?

「そうよ。友情は金剛石に似たる、と言うじゃない。」

それ、誰の言葉ですかね?

「私の、言葉よ。覚えておきなさい、受験に出るわよ。」

以来、三条師と私は深い師弟関係になっている。


幸いあの事件以来、私と里美の友情温度は相当高く、私の三条師からの言葉も紆余曲折を経たものの最終的には上手く彼女に伝わり、彼女の百首への理解と愛が深まり始めた矢先、彼女は見事部のレギュラーに抜擢されたのであった。

「それにしてもさ、歌を愛せない者に札を捲る権利は無い、って。一体どこからそんな考え思いつくんだか。本当さっちゃんは不思議ちゃんだよねー」

不思議ちゃん… それは心外な…

「でも。さっちゃんの言う通りだったわ。月見れば、の歌、知ってるよね?」

大江千里だよね。

「そう。あの歌ってさ、元々なんとかって言う漢詩を元にして作ったんだってさ。」

白楽天の燕子楼だったかと。

「うっ よく知っている… でもさ、大江がなんとか博士っていう知識人で漢詩にもメッチャ詳しかった、って知ったらさ、なんかすごく親近感湧いちゃってさー」

文章博士ですよ。そう、大変な知識人だったのです。有名な漢詩をベースに、千々にの「千」と我が身一つの「一」を照応させている、素晴らしい出来の歌ですの。

「…さっちゃん。カルタ部入らない?」

三条師の元で己の研鑽、には大いに惹かれるけれど。やはり受験勉強を優先させたいかも。

「そっか。狙ってるもんね、東大。」

彼女には私の夢を語っている。

父の言葉を思い浮かべるー

(娘が東大… 成仏し過ぎちゃうよ俺…)

そう。亡き父を成仏させ過ぎるべく、私はあの赤門をくぐらねばならない。

都立の中の上校から東京大学の進学はかなりの難易度である。まず環境が整っていない。進学校ならば自ずと周囲に東大を目指す生徒がおり、切磋琢磨できるのだが我が校にはほぼ居ない。よって己一人で向上心を常に保ち続けねばならない。

また授業内容にも隔絶の差がある。彼によると授業はほぼ各教師の自作のプリント。そこには難関校突破のイロハが詰め込まれているという。我が校の教師の質はそれほど悪くないとは思うが、授業内容には彼らとは大きな差があるのを感じざるを得ない。

周囲の環境、授業内容。そのハンデを克服し、現役で赤門を潜るにはやはりある程度高校生活を犠牲にしなければならない。

「うん、うん。さっちゃんパパの夢を叶えなきゃだよね。うん、うん。うっうっ…」

…なぜ泣く我が友よ?

朋友の涙を眺めながら、つい彼のことを想う…


今頃は部活と勉強、予備校に忙しいのだろうか。部活は二年の秋までと言っていたから、あと丸一年間だ。夏休みの予備校の模試では全国で百位以内に入っていたらしい、来月の模試は私もチャレンジしてみよう、もしかしたら試験会場で…

あれから別々の通学路となり、全く顔を合わせていない。最後のメッセージが送られてから、連絡も全く取っていない。

最近ふと考えることがある、それは。

彼と知り合い関係を深めると、私に不幸が訪れる。

彼と距離を空けると、不幸は去っていく。

彼と最も近づいた梅雨明けの頃。父が亡くなった。

しばらく連絡を止めると、普段の日常に戻った。

彼と連絡を再開し、関係が進展しそうだったあの夏。親友が去った。そして私の心と身体が傷ついた。

彼との連絡と関係を断ち切ると、親友は戻り、新たに師を得た。

この話は誰にもしていない。里美には決して話せない。新たな師にもとても話せない。祖母にでも、と思うのだが何か違う気がする。

最近、彼の話を全く振ってこなくなった母には…

やめておこう。

あの母でさえ、私の事件で大きく心を痛め、ようやく最近以前の愚かしいほどの快活さが戻ってきたのだから。


母のショックは私と同等、いや傍目から見ると私以上だったのかも知れない。

最初の一週間は私同様に心が虚だったらしい。その後祖母と結託し、父の会社に対する態度には驚かされたものだった。詫びに来た安部室長を痛罵し、犯行者を社会的に抹殺せねば、自分が刃にかけんとす、位の勢いで祖母を慌てさせたりもした。

その気位が影響したのか、犯行者は中南米支店に飛ばされ、四半世紀は大和の地を踏む事はないであろう、と室長が保証したらしい。

祖母はどのような駆け引きをしたのか知らねど、この件は全くマスコミに流れる事はなく、私自身に変な噂が立つことは一切なかった。

代わりに祖母の家の屋根の吹き替え工事が今粛々と進められている。

「別にあんたを餌にした訳じゃないけどさ。だいぶ痛んでいたからね。これでアンタに安心して渡せるよ」

私に? 母にではなく?

「だって桃香には家があるじゃない。だからこの家はアンタのものさ。ああそうだ、トイレと風呂場も改装しようかと思うんだけどさ、なんか希望あるかい?」

祖母よ、一体いくら会社から巻き上げた……

……寝転げる広い浴槽と、自動蓋開閉のウォッシュレット、それに食洗機とビルトインクーラー…


「ねえねえさっちゃん、この時計かわいいでしょ、てへ」

すっかり復調している母がアホみたいなテンションで買ったばかりの腕時計をひけらかす。

「だってー。これ位しなきゃ、やってらんないわよ! ったくあのクソガキが、メキシコまで行ってぶっ殺してやりたいわ!」

パスポートは私が管理しようと決意する。

「それで、あの脳筋娘とは連絡取り合っているの?」

清原女史とはあれ以来連絡を取り合っていない。物凄い長さのメッセージを頂いたのだが、読んだきり返事をしなかったらそれ以来連絡が来ない。

一抹の寂しさはあれど、その程度の仲だったものと今は理解している。

「そっか。ま、あの子には罪はないんだけどねー。あー、それよりさあ、」

読みかけの小説から目を離し母に視線を向ける。

「あーーー、えーと、」

首を傾げる。

「ど、どうよそのタブレット? 軽くて使いやすいでしょ?」

先週祖母に買ってもらったiPadに目を落とし、まあそうだね、と呟く。

彼とは連絡とってないから、あれ以来。

タブレットの画面に目を落としたまま溜息混じりに吐き出す。

「そ、そっか。そっかそっか。うん、そーなんだ。」

画面から母に視線を移す。ホッとした様な母の表情に心が掻き乱される。

ねえ母さん。どうして彼との関係を嫌がったの?

母の表情は凍り付き、それでも口角を上げ、

「えーー、そんなことないよおー、いい子だったじゃない。パパも褒めてたしー」

過去形なのはまあ良しとしよう。だが、今日ははっきりさせておきたい。少し身体が熱くなっているのを感じ、カシミアのカーデガンを脱いで母に向き合う。

初めて会った時から感じ悪かったよね、いい加減に理由が知りたいのだけれど。あと、この件に関して私も一つ思うところがあるのだけれど。

「思うところ? それは何?」

初めて見る、母の冷徹の表情にゴクリと唾を飲み込んだ、


私の話をかつてない程真剣に聞いていた母は、私が話し終えると深い溜め息を吐き、私の隣に力尽きたかの様に座り込んだ。

それからしばらく沈黙がリビングを支配する。母は目を閉じ、時折口元を歪ませ、これが本当に母であろうか、と疑いたくなる程の真剣な面持ちに私は喉がカラカラになって、冷蔵庫にルイボスティーを汲みに行く。

母の分のグラスを置くと、ようやく母は目を開き、ゆっくりと口を開く。

「来週末。お婆ちゃんの家に泊まってきなさい。そして家系図を見せて貰いなさい。それを見ながら、ご先祖のお話を聞いていらっしゃい。」

確か屋根の葺き替え工事は来週半ばに終わると言う。分かったと言うと、

「それから、ママの話をするわ。それで良いかしら?」

母の真剣な顔の何と雄々しいこと。私は何も言わずに頷くばかりであった。

「それと、さっちゃん。菅原くんと連絡を取りなさい。」

そ、それは… 私さっき話したよね、彼と知り合ってから私の周りに不幸が…

「いいから。連絡を、取りなさい!」

母に初めて睨まれた。昔絵本で見た、鬼夜叉の顔付きそのものだ。

脊髄が恐怖で震えるのを感じながら、首を何度も縦に振るしかなかった。


     *     *     *     *     *     *


『連絡ありがとう! もう二度と連絡来ないかと思っていたので、心底嬉しいです。今週末、日曜日なら試合の後、時間を作れます! 僕も咲良ちゃんに会って話をしたいです。』

変わりない固い文章。そして、懐かしい文章。

数ヶ月ぶりの彼のメッセージを眺め、涙がスマホの画面に一滴、また一滴と落ちるのを感じる。

忘れたと思っていたのに。心は全く忘れていなかった。

いや、私の遺伝子が忘れることを許さなかったのだろうか。

彼のメッセージを眺めているだけで、初めての出会いからあの日までの出来事が走馬灯の様に私の脳裏を駆け巡り、早く、すぐにでも会いたい気持ちを抑えるのに必死である。

海に行く約束を反故にしたことには一切触れず、私からの連絡をこれ程までに喜んでくれたとは思いもよらなかった。

『僕の学校の近くの明治神宮で会いませんか。場所は後程送付します。ちょっと寒いかも知れないので、暖かい格好でお願いします。』

明治神宮。行ったことがないが、彼の学校の近くだ。私は承諾のメッセージを送り、スマホの画面を消す。

日曜日、彼と会える!

と同時に、また何か嫌なことが私の周りに起きるのではないか、という恐怖と不安に包まれる。

リビングに降り、だらしない格好でNetflixを観ている母に週末のことを伝え、自分の不安も同時に漏らすと、

「うん、それでいいよ。」

と一言。

母の大変貌にややついて行けない私なのであった。


「ええーーーーーーーーーー まだ繋がってたん、神宮の子と!」

里美が絶叫する。

屋上の秋風は存分に彼女の急上昇したテンションを下げる程冷たく、里美は程なくブルブルと体を震わせる。

高層雲が遥か高く白い引っ掻き傷を深い青空に刻んでいる。

私も両手を口に当て、暖かい息を吹きかけていると、

「そっかーー。しょっちゅう会ってるん?」

全然。夏以来、連絡も取っていなかったよ。

「それはまた、何故に突然… んー、まいっか。そっか。そっかあー。いやー、話してくれてありがと。きゃは、さっちゃんから恋バナが聞けそー」

いえ、それは無いかと。ただの友人…

「いやいやいや。あん時もおーともっち、良い感じそうだって言ってたじゃん、きゃは」

そう言いながらちょっと俯いて、

「あーー、あん時はマジごめん… あん時のアタシさ、部活で上手くいかなくって、サンジョー(三条師)からも説教ばっかで。あとパパとママが喧嘩しててウチの中もゴタついてて。メッチャイラついてたんだよね。だからアレは、ウチのやっかみ。ハー、ウチの黒歴史筆頭だよお、思い出すだけで恥ずいわー」

人生、色々、だよね…

「あん時さあ、さっちゃんはお父さん亡くなって、すっごくショック受けて大変だろーなー、ウチなんかより絶対凹んでるんだろーなー、って思ってたんだよね。自分より下の人を見てホッとしたかったんだよね、きっと。」

……そっか。

「あー、軽蔑していーよ。ウチはそんな安い人間なんだよ。自分より不幸な人間を見下すことで何とかやっていけると思ってた、クソ人間だったんだよ。だからあん時、自分より凹んでると思ったさっちゃんが彼氏が出来たとか聞いて、目の前真っ暗になったんだわ。」

ゴクリと唾を飲み込む。

「でも。学校を急に何日かさっちゃんが休んだ時、気付いたんだわ。メッチャさっちゃんを心配してる自分に。それはさ、情けとか下に見てるとかじゃなくてさ、人としてさっちゃんを心配してたんだわ。まさかこのまま学校来なくなる? もう二度と会えない? そう考えたらさ、思わずメッセージを送ってたわ」

そう言いながら軽く笑う。目が少し潤んでいるようだ。

「ずっとさ、反省してたんだよお。なんて自分が愚かだったかを。さっちゃんを無視し始めてからさ、ママは実家に帰って戻ってこないし、部活でも下の方這いつくばってたし。部活の先輩に相談したらさ、『自分のしたことは必ずブーメランになって帰ってくる』なんて言われて。ああ、ホントだ。さっちゃんに冷たくしたからこんな酷いことになったんだって。」

大粒の涙が秋風に揺られて地面に落ちる。一瞬その部分が温かく感じる。

「だから、さっちゃんとヨリが戻った時。ウチマジでホッとしたんだよ、繋がった、切れてなかった、自分にとって大切な物が取り戻せた、ってね。心底ホッとしたんだよ。そしたらさ、ママは実家から帰ってくるわ、文化祭明けからレギュラーに昇格するわ。今、マジで痛感してるよ。私にとってさっちゃんはなくてはならない存在。この世で一番大切な存在。きゃは、こんなこと言うと恥ずいわー」

鼻を啜りながら満点の笑顔をくれる。


「だからさ。応援するって。何でも相談してよ。ウチに出来ることならなんでも! って、未だ彼氏歴ゼロなんすけど… しょぼん」

大丈夫。私の中の不安が本当に消し飛んだ。そして蒼天へ昇っていった。

彼と関係が深まっても、里美がそばに居てくれる!

それならば、どんな不幸にも耐えられる、そんな気がした。

そして。

あの日からの事を、全て里美に告げた。

里美は冷たい露霜の秋風を全く気にせず、真剣に話を聞いてくれた。途中、

「っざっけんなーーーーーーーーーーーー くっそーーーーーーーーーーー」

と絶叫し、私にしがみつき号泣し始めたのに閉口する。泣き止むまでに時間がかかり、どうやら昼休み明けの五限目は二人して公休となりそうだ。

「ゆ、許せねえ。藤原定家が許しても、このアタシがそのチャラ男を許さねえぞおーー」

と口汚く罵る里美を宥め、話を進めていく。そして。私の一番の心配の話に辿り着く。

「むむむーー。それは、ちょっと考えすぎじゃね? そんなオカルトっぽい話、さっちゃん一番信じなさそーなんだし」

客観的な考察に基づいて導き出した結論なのですが何か?

「んんんーー。じゃあさ、ママさんの言う通りにさ、彼と関係深めていくん?」

母が何を考えているかよく分からないけれど。取り敢えず、従ってみようかなと。

「そっか。うん、分かった。でも、ありがとね、全部話してくれて… マジ… あり…が… うええーーーーん 辛かったよね、苦しかったよね、ごめんね、ごめんね、一番キツい時にそばにいれなくて、相談乗ってあげられなくて、ごめんね、ごめんねえーーー」

あらあら。一体この人どんだけ泣くのかしら。そう思いつつ里美をギュッと抱きしめた時。冷たい筈の秋風が心地よい暖かさに感じる。そして何かに包まれたような感覚になり、遠くどこかから、

『頑張れよ、負けんじゃねーぞ』

と聞こえた気がした。後で里美に聞いてもハテナ顔されてしまったのだが。


     *     *     *     *     *     *


そんな日曜日はあっという間に訪れ。

渋谷駅で山手線に乗り換え、一駅で原宿駅に着く。心外の人並みに気分が悪くなりかける。いや違う、昨夜から気分が悪いのだ、そうだ、私は怯えているのだ。

彼に会い、また関係が復活することで引き起こされるかもしれない不幸に怯えているのだ。

母は気丈にも私の背中を押してくれ、里美は完全バックアップを確約してくれた。それでも私は怖い。父、里美、自分。次は誰が不幸になるのだろうか。

それ以前に。

本当に彼は私と関係を戻す気はあるのだろうか。あれ程酷い扱いを受けたのに、それでも私との関係を修復、改善する気があるのだろうか。

もし彼が私の元を去っていくならそれはそれでホッとするだろう。しかし私の中の遺伝子がそれを求めていない気がする。どんな不幸が舞い降りようとも、彼との関係を密接にしたがっている気がするのだ。

でなければー

こんなに心が弾んでいるはずがないであろう!

そう。私は今、二律背反する心に悶えている。

彼に会いたくない、やってくる不幸が怖い。

でも

彼に会いたい、そしてもう二度と離したくない

昨晩一睡も出来なかったのは、この二つの真理に苛まされていたからだ。

マスクをした群衆をすり抜け、何とか神宮橋まで到達する。眼下に今乗ってきた山手線と埼京線の線路が伸びており、その左側に紅葉しかけた木々が鬱蒼としている。

彼から送付されたマップに記されたカフェはすぐに見つかる。境内の入り口に佇む素敵なカフェである。落葉しかけた木々に囲まれ、大勢の人が午後の一時を楽しんでいる。


そんな人の中に、彼が手を振っているのが見える。

心が、心臓が大きく脈動するのを感じる。と同じに冷たい汗が背筋を伝うのを感じる。

容易に足を踏み出せず、しばしその場に立ち尽くす。

彼と目が合う。嬉しそうな恥ずかしそうな、それでいて何処となく不安げな表情だ。

彼も同じなんだ、そう思うと少し気が楽になり、ようやく一歩足が前に出る。

「本当に、久しぶり。連絡、どうもありがとう」

強ばった笑顔が秋の柔らかい日差しを受け、複雑な影を落としている。私が席に着くと、

「外、寒くない? 今日は風が無いから外の方が気持ち良いかなって」

ええ、とても気持ちが良いです。秋の木々の木漏れ日と深い緑の匂いがざわついた私の心をどうにか抑えてくれる気がする。

試合はどうだったか聞くと、

「シングルスは何とか勝ったけど、ダブルスで負けちゃって。新人戦はこれで敗退なんだ。あとは春の大会に向けて、かな。」

カールのかかった栗色の髪が木漏れ日に反射して、金色に見える。私は思わず目を逸らし、メニューに目を向ける。

ほうじ茶ラテとモンブランを注文すると、

「うわ… 完全に被っちゃった」

そう言って破顔する。そう。貴方はその笑顔が素敵なの。さっきまでの作られた笑顔はダメなの。そう、ダメ…


里美から、

「いい。絶対、ぜえったいにその話はしない事。どうしても話したいなら、老後の茶飲み話にとっときな。分かった?」

と強く示唆されていたので、その部分は蓋をして、話を進めようと思う。のだが、それではどうしても話の辻褄が合わなくなってしまう。

どうしてあの日、当日ブッチしたのか。

体調不良? それならば連絡出来ただろう。

急な外せない用事? それも説明すれば良いだけのこと。

嘘をつくのに不慣れな私には到底彼に説明をすることは出来まい。

故に。

私は、何も話さないことにする。もし彼から聞かれても、話さないことにする。それで彼が気を悪くし私から去っていくのなら、それで構わない。構わない…

ああ、ダメだ。私には無理だ。

嘘をつくのも、彼と離別するのも、どちらも無理だ。

どうしよう。やはり彼に会うべきではなかった? もっと月日が経ってから会うべきだった?

半分パニックに陥り、大きな呼吸を重ねていると、

「咲良ちゃん、あの、大丈夫? あの事はもう気にしないで。何か僕に言えない事情があるんだよね。」

ハッとして彼の顔を注視する。先ほどまでの思い悩んだ影が嘘のように晴れている。

「それよりさ。あの、まだ、僕と、その、付き合いと言うか、その、」

みるみる内に赤面していく様子に私の心は軽くなり、心臓の鼓動が高まっていく。

「またあの頃みたいにさ、一緒に勉強したり、お茶したり、出来るかな?」

耳まで真っ赤にして、真剣な表情な菅原くん。

愛しい。

心から愛しい。

どれ程時が過ぎただろう、ウエイターが注文の品を運び終え、去っていった後。彼の目を見ながら軽く頷く。

「ああ、良かった」

緊張した顔が安堵で崩壊する様を、うっすらと涙越しで眺める。

同時に、急に胃が痛くなる。これから訪れるであろう不幸に対する緊張感がもたらすものだろう。

でも。

でも、今はこの瞬間を楽しもう、彼との再会を喜ぼう。

手に取った抹茶ラテは、ほんのり甘くほんのり苦かった。


どちらともなく、秋の気配を楽しみたいと言うこととなり、カフェを後にしてから代々木公園を散策しつつ帰ることにする。

穏やかな秋晴れの日曜日、公園には大勢の家族連れ、カップルが秋の気配を満喫している。

「カップルって、咲良ちゃん…」

軽く吹き出す彼に、では何と呼称すればと問い掛けた瞬間。

「けーんーしょおーー」

「見いつけたあー」

そんな掛け声と共に数人の男子が彼に飛びかかるのを私は呆然と眺めていた。

彼らは彼を揉みくちゃにし、徐に私を見、硬直する。

「なん…だと…」

「こ、これは… まさか…」

「うそ…だろ… リアルでこの、クオリティ…」

「誰? モデル? タレント? アイドル…じゃあないか…」

「顔、顔ちっさ… 目デカっ やばっ…」

彼らの狼狽をこちらも唖然として受けていると、そのうちの一人が突如、

「あの、神宮高校の儀同です、菅原とは同じ卓球部です」

そう言って頭を下げたので、こちらも学校と名前を名乗ると、

「声! 声可愛い! 何声優さん? マジで? おい健翔、事実を述べろ! あ、俺、木野っす、よろしく!」

顔が強張る。褒められ慣れていないので、半分テンパりながら頭を下げる。

「っくー 悔しいけど、認めよう。似合いだ、余りに似合っている。あ、僕、河原です。因みに健翔と組んでダブルス負けた河原です。」

ご愁傷様でした、次回の健闘を祈ります。

それから彼は部活の仲間に囲まれ、尋問を受けている。その途中、木野何某が、

「いやね、試合の打ち上げに用事があるからって来なくって。あ、打ち上げっつってもCoCo壱でカレー食ってたんだけどね、そんで代々木公園で人狼でもすっかって来たらさあ、コイツが鼻伸ばして女子と歩いてるじゃん、開いた口が塞がらんかったわー」

話ぶりが可笑しく、思わず吹き出してしまう。すると、儀同何某が、

「まさか健翔が女子と。あ、俺ら男子校じゃん、彼女持ちって殆どいないからさあ。確かにコイツカッコいいけど、まさかの健翔がねえ…」

まさかとは? 思わず聞き返すと河原何某が、

「超真面目なの、コイツ。エロ話にも全然乗ってこないし。密かにBL疑惑があるくらいにさ。そんな健翔が、こんな超絶可愛い子とデートしているなんて… ああ、神はこの世にいるのですかあ…」

あの、B Lとは何のことですの?

三人は目を見合わせ、

「…天然?」

「…ツンデレ、ではなさそうか?」

「…自然派?」

などと口々にしている。

彼は片手を上げ、私に謝罪の意を表している。

不思議と、嫌な気持ちは微塵もない。


結局合流した三人と共に、代々木公園を抜けて山手通りまで歩き、左折して渋谷方面に向かいながら歩いている。

仕方なく彼との出会いの話から夏に互いの家で勉強した話などを披露する羽目になる。

「いいなあ健翔。俺も彼女欲しいよ」

いえ、まだ彼女では…

「いやいや。彼氏彼女でしょう。互いの家で勉強したらそれはもう彼氏彼女ですから。」

そんな定義が存在するとは知りませんでした…

「それに日曜日にカフェで二人でお茶? それは既に夫婦と呼んでも差し支えないかと」

カフェに夫婦連れは居なかったかと。殆どが若いカップルばかりで…

「「「カップル…」」」

悶え苦しむ三人に苦笑を投げかける。

裏渋谷通りを東急本店まで抜けるのがあっという間であった、それ程話は弾み、私も久しぶりに心から笑い、吹き出した。

「いやあ、藤原さん。成る程、藤原さん。」

三人が堪えきれず吹き出す。

「これからも健翔のこと、よろしくね」

「試合、見にきなよ。お友達連れて!」

「それな! やっぱ大橋高校、レベル高いわー」

「是非是非! おなしゃす!」

彼が両手で謝罪の意を表す。私は笑いながら首を振り、一応声はかけてみるが確約は出来ない、それでも良いかと問うと、

「これこれこれ!」

「流石健翔! 凄い子を見つけたなあ」

「俺らマジで応援すっから。だから、お友達の件是非前向きにご健翔の程、お願いします」

私は吹き出しながら、首を何度も縦に振る。

それから私と彼は地下鉄の駅を降り、本当に久しぶりに一緒の電車に乗った。

余りに愉快な夕刻だったので、思わず彼の腕にしがみついたまま電車に揺られていた。

何と素敵な仲間を持っているのだろう、改めて彼に感服する。彼の人柄、人望を垣間見れた秋の午後。明日、里美に何と話せば良いだろう、顔が自然とにやけているのを彼は嬉しそうに見下ろしていた。


     *     *     *     *     *     *


「うわ…… 紹介して紹介して紹介して!」

感極まる里美に唖然とする。里美結構モテるんじゃないの? 文化祭の前とか何人かに告白されていたのでは?

「ムリムリ。ウチ、アホな男子ムリ。神宮の子ならアリアリ、大有り! いえーい!」

……そうですか。では、試合を一緒に見学する件は…

「いくいくいくいくいく! 全力でイクー!」

彼らとの約束が確約できてホッとしていると、

「さっちゃんさあ、そんならあと二人連れて行ってもいいかなあ、いっこ上の先輩、あの前に相談したっていう先輩、とさ、二組の貴和ちゃん。いいかなあ?」

ふむ。恐らく彼らもその方が喜ぶかと。一応菅原氏に聞いてみまするが。

「てか、さっちゃんにも紹介するし。マジで良い子だよ、二人とも。」

はあ。まあ、その節には、まあ。

「薄っ 反応薄い! でも良かったじゃん、仲復活できて! 勿論あのことは話してないよね?」

それは大丈夫。彼も深く尋ねてこなかったので助かった次第で。

里美は深く頷き、大きく唸りながら、

「いい彼氏だね。人間出来てるよ。きっと本当は心底知りたかったのに、それをグッと堪えてさ。さっちゃん、大事にするんだよ。あと、それと……」

うん。何か不幸なことが起こったら、即相談させてもらいます。

「絶対だよ。すぐに知らせること! それが一番大事だよ! いいね?」

承知しました。そんなに直ぐにとは思いませんが、その節は是非頼らせていただきます……

しかしながら。

私の考えは甘かった。


月曜日の帰宅後、祖母に食道癌が発見されたと知らされ、ソファーに倒れ込み私は意識を失った……


この数週間。秋の美食を楽しみたかった祖母は、喉に違和感を感じており今一つ満喫できなかったという。友人にそれを愚痴ると検査を勧められ、渋々大学病院で検査を受けたのが今日の昼間。

「食道癌、ステージⅡです。手術にするか薬物治療にするか、家族の方とよく相談してください」

と言われたらしい。

気丈な祖母は、どちらがQ O Lが高いかを問うと、

「手術ですと開胸手術となり、二ヶ月は寝たきりとなるでしょう。ですが根治が望めます。薬物と放射線治療ですと、一時的な脱毛、嘔吐、食欲不振が出ますが、基本的に在宅治療となります、しかし根治の可能性はあまり高くありません。」

勝ち気な祖母は家族に相談することもなく、後者をさっさと決めてきてしまい、

「投薬治療の時は二週間くらい入院するから、家の事頼んだわよ」

と母に言い切ったという。


母は私にソファーに座るよう促す。

「ね。こういう事なの。」

私は頭が真っ白になりつつも、母の言葉に頷かざるを得ない。

これが、私と彼が結び付くことによってもたらされた、不幸。


「お婆ちゃんの入院が金曜日だって。さっちゃん、お婆ちゃんの家から学校通えるわよね?」

全く問題ないかと。

「じゃあ、その準備をしておいて。週末、お婆ちゃんの代わりに私があなたに我が家の家系図を見せてあげる。それと、菅原くんとのことだけど…」

しばらくは…… ですね?

「ううん、連絡は取り合って。ただ会うのはちょっと待って。あなたに家系図を見せてから…」

どうして母は我が家の家系図にこれ程拘るのであろう。それを問うと、

「週末に教える。あなたに、全てを伝える。だかそれまで待って頂戴。」

毅然と言われ、頷くしかなかった。

母のこの態度に疑念を感じつつ、部屋に上がり里美に祖母の件を連絡する。里美は気をしっかりと保つようにとメッセージをくれ、何か必要な助けはないか考えろ、とのこと。明日会う時までに考えてみると送ると、それで良いと返信が来る。

お陰で寝付けないと思ったが、気が付くと目覚ましが鳴るまで熟睡していた。


水曜日。予定通りに祖母の家の屋根の葺き替えが終わる。ハッキリと、見た目がガラリと変わり、趣のある素敵な家に生まれ変わる。

「こんな事ならもっと早くやっときゃ良かったよ。咲良、大事に使っておくれよ」

そんな遺言のような言い方をしないで欲しいと言うと、

「まだまだ死にゃあしないよ。やり残したことが山ほどあるんだからね」

この人のバイタリティが私にも遺伝していることを切に願う。

金曜日に祖母は一人でタクシーを呼び、大学病院に入院してしまう。

そしてその夜から母と私が仮初の住人となり、一夜が明ける。

土曜日の昼過ぎ。

母は母家の横にある蔵というか倉庫から古めかしい古文書を引っ張り出してくる。

客間にそれを広げ、私に説明し始める。

初めて見たそれは私の想定を遥かに凌駕しており、明治時代を軽く飛び越し、江戸時代も難なくクリアし、室町時代に至る頃には私の思考は停止してしまう。

一体、我が家って?

先祖が鎌倉時代に入る頃にはこれだけの人々の血が、いや遺伝子が私の中に存在しているかと考え、気が遠くなる。

平安時代。信じられない。西暦が三桁までに私の遺伝子が遡れたとは!

外は既に真っ暗だ。時計は五時半をさしていた。母は雨戸を閉めながら、

「ね。そろそろ分かったでしょう。私たちの遺伝子の、大元が。」

家系図に戻った母が指し示した人物。

生誕 貞観十三年。スマホで調べたら八七一年。

死没 延喜九年。西暦九百九年。

別名 本院大臣


藤原時平


「知っているわよね、この人の天敵だった人物を」

知っている。

私は知っている、先月古文の授業で習ったばかりである。


菅原道真


その人である。


「実はね。ママの高校時代に好きだった人も、菅原くんって言ったの。菅原健司くん。」

お母さん… まさか、それって…

「そう。菅原健翔くんのお父さん。一目で分かったわ、あなたが彼を家に連れてきた時に。そっくりだったもの、顔も姿格好も。話し方は、ちょっと違ったけど。」

息が出来ない程のショック。

信じられない、彼の父と私の母が、かつて…


かつてない程混乱し困惑している。自分の愛する男子の父親と自分の母が昔愛し合っていたなんて、今まで聞いたこともない。こんな話は小説にも漫画にもありそうにない。

しばらくした後、やや落ち着きを取り戻した私は母の話に戻る。

菅原道真。

ねえ母さん、まさか菅原って…

「ママ、あの頃に彼に聞いたの。貴方のご先祖様は何って。そうしたら彼は言ったの。信じちゃあくれねーと思うけど。俺の遠い先祖って、あの菅家に繋がってんだとさ、ってね。」


昌泰四年、西暦九〇九年。藤原時平の讒言により醍醐天皇は右大臣菅原道真を太宰員外帥として太宰府、今の福岡県に左遷した。道真は都に戻ることなく失意のうちに太宰府で没した。


それって… 菅原くんが、私に遺伝子的に恨みを持っているってことなの? あれ、母さんも彼のお父さんと付き合っていた? あれ? それなら母さんも色々不幸が? ええ?

「そうよ。私が健司くんと付き合い始めて、パパは飛行機事故で亡くなった。更にー」

母は悲痛な面持ちで絞り出すように、

「大切な親友が、自殺しちゃった。半分ママが殺したようなもの。」

言葉を失う。

こんな軽薄な母が、そんな過去を背負っていたとは。

母の顔は数日前までのそれとは違い、大きな目は吊り上がり、太くて形のよい唇は悔しげにひしゃげている。

「ママだけじゃないの。咲良、ここだけの話にしてちょうだい。実は、お婆ちゃんも…」

母の話に再度言葉を失う。

あの、祖母までも? 信じ難い、いや全く信じられない。

母によると、高校時代に菅原何某と付き合い始めた直後に、三陸の大津波で父を失い、更に同居していた義理の姉をも亡くしたと言う。

「元々、藤原の家が女系なのは知っているわよね?」

そう言えば、前にお婆ちゃんから…

「しかも女子が一人きり。兄弟はなく、入婿でずっとこの家を繋いできた。そして。藤原の家に入った男性は、例外なく寿命を全うしていないの。パパやお爺ちゃんのように。」

それも、確かお婆ちゃんが話してくれた…

「だけど。この数代、すなわちあなた、私、母さん、お婆ちゃんには更なる不幸が降り掛かっている。例えば親友を亡くす。親戚を亡くす。身体と心が傷つく。最愛の人と離れ離れになる…」

思考がついていかない。これ以上は考えることが全く出来ない。

私はフラフラと立ち上がり、寒空の下、庭に出る。


月明かりに照らされた老梅を無心で眺めていると、

「そうなの。」

母がいつの間に私の背後に佇んでいる。

「この木が、お婆ちゃんと、私と、咲良を更なる不幸にしたの」

思わず母に向き直る。


意味が分からない。

父の死が、会ったことのない祖父の死が、曽祖父の死が、母の親友の死が、祖母の義姉の死が、そして彼との別離がこの目の前の老木のせいだと?

何を言っているのだろう、母の表情を読み取ろうとする。

別に気を狂わせている風ではない。寧ろ悟り切った深い悲しみの目で私と老梅を交互に眺めている。

「この梅はね、私のお婆ちゃん、あなたのひいお婆ちゃんに当たる人がね、ここに植えたんだって。」

それは… 知らなかった。てっきり祖母が若い頃に植えたものとばかり…

「それでね、この梅の木の由来がね、あなたお婆ちゃんに聞いたことある? もしくはパパに?」

いや。全く聞いたことはない。

「この梅の木はね、あの太宰府天満宮に生えている飛梅、を株分けした木なんだって」

太宰府天満宮の? あの、あまりに有名な?

今日何度目だろうか

思考が停止し、意識が遠くなっていく。

太宰府天満宮の飛梅がこの梅の木?

……

気が付くと、母が毛布を私の肩にかけてくれていた。


部屋に戻り、時計を見ると八時過ぎ。

しかし全く空腹を感じず、それは母も同様らしく、食事の支度は全くしていない。

それよりも、

何故我が家の庭に菅家にまつわる飛梅の分木があるのか?

母は首を捻りながら、

「詳しい経緯は知らないわ。お婆ちゃんも聞かされなかったそう。でもその由来だけは聞いていたわ。大変由緒正しい梅だから末長く大事に育てなさい、と。」

そうだったのか。ただの変哲もない老梅だと思っていたのだが。

今日は頭が混乱することばかり聞かされている。

自分のルーツが、遺伝子が何処から誰から伝わったものだったか。それを知らされ混乱した。

そして今、庭の老梅があの飛梅の遺伝子を受け継いだ木だったとは。

そして、愕然となる。

母がさっき言っていた一言。

(この木がお婆ちゃんと、私と、咲良を不幸にしたの)

私はハッとなり、話の筋が一本の糸となるのを感じた。

この老梅が、菅家の藤原家への恨みを内包した遺伝子を持つこの老梅が、私達を苦しめている、と……


でも、それなら、祖母も母も私も、もっと不幸な人生を送ることになったのでは?

「不幸が藤原家に災いする、条件があるのよ。」

母は意を決したような表情で、私に向き合う。

「私達が、菅家の血を引くものと、関係した時、に。」

頭の中で一本の太いロープがピンと音を立てて張られた気がする。

私が菅原くんと知り合い、関係を深めた結果。

母が菅原くんの父と知り合い、関係を深めた結果。

祖母が、菅原何某と……

遺伝子の重さに押しつぶされた感覚に陥り、私はただ母の顔を眺めることしか出来なかった。

しばらく私達は見つめ合い、

どれ程時間が経ったか、やがて母は呟く。

「あなたが彼と添い遂げたいなら、」

母の目付きは見たことのない鋭さだ。私は唾をゴクリと飲み込む。

「あの木を、切り倒してから焼き焦がすしかない。」

私は母の言葉に狂気と恐怖を感じ、徐々に気が遠くなっていき……



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ