参の歌
あれからほぼ毎日。
彼と連絡を取り合っている。
非常に有益なことに、試験勉強で分からないことを彼に問うと、即座に教えてくれる。お陰でかつてない程に試験の準備が整っている。
火曜、水曜の試験はほぼ満点に近い出来であろう。そう自負している。
非常に残念なのだが、彼が私に質問することはなく、例え質問されても返答に困ってしまう自分が想像できる。
それ程彼の学校の試験内容は高度かつ過酷であり、日本有数の進学校の空恐ろしい内部競争を垣間見た思いである。
そして、今日木曜日が我が校の最終試験日である。古文、英語の二教科の考査を終えれば、晴れて試験休みに入り、終業式を経て夏休みに突入だ。
あと一踏ん張り。今朝も五時に起床し、まとめ上げたノートを何度もチェックし、万全の準備を整える。
父は月曜日の午後にクリニックに行き、胃腸の疲れからくる下痢と診断され、投薬治療をしつつ火曜日から通常業務に復帰している。
だが具合は良くならず、今朝別のクリニックに朝イチで診てもらうらしい。
「毎日頑張っているな。この調子なら、学年一位も狙えるんじゃないか?」
いや、それは、まあ、そうなるべく努力は惜しまぬつもりですが。
「頑張れよ。早慶、いや国立狙うんだ。俺を追い越せ。」
まあ見ていてくださいよ。あなたの娘の上りっぷりを。
「はは、それでこそ俺の娘。それよりお前、彼氏でも出来たか?」
は、はあ? 何を根拠にそんな話を……
「見てりゃ分かるさ。これでもお前の父親なんだから。どんな奴だよ?」
彼氏ではありませぬ。毎日連絡はしておりますし、明後日携帯ショップに同行してもらいますが。
「んーー、それって付き合ってんじゃないの? 因みに、ハシコーの子か?」
い、いえ… 神宮高校でございまする…
「マジか! 凄い子掴まえたな! やるじゃないか、流石俺の娘! 会ってみたいなあ、今度連れてきてくれよ、紹介してくれよ!」
ですからお付き合いしている訳ではなく… まあ、彼の意思次第でそんな機会も今後あるかも…
「そっか、そっか。よし、チャチャっと病院行って、腹治してくるかな。」
そうしてくださいませ。そして暴飲暴食を慎み、免疫力を付けてー
「りょーかい。咲良、」
何でしょう?
「いい女に、なれよ」
はあ。
これが父の私への最後の言葉となってしまうとは、夢想だに出来なかった。
最終日の試験を終え帰宅すると、マスクをした母が青褪めた顔で
「さっちゃん! パパがコロナ陽性だったって!」
私は肩にかけていた鞄が床に落ちるのすら気付かぬ程、呆然とする。
「私たち、濃厚接触者、だって… さっちゃん、どうしよう、ねえ、どうしよう…」
うばたまの闇に突き落とされた気分となり、ヨロヨロとソファーに座り込もうとすると、
「ダメ! そこはパパが朝座っていたから!」
確かに。このソファーに座りながら父は私に言った、
「いい女になれよ」
と。
よし、まず、学校に連絡だ。
試験の採点に忙しいのだろうか、担任の大友先生に繋がるまでに数分を要した気がする。
「何だって! 本当か? うん、うん、そうか、分かった。来週の終業式は来なくていいからな、成績表は後日持って行ってやる。それより、お前とお母さんもP C R受けるんだ。保健所でなく区役所に連絡しろ、すぐに手配してくれるはずだ。結果を俺に報告してくれ。無事を祈っている。」
今まで脳筋と馬鹿にして申し訳ありませんでした、と言いそうになり口を閉ざす。
スマホで区役所の感染対策課に連絡すると、先生の言う通りすぐに検査の手配をしてくれる。一時半に指定された場所に母の運転で向かい、鼻腔に綿棒を挿入され検査は終了する。
結果は明日とのことだった。
濃厚接触者の行動指針を確認し、生活必要物資の買い物は問題ないとのことだったので、帰りに大きなスーパーへ寄り当分の食材、生活用品、アルコールスプレーなどを購入し、帰宅する。
二人で手分けして、父が接触したであろう家具を徹底除菌する。と言っても母は腑抜け状態だったので殆ど私一人でスプレー二本分の作業を終える。
母のスマホに電話が入り、私が出ると病院からだった。
父の容体が急変し、これからI C Uに入り必要な治療に入る、と。
電話を切りその旨を母に伝えると、除菌したてのソファーに音も無く崩れ落ち、失神してしまった…
頬を何度か叩き、ようやく我に帰った母は
「ごめん、横になりたい」
そう言ってリビング脇の和室に敷妙の布団を敷き、寝込んでしまった。
上馬の祖母に連絡をする。
「何だって… 正さんがI C Uに? 桃香は?」
今、寝込みました。
「そうかい。だらしない母親だこと。いいかい咲良、しっかりと気を保つんだよ。必要なものは何でも言いなさい、すぐに手配してあげるから」
頼りになるのだ、今年七十六になった我が祖母は。とてもこの母の母親とは思えぬ明晰な頭脳、判断、視野。代々受け継がれている資産を今もしっかりと支え、必要な援助を父と母に与えてくれている。
とにかく今は、明日の検査結果待ちである旨伝えると、
「分かった。正さんの容体も逐一知らせておくれよ。咲良、」
何でしょう?
「あんただけが、頼りだ。桃香のこと、頼みます…」
祖母よ。気位が高く、人に頭を下げている姿を到底想像し得ない祖母よ。
私に力を貸し給え、私に勇気を与え給え。
スマホに里美と菅原くんから連絡が入っている。
その連絡を読む余裕は到底なく、私は今後の二週間に及ぶ自主隔離生活のプランを練り上げる。祖母の援助が見込めるので、昼、夕食はUberに頼もう。朝食は最小限のヨーグルトとコーヒーだけにしよう、でないと栄養過多になってしまう。
従って買い物に出るのはやめよう、どうしても必要なものはネットスーパーで購入する。
早速ネットスーパーにアクセスし、ヨーグルトとR1を箱買いする。野菜ドリンクと野菜スープも箱買いだ。どちらも今後の母の必需品となるであろう。
サイトを閉じ、大きく息を吐き出す。時計を見ると八時だ。どうりで腹が鳴っている筈だ。買い置きのカップうどんを啜り、ついでにキッチンの片付けを済ませる。
母の様子を伺うも返事が無い。まあ無理もない、最愛の夫と自分に降りかかった災難を受け入れるには時間が必要なのだろう。
そっと和室の扉を閉め、自室に上がる。
ベッドに横になり、里美のメッセージを開く。試験が終わり、やっと部活に集中出来る、秋の新人戦のレギュラー入りを目指し頑張るぞ、との事。
父がI C Uを出た頃に全てを話そう、そう決め、ただ頑張れとだけ返信する。
彼のメッセージを開く。明日で試験は終わる、明後日の待ち合わせは予定通りで良いか? とのこと。
彼には事実を伝えねばならない。
要約したつもりであったが、出来上がった文章はかつてないほど長文となってしまう。何度か読み返し、最後に返事は不要、また事態が急変したらその都度連絡する旨を書き加え、送信する。
スマホの電源を切り、充電プラグを差し込む。
再度ベッドに倒れ込み、今日一日の出来事を脳裏に再現させる。
その途中、何度も同じシーンが繰り返され、気が付くと意識が無くなっていた。
* * * * * *
「…っちゃん、ねえさっちゃん!」
母がホッとした顔で私を揺り動かす。
「区役所から電話で、私たち陰性だったって!」
良かった! 思わず大声で叫んでいた。
「パパ、大丈夫かな、病院から連絡ないよね?」
便りなきは良い知らせ、と言うじゃないですか。
「そっか。そうだよね。うん、大丈夫だよね。」
二人で手を取り合い、リビングに降りる。電話が鳴り、私が取ると会社の安倍氏からである。保健所から連絡が入り、安倍氏、小野氏、清原女史が濃厚接触者と認定され、自宅待機となった事を告げられる。
「そうか、二人とも陰性で、良かった。お父さん早く良くなることを祈っているよ。」
結果的に三人には迷惑をかけてしまった、そのことを詫びると、
「そんな… 気にしないで… 君は、自分のことだけ… 」
何故か涙ぐまれてしまう。
電話を切ると、同時に母のスマホに着信する、父の病院からだ。
「残念ながら、つい先程お父様が亡くなられました…」
空蝉の命の、なんと儚きこと…
母の絶叫を遠くで聞きながら、膝から崩れ落ちる私であった。
* * * * * *
防疫上、父の亡骸との対面は叶わず、焼かれた遺骨が一週間後に届けられた。
母は起き上がることが出来ず、ずっと和室に寝たきりの状態であった。私も最初の数日は自室に引き篭もり、父との思い出に浸っていた。
里美にこの事実を告げると、即座に電話をくれた。涙まじりの声が聞き取り辛く、それでも誠心誠意私のことを思っている気持ちが伝わった。
以来、朝と晩に電話をくれ、何かと励ましてくれている。
大友先生は電話口で言葉を失い、そのまま通話が切れてしまった。暫くして電話がかかり、只管に私を慰めてくれた。今の所、採点が済んだ教科の合計点は私が学年トップだとも教えてくれ、これは素直に嬉しかった。
安倍氏の乱れっぷりは想定の遥か上を行くものであった、それもその筈だ、父が死んだら自分の地位が危うくなるだろうから。悶え泣く声が煩わしく、早々にこちらから電話を切ってしまう。
そして、菅原くん…
とても直接電話で話す気持ちになれず、簡潔に事実を記したメッセージを送信した。
即既読が付き、やがて長文の悔やみのメッセージが届く。
祖母のショックは相当のものだったらしく、丸一日寝込んでしまったらしい。それでも翌日には我が家を訪れ、母を一生懸命慰めていた。
リビングで祖母と二人きりとなり、暫し今後の対応を話し合う。その話が一息ついた後。
祖母は大きな溜息をついてから、
「咲良。知ってると思うけどね、桃香はあなたと同じ歳くらいにお父さんを亡くしているの。それもショックなの。」
同じ歳位、でなく同じ歳に、です。母の高校一年生時に、祖父は亡くなったのです。
「そうね、そうだったわ。あの時ね、しきりに私のせいだ、私のせいだって泣き叫んで… 今も私のせいだって口ずさんでいるのよ。」
祖父の死は全く違うのだが、父の死は、半分自業自得だ。もし私の助言通りに毎晩の会食を控え、出社を少なくしていればこんな事にはならなかった筈だ、祖母に言うと、
「ふふっ つくづくあんたは私にそっくりだこと。それにしても…」
それにしても、何ですか?
「ちょっと気味が悪いのよ。こうも代々不幸が続くと…」
いや、まだ二代ですが?
「あんたには言ってなかったかしら。実はね、私の父も、私が十五の歳に亡くなっているのよ」
…今、何と…?
「あの年にあったチリ地震の津波にのまれてね。たまたま出張で三陸にいてね…」
1960年、チリ地震。観測史上最大の地震であり、別名バルディビア地震。その地震の影響で太平洋全域に津波が発生し、宮城県、岩手県などで多くの死傷者、行方不明者を出した。
まさかその災害に、祖父が巻き込まれていたとは…
「よく知っているじゃない。流石私の孫娘。」
其れはさておき。確かに三代、こんなことが続くのは気味が悪い…
「違うのよ! 私のお爺さんも、なのよ。それに確かひいお爺ちゃんも! みんな若くして突然亡くなっているのよ!」
背筋に冷たい汗が流れ落ちる。
一体それは…
「知っての通り、ウチの家系って完全に女系なのよ。正さんも、私の夫も、父も、祖父も皆入婿なの。男子が生まれない家系なの。」
知ってはいたが。改めてそう聞かされると、更に冷たい汗が背筋を伝うのを感じる。
「それも皆一人っ子。妹もましてや弟も生まれない家系なの。」
確かに。私も、母も、祖母も、一人っ子だ。額に冷たい汗が流れるのを感じる。
「ずっとさ、気味悪いとは思っていたんだけどね。それがこうしてまた… 一体全体、どうしてこんな事に…」
頭を抱えてしまう祖母にかける言葉もなく、私も拳を握り締め下を向くしかなかった。
祖母が帰った後、この藤原家の謎について考えようとしたものの、明日からの実生活への準備に追われ、いつしか気にもしなくなる。
翌日、祖母が父の葬式、必然的に家族葬となったのだが、について段取りを組んでくれる。納骨は四十九日過ぎに我が家の菩提寺にて。
人生経験の少なさが故、冠婚葬祭に関しては全くのお手上げであったので、祖母の助けが何よりであった。
「その年で葬儀まで仕切っていたら、かえってビックリだよ。あんたは桃香をそうして見ていてくれるだけで十分さ。本当に、ありがとう…」
少し涙もろくなった祖母の言葉に素直に頷く。
母は朝遅く目を覚まし、昼過ぎにヨーグルト、野菜スープを無理やり腹に入れさせ、夜は魚系のメニューをほんの少し食すだけで、後はずっと寝室で横になっている。
家の事、即ち掃除洗濯炊事は全て私がこなし、空いた時間に祖母と今後の事を話したり、里美と長話をして私は過ごしている。
家事をフルにこなすと意外に時の経つのは早く、一日一日があっという間に過ぎて行く。それでも呉竹の夜になると、父がこの世に居ないという孤独感に苛まされ、早く夜が過ぎろと願わんばかりに無理やり目を閉じるのだった。
携帯電話の店舗に連絡し事情を話すと、修理を終えた私のスマホを自宅に送付してくれる事になる。
翌日届いたスマホを眺めると、まるで新品の状態であった。
『いい女になれよ』
不意に父の最後の言葉が脳裏に蘇る。恐らく父からの最後のプレゼントを握り締め、初めて涙が止まらない自分となった。
以来、夜毎に敷妙の枕を濡らす日がずっと続くのであった。
所定の二週間はあっという間に過ぎる。
この間。
私は彼に連絡を取ることが出来なかった。
彼からのお悔やみの長文に返事をせずに、ずっといる。
何故か?
その気になれなかったから。
いや、違う。
彼と向き合う自信が、無かったから。
彼と対等に向き合う余力が無かったから。
もし、今彼と連絡を取ったら。間違いなく私は彼に依存し頼ってしまうであろう。父の所業を罵り、母の失落を悲観し、己の現状を彼に向かって罵っていたであろう。
恐らく彼はその全てを受け止めてくれるだろう。優しく私を労ってくれるだろう。
それが、耐えられないと思ったのだ。
彼の優しさに心を委ねることがどうしても出来なかったのだ。
もし今彼の優しさに埋もれてしまえば、今後ずっと彼の優しさに甘えて行くであろう。
そんな自分を許せないと思ったのだ、
彼とは対等でいたい。彼の人間性に甘えぶら下がりたくない。
即ち。今の自分は彼とは対等でない、そう判断したからである。
私はこれを、父の遺言である
『いい女になれよ』
であると受け止め、歯を食いしばり連絡を絶っていた。
もうすぐだ。後少しで自宅隔離は終わる。夏が来る。夏休みが、私にとっての夏休みが目の前に来ている。
この隔離が、終わるまでは…
明日、ようやく二週間の自宅隔離が終了する。
* * * * * *
隔離が終了し、母も私も感染しなかったことを学校に連絡する。
「良かった、良かったな藤原! お父さんは本当に残念だった。お前の成績表を届けに行くついでに線香を上げさせてもらいたいんだが… お母さんの具合、そんなに悪いのか…」
母がすっかり引きこもってしまっていることを伝えたのだ。
「一度、電話で話をさせてもらおうかな。今、お母さん大丈夫か?」
子機を母の寝室に持って行き、担任の大友先生が話したい旨を告げると、ベッドからのろのろと母は起き上がり、子機を受け取ったので私は寝室のドアを閉めリビングに戻る。
恐らく母が他人と話すのは父の死後初めてだろう、会社の人達からの電話も拒絶していたから。友人とはスマホで連絡を取り合っていたようだが、声を交わした形跡は無かった。
あの脳筋男の明るさが少しでも母に良い影響があればいいのだが。
何気なくテレビをつけると、東京オリンピックの柔道の大会が映し出されている。観客はなくただ畳をする足の音と時折選手が放つ気合の声が会場に響く。
私は画面から目を離し、このリビングをゆっくりと見回してみる。これまで家事に翻弄されゆっくりとした時を過ごすのは久しぶりだ。
やけにリビングを広く感じる。どこにでもある普通の照明、六〇インチのテレビ、壁にかけられているリトグラフ、窓のそばにひっそりと佇んでいるサンスベリア。
いつもと変わらぬリビングなのだが、それでも広く寂しく感じる。父が常に座っていた一人がけのソファーを眺める。そういう事か、独り納得する。
柔道の試合をボーッと見ていると、母がリビングに入ってくる。食事時以外で寝室から出てくるのは初めてではないだろうか?
「さっちゃん、大友先生がお線香を上げに来てくださるって。」
心なしか、頬に生気が戻っている気がする。父の死後ずっと蒼白の表情だったのだが。
「お掃除、しなくっちゃ。……あれ、すごくキレイ、さっちゃんがしてくれたんだ。」
そう、下手したら母の日常生活よりも清掃には力を入れて参りましたので。
「やだー、ママよりずっとお部屋キレイ! これからさっちゃんに任しちゃお!」
こら、私はまだ学生ですから本業は勉強ですから!
「アハ、そっか、まだ高一だもんねー」
久しぶりの母の笑顔。
何故か私の中のパンパンに張り詰めていた何かが破裂しそうになり、慌てて自室に駆け上がる。
もう大丈夫。母が戻ってきた。
もう私独りじゃない。
枕に顔を押し当て、物心ついた頃から経験のない程に号泣する。
「大友先生って、同じ話を何度も繰り返すから長電話になっちゃうのよ」
久しぶりに挽いたコーヒーを淹れたスターバックスのコーヒーカップを啜りながら、心なしか頬を赤らめながら母は呟く。
「あなた以外の他人と長話するの、久しぶり。ちょっと疲れちゃったよ」
と言う割には嬉しそうですから。目が垂れ下がっていますから。
「明後日、パパのお線香を上げに来てくださるって。先生にお会いするの、四月の父母会以来だわー」
大友脳筋効果は抜群のようだ。
「お腹すいちゃったわ、さっちゃん、一緒にお買い物行こ!」
望むところである! 母が外出したいなんて言い出すとは。やはり頼るべき人に頼ることは正解だったのだ。それにしてもここまで脳筋効果が凄いとは思いもよらなかった。まだまだ十五歳、人生は想定外の事ばかり。
ここは一つ脳筋先生に感謝しなければならない、これからは脳筋などと馬鹿にするのはやめ、大友先生と敬意を込めて呼称することにする。
「ちょっと、何ボーッとしてんの? 早く着替えてらっしゃいな」
気がつくと母は炎天下に相応しい、チャラいヒラヒラした格好で仁王立ちしているではないか!
私は慌てて二階に駆け上がり、スェットを脱ぎ捨て街着に着替え、二段越しに階段を降り、玄関で新しいマスクをつけ、お気に入りのスニーカーを履く。
この数日、夕食はずっとUberだったので、久しぶりの母の手料理に私のテンションは上がりっぱなしだ。ピーマンの肉詰めが食べたいと言うと、
「それ! パパも食べたいよね、それにしよう!」
あの日のことが思い起こされる。
父が部下さんたちを最後に我が家に呼んだ梅雨の合間の日曜日。
この数年間で唯一父と過ごして楽しかった日を思い出し、人もまばらなスーパーの中で思わず立ち止まってしまう。
それでも口の中は既にピーマンの肉詰め。再び歩き始め、野菜売り場から精肉売り場に来る頃には口角から涎が溢れマスクが濡れてしまうのでは、と危惧する始末である。
「あら藤原さん、お久しぶりね」
豚肉売り場の前で声をかけてきたのは近所の坂上さん。今日もタイムセールの豚の挽肉を阿呆みたいに買い物カゴに放り込んでいる。
「その、ご主人様、回復されたのよね?」
ああここにも噂の虜の小市民が。
父が陽性になった事までは把握している様子だ。母は無理矢理笑顔を作り出し、
「十日前に、病院で…」
と一言。
坂上さんは口を手で押さえ、微動だにしなくなる。母が生前は大変お世話になりました、と小声で言うと、
「どうして… 知らせてくれなかったの! 何でも手伝ったのに! 何でもしたのに!」
嘘である。知らせなくてもあなたは知っていた。父が陽性となり母と私が濃厚接触者として自宅で待機していた事を知っていた筈だ。
だけどあなたは連絡も寄越さず、ただ周りから息を潜めて窺っていただけである。手伝う意志も無いくせに。何でもする気も無いくせに。
私はこのような偽善者がこの世で最も嫌いだ。何もする気がないならわざわざ言わなければ良い。そして黙っていれば良い。なのにこの類の人は嘘をつく。相手に嘘をつき自分に嘘をつく。手伝う気がないのにさも手伝いたかった、そう自分の意識を改ざんする、そして数分後には忘れる。
私は坂上さんを睨みつけ、母の服を軽く引っ張る。母はそのお気持ちに感謝します的な返答をし、軽く頭を下げ呆然とレジに向かう。
買い物カゴにはピーマンと玉ねぎだけが入っている。私はそれをひったくり、野菜売り場に行って戻してくる。そして母とスーパーを後にし、駅前の惣菜屋で今夜の夕食を探る。
翌日。明日の訪について相談しようと大友先生に連絡を入れる。
「おお藤原、連絡サンキューな。お母さんは元気出たか?」
それが先生。実は昨日かくかくしかじかな事がありまして…
「それは… お前の考え過ぎだと思うぞ。その人も本当に何か手伝おうって気はあったんじゃないかな。」
絶対有り得ませんよ。と言うかその人に限らず。どうしてこの世には偽善者が多いのでしょうかね?
「偽善者って… お前世の中をそんな目で見ていたのか? 違うぞ藤原。世の中はな、そんなに悪いもんじゃないぞ。困った時にちゃんと助けてくれる人だって、大勢いるぞ。」
それって、ご自分のことですかね?
「…なあ藤原。お前ちょっと疲れてんだよ。ずっと家のことやって、お母さんの面倒も見て。ホント、良くやったよ。だからな、今日はもう飯食って早く寝ろ。明日、お母さんにはちゃんと話しておくから。な?」
駄目だ。この大友教師さえ偽善者扱いしてしまった。このままでは母の次に大事な里美さえそう捉えてしまいそうだ…
先生の指示通り、早目に夕食を取り、墨染めの夕べも暮れ切らないうちにベッドに入った。
大友先生は約束通りの午後二時過ぎ、我が家を訪れる。
母は朝から妙にテンションが高く、こんなに明るく陽気な母は久しぶりな気がして仕方がない。私は普段通り家事をこなし、先生の来訪を待っていた。
「この度は大変にご愁傷さまでした、お母さん御加減はいかがですか?」
いつもと変わらぬ熱さに思わず頬が綻ぶ。
「藤原も、よく頑張ったな、さあ成績表だ、お母さん、凄いですよコイツは。本当によく頑張った!」
いや先生、玄関で渡されても… 取り敢えずお入りくださいな。
「お、おお、そうだったな、ハッハハ」
もはや暑苦しさしか感じない担任にスリッパを促し、リビングに通ってもらう。
「あらあら。さっちゃん、凄いじゃない! 学年で三位なんて!」
「でしょう? クラスではトップなんですよ、いやあ鼻が高いですわ、ハッハハ」
「この成績見せたら、パパなんて言ったかしらね…」
母が鼻を啜りながら呟く。
あ、これ暗くなっちゃう奴だし…
「いや、絶対大喜びしてましたよ。さ、藤原、仏壇に捧げてこいっ 今すぐだ!」
うわ… 薄くなりかけた空気を見事に復活させるとは… 恐るべき脳筋、もとい熱血教師…
渋々大友先生と仏壇の前に座り、線香に火を付ける。
チラリと隣で熱心に手を合わせている先生を眺める。一体彼は何を心の中で呟いているのだろうか。昨夜はつい偽善者なんて口走ってしまったが、生徒の父親の仏壇の前で何を思い何を祈るのであろう。
すると先生の横顔の閉じた瞼からみるみる涙が溢れ出す。
その流れ落ちる涙の粒に寧ろ不快感を持ってしまう。
自分の父親なら分かる。だが何十人もいる自分の教え子の父親の死に、何故にこの人は涙を流せるのだろう。
正直この人とは余り会話した記憶もないし、特別可愛がってもらったこともない。あくまでこの人にとって五十分の一の存在に過ぎない。
だのに何故?
ひょっとしたら感情のコントロールが出来ない、情緒不安定な人なのだろうか?
そんな私の不信感に関わらず、いつまでも仏壇に手を合わせ続ける大友教師なのである。
* * * * * *
大友教師の訪以来、母が大分元気になったことは否めない。その点に関しては本当に感謝しかない。
母とは物心ついた時から一番の親友であり私がこの世で一番大切な人物である。なので母の落ち込みは私の心の痛みであり、父の死よりもむしろ母の落胆の方が私には応えていた。
故に以前の半分程度ではあれ、母の快活さが我が家に満ちているこの状況は、私にとって何よりである。
母と父の馴れ初めはこれ迄に何度も聞いている。母が勤めていた会社のクライアントの一人が父であり、当初はそれ程意識することはなかったと母は言う。父の方が母にすっかり夢中になり、あの手この手で何とか母を籠絡し、三十三の年に結婚したらしい。
これは母の女側の一方的な解釈なのではと子供心ながらに疑い、ある日父に尋ねてみると、
「ああそうだよ。ママに会った瞬間、僕は恋に落ちたんだよ」
その時はふうん、そんなものなのかと流していたが、父の遺品を整理し始めて、その言葉に偽りがないことを知る。
父の仕事机から出てくるものは殆どが母からの書状、贈り物、写真類であったのだ。私の子供の頃に父に送った手紙、絵なども大切に保管されてはいたが、母のそれに比べ少ないものだった。
若い頃の二人の写真、と言っても三十代は有に超えていたが、は今よりずっと若々しい父と今と何ら変わりない母が幸せそうに写っている。
父は背が低く当時からぽっちゃりとしており、笑顔がクシャクシャで眼鏡がよく似合っている。対する母はまるで女優かタレントばりの美しさとスタイルで、どうしてこんな父を見染めたのか未だに私には理解出来ない。
「それはねえ、ウフフ、内緒っ」
私もそこまでして知ろうとは思っていないので、ああそう、と受け流す。
「それより、あの子とは連絡とっているの? ほら、神宮高校の!」
連絡を絶ち、二週間は過ぎただろうか。私は力無くかぶりを振る。
「ダメじゃない! ちゃんと連絡してあげなさいよ、でないと他の子に取られちゃうぞ」
一体何を言い出すのか、この母親は…
大友教師が残酷にも残していった、夏休みの宿題をこなしていたあるうばたまの夜。
スマホに着信があり、何気なく見ると…
『その後如何お過ごしですか? 状況を教えてくれると幸いです。』
彼だ。彼からのメッセージである。
この数日の己を見つめ返す。
母が大分元気を取り戻し、家事は殆ど母がこなすようになってきている。私の家事の負担は急激に減り、何より母の復活が私の心を大いに安らかにさせ、状態としてはほぼ父の生前に近い感じである。
スマホを握り、返信を認める。
『お陰様で大分平静を取り戻しつつあります。今も夏休みの宿題と格闘中です。』
送信すると、何故か体が火照ってくる。脇の下に汗を感じる。
すぐに既読が付き、
『ああああ、よかった!』
『あれからずっと心配してたんだ』
『元気そうでホッとしてます!』
一気にトークが押し寄せてくる! あの穏やかで冷静な彼が、こんな風に。思わず笑ってしまう。
『母も大分立ち直って、元気に家事をしています』
『学校の担任の教師が母を元気付けてくれまして、』
『私には物凄い量の宿題を残していきまして、』
『感謝すべきか恨むべきか悩み中です』
すると、爆笑をイマージュしたスタンプが二つほど貼られ、
『そこは感謝でしょ!』
『ちなみに宿題の量はどれ程?』
とにかく途轍もない量であり、大先輩であるあの母は果たしてこなしきれたのか、過去を心配してしまう程なのだ。
『ほぼ全教科です』
『副教科も満遍なく』
『体育に至っては、毎日歩数を計れと…』
『これって個人情報なのでは?』
『ちなみに、そちらの宿題って?』
日本有数の進学校だけに、さぞや過酷な…
『宿題は無いよ』
『あ、幾つか自主参加の論文なんかはあるけれど。』
『基本、何もありません』
嘘、でしょ… 信じられない…
『なので、部活以外は暇にしてるから、』
『宿題、お手伝いしますよ』
嘘でしょ! 信じらんない!
遺品の片付けも進み、相続関係の書類に必要な戸籍謄本や銀行口座関連の書類も徐々に集まり出した頃。
父の会社の部下達が悔やみに訪ねてきた。最後の晩餐に参加していた、安倍室長、小野課長、清原女史の三名だ。
不幸中の幸いなことに、三名とも濃厚接触者となったものの、陽性とはならず済んだとのことに母も私も心底ホッとする。
父の死は会社内でも大変な騒動となったらしく、秋の人事では相当な動きがあるらしい。
形見分けとして安倍氏に父の使っていた腕時計を母が渡す。
「奥様… こんな大切なものを… 一生大事に使わせて… ううう…」
これでゴマスリ人生から解放されるのでは、と思ったがこの先どうなることやら。
小野氏にはクロスのボールペンと万年筆を渡す。
「ご主人様のことは一生忘れません。あの、何か困ったことがあれば何でも仰ってくださいね、すぐに駆けつけます。」
連絡先の書かれている名刺を渡され、母と私は携帯番号を小野氏に伝える。
清原女史には父の使っていたゴルフセットをそのまま受け取ってもらう。父と同じ位の背丈なので、十分に使えるそうだ。
「こんな高価なものを… 今後は一打一打を部長を思い出しながら打ちます!」
それは如何なものか、と思いながらクスリと笑う。
「清原、お前も連絡先を渡しておけ、咲良ちゃんの悩みとか相談に乗ってやるんだぞ」
あ。それは少し嬉しいかも。最近脳筋系の人間を見直しつつあるので、女史にも相談することもあるかも知れぬ、そう思いながらラインのIDを交換し合う。
その夜、早速小野氏と清原女史からメッセージを受け取る。小野氏は
『今後会社関係の話は直接僕がします。死亡退職金関係に必要な書類なども僕が極力お手伝いしますから安心してください』
さすが父の学閥? 一番面倒だなと思っていた案件だったので、心底ホッとすると共に小野氏の責任感の強さに首を垂れる。
清原女史は、
『大好きなお父さんを亡くしさぞや悲しいかと思うけど、私達も皆悲しんでますので、負けずに頑張って!』
ちょっと意味不明な内容に首を傾げつつも、まあ出来の悪い先輩と思って今後は付き合っていこうと決心する。
それからは毎日のように二人は連絡をくれる。
父の退職関係は小野氏の尽力のお陰で想定外にスムースに進んでいく。小野氏には日毎に感謝が募り、ここまで尽くしてくれる方にお礼をせねばと思うのだが、
『一切気にしないで。全てが終わったら、そしてマンボウが解けていたらランチでもしようね』
何という大人な気遣い。我が熱血教諭との余りの違いに顔が綻んでしまう。
脳筋先輩とは里美とは全く違う友情が育まれつつあり。
『今日の会議、チョーウザい。新しいブチョー、チョーウザい。はー、やってらんねー』
『体育会で我慢は学ばなかったのですか?』
『ハー、在宅ワークチョーつまんねー やっぱあたしゃ引きこもりには向いてねーわ』
『適宜休憩を取るなりちょっと散歩するなりすべきかと』
『アッチー マジ暑くて脳天火傷しそー ねーねー、教えてあげるからさ、ゴルフしよ?』
『炎天下とマンボウが無くなった頃に考えてみます』
とても年上とは思えぬ女史とのトークに、社会人の本音を垣間見れて少し面白い。
この事を里美に話すと、
「マジ受けるー って、ウチも将来そんな感じになるんかいー それよりさ、今度咲良の家にお線香上げに行ってもいーかな?」
大歓迎である。思えば彼女を含め、高校生になって友人を家にあげたことはない。良ければ夕飯も食べていかないかと提案すると、
「チョー食べるし! うわーテンションアゲアゲー さしも知らじな 燃ゆる思いをー ってかー」
そこまでかよ…?
ようやく。
ここにきて、ようやく彼と会う決心が固まる。
母もほぼ復活し、里美とも普通に話せ、想定外の友人と知人が出来。
オリンピックも終盤に差し掛かったある夜。私は彼に夏休みの宿題について相談をする。
『喜んで!』
『急なんだけれど、明日は午前中に部活、午後は空いているんだ』
『もし良ければ、明日の午後?』
明日の、午後。勿論私に用事はない。予定もない。
『では、明日!』
『場所はどうしようか?』
『取り敢えずファミレスに集まろうか?』
それでいいと返事をすると、国道沿いのファミレスを指定される。彼は一旦帰宅し、昼食を取ってから来るので二時過ぎに待ち合わせとなる。
母にその旨を話そうとリビングに降りると、誰かと電話で話しているので自室に戻り宿題に手を付ける。
一時間も過ぎた頃、リビングに降りると
「さっちゃん、来週また大友先生がうちに来てくれるって。部の試合が桜高校であるから、その帰りに寄ってくれるって! 夕飯食べていくって! 先生何がお好きかなあー」
うわ… これ絶対私の宿題の進捗状況のチェックをしにくるやつだ…
明日はちょっと真剣に彼に相談… いや、手伝いの相談をしなければ。
「あらーあらあらあらー そんならウチでやりなさいよお、ウチでお昼も食べなさいよおー、ね? ね?」
余りの熱量と押しの強さに負けてしまい、彼に慌ててその旨を連絡する。
『え… 藤原さんのお宅で? え?』
それはそうなるよね。逆の立場なら凍りつくよ絶対に。
『それは、ちょっと…』
『部活後だから汗臭いし』
『せめて、昼食を済ませてから、なら…』
母に彼の苦悩を伝えると、
「うーーん、まいっかそれで。じゃあケーキ買っとこうかなー その子… えっと、何君だったっけ?」
菅原健翔君です。
「スガワラくん?」
急に怪訝な顔をする母。
「ほーん。まあ、その、菅原くんさあ、甘いもの好きかなあ?」
すぐに元に戻る母。確か好きだと思うと伝えると、
「よおーし、善は急げ! ちょっと買い物行ってくるよー」
と言って、あっという間に街まで出掛けてしまう。せめて財布を忘れていないことを祈ろう…
高照らすお日さまも笑っている、今日も酷暑のいい天気なのである。
* * * * * *
朝から妙にぎこちない。私がである。
何なら昨夜からちょっとおかしい。寝付きの良い私が全く眠れずに、ようやく眠りについたのはカーテンの外が薄らと明るくなってからだった。
まんじりとしない朝を迎え、ダイニングでR1を啜っていると、
「菅原くん、何時に来るんだっけ?」
と殊更に興味深く母が聞いてくる。恐らく二時過ぎかと思われるが、と返すと
「ふうーん。あ、さっちゃん、お庭のお掃除ヨロヨロー」
と言ってリビングの掃除を始める。
玄関を出ると、今日も変わらぬ酷暑日である。
薄汚れた家の白い壁が照りつける太陽を反射し、非常に目に眩しい。高圧スチームかなんかで真っ白にしたくなるが、そもそも素人のなせる技とは到底思えず、数年後に外壁塗装をプロに任せることになるだろうと独り納得する。
庭と言っても祖母の家の庭と違い、申し訳程度の広さなので簡単に掃除が出来てしまう。上馬の祖母の家、すなわち母の実家は古いながらも広く、庭はテニスコート程の広さがある。
庭の真ん中にはかなり古い梅の木が生えており、祖母曰くかなりの由緒正しい梅の木なのだそうだ。私はこの老木が大好きで、祖母の家に遊びに行くと時を忘れてその老木を眺めているものだ。
勿論我が家の庭にはそんな老木はなく、庭の端に父が植えた八重桜の木が一本生えているだけである。
一瞬で庭の掃除を済ませ、容赦無く照りつける太陽を見上げる。額から一筋の汗が流れ落ちる。そう言えばこの夏は殆ど外出していない、従ってこの気の遠くなりそうな暑さを体験するのは今日が初めてである。
着ていたシャツが汗でぐっしょり濡れたまま家に上がり、そのまま母の掃除を手伝う。
掃除が一息ついたところで私は自室に上がり、汗で濡れた服を着替える。そしていつものG Uのスウェットを着ようとしてはたと考える。今日は彼を家に迎えるのだ、少し考えて、白のノースリーブにジーンズを合わせ、母の用意した昼食を食べにダイニングに降りる。
「あら、お洒落なんかしちゃって。ようく似合っているわよお」
母に弄られるも無視して冷やし中華を掻き込む。味は全くわからず、ひょっとしてコロナに感染したのでは、と少し恐ろしくなる。
母も一見浮かれてテンション高く見えるが、娘が初めて連れてくる男子に少し緊張しているのか、笑顔がいつもよりややぎこちない。
そんな私と母の思惑をよそに時計の針は着実に進んでいき、気がつくともうすぐ二時となっていた。
家の位置は事前にスマホで連絡していたが、居ても立っても居られなくなり私は玄関の外に出て彼を待つ事にする。
「暑いから中で待ってなさいよお、」
と家の中から叫ばれるも、中で母と二人きりの緊張感から逃れたくもあった。
やがてスマホを片手にキョロキョロ辺りを見回す彼が遠方に見え、生まれて初めての喜びと緊張の入り混じった不思議な感覚に目眩を感じる。
彼は私と私の家を見つけ、一瞬立ち止まるもすぐに駆け出し、爽やかな笑顔で
「良かった、元気そうで。あの、今日は本当にお邪魔して?」
私は何も言葉にできずただ首をカクカク振るだけであった。
「あ、初めまして、神宮高校の菅原健翔です。」
彼が母に挨拶をする。
母は口をパックリと開け、唖然とした表情となる。
彼も相当緊張していたのだろう、そんな母の様子に気づかずにペコペコ頭を下げている。
しばらく呆然と彼を見つめていた母は私の視線に気づくと、
「あ、いらっしゃい、菅原くん。今日はゆっくりしていってね」
ぎこちない笑顔を残し、
「ママは部屋にいるから、ダイニング使ってね」
そう言い残し二階に上がっていってしまう。
ホッとしたような彼はさておき。
何なのだ、この母の態度は?
彼を一目見た瞬間のあの驚愕の表情。まるで以前から知っているかのような驚き方。わからない、何故に母はこんな態度を取ったのか。
母が彼を気に入らなかったのがちょっとショックだったが、それ以上に彼と二人きりになれる喜びが込み上げてきて、彼をダイニングに誘うのであった。
「実はさ、僕ものすごく緊張してるんだ」
実は私もだよ。
「え? 藤原さんは共学でしょ。僕はずっと男子校だから。そもそも女子と会話する機会がないし。」
塾とかで女子と絡まないの?
「全然。そんな僕がさ、藤原さんみたいに可愛い女子の家にいるなんて、ちょっと…」
今サラッと嬉しいことを言ってくれましたね。
「いや、だってホント可愛いじゃん。お母さんもすごく綺麗だし。美形家族なんだね」
菅原くんのご家族は?
「ウチは… 母が一昨年癌で亡くなって。僕は一人っ子だから、父と二人だよ」
……知らなかった。父子家庭だっただなんて…
「あ、ごめん。話す機会がなかったから… それより、お父様は本当にご愁傷様でした、お線香あげても?」
それは是非。そう言って彼をリビングに鎮座している仏壇に導く。
ねえお父さん。どうよ彼? お父さんがお気に召すのは間違いないと思うんだけど。素敵でしょ? イケてるでしょ? まあ彼と付き合うかどうかは分からないけどね。彼がこんな私を選ぶとも思えないし。それでもさ、応援してくれてもいいんだよ。お母さんはちょっとドン引きっぽいけどね。
てか。応援して! お願い、お父さん!
テーブルの上に置かれた夏休みの課題の山を見て、
「うわ… 凄いね、これ全部やるんだ…」
まあ半分は既に終わらせましたが。
「流石、藤原さん。本当に真面目でちゃんとしてるよね。」
そんな… 褒めてくれてもケーキくらいしかないのですが…
「はは… さあて、何から手をつけましょうか? あ、数学が手付かずだね、じゃあこれからやっつけようか!」
それから至極の時間は瞬く間に過ぎ、四時には数学の宿題は全て終わっていた。
流石に疲れたので一息入れようと冷蔵庫からケーキを出す。母があれ程気合を入れて買ってきたケーキなのだが。あれから母は本当に寝室に篭ったきり全く顔を出さない。
それはそれで大いに助かったのだが、あの軽薄な母が全く茶化すこともなく大人しく身を隠しているのも実に不気味であり、彼に断って二階に上がり母の様子を伺う。
「ああ、ごめんね。ちょっと頭痛がしてさ。まだいる、よね?」
顔が真っ白で本当に辛そうな表情に、まさかコロナ…?
「違う違う。大丈夫だから。菅原くんが帰ったら、夕飯の支度するからさ。」
私は頷き、ダイニングに降りる。
「お母さん、大丈夫? 夏バテとか?」
そのような感じかと。それにしても、菅原家では誰が家事を?
「ああ。父さんと僕が半分ずつかな。仕事がない時は炊事洗濯掃除全部やってくれてるかな。平日は逆に僕が全部。藤原家は? どんな感じ?」
まあ、似た感じかと。
「へえ、藤原さんの料理、食べてみたいな」
きゅん。
胸が締め付けられる。
お父さん、これが恋なんだよね?
リビングの仏壇にそっと問いかける。
休憩後に物理の課題を半分終わらせ、日がだいぶ傾いているのを感じる。
「僕そろそろ帰って夕飯の支度しないと。そうだ、今度は僕の家で課題やらない?」
いつ?
「えっと、来週の月曜日、部活の後空いてるよ」
是非!
「じゃあ僕の家の位置、送るね。あ、スマホ綺麗になったね、良かった良かった」
一瞬ドキッとしてしまう。綺麗なのはスマホ、なのよね…
「それじゃあ、僕はこれで。あの、お母さんによろしく伝えてくれる?」
それはもう。しかと伝えておきますので。
「あは、日曜日は父さんと二人で大掃除しなくちゃ。それじゃ、また!」
去っていく彼の後ろ姿をいつまでも眺め続ける私であった。
これまでの人生で最も幸福な時間であった。
来週の月曜日はこれ以上の幸せが待っているのであろうか。
幸せをじっくりと噛み締めた後、玄関の扉を施錠し、二階の母の寝室へ上がっていく。
「はーー なんかゴメンねー。菅原くん気を悪くしなかったかなあ」
それは全くないかと。それより、来週の月曜日に彼の家で課題をする事になったので、
「月曜日? ふうん」
いつもの母なら必ず茶化してくるのだが。
「先生が火曜日にいらっしゃるってさっき連絡あったから。空けておいてね」
大友教師が? それはそれは。課題の進捗状況を伝えるにはもってこいの日程かと。
「さーて。夕飯、何にしよっか?」
母の表情はすっかりと良くなり、どうやら完全復活したようだ。
またしても熱血脳筋…もとい、大友教師に救われたのだろうか?
『マジマジマジ? 火曜に大友っちが? ウチも行っちゃおうかなあー 何ちって!』
え? 全然構わないし。寧ろ里美がいてくれた方が私は助かるのだけれど。
『ほんとー! 行っちゃうよ、マジで!』
どうぞどうぞ。心から歓迎いたしますし。
里美が火曜日に遊びに来ることを母に伝えると、これ以上ない笑顔で、
「いいじゃん! 里美ちゃんに会うの楽しみよお。」
偽りのない笑顔でそう言った。
その夜。
知人二人と今日の出来事を語り合う。
『わおー 咲良ちゃんの彼、会いたいー! ゴルフやるかなあー』
多分会わせることはないし、ゴルフもしないかと。
『へえー。お母さん、ちょっと心配なんじゃないかな。急に男子と仲良くなったりしたから。』
いや寧ろ煽っていたんですがね…
『ええーーー 会わせて合わせてー イケメンD Kと会いたいー!』
D Kとはまさか男子高校生の略ではないでしょうね?
『そうそう、今月中にお父さんの死亡退職関係の書類渡せると思うよ。お線香上げがてらお宅にお邪魔してもいいかな?』
是非。お待ち申し上げます。本当に助かりました、感謝しております。ああちなみに私はチョコレートケーキが好きです。
『その彼、社会人のお兄さんか従兄弟いないかなあ。紹介してよお、頼むよお』
いません。一人っ子ですから。お父様も一人っ子だそうですよ。
『あはは、じゃあケンズカフェのガトーショコラでも買っていくね。』
え… あの幻の… 来訪を心よりお待ち申し上げます。
『ええーーー、そうだ、ワンちゃんお父さんもアリ! きゃは』
男なら何でもいいんですね。それなら小野氏がいるじゃありませんか?
『僕じゃなくてケーキをでしょ?(笑)咲良ちゃんの元気な顔、楽しみにしているね。』
小野氏の爽やかな笑顔を思い出し、顔が綻ぶ。
『ええーーー アイツ女癖悪いからボツ。』
ほう。それはモテない女子の僻みなのでは?
『咲良ちゃんひどおーい でも、そーかもテヘペロ』
スマホの電源を切り、充電器に差し込んだ。
* * * * * *
月曜日。
こないだよりも落ち着かない。
夜はなんとか寝られたものの、浅い眠りであった。
珍しく朝から母が無口で、それが母の彼に対する考えと推察する。
これ程の美人なのに母は若い頃に浮いた話が殆どなかったと祖母は言っていた。高校時代も付き合った彼氏はいなかったと言う。
故に母は私に彼氏が出来るのことに乗り気でないのでは、と心を巡らす。
それとも?
彼と会うまではあれだけ背中を押してくれていたのに、会ってからのこの態度。
菅原くんを気に入らなかった?
何故? 容姿? お土産を持ってこなかったから?
心が乱れに乱れ、午前中の勉強は全く捗らず。
昼食時も母は言葉少なめであり、
「夕飯前には帰って来るのよ。」
なんて普通の母親のセリフを口にする始末である。
勿論私も彼の家で夕食を頂くのはハードルが高すぎるので帰宅するつもりでいるが。
約束の時間が近づき、心拍数はかつてない程上昇している。行ってきますと家を出ると生憎の雨模様。お気に入りの傘を差し、昨夜何度もシミュレーションした通りに彼の家に向かう。
初めて二人で会った時も雨。以来、私は雨が大好きになっている。雨が降ると嗅覚が敏感になる気がする。あの日胸いっぱいに嗅いだ彼の匂いが思い出され、赤面する。
今日は彼の匂いが充満している彼の家に行くのだ。そう思うだけで興奮が止まらない。その匂いに彼の父上の匂い分子も含まれることに気が付き、思わず吹き出してしまった。
歩いている間に雨脚は強くなり、彼の家を探りあてた頃には土砂降りとなっていた。幾ら雨好きとはいえ、流石に注意報レベルの気象現象を好きとはなれず、膝下をすっかり濡らしてしまいつつ彼の家のインターフォンを鳴らすのであった。
菅原家は随分古いマンションの一階、オートロックも設置されておらずそのまま住戸へと入れてしまうタイプの建物である。
今も横殴りの雨が私の背中をあっという間に濡らし、これではほぼ全身ぐしょ濡れではないか、と愕然としてしまう。
「いらっしゃ… うわ、びしょ濡れじゃない、さ、中入って!」
傘を閉じ玄関をくぐる、ああ、彼の匂いがいっぱい!
恍惚の表情で立ち尽くしていると、彼がバスタオルを持ってきてくれ、濡れた部位を拭いてくれるも、
「乾燥した方がいいかも、藤原さん、着替え持って来るから脱いでくれる?」
着替え。すなわち彼の服を着る?
状況変化の速さに思考が停止してしまう。その場に立ち尽くす私を置いて彼は着替えを取りに部屋に入る。
白のTシャツとスェット下を渡され、
「濡れた服は乾燥機に入れておいて」
と洗面所に案内される。中型洗濯機の上にガス式乾燥機が設置されており、私は彼の指示通りに濡れたカットソーとジーンズ、靴下を乾燥機に放り込む。
その時、無意識の内にブラジャーを外して乾燥機に入れていたことに気づいたのは、彼が先だった筈。私には記憶がないから。
Tシャツをかぶる。デカい、膝上まで覆われてしまう。スェットはウエストも丈も大き過ぎて邪魔になるばかりなので割愛させてもらう。
渡されたバスタオルで素肌を拭き、乾燥機に放り込む。幸い髪は全く濡れなかったので、着替えは意外に早く終わる。
外が蒸し暑かったので、菅原家の冷房は実に心地よい。その旨を伝え、使わないスェットを返すと彼の表情が硬直し、みるみる内に耳まで真っ赤になってしまう。
どうしたのかな、と思いつつも何とか濡らさずに持ってこれた課題達をリビングのテーブルに置き並べ、二つ置かれている座卓の一つにしゃがみ込む。
いつもの様に正対して座っているのだが、彼の挙動不審、所謂キョドリ方は半端なく、目は常に上下左右を行き来し、声は上擦り言い間違い多数。顔面はずっと赤面のまま、あからさまにど緊張している様子だ。
これでは課題が全く進まず、何をそんなに緊張しているのか問うと、
「いや… その… あの、ごめん、横並びに座っていい…かな?」
私は首を傾げ、それは全然構わないと呟くと彼はほっとした表情となり私の隣に座卓を持ってくる。
彼の匂いが真横にあるー
その瞬間から立場逆転である。
私の視点は定まらなくなり、息は荒くなり、少し気が遠くなりつつある… ってこれ、酸欠じゃない! 慌ててゆっくりと深呼吸をする私を不思議そうに見ている彼である。
ようやく落ち着きを取り戻した我々は、前回やり残した物理、そして化学の課題を修了させることが出来た。まあ、途中からはほぼ彼が解いたものを私がプリントに写しただけであったが。
これで終わった! 明日夜に大友教諭に提出できるレベルである! 喜びのあまり大きく伸びをする。
「お疲れさん、よく頑張ったね、すごい集中……」
彼が声を詰まらせるのを感じ、どうしたのと伸びをしたまま彼の方を伺う。彼は私を凝視したまま完全に停止状態となっていたー
え? どうしたの、と問うも細かく首を振るのみで硬直したままだ。何だろう、不思議な習性を持つ人だなあと思いふと伸びをしている己を見下ろし、愕然となる…
あれ… 私ノーブラ… 今まで全く気付かなかった。彼から借りたTシャツは元々膝上まで、伸びをすれば当然膝上どころか臍下…
なんて露わな姿を… 頭はパニック状態となり、慌てて横を向かながら両手で裾を降ろそうとしたのだが、バランスを崩し座卓から転げてしまうーフローリングに頭をぶつけてしまう!
その瞬間に。
危ないっと彼は叫びながら、サッと私とフローリングの間に腕を差し込んでくれ、私は頭ないしは顔面を強打せずに助かった。
その代償として。
もとい、その褒賞として。
今、私は横向きに彼に抱かれている。彼は横向きの私を抱きしめている。
彼の胸から彼の匂いが私いっぱいに押し寄せてき、一瞬のうちに恍惚としてしまう。彼の鼓動の速さは尋常でなく、また呼吸の荒さも私の顔がその度に左右に揺れる程だったので、大丈夫かと問うも、全く返事が無く。
私は目を閉じ、再び訪れたこの幸福な時を満喫するのであった。
彼の呼吸が落ち着き、目を開き彼を見上げると目が合う。
そのまま吸い込まれるように視線は彼の瞳孔から離せなくなる。その距離が一ミリずつ近寄っていく。合意の元に、両者から近づいていく。それが当然かの如く、私の遺伝子が彼との接近を所望している。
彼の端正な鼻が近づく。少しずつ近寄り、やがて私の鼻と接触する。その瞬間、心臓は大きく拍動し脳は稲妻の如く白く光り輝く。
私の遺伝子は更なる接近を催す。
私の身体はそれに従い、やがて唇と唇が接触する。それからの記憶は、あやふやとい言うか曖昧と言うか。
宅急便の配達がインターフォンを鳴らした時、私たちは互いの舌を絡めあい唾液を味わいあっている最中であった。その直後に彼の父上から後三十分で帰宅すると連絡が入り、私は慌てて支度をし彼の家を出る。
雨脚は弱りつつも変わらず降り続いている。大通りの信号待ちで、日没間近の真っ暗な雨雲を見上げる。
数十分前に味わったものがまだ口内に残っている気がして、またしても脳が幸せドーパミンを発し始める。
同時に、このまま帰宅する寂しさに愕然となる。彼を背に置いたまま、彼とのことを残したまま前に進みたくない。百八十度ターンをしたい。傘を投げ出して走り出したい。そして、
いつまでも先程の一体感を味わいたい。
ちはやぶる神よ、願わくば……
* * * * * *
火曜日。
高校の友人が初めて我が家を訪れた。
「へーー、咲良と咲良パパ、全然似てねえー」
仏壇の父の遺影に深々と頭を下げてから里美が言うと、
「でしょお、さっちゃんは私似なのよ」
「咲良ママ、めっちゃ美魔女っすね。テレビとか出れそーっすね」
「やだあ、里美ちゃん、今日はいっぱい食べていってね」
「あざーす。大友っち、何時頃来るんですかあ?」
「試合終わってからだから、五時過ぎじゃないかなー」
「でもでも! 大友っちと咲良ママ、マジお似合いっすよ。まさかのひょっとして? えええ?」
攻めるなあ里美。未亡人になって一月そこらの女性に向かって…
まんざらでもなさそうな我が母に軽い失望と怒りを感じつつ、母と夕飯のピーマンの肉詰めを作り始める。
「里美ちゃんはカルタ部なんだって? 私の頃はそんなの無かったなあ」
「出来たの十年くらい前っすから。咲良ママは部活やってたんですかあ?」
「ううん。帰宅部。学校終わったら友達と渋谷をブラブラしてたなあ。ねえ、カルタ部って、何するのお?」
「百人一首っす。全国大会もあるんっす。」
「えええええ? そうなのお? 私一首も言えないかもー」
母のスマホが鳴動する。手を洗って母がチェックする。
「先生、あと三十分でいらっしゃるって。丁度いいかも。さっちゃん、焼き始めちゃおうか!」
私は頷き、フライパンに油を引き始める。
「すっげ… 咲良、リアルに料理しとる… 勉強できてこの美貌で、料理までするとは… 恐ろしい子…」
母はプッと吹き出し、私が火にかけたフライパンに次々に肉詰めを並べていく。
私が焼きに集中している間に、大友教師が到着したらしい。
「いやあー、お邪魔します、って、おい、堀川じゃないか! そうか、お前ら親友だもんな、マブダチって奴だもんな、よく来たな、アッハッハ」
一気に空気を変える天才。
気分が落ち込んだ時、凹んだ時、憂鬱で堪らない時。居ると便利です。
横目で見つつ笑えたのが里美。
「オートモーッチ! ウェーイ! ハウディー?」
と叫びながら教師にしがみつきぶら下がる。六尺越えの背丈の教師にぶら下がる親友、というシュールな情景に深い溜め息が出てしまう。
「えー、すごおーい、私もぶら下がれるかなあー」
女子高生に張り合い出す母に大声で注意を促すと、何故か三人は爆笑する。失礼な。少しだけ焦げを多めにつけてやり溜飲を下げる。
両手に女子高生と美魔女をぶら下げた姿でダイニングに入ってくる姿はシュールを通り越しあはれな姿と思え、思わず私も腹を抱えて笑ってしまう。それにより焦げの面積と度合いは事故レベルにまで達してしまう。
「わかったよ、そんなに怒らなくてもいいだろ。俺が食うから、大丈夫だって、おい、捨てるなよ、俺が食べるから!」
そこまで言うなら責任をとっていただきましょう。この焦げた肉詰めを皿に並べて大友教師の前に差し出す。
同時に母がビールをグラスに注ぎ、宴は始まる。
話は大橋高校が昔は如何に鈍臭い高校であったか、どうして私は百人一首の虜になったのか、俺が赴任してから如何にバレー部が強くなったか、などが三つ巴で飛び交い、私は話についていくのに必死であった。
ああ、この雰囲気。
父の生前と一緒だ。
それが嬉しくて、懐かしくて、私の笑い声は止まらなくなる。
だが。
「てか、お前ら夏休みの宿題、ちゃんとやってんだろうな? 後一週間で新学期だぞ、ちゃんと終わらせておけよ!」
里美がテヘペロする横で私が既に済ませましたが何か、と返答する。
「ウッソ? マジで? 写させて。うわ、助かるわー」
「おおお。さすが学年三位。あの量の課題を既に終わらせているとは。」
教師が真剣に感心していると、
「だってそれー、彼氏に手伝ってもらったもんねー、さっちゃんのズル! きゃは」
ある意味で空気を変える天才の一言に場が凍り付く。
「え…… 彼氏? 咲良に?」
数秒前までの笑顔が吹き飛び、能面の様な表情となる里美。
そう、彼女には彼のことを一切伝えていなかった、何故ならそうするべきだと遺伝子が叫んでいたから。
「咲良ママ、冗談っすよね…? まさか、急に彼氏?」
母は滅多に見せない意地悪な表情で、
「えーー、夏休み前から付き合ってるわよお、ねえさっちゃん?」
教師がおおおと唸る。その正面で里美が箸を一本落とす。
「え、えへ、な、なんだよお、教えてよお、知らんかったって、アハ…」
「で? ウチの学校か? いやそんな筈はない、そんな度胸のあるヤツはこの学校に居ねえ!」
「そんな度胸ってー、ウチの娘に酷くなーい? きゃはは」
「いやいやいや。こんな頭良くて美人でスタイル良くてモノをハッキリ言うヤツ、相手にできる男子いませんよ。で、何処の学校だ? ええ、教えろよっ!」
私が口を閉じていると、
「神宮高校なのよおー、背が高くてチョーイケメンなのよおー」
里美の乾き切った笑顔が、いつまでも心に引っかかっていた。
その夜以来、里美からの連絡は途絶え、こちらからの連絡に既読が付くことは無かった。
私が母の次に大切な親友を喪ったことに気付いた頃、新学期が始まろうとしていた。