壱の歌
父が、好きではない。
例えば私の親友の里美は、
「パパ、ちょーラヴだし」
らしいのだが。
この春に第一志望であった都立大橋高校に入学し、晴れて女子高生になった。母の母校でもあるこの高校は、都立校としてはなかなかの進学率を誇り、毎年早慶に五十名程度進学しているらしい。
狙えばもうワンランク上の高校にも届いただろうが、一つに地下鉄一本、ドアツードアで三十分で通学できること、そして一つに私の大好きな母の母校ということで、第一志望に選んだのであった。
父はワンランク上の都立、または大学の付属校をしきりに勧めていたのだが、あまり好きでない父の意見はほぼ無視した形となり、入学後もやや気まずい雰囲気がリビングやダイニングルームに流れて久しい。
逆に母は自分の母校に入学した娘に狂喜乱舞し、得意の料理が織りなす珠玉の毎日の弁当がその喜びを感じさせてくれる。
六月も終わりに近づき、もうすぐ梅雨も明けるであろう今日この頃。そろそろ期末試験の準備に本腰を入れねばならない。母の自慢の作品を大事にカバンにしまい、今日も定時に私は家を出る。
玄関を出た後、ふと自宅を振り返る。
蕭々と降る久方の雨に濡れた我が家が有る。白の外観はややくすんで見え、よく手入れされた庭の植栽が目に眩しい。玄関の脇に置かれた信楽焼の蛙が泰然と私を見送っている。
物心ついた時にはここに住んでいた。なんでも母の実家に近く、私の名前と同じ町名のこの場所を父が痛く気に入り、資産家の母の実家の援助を受けて家を建てたそうだ。
「咲良と同じ名前の町なんて、素敵じゃないか」
事あるごとに呟く父の言葉に、幼い頃は深い愛を感じたものだったが、最近ではただ煩わしいだけである。
むしろ父の軽薄かつ短慮な部分を感じ取ってしまい、逆に軽く恐怖を覚えてしまう。
どこの世界に娘と同じ名前の街に嬉々として住む父親がいるだろうか。
里美は曰う。
「それ、チョー愛されてね? 咲良パパ、ガチラヴじゃん」
そんな愛は結構です、それよりもこのコロナ禍きちんと定時に退社し帰宅して欲しい。テレワークなんて仕事じゃない、人と会ってナンボだろ、などと部下を悩ます言動を慎んでほしい。
大手製造メーカーの営業部長である父が出社するお陰で、部下達も泣く泣く毎日出社せざるをえない、母が溜め息混じりに愚痴るのだ。
そんな自己本位な乳の実の父が嫌いだ。
自宅を眺めていると益々父が厭わしくなるので、駅に向かって歩き出す。
東京オリンピックを控え、東京の街は活気付いている、とはお世辞にも言えない。通学の電車はコロナ前は超満員だったそうだが、電車通学を始めた四月以来それ程混んでいるという実感はない。
私の使う駅は降車客よりも乗車客が多く、だがそれでも電車からはみ出る程満員だったことはない。
精々肩と肩が触れ合う程度であり、それでも政府や都が指導する密を避ける状態とは程遠く、一体何が最適解なのか未だに思い悩む。
触れ合う肩から他人の体温が伝わってくる。私は敢えてその体温の発生源を見ない。もし私の苦手なタイプの人間だったなら、即放熱したくなるからだ。
そもそもコロナだ三密だと言う前に、人と人が毎朝これ程接触し体温を分かち合うこの状況はおかしくないか? 下手をしたら匂いまで移ってしまうではないか。
どうして先人達はこのような歪んだパーソナルスペースを良しとしてきたのだろう。特に私のような女子学生には、生涯トラウマと成り得るこの状況が公に許されていることが、私には信じ難い。
「えー、でもチョーイケメンが隣なら、めちゃラッキーじゃん」
と里美は言うのだが。
ではその確率は何パーセント? それによって得られるベネフィットは? 逆に生理的に無理な人が隣になる確率は?
「もー、咲良、難しく考えすぎ。でもウケるー」
ウケは狙っていないのだが。
堀川里美。新宿区在住。
ちょっとぽっちゃりとした愛嬌のある里美の顔が私は大好きだ。屈託のない笑顔と裏表のない性格を私は愛している。
彼女とは入学式の後、教室で前後の席となり知り合った。
藤原と堀川。里美は私の後ろの席で、席に着いた時から私の背をつつき、色々話しかけてきた。
「新学期あるある、前後左右の席近で仲良しっ。どーかよろしくおなしゃす!」
私の苦手な軽薄な今風の子なのだが、ぽっちゃりとした愛嬌のある顔と、彼女の意外な趣味に惹かれ、以来大切な友人として付き合っている。
その趣味とは。
渋谷に屯していそうな容姿言動なのだが、彼女はカルタをこよなく愛しているのだ。カルタ、即ち百人一首である。
大正時代に創立した我が校は部活動が盛んで、それも文化系の活動が著しく活発なのである。カルタ部も十年ほど前に発足し、過去に全国大会に出場した程の強豪なのだそうだ。
「ウチ、この大橋高校のカルタ部に入りたかったんだ」
私はカルタ活動に全く造詣がなく、百人一首を部活動としていることに大いに驚愕したものだった。
「これ読んでみそ。咲良もガッツリハマるかもよー ね、カルタ部一緒に入ろうよ!」
とカルタ部が舞台の漫画を貸してくれたのだが、元々私は漫画やアニメ、ゲームに興味がないので、最初の数頁を目で追って、畳んでしまった。当然カルタ部に入部届を出すこともなかった。
「いやー、これ読めば大体ハマってくれるんだけどなあ…」
悔しそうな里美に苦笑いしてしまう。
私はまず、百人一首があまり好きではない。
小倉百人一首。鎌倉時代に藤原定家が選んだ歌集だ。ネットの検索によると、宇都宮頼綱という御家人が藤原定家に新築の別荘である小倉山荘の襖の装飾を依頼したそうだ。定家は飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた歌人を百名選び、その和歌を一種ずつ選んで色紙にしたという。
要は、友人の別荘の飾りに作ってみた装飾品、それが百人一首なのである。万葉集や古今和歌集、新古今和歌集などの勅撰和歌集ではなく、定家の個人的な私家集なので、定家個人の好き嫌いが思いの外強く感じてしまう、それが私の個人的な感想だ。
特にそれを感じるのが、鎌倉右大臣、源実朝の
『世の中は 常にもがな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも』
何故、定家はこの歌をこの歌人を選んだのだろうか。それは実朝が自分の教え子だったからだろう。二十八歳の若さで暗殺された悲劇の天才歌人、と言われているそうだが、私的にはこの歌は『若い』或いは『今風』過ぎる気がするのだ。
天智天皇、持統天皇、柿本人麻呂、小野小町… 燦然と煌めく大人物の歌と比べると、余りに拙く若い。
定家は当時の政権への忖度と自分の弟子である、という理由で実朝の歌を選んだとしか思えない。
いずれにせよそんな権威に付着した感が否めない小倉百人一首を私は好めない。従って私がカルタ部に入り実朝の札を弾く姿は、全くもって想像できないのである。
唯一の可能性として、もしカルタ部が小倉百人一首でなく万葉集か新古今和歌集を札にするのなら、若しくは金槐和歌集を札にするのであれば、考えなくもない。
「うわ… 斜め上からのご意見、それはそれで素晴らしいと思います…が。」
里美が呆れて呟く。
「万葉集でカルタって… 一体何首あると思ってるん? 覚えきれないって、四千二百近くあるって、高校卒業しちゃうって覚え切る頃には… いや、それでも無理じゃね… でもウケるー」
コロコロ笑いながら私の意見を一応聞いてくれる里美が大好きだ。
「でも咲良、部活どうするの? 中学の時何してたん?」
私は運動が苦手だ。熱中すべき趣味もない。従って中学では部活動をしなかった。昔はこんな生徒を『帰宅部』と呼んで軽んじていたらしい。
趣味らしいものは何もなく、帰宅したら本を読むか、ドラマや映画を何となく眺めている。
なので高校生活でも部活に入る意志も予定もない。
「うわ… 青春の無駄遣い… てか、咲良めっちゃキレイ系じゃん、読モとかすればいーのに」
最初、毒蜘蛛と聞こえ呆然とする。
「アレっしょ、原宿とかで事務所に声かけられない? そっち系行かないの?」
それってナンパのこと? 原宿行ったことないし。ちょっと意味が分からない。正直にそう言うと、
「あああ… そ、そうなん? うん、でも、分かった、咲良は今のまま、このままでいいっ」
憐れみの表情で納得されてしまう。
里美の言いたいことは何となく理解できる。
よく近所の知人に、
「咲良ちゃんはお母さんにそっくりの美人さんね」
と言われてきた。
確かに母はちょっと美人である。一緒に買い物に行くと、十人が十人振り返る程の美人である。対して父はビックリするほど普通だ。私の友人で父を褒める者は未だかつてない程の凡庸さを誇っている。
そして。鏡の中の私は、どうやら父の遺伝子が強く発現したらしく。全く美人ではない。母の細くしなやかな眉毛の代わりに、父の太く濃い眉。母のポッチャリとした柔らかそうな唇の代わりに、父の薄く冷たそうな唇。母と似ているのは顔の小ささと顎の輪郭、そして目だけである。
ハッキリ言って、平安時代の宮廷なら不細工の代名詞とも言える顔立ちなのだ。生まれが平成で本当によかった。
そして顔立ちだけでなく、スタイルも自己非肯定要素の一つなのだ。父からは
「鶏ガラみたいだな咲良は。もっと一杯食べろよー」
などと言われてしまうほど、痩せている。そして… 決してコンプレックスを持っている訳ではない、ないのだが。
足引の双丘の膨らみがいささか不足気味なのである。
令和で良かった、何度胸を撫で下ろしたことであろう。いや、この令和の世の中でさえ、この双丘では一瞥して去っていく男子が多々いることであろう。
その証拠に、私は未だかつて男子から告白されたことが、一度も、ない。
気がつくと電車は降りるべき駅に到着している。降車する学生の群れに身を任せ、呆然としたまま私は改札に登る。
そんな夢も希望もない高校生活。それでも私は無機質のまま今日も教室に身を置くのである。
* * * * * *
七月に入り、気象庁曰く間も無く梅雨が明けるとのこと。
未だ肌寒い久方の雨空の下、寝不足のまま欠伸を噛み殺し、家を出る。
今日から期末考査が始まる。五月の中間考査では中々の成績を収められたので、期末考査も、とつい力が入ってしまう。
日頃コツコツと自宅でノートをまとめていたので、あとはそれを頭に定着させるだけなのだが、昨夜はつい重箱の隅をつつきたくなってしまい、気がつくと外が明るくなってしまった。
徹夜勉強なぞ日頃の努力を惜しむ者の捨て身の手段である、と公言する父の言葉が耳に痛く、以後慎もうと固く決心しつつ単語帳片手に駅へと向かう。
徹夜明けの足は重く、駅に着くといつもの電車が出発した後だった。
まばらなホームに溜息をつき、仕方なく次の電車を待つことにする。
そう言えば現代社会の試験で、時事問題が毎年出される、と里美が言っていた。里美はカルタ部の先輩の伝で、各教科の過去問や出題傾向をしっかりと把握しており、週三回の部活動に参加しているにも関わらず、中間考査の成績は中の上だった。
そう言えば最近新聞も読んでおらず、ニュースも見ていない。スマホにインストールしているスマートニュースにでも目を通しておこう、ポケットのスマホを取り出そうとしたその瞬間。
背中に軽い衝撃を受け、思わず一歩前のめりにある。
足を踏ん張ることに集中した結果。片手に不安定に持っていたスマホが、その先のホームドアを飛び越えて、奈落へと落ちていった!
まるでスローモーションを見ているが如く、私のスマホは線路に落下して行く。ああそう言えば。入学祝いに買ってもらった時、画面のフィルムはどうしますかと言われ、スマホを落とすような真似はしませんので結構です、と言い切ったことが脳裏を突き抜ける。
いや、この高さから落としたら、たとえフィルムが貼ってあっても画面は割れてしまうであろう。
あとはただ、画面から落ちないことを祈るだけか…
好きでない父が大好きな格言。
マーフィーの法則。
落としたパンは必ずバターを塗った面が地面に着く。
何という真理、何という教訓!
私の落としたスマホはその法則通りに、画面からレールに激突する。
バキッという鈍い音がホームに響き渡る。
その音が私の脳に届く頃には、私の意識は真っ白になっていた。
「危ないよ、ちょっと待って!」
甲高い声と同時に右肩を強く掴まれる。
意識が戻り、自分がホームドアから線路に身を乗り出していることを認識する。
「間もなくー電車が到着いたしますー白線までお下がりになってお待ちくださいー」
再び意識が遠のいていくー 私のスマホ、四月に買ってもらったばかりのスマホ…
凄い風圧がホームに押し寄せてくる。電車が目の前を通り過ぎていく。思わず私はその場にしゃがみ込み、叫んでいた。
誰かが何か言っているー
目の前のホームドアが開き、電車のドアも開く。私を避けるようにしながら、垣穂なす人々は乗車していく。駅員の笛が鳴り響く。電車のドアが閉まる。ホームドアが遅れて閉まる。
ゆっくりと電車が動き出す。私のスマホを轢きしめながら電車が走り出す。
やがて電車は去っていき、ホームに取り残されたのは、しゃがみ込んだ私一人…
「大丈夫、ですか?」
肩に温かみを感じる。
しばらく動けない私に、
「怪我とか、ないですよね?」
染み渡るような落ち着いた声に、凍りついた私の心が溶かされていく。
思い切ってゆっくりと振り返る。
目と鼻の先に、澄んだ瞳の男の子が心配そうに私を見つめている。
カールがかかった栗色の髪の毛。少し寝癖がついているよ。理知的な光を孕んだ真っ直ぐな瞳。つい覗き込みたくなる程にどこまでも深く澄み切っている。
シャープな頬のライン。マスク越しだけれど間違いなくスッと通った鼻筋。そして、まだ見ぬ口元…
一瞬にして心を奪われた。
こんな素敵な造形の男子は見たことがない。間近で見ているのだから見間違いようがない。
ああ、世界にはこんな完璧な顔つきの男子がいるんだ…
砕け散ったであろうスマホは既に忘却の彼方に消えている。
余りに直視したせいか、彼は少し顔を赤らめ、
「駅員さんに連絡してくるから。ちょっと待っていて」
そう言うと彼はスッと立ち上がり、ホーム中腹にいる駅員の元に走っていく。
私はこれまで男子を好きになったことがない。幼き頃の淡い恋はノーカウントとする。中学生になって以来、気になったり興味を持った男子には、ついぞ巡り合った試しがない。
あの頃の友人からはよく、
「咲良は面食いだからねー」
と揶揄われた記憶があるが、そんな自覚は一切ない。
告白されたこともなければ人を好きになったこともない。客観的に見て、これは相当重度の低女子力症と言えよう。
何故か?
心がピンとこないからだ。
如何に見た目が良かろうと、どれほど性格が素晴らしかろうと、私の心が全てノーを突きつけてきたのだ。これまでの対象に恋愛感情を見出せなかったからだ。
心が欲していない
これが理由である。
今、駅員の元へと走っていくその後ろ姿を見て、心がざわつき始めている。
心が欲している?
彼を私が欲している?
それは何故? 動転した私を支えてくれた親切な人だから?
見たこともない程の美形だから?
否
私が、私の雲居なす心が彼を遺伝子的に欲しているから
そうに違いない。それで間違いはない。
駅員を連れてこちらに向かっている彼を眺めながら、私は一人納得し、身悶える。そしてそんな自分に戦慄する。
「はいこれ。君のもので間違いないかな?」
駅員が私に画面割れしたスマホを差し出す。幸いにスマホの被害は落下時の衝撃によるものだけで、電車の通過は特に影響はなかったようだ。
スワイプしてみると作動状態に問題はなさそうだ。だが、画面のヒビはほぼ全体に広がっており、これではとても使い物にならない始末である。
「あの、それ僕が弁償します。僕がスマホに集中していて、君にぶつかったせいでこうなったのだから…」
彼が俯きながらそう呟く。いえ、私の不注意ですからどうぞ気になさらず。
「そんな訳にはいかないよ… それ、アイフォンだよね、あの、保険とか、入ってる?」
保険? 保険って… なんだろう。ちょっとよくわからないのだけれど…
「アップルケアかキャリアの保険、どっちか入ってる?」
ああ、その保険… 確かキャリアの保険に入っていた気がする…
「そうか。どちらにせよ、修理費はかかるから、僕が必ず支払います。」
いつ、どのように支払ってくれるの、とは言わずに目を見つめながらコクリと頷く。
「今はお互いこれから学校があるから、えっと、そうだ、連絡先を交換しませんか? 電話番号を取り敢えず。えっと、僕の番号を言います、080の…」
私は無我夢中で彼の番号をスマホに打ち込む。画面のヒビのせいでいつもより操作が困難だ。それでもなんとか打ち込むと、
「一回、かけてもらえる? あ、この080―… ありがとう。えっと、お名前は?」
私が名前を告げると、
「藤原、咲良さん。ありがとう。僕は菅原、健翔です、健康の健に飛翔の翔、です。あ、次の電車来たね、乗ろうか…」
電車に乗っている時間をこれ程短く感じたことはなかった。
あっという間に駅に到着し、私はホームに降りる。扉が閉まり、ゆっくりと電車が動き出す。いつもと違うのは窓越しに彼がずっとこちらを眺めていること。そして私もずっと彼を眺めていること。
電車のヘッドライトが泡雪のように消えて行き、やっと私は歩き出す。
つい先ほど起きたことが未だに夢のようだ、試しに立ち止まりスマホを開く。とても見辛いのだが、ある。彼の電話番号が間違いなく、ある。
慌てて連絡先に彼の番号を登録する。菅原健翔。スガワラケンショウ。友人? ええ、友人。
入力を終えると、着信履歴には菅原健翔、と表記されている。
何という朱引く朝なのか…
試験初日に線路にスマホを落っことす。
見ず知らずの男子にお世話になる。
そしてその彼と連絡先の交換をしてしまう。
そしてその彼が… 私の心を…
古典的にはここで頬をつねる。だがマスクをしているので素手にマスク外部に付着した病原菌がついてしまうので却下。頬を叩く、も同様の理由につき却下。お尻をつねる、これは素手が汚れず中々なアイデアだ。早速トライしてみる。
痛っ!
思わず目に涙が込み上げてきてしまう。ふむ、寝室の天井が見えてこない。覚醒も感じられない。すなわち、これは現実であり夢現では断じてない!
この奇跡のような出来事に呆然としていると、スマホが鳴動する。心臓がバクンと拍動する、彼からのメッセージだ… 菅原、健翔くんからの、メッセージだ!
スマホをポケットから出すときに手が震えている。男子からのメッセージなんていつ以来だろうか。中学一年生以来? 少なくとも高校生になってからは全ての男子との番号交換やI D交換を拒否してきたので。
震える指でスマホをタップする、あれ、LINEのI D教えったっけ?
『おーい 試験始まってるぞおー 大丈夫かあー?』
…初めて親友の里美に殺意を感じる。そして
初めての遅刻確定、それも試験での遅刻に戦慄を感じる…
* * * * * *
「中間テストの成績、学年七位。遅刻欠席ゼロ。そんなお前がよりによって期末試験初日に遅刻とは、何なんだ一体?」
初日の試験終了後、担任に呼ばれた。
「え? スマホを線路に落とした? お前、怪我はなかったのか?」
急に青褪める担任に苦笑いしながら首を振る。そして簡単に顛末を伝える。
「…そうか、そんなことがあったのか。うわ、バリっバリに割れてんなあ、早く修理に出せよ」
私のスマホを眺めながら同情する担任。
私はこの担任である大友公平先生が好きでない。
体育の教諭で、確か五十過ぎの筈なのだが非常に若々しく、髪の毛もふさふさでかなりのイケメンである。あの暑すぎる元テニスプレーヤーにも似た熱血漢で、女子生徒に非常に人気が高く、男子生徒からは非常に恐れられている。
私はこの手の熱血系の人間が得意でない。そして脳筋系の人も苦手である。熱血と脳筋がハイブリッドされたこの教師は、最早忌避すべき部類の人種といえよう。
そんな私の思いと裏腹に先生は私の肩を叩き、
「明日は遅刻すんじゃねえぞ。あと線路に物落とすなよ、それで電車止めちゃったら賠償問題になるからな!」
止める筈ないじゃない!
そう心の中で叫びながら、必死に笑顔を顔の表面に貼り付け、体育教官室を後にする。
外で里美が待っていてくれて、
「大丈夫だった? 大友っちにイジメられなかった?」
ちょっと嫌味言われただけだから大丈夫。それより、スマホ見ずらい…
「それな。早く直した方がええで。なんならショップ付き合ったろか?」
どうして関西弁が入るの?
「ええ? そこ? いいじゃん別に。ホント咲良って、ウケるー」
大丈夫、ありがと。一人で行けるから。
「そっか。そんじゃウチ、部室寄ってくから。じゃ!」
去っていく里美の後ろ姿を見ながらふと思う、どうして私今嘘をついてしまったのだろう。
まさに咄嗟についた嘘だった。
里美は親友と言える存在、彼の話をしても良かったのではないか?
否。
親友と言えど、心の欲する相手のことをベラベラと話すべきではない。一瞬にして心奪われた彼のことを気軽に話すべきではない。
いつか話す日はくるであろう、でもそれは今日明日ではない。
里美の後ろ姿に黙礼し、裏門への玉鉾の道を歩き出す。
裏門を抜け、駅へのなだらかな下り坂を降りていると、スマホが鳴動している。慌てて道路の端により、スマホを取り出す。ひび割れた画面の奥に、メッセージが着信している。
『今朝は大変ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありませんでした。神宮高校一年菅原健翔です』
手からスマホが滑り落ち、法則通りに画面から落ちてしまう。
拾い上げるとひび割れは更に悲惨な状態になっている。それでも目を凝らし先を読み進める。
『画面破損修理の為に携帯会社を訪ねる際、是非同行させていただきたいと存じます。藤原さんの来訪のご予定を教示していただければ幸いです。』
神宮高校。
言わずと知れた、私立の超名門校である。
東大進学率は全国トップクラス、中高一貫の男子校だ。
他校の制服に全く興味のない私は知らなかったが、彼は神宮高校の生徒であったのだ。それも同じ一年生…
ひび割れ画面越しの文面は、未だかつて見たことのないビジネスシーンを彷彿とさせる…
思わず吹き出してしまう。どうして高校一年生がこんなオフィス用語満載の文面を女子高生に送るのか?
頭が良すぎてシチュエーションアウェアネスが欠如しているのかも知れないな、なんて失礼なことを思いながら、駅近のスタバに入りマキアートを注文する。
席につきストローを啜りながら、携帯会社のサービス案内を検索し、家の最寄りの店舗の予約状況を確認する。直近では明日の十六時が空いていたので迷わず予約を入れる。
明日は土曜日、試験は午前中だけであり、夕方ならば何の問題もない。
『ご連絡誠に痛み入ります。』
目には目を、礼には礼を、だ。
『早速精査したところ、明日土曜日の十六時が空いておりましたので予約を入れました。店舗は私達の駅の所です。もしご予定が合えば是非同行をお願いしたいのですが如何でしょうか?』
数回読み直す。画面が、見辛くて仕方がない。まあ、この内容で問題はないだろう。
問題は、ない。
彼に、会いたい。
会って、知りたい。
何故私の心が欲するのかを。何故こんなにも私の遺伝子が貴方を求めるのか、を。
震える指で送信する。
ストローを啜る。氷と氷の隙間の薄い水が口に吸い上がってくる。
ふと外を眺めると、道ゆく人々の傘が目に入る。
間も無く梅雨明けだ。
私は席を立ち鞄の中の折り畳み傘を手で探る。
スタバを出てしばらく傘を差し、駅に入り傘を折りたたむ。階段をゆっくりと降りているとスマホの着信を感じ、つい急ぎ足で駆け降りてしまう。
改札の手前でスマホを開く。
『返信ありがとうございます。土曜日の十六時、駅前のショップ、承知しました。僕はこれから部活なのでこれで失礼します。当日、よろしくお願いします。』
あ。年相応の文面。
私の思惑が通じ、ニヤリと笑ってしまう。流石頭のいい人は察しが早くて気持ちがいい。
それにしても、明日、土曜日。彼と二人きりで…
脳内にドーパミンが溢れ出し、幸せホルモンが活性化されるのを感じる。
私のこれまでの人生でこれ程の期待と喜びを感じたのはいつ以来であろうか。少なくとも異性関係においては私史上初の出来事である。
不思議なことにこの舞い上がった気持ちを誰かと分かち合いたくなる。即座に里美の顔が思い浮かぶ、だがまだ早い。もう少し、せめて彼と二人きりで会った後に、そう思い除外する。
ならば、母だ。早く帰宅し母にこの気持ちを共有したい。
早足で改札を抜け、ホームへの階段を一段飛ばしで駆け降りる。
電車に乗りながら、ドアの窓に映る自分を眺める。これは恋なの? この異様なまでの高揚感は恋というものの仕業なの? これまでの人生で恋をしたことのない私は窓の中の私に問う。
* * * * * *
「ちょ… さっちゃん、これ… まだ買ってあげたばかり…」
私のスマホを驚愕の表情で見る母にその顛末を簡単に説明する。
「ふうーん。へえー。神宮高校のー、男の子―。へえー」
母の顔がニタニタしてくる。
「ちょっと、写メないの? ない? じゃあ明日、撮ってきて! そんで見せて見せて!」
そ、それは母上、流石に高難度な…
「平気よー、ちょっと一緒に撮ろうよって言ってさ。パシャって撮っちゃえば!」
それは流石に個人の肖像権とかありますことですし…
「ああーー、なんでさっちゃんってこうなのおー? ママだったら腕組みながらパシャって撮っちゃうんだけどなあー」
これが私の母である。
顔のみならず、性格までも似ても似つかない我が垂乳根の母親なのである。
資産家の家系に生まれ、何の苦労も知らずに生まれ育ったと聞く。大学卒業後に住宅メーカーに就職、仕事先で父と知り合い、藤原の家に入婿してもらったと言う。
今年五十一になるのだが、実にチャラい。軽い。脳天気だ。脳筋ならぬ脳綿である。
この容姿でこの性格。母は近所の人気者であり、インフルエンサー的存在である。いつも年に似合わないチャラい服を驚く程見事に着こなし、それを真似る哀れな近所の中年女性が街を徘徊する様は、実に憐れなものだ。
己の欲に忠実で他人の目を一切気にしない。それでいてこの美貌。少なからず私は母を羨望の思いで眺めている。
今風の言葉で言うと、天然系美魔女、とでも言うべきか。地味で陰気な私とは対照的な母を、私は愛している。
そう。母を間近で見て育ち、私は己をいやという程知ってしまうのだ。母と比してなんと地味なのだろう。母の明るさのかけらも持たず、まるで煌々と輝く光の影、さながら黒子的な存在。それが自分なのだと、何度嘆息したことであろう。
さぞやこんな陰気な娘に嫌気が差していることだろう、そう思うことも少なからずあった。だが、母は私を本当に愛してくれている。ひょっとして、父即ち若草の夫よりも愛してくれているかも知れない。
「さっちゃんは美人さんだよ。それに頭もすっごく良くて。ママの学校に楽勝で通っちゃうなんて、凄いぞ。ちなみにママは補欠合格… てへ」
この言葉にどれ程勇気づけられたことであろう。こんな私でも母より超越したものがあるとは、最近まで自覚したこともなかった。
母は決して嘘をつかない。天然系の人間の特徴でもある。故に母の言う美人さん、と言うのも少しは信憑性があるやも知れぬ、そう考えた時期もあったが、高校生活が九分の一ほど過ぎて未だそれらしき兆候が見られない私は、母は嘘をついたのではなく、目が不自由なのでは、と思い始めている。
そんな母に彼の写メなぞ絶対見せられない。
「うーーん、イマイチ」
とか言われたら、きっと母を嫌いになってしまうだろうから。
とまれ、存分に母と気持ちを分かち合った私は満足して二階の自室に上がる。
二階の廊下に姿見がある、そこに藤原の咲良が映っている。
……
何と地味でありきたりな女子なのか。
髪は後ろに纏めているだけ。
化粧っけなしで年相応のもっさり感。
薄い胸に鳥の足程痩せ細った醜い足、そして
自信のかけらもない鈍く澱んだ瞳。
どうして私は母の娘なのだろう、あの煌びやかな母とはどうして似ても似つかないのだろう。
悄然と立ち尽くしている私に、
「さっちゃーん、ママ明日のお昼過ぎに美容院行くけど、一緒に行くう?」
何かが、変わるのだろうか?
そんな予感がしたので、階下に同行する旨を叫ぶ。
土曜日の午前中だけの期末考査を終え、急ぎ帰宅の途に着く。今日は昼過ぎから雨の予報なので、何とか家までは天気が保って欲しい。その願いが無事に通じ、玄関のドアを開ける頃にポツリポツリと大粒の雨が降ってくる。
「さっちゃん、お昼早く食べて! 一時半予約よお!」
慌ててお昼の玉藻よし讃岐うどんをかき込んで、傘をさしながら母と共に駅近の美容院に向かうも、思ったより雨脚が強く、かなり気分が落ち込んでしまう。
何故雨は人の心を暗くさせるのだろう。
今まで全く気にしたことがなかった。カットに時間がかかりそうで、丁度いい機会なので考えてみる。
水分が精神を濁らせる? それなら水泳選手は皆鬱病な筈だ。喉が乾くたびに喉を潤すと、人は憂鬱になるであろうか、否。
太陽光を浴びてないと精神が乱れる? 夜のお仕事の人や地下鉄従事者に鬱病が多いとは聞いたことがない。白夜の国の人々に自殺が多いのか? 否。
お気に入りの洋服や靴が濡れてしまうから? 特に革靴や布製の靴は雨の日は大変なことになる。ああ、きっとこれが正解なのだ。確かにこの美容院に来る途中に、私の履いているスニーカーはすっかり濡れてしまい、靴下が濡れて今とても気持ちが悪い。放っておくと悪臭を放ち始めるだろう。
降雨時の気分の落ち込みは服や靴が濡れてしまうから、これに間違いない。この意見が正しいかちょっと気になり、美容師さんに聞いてみる。
「そうだねー、それもあるけどさ、傘さすのが面倒臭いっていうのもあるよね」
ちゃんと手を動かしながら、二十台後半と推察される茶髪のおっとりとした顔の美容師が答えてくれる。
「欧米ではさ、少しの雨なら誰も傘差さないって言うけど、本当なのかなあ。」
シャキ、シャキという音を耳に感じながら、彼と二人で一つの傘で歩む姿を想像する。その映像が脳裏に流れた瞬間から、私は雨が大好きになってしまった。
徐々に私の髪型が整っていく。時計を見ると三時半。美容師に四時から外せない用事がある旨を伝えると、わかりましたと言って作業の手が倍速になり、みるみるうちに私が変わっていく。
仕上げのシャンプー、ブローが終わり、新しい自分と鏡の中で相対す。少しは変われたのだろうか?
「うわっ さっちゃん、いいじゃない! さすがルカくん。ありがとねー」
母が後ろから悲鳴をあげている。母が言うなら間違いあるまい、これで良しとするか。
四時五分前に母に先に出る旨を告げる。
「写メね、写メ! なんなら夕飯に連れてきちゃいなさい!」
興奮状態の母を放置して、出口に向かう。
傘を持ち外に出ると、あいにく雨は止んでしまっている。不思議なものだ、この店に入るまではあれ程忌避していた降雨だったのに。
空を見上げると上空は真っ黒なもこもこした雲に覆われているが、西の方の空から微かな光が漏れ出ている。
その微かな玉かぎる夕日は、さながら暗黒の世界にさす一筋の希望の光のようだ。
それから雨上がりの街の匂いを存分に肺胞に迎え入れ、ドコモショップまで歩き出す。水溜まりはそこらにあるので、踏みつけないように地面を注視しながら歩を進める。
ショップの前に、私服姿の彼を認める。
黒い傘を片手に、白のポロシャツとジーンズ。ふと自分が白のサマーニットとジーンズを合わせていることに気付く。
無意識のうちに駆け出していた。その七歩目で見事に大きな水溜まりを踏んづけてしまい、水飛沫が周囲の人々にかかってしまう。
さ・い・あ・く
この四文字が前頭葉を殴りつけ、私の意識は遠くなりかける。何という恥ずべき行為を、それも周りの人々に多大な迷惑をかけてしまう程のことを、またしても彼の前で…
そのままUターンして逃げ帰ろうとも考えていると、
「ああ、大丈夫? 濡れちゃったよね?」
彼はポケットから生成りのタオル地のハンカチを取り出し、私の足元、すなわちジーンズの裾やスニーカーを拭いてくれた!
さ・い・こ・う
この四文字が海馬を刺激し、私の気持ちは一気にハイになる。私の気持ち、すなわち彼への想いがハイになる。
通りすがりの人々の微笑ましい笑顔が私の頬を赤く染めていく。
「それでは、一週間後の引き渡しとなります。他に御用件はございますでしょうか?」
店員の丁寧な対応に感服していると、
「引き渡しはこちらですか、自宅に送付ですか?」
彼が気を利かせて聞いてくれる。
「どちらも可能ですが、いかが致しましょうか?」
私は自宅に送付の方が楽で良い。しかし、そうすると二人きりで彼と会う口実が消滅してしまうので、店舗での引き取りを希望する。
「僕は来週も時間作れるよ、藤原さんは何時なら?」
同じ時間で、と言うと
「来週土曜日、四時でお願いします」
「承知しました。お待ちしております。あのー」
ニヤニヤ笑いながら店員が、
「お似合いですね、お二人。ペアルック素敵ですよおー」
両隣の客が頷いているのを視野の端で感じ、かつてない程赤面してしまう。そっと彼を目で伺うと、耳まで真っ赤になっていた。
店を出ると雨はすっかり上がっており、綺麗な夕焼けが西の空に広がっている。店員に揶揄われたのと夕日の美しさに気を取られ、横から走ってきた自転車と衝突しそうになる。
「危ないっ」
彼が両手で私を庇い、それは自然と私を抱きしめる形となり、お陰で衝突は免れた。
彼の胸と密着している。
街中で抱きすくめられているという気恥ずかしさは全く無い。
鍛えられた大胸筋が薄い布を通して私の頬に当たる。
その薄い布から何とも言えない匂いが鼻腔をくすぐる。余りのいい匂いに気が遠くなりそうになるのを必死に耐え、そっと目を閉じる。
「あ、その、ごめん、咄嗟につい…」
謝りながら彼はそっと私を引き離す。
僅かな時間だったのだろう、だが私にとってかけがえのない幸福な一瞬なのであった。
我に帰り時計を見ると五時半、さっきから代替のスマホがラインの着信を連呼しているが、それを無視して彼に今日の付き添いを心から感謝する。
「全然。僕のせいでこんなことになってしまったのだから、当然だよ。本当に申し訳なかった」
と頭を下げてくれる。
そして、沈黙。
ショップ前の人の流れは平日ほどではないがそこそこ多く、あまりここに立っていては人の流れの迷惑になってしまう。
そろそろ帰宅する旨を呟くと、
「うん、それじゃあまた来週。同じ時間に、ここでね。」
胸が切なくなるような笑顔で彼は去っていく。
私は傘を片手に家路につく。
西の空から茜さす鮮やかな夕陽が街を包んでいる。オレンジ色に染まった街を一人喜びと悲しみを携え、自宅への一歩を踏み出した。
* * * * * *
「えええー、あれだけ頼んだじゃないー、どーして撮ってきてくれないかなあー」
母が怒りと哀しみを交え吐き出す。何故にそこまで彼のことを知りたがる?
「だってえー、初めてじゃない、さっちゃんが男子とお付き合いするのー」
付き合っておりません。まだ知り合ったばかりです。
ふとショップの店員のニヤケ顔を思い出し、顔が赤くなる。
「でも、パパには内緒にしといたほーがいいよお。多分パパ、卒倒しちゃうから」
それは良くない。いや、倒れる分は自己責任だからどうでも良いが、あの父に彼の存在を知られるのが我慢ならない。
恐らくネチネチと色々な嫌味を言われたり、逆に早く会ってみたいなんて言われたり。想像するだけで気分が悪くなる。
会えば間違いなく彼を気に入るだろう。そこが気に食わない。どうして私が選んだ男子を父がお気に召すのだろうか。
ここに至り私は愕然とする。
私の深層心理において、実は父の望むことを私は敢えて行っているのではないか?
私がこれまで出会った男子に気が向かなかったのは、実は彼らが父の好みではなかったからなのでは?
彼、菅原健翔。
偏差値は軽く七十越え。人当たりが良く周囲も見えており、実年齢をはるかに上回る挙動。長身で美形、運動も得意そうだ。
こんな男子を、父は待っていたのではないだろうか?
私が、ではなく、父が?
この疑念は明日にでもひねもすじっくりと考えてみよう。
翌日曜日。朝から晴天である。
父は嬉々として部下達と得意先の接待ゴルフに出かけて行く。夕ご飯も彼らと宴会とのこと。大分コロナ感染は落ち着いているとはいえ、やや気が弛んでいるのではないかと母に言うも、
「もうすぐオリンピックでパパも忙しくなるから、仕方ないのよ。それより本当に開催するのかしらー ちょっと怖いなあー」
オリンピックには反対だ。経済効果がどうのこうのと言われているが、それよりも自国の、自分の街の平穏無事が何よりだと思う。
感染の危険を冒してまでお祭り騒ぎをする思考が全く理解不能だ。賛成派の人々は開催に伴い集まる巨額のお金に目が眩んでいるとしか思えない。
我が父もそんな一人かと思うと情けなくて仕方ない。
もし開催されれば、都内に言さへく外国人が溢れんがばかりに押し寄せ、私たちは感染の恐怖に家でじっとしなければならなくなるだろう。
朝から夕刻まで明日の試験勉強に勤しみ、夕方に母と夕食の買い物に出かける。久しぶりの晴れ間に街には人が大勢繰り出しており、駅前通りのお店も近所のスーパーも大盛況だ。
スーパーの野菜売り場で母のスマホが鳴動する。
「パパがやっぱ今夜は家で食べるって。これ、絶対コンペでビリだったんだよー、ウケるー」
母よ。その若者言葉はどうか身内内に留めておかれたく。
「夕ご飯、パパがいるなら何にしようかなー」
久しぶりにピーマンの肉詰めが食べたいと言うと、
「それ! パパも食べたいよね、それにしよう!」
そう言えば父の大好物なのであった。いつもビール片手に七つも八つも食べ散らかし、その後リビングのソファーで大イビキ。私のテンションは駄々下がりだ。
それでも口の中は既にピーマンの肉詰め、野菜売り場から精肉売り場に来る頃には口角から涎が溢れマスクが濡れてしまうのでは、と危惧する始末である。
「あら藤原さん、今日はいい天気ね」
豚肉コーナーの前で声をかけてきたのは近所の坂上さん。インフルエンサーたる母のフォロワーの一人で、母とそっくりのヒラヒラの毒々しいカラーのシャツを羽織り、全く似合わないパンツとスニーカーで合わせている。
お子さんが私の二つ上と一つ下の食べ盛りなので、タイムセールの豚の挽肉を馬鹿みたいに買い物カゴに放り込んでいる。
母が坂上さんと精肉端会議に夢中になっているので、私はそっとその場を離れ、スーパーの外に出る。スマホにメッセージが入っているのに気付いたのだ。
『昨日はお疲れ様でした。代替機の調子はどうですか? 期末試験の勉強は捗っていますか?』
心拍数が一気に上昇する。
震える指で真っ新な画面をタップし、返信を認める。
『昨日はありがとうございました。お陰様で大いに助かっています。試験勉強は烏羽玉の闇の中、といった感じでしょうか。』
返信ボタンをタップし、額に滲んだ汗を拭う。そして大きく深呼吸をする。夕暮れの湿った空気で胸がいっぱいになる。
店内に戻ろうとすると、スマホが鳴動する。慌てて引き返し、画面をタップする。
『それはそれは。瑞垣の神のご加護がありますように』
思わず声を立ててしまう。
そしてマスクの上から口を手で塞ぐ。
好き。
私は菅原くんが、好き。
雑踏の彼方に暮れゆく、玉かぎる夕日を眺めながら、私の瞳から一筋の涙が流れ落ちる。
肩を叩かれ振り向くと、母が買い物を終えしんどそうな顔つきで、
「パパの部下さん達も来るんだって、あの、いいかな?」
心が満たされている私は普通に頷く。珍しいこともあるものだ。昔はよくあったことだが。
何故か母はホッとした顔でスマホを高速操作し、笑顔で私に、
「早く帰って支度しなきゃ。さっちゃんもお手伝いヨロー」
ということは、計六人分のピーマンの肉詰め。それは母一人では災難だ。
母のエコバッグを一つひったくり持ち、家路を急ぐ。
帰宅しキッチンに駆け込み、二人でひたすらにピーマンに肉を詰めていく。
「坂上さんがねえ、さっちゃんのこと、めっちゃ褒めてたよお。ママに似て美人さんな上にスタイル抜群、ママのお料理手伝ったり家事手伝ったり。上のお兄ちゃんのお嫁さんに欲しいってー、どーする?」
何故か爆笑しながら手を動かす母。お兄ちゃんって、隣の駅のFランの付属高の三年生の? ああ、きっと分かってて言ってるな母上。
そうなったら坂上さんと親戚付き合いになる訳だけど?
「あと肉詰めお願いねー、そろそろフライパン温めなきゃー」
はい、誤魔化しましたね。
そんな芥の如きことより。
今夜来るのが父の部下達でなく、菅原くんだったなら?
急に赤面してしまい、ピーマンを強く握りすぎて駄目にしてしまう。ああ、魂極わる命を無駄にしてしまった… ピーマンさん、御免なさい。屑籠に砕け散ったピーマンを放り投げる。
フライパンの上に肉詰めが焼ける音と匂いが押し寄せてくる。同時に玄関から父達の帰宅の様が聞こえてくる。
* * * * * *
「おう、紹介するな。こないだ室長に引っ張り上げた安倍ちゃん、咲良、覚えてるか?」
「ご無沙汰しています奥様、咲良ちゃん。急にお邪魔して申し訳ありませんでした」
長年父の直属の部下。不自然な程の腰の低さは相変わらずだ。父のご機嫌を伺い、父の意のままに動けるが故にこの地位まで上がれたのであろう。昔から全く有能さを感じない。
「課長の小野。俺の大学の後輩なんだ」
「すみません、お邪魔させてもらいますー、噂の大資産家でお美しい奥様の手料理、楽しみです!」
即ち学閥って奴ですか。と言っても所詮1.5流大学の派閥なんてどうなのだろう。母の美しさを素直に褒め称えることでポイントを稼ごうとしているいやらしさが不愉快だ。
「そんで入社二年目の清原ちゃん。元ゴルフ部で俺よりドライバー飛ばすんだぜ」
「清原です、藤原部長には大変お世話になっております。何かお手伝いすることありませんか?」
やけにがっちりした女性だなと思ったら、ガチの体育会女子ですか。上司の妻に取り入ろうとする、その浅ましさが悍ましい。母だけでなく私にもニヤけた愛想を振り撒く、所謂脳筋女か。
皆すっかり寛いだ感じでマスクも外している。そして食卓につくなり父が開けたビールで早速乾杯だ。
「奥様も、是非。咲良ちゃん… は、まだ駄目か、アッハッハ」
何がおかしいのか。私が未成年なことがそんなに嬉しいのか?
「それにしても、咲良ちゃんすっかり美人さんになって。学校でもモテモテでしょう?」
前回お会いしたのは中学一、二年生の頃か。室長になられたのですね、おめでとうございます。
「ああ、そうそうこの四月からね、全部お父様のお陰でね。いやー、本当に綺麗になったなあ、どうだ小野、噂通りだろ?」
「ええ、奥様のお美しさはお写真等で拝見していましたが、お嬢様のお美しさには心底感服いたしましたよ。正に眼福ってやつですね、はっはっは」
何が眼福だ、貴方の目を幸福にするつもりは毛頭ないのですが。とは武蔵鎧流石に言えない。
「顔も小さくて目もパッチリして… 私もお嬢様みたいだったらなあ…」
うっとりと溜息を吐く清原女史。同性からここまで言われると、ちょっと嬉しい。彼女への評価を少しだけ上げてもいいかもしれない。同時に、脳筋種への憎悪感も多少和らいだ感が否めない。
今日のコンペでは優勝されたのか聞いてみると、
「グロスでは頂きましたけど、ネットでは部長に負けました。あの十五番のベタピン、さすが藤原部長でしたー」
グロス? ネット? ゴルフには造詣が深くないので、さっぱり分からない。
「お父様にゴルフ教わればいいのに。きっとお嬢様もすぐに上手になりますよー」
有り得ない。この父から何かを教わるなぞ、死んでも有り得ない。チラリと父を見ると、
「それがさあ、最近この子が俺に冷たくてさあ。全然口きいてくれないんだよー、清原ちゃん助けてよー」
何故か場が爆笑の坩堝と化す。意味が分からない、何故ここで皆笑うの? 私を公開処刑するつもりなの? 顔を硬らせ、いっそ自室に上がろうかと思った時。
「部長、高校生の時なんて私も同じでしたよ。でも大学生になって親の有り難みが分かった時、父に感謝するようになりましたよ。ですからお嬢様もきっとあと数年経てば部長に感謝しますよ、絶対!」
「おいおい、その頃は部長じゃなくて執行役員だって! ねえ部長、アッハッハ」
「そうだよ清原。で、その頃僕は室長補佐、ですよね部長? はっはっは」
「ええー、小野さん地方に転勤じゃないんですかあー」
爆笑の渦に私もつい加わってしまう。女史の男勝りの切り返しに笑いが止まらなくなる。
「えええー、すごーい、咲良ちゃんもこれ作ったの? お料理上手なんだね、うわ… 美人でスタイル抜群、成績学年上位でお料理上手? マンガのヒロインじゃん! 都市伝説じゃなくて、マジいるんだこんなスーパーな子…」
ちょ… 勘弁してくださいよ。私運動だけは苦手なんですよ昔から。逆にゴルフコンペで優勝しちゃう程の腕前の女史は、私にしたら垂涎の的ですから。
「す、すいぜん? すえぜん? なんじゃそれ?」
「でたー、体育会採用! 垂涎くらい知っとけや、据え膳って、アホかお前、あっはっは」
母がひっくり返りそうな程に身を反らせ爆笑している。
「いいじゃないですか、課長だって明治のくせにっ… て、あ、ぶちょーも明治だったわ、きゃは」
「清原ちゃーん、娘の前で弄らないでよー、ますます口きいてくれなくなっちゃうじゃん」
「アッハッハ、ところで咲良ちゃんは大学どこ狙っているの?」
ええ、まあ、早慶上智は外せないかと、ワンチャン国公立で一橋も…
おおおおお、と場が騒めく。
「な、俺の遺伝子受け継がなくって、この子賢いんだよ。一橋なんて行ってくれたら、俺もう逝去してもいいわー」
「いや、狙いましょうよ赤門! 行けますって咲良ちゃんなら、ね!」
「赤門! っくー、娘が東大… 成仏し過ぎちゃうよ俺…」
母が腹を抱えながら、
「成仏の上って、神様になっちゃうじゃん。そうしたら私に宝くじ当ててねー、それからお庭から原油が吹き出すのもアリかなー」
最早、収集がつかないほど盛り上がってしまっている。皆母の一撃に身を歪ませて大笑いし、かくいう私も飲み掛けの烏龍茶を危うく吹き出すところであった。
そしてふと思い出す、そう言えばこんな場は昔は月イチくらいであった気がする。父が安倍氏のような直属の部下を連れてきては、母の手料理とお酒で大騒ぎをする。
いつから無くなったのか思い出そうとするも、場が面白過ぎて頭のファイルを探れない状況だ。寝るときにでも思い出してみよう、そう思い…
あ。すっかり失念していた。明日も試験であることを。
久しぶりに大笑いした余韻で、中々寝付けない。
明日の試験の準備は既に済ませてあるのでなんの憂いもない、ので先程の疑念を解消すべく脳内ファイルを開いていく。
小学校低学年の時。うん、確かに皆さんよくいらしていた。小学校高学年の頃。やはりよく来ていたな。
中学一年生。確か進学祝いに腕時計を安倍氏に頂いた気がする。ピンク色のGショック、今は何処にしまっただろうか。
中学二年生。……記憶が無い。皆さんがいらした、記憶が無い。と同時に、思い出した。何故我が家に部下さん達が来なくなったかを。
あれは中二の一学期の中間試験の前日。いつもの様にゴルフの流れで我が家に大勢訪れた時、私が父に試験前の大切な日に何故騒々しくするのか、私の成績が下がったらどう責任を取るのか、と玄関で吠えたのだ。
場が笑える程凍りつき、安倍氏が私に、考えが至らなくて申し訳ない、と何度も頭を下げ帰っていったことも思い出す。
その後父と大喧嘩になり、私は貴方のようになりたくない、しっかり勉強し一流、いや超一流の大学に進学する、これ以上私の進む玉鉾の道の邪魔をしてくれるな。
それまで口では負けたことのない父が呆然とし、力無く済まなかったと頭を下げたのだ。私はその姿を見下し、こんな無様な大人には、親には決してならないことを誓い、以降父との接触を出来るだけ避けてきたのだった。
今思えば、心が不安定だったあの頃の私の黒歴史の一部と言えよう。だが父との訣別を決意したあの日のことをすっかり忘れていたとは。
翌朝。
パッと目が覚め、時計を見ると七時半。
愕然となる、何故に目覚ましが作動しなかったのか…
私は目覚まし時計とスマホの目覚まし機能の二点を欠かさない。何故なら遅刻は絶対悪だと信じているからだ。そもそも高校生にもなって、起床するのに親の助け…
いや、今はそんなことを論じている場合ではない。全力で着替えを済ませ、朝食も摂らずに家を飛び出す。全速力で駅に向かい、ギリギリで間に合う電車になんとか飛び乗る。
マスクをしているせいで息が苦しい。こんなに真剣に走ったのはいつ以来だろうか。全身全霊を込めて息を整えていると、クスッと笑う声がする。
その声の方を振り向く。
彼が優しい目で私を見下ろしている。
* * * * * *
何とか今日も試験を無事に終えられたのは、彼と同じ電車に乗れたからだ。間違いない。
彼は額から汗を流している私にタオル地のハンカチを貸してくれ、今日も試験頑張ってと耳元で呟いてくれた。
自分も明日から期末考査なのだ、共に励もう。そう囁いてくれた。
これで力が出ない筈がない。古文、物理、数A。かつてない手応えを感じたものだ。試験終了後、教室を出てからスマホの電源を入れ、彼に朝のお礼を打ち込む。
彼は今日まで通常授業らしいので、既読になるのは夕方だろう。早く夕方にならないものか、そんな浮かれ気分で帰宅し、明日の科目の準備に取り掛かろうとすると。
珍しく父が在宅している。
何でも朝から下痢が止まらず、
「昨日の晩が楽し過ぎてさ、飲み過ぎちゃったわ。三時にクリニック行ってくるよ」
それはそれは。そうでなくても、このコロナ禍にも関わらず得意先と毎晩飲み明かしていらっしゃる罰が当たったのではなくて? とまれ、どうぞお大事に。
「だな、咲良の言う通りかもな。ちょっと反省するわ、オリンピック始まると忙しくなるしな。外食はしばらく控えるよ。」
是非そうしてください。家族を守ることにもなりますからね。
「そうだな、うん。その通りだ。すまん咲良。」
……よっぽど強烈な腹下しだったのだろうか。すっかり丸くなっている父に軽い動揺を覚えてしまう。そして、そんなに辛いのならクリニックまで同行するが、と問うと
「大丈夫、大丈夫。車でチャチャって行ってくるよ。でも、ありがとな。」
急に眼鏡越しの目が赤くなり、うっすらと涙を浮かべている父に更に動転してしまい、慌てて自室に駆け込むのである。
よっぽど昨夜の集いが楽しかったのだろうか。それか、清原女史のお言葉に感銘を受けたのか。
『親の有り難みが分かった時、父に感謝するようになりましたよ。』
親の有り難み、か。
確かに私は未だ、父に対し有り難みを感じていないし、感謝もしていない。
それは実際に私を世話してくれているのが、母だからであろうか。弁当を作り、洗濯をしてくれ、学校や世間の愚痴を聞いてもらい、夕食を作ってくれ、などなど。
今後大学受験を経て、金銭的に大いに父の助けが必要となる時に、私も父に感謝するようになるのだろうか。
それは、お金が私と父の関係を繋ぎ止めるということなのだろうか?
いや、金銭的なことなら、母の実家の方が遥かに父の収入を凌駕している。この家も母の実家がポンと建ててくれた位に。
今後父は順調に出世を重ね、役員にでもなれば世間的な評価も上がるだろう。私もそんな大企業の役員の娘として、社会的ステータスが上がるのだろうか。
高級国民の仲間入り、か?
そんな金銭的、ステータス的に恵まれる様になって初めて父を感謝するのだろうか、この私は?
何か違う気がする。人として、全く違う気がする。
物や地位で人を判断する人々はそうなのかも知れないが、私はそんなことで父を感謝することはないだろう。
では、どうすれば私は父を感謝する様に?
清原女史曰く、有り難み。
父の有り難み、それはなんぞや?
母と結婚し私をこの世に生誕させたこと?
成る程、それは少しあるかも。私は自分が好きではないが、現状にはそこそこ満足感を抱いている。母、親友、勉強、そして菅原くん……
私を、母を守ってくれていること?
ううむ。現状ではそうとは思えない。コロナ禍で宴会や強制出社。この人は最悪の結果を想定して行動しているのだろうか、常に疑問を感じている。
だが。
先程父が漏らした呻き声。
『すまん咲良』
その一言が今も海馬に残っている。これが大脳皮質にファイルされる頃、私は父を有り難く思うことができているだろうか。
「さっちゃーん、夕飯の手伝い、できるうー?」
ふと時計に目を移すと、十七時。
すぐ行く、と叫び、自室を後にする。
乳の実の父はクリニックから戻り、リビングのソファーで一人うたた寝をしていた。