プロローグ 4
曲がりくねった角の生えた、性別という概念が存在しているのかどうかは不明だけれど、どちらかといえば、人間の男性に近い、筋骨隆々とした魔族が首を鳴らす。
どうやら、仲間(あるいは同族とよぶべきなのか?)という意識は希薄らしい。もしかしたら、ないのかもしれない。
もっとも、やつらの目的が侵略で、征服で、もしかしたら、虐殺も視野に入っているかもしれない以上、この国、あるいは世界中のどこにいたとしても、いずれはぶつかる可能性があるのだけれど。
「そうですか」
その程度に考えていてくれるのなら、まだ勝ち目はある。
戦闘態勢に入るのか、魔族の筋肉がいっそう肥大する。見せかけだけの、重い筋肉ではない。そして、その手の先についている爪も、長く、鋭利なものに変貌し、月明かりを反射して鈍く光る。
「ミトラ。そいつを捕えておけ。俺はこいつと遊んでくる」
奥の、姫様を吊り上げている魔族はミトラという名前らしい。
「そんなやつにかまけていると、俺が全部遊びつくしちまうぞ」
僕はちらりと姫様に目を向ける。
こちらを見つめていた姫様の視線からは、自分のことに集中するようにと言っているような感じがする。
「なに、そんなに時間はかからねえ、よ」
もともとそれほどでもなかった彼我の距離を、文字どおり、目にも止まらない速さで詰めてきた魔族は、僕の側面ですでに右腕を振りかぶっていて。
「ふん」
魔力の巡らされた剛腕の一撃は、ダメージこそ、防御魔法で相殺できたものの、威力までは殺しきれず、吹き飛ばされる。
すぐさま飛行の魔法で姿勢を制御して、姫様の元へ戻ろうとするけれど。
「おい、どこへ行こうとしてんだ」
一直線に追いかけてきたさっきの魔族から、さらに一撃が振るわれ、先程の防御魔法が破壊される。
「《大地を操る魔法》」
代わりに、地面を隆起させ、高質化し、その一撃を受け止める。
土という物質に魔力を込めて上乗せしている以上、ただの防御魔法よりは強固な代物だ。
加えて、魔力を自身のイメージだけで障壁へと変じさせるより、そこにある物質を利用したほうが消費が少なくて済む。
もちろん、地面が硬すぎると掘り起こすのが大変になるとか、いちいち、土に魔力を通す必要があるとか、即効性において劣るという問題はあるけれど。
「そんなもので防げるとでも?」
躊躇いなく振るわれた長い爪は、バターでも切るかのように土の壁を切断する。
どう考えても、こちらの魔力消費に見合っていない。
仕方がない。防御するのは諦めよう。
最低限の急所――頭と心臓――だけをガードしながら、一直線に突っ込む。
おそらく、相手の対応は――。
「馬鹿め。おまえ程度、相打ち覚悟だろうと、俺に触れることすらできずに終わる。実力の差がわかっていないのか」
案の定、相手の爪が伸びてきて、腕と足に突き刺さる。血は出ているし、ものすごく痛い。
しかし、走ることに支障は出ようが《飛行する魔法》には影響はない。
僕が痛みによって止まらないことで、相手がわずかに目を見開く。まあ、普通、腕と足を突き刺されたら、魔法、つまり、魔力制御にも乱れは出るからな。
しかし、今の僕はそんなことを考えられる感覚が麻痺していた。脳内で多分、興奮とか、そういう心の持ちようにより、一時的に痛みに鈍くなっていたのかもしれない。
生物として、痛みに鈍いというのは致命的だけれど、今、この瞬間には感謝できる。
いかに相手が魔法において人類をはるかに凌駕する魔族であろうと、この距離、この位置取りでなら、僕のほうが有利に違いない。というより、そうでなければ、ここで死ぬ。
相手の懐に潜り込み。
「《炸裂させる魔法》」
現状、僕の知る魔法の中で、速射性、威力を考えた際、この場ではこれが最も有効だろう。
魔族と戦っていれば、もっと、僕の知らない、つまりは学院でも習わない魔法――それも、魔族に対しても有効なもの――が探れたかもしれないけれど、そこまでの余裕はなかった。
僕だけならばまだしも、この場には守らなければならない人がいる。時間をかけてはいられない。
穴の開いた腹部から、粒子になって消えてゆく魔族には目もくれず、残った魔力を総動員して……しまうと、この先で、姫様と共に戦闘になった場合に困るから、ある程度温存しつつ、その中で急いで姫様のもとへ戻る。
「姫様、御無事――」
言いかけて、僕は即座に背を向けた。
たしかに、姫様は命に別状はなく、五体も無事でいらっしゃるようだった。
しかし、言うまでもなく、姫様とて、つい今しがた戦闘を終えられたばかりであり、そもそも、魔族に襲われていたのは、水浴びでもされている最中のことだ。
つまり、まだ、下着を着けられただけの姿だった。
「失礼しました!」
僕は即座に背を向けて、一応、いないとは思うけれど、他に人でも、魔物でも、魔族でも、反応がないかどうか《探知する魔法》を広げる。
特定個人の場合には、ある程度の面識がなければ使うことはできないけれど、不特定の何者か、どの程度いるのか、距離はどのくらいか、など、その程度であれば、探ることはできる。
背後からの衣擦れの音が途絶えたころ。
「ルシオン。身体を見せてください」
「え?」
相手が姫様だとわかっていても、いや、だからこそ、余計に緊張してしまい、一瞬、身体を引いてしまう。
「ち、違います。治療をするので、怪我の様子を確認させてくださいということです」
やや焦った様子で姫様は顔を紅くされる。
勘違いしたことを平謝り。すみません、年頃の男子は大抵、勘違いしがちなんです。
「大丈夫ですよ、このくらい。自分でもできますし、放っておけばそのうち治る程度のかすり傷ですから」
僧侶、司祭、教皇、そんな人たちは治癒の魔法の専門家とも呼べる人たちで、より高度な治癒魔法を使えるけれど、普通の魔法師である僕たちはそれほど、たとえば、戦いの最中に治癒魔法を並列して戦闘を行うだとか、一回で完全にとか、魔力消費の効率よく、などという真似はできない。
「ダメです。私のせいで巻き込んでしまったのですから、せめて、このくらいはさせてください」
姫様だって、戦闘していた直後で、魔力だってそんなに残っているわけではなさそうなのに。
「ルシオン、怪我人はおとなしくしていてください」
ぺたりと地面に、俗に女の子座りに座り込んだ姫様は、御自身の太腿を叩かれる。
「さあ、横になってください」
こちらに有無を言わせるつもりはないらしい。
仕方ない。
そう、これは姫様からの命令なのだから、仕方のないことなのだ。
たとえ、微かに、頭に柔らかな重みが押し付けられていようとも。
「どうして来てくれたのですか」
夜という眠さが襲ってくるだけの状態にまで回復したところで、立ち上がり、姫様に問いかけられる。
「実際、先程も危険に晒されていらしたわけですし、どうやら、女性一人を危険に放り出して、自分はのうのうと過ごしていられるほど、頑丈な精神は持ち合わせていなかったようです」
僕は剣士というわけではないので、あいにくと、捧げるべき剣を持ってはいないけれど。
「もし、お許しいただけるのであれば、今後の旅の道連れとして、御身を御守りすることをお許しください」
姫様の前で膝をつき、胸に手を当て、頭を下げる。
頼りない、一人の男に過ぎないけれど。
まだ見たこともない、魔王を打倒するという自分をイメージすることはできていないけれど、目の前の綺麗な女性を守るということであれば、男として、光栄な仕事に思う。
「ありがとうございます、ルシオン。でしたら、この先は、私のことはただクレアと呼んでください。姫様、などと呼ばれると、すぐにこちらの素性が知られてしまいますから」
「いや、名前で呼ぶとかどうとか以前に、探知魔法で――」
こちらの位置を知ることのできる魔族はすでに消滅させたか。
「私のことはクレアと呼んでください、いいですね?」
念押しに、非常に不敬であり、指先とか、背中とか、もぞもぞとするのだけれど、呼ばなければ先へ進みそうになかったので。
「わかりました、クレア」
この場はただ、そう頷くことにした。
「それではこれからよろしくお願いしますね、ルシオン」
クレアはそう言って、微笑んだ。




