喪失(中編)
屋敷に入った途端、不意に頭を強く抱えて悶えながら、彼は徐々に力を奪われ倒れてしまった。こちらの呼ぶ声に一切耳を傾けず、何かを探して走り回っていた神とレイカさんはそんな彼を見てから焦りの色がいっそう濃くなって彼を私も連れて奥へ連れ去った。それから数日が経った。
「エルピスちゃん、ちょっとこっちに来てくれないかな」
窓から太陽の光が差し込む七つの席のうちの、光を背で浴びる場所に座らせた、無反応で無気力な、起きているのか寝ているのか分からない彼を横目に神の導きで台所へと通された。
「何か良い方法思いつきましたか?」
「いいや、少年をひっぱたいたり水をかけたりしても心の中で囚われたままなんだ」
「自分の信者に何してるんですか」
確かに早急に目覚めさせるには衝撃を与えるのが一番だと理解しつつも、もっと丁重に扱うべき生命では無いのかとこの神に呆れる。レイカさんから聞いた話だと、この神は生命の神、ならば尚更丁寧に扱うべきでは無いのか。
「まぁまぁ、ボクだってぞんざいに扱ってるわけじゃないんだ。ところでエルピスちゃん、お腹空かないかい?」
「えっ、いや、別に」
とは言いつつも体は正直で、この数日間、彼に付きっきりで食事も取れず、腹が機嫌を損ねてしまっていた。手を伸ばせば届いてしまう冷蔵庫が目に見えつつも、人様のものに勝手に触れていいものかと理性が押さえつける。水で空腹を誤魔化すも、それは限界に近づいていた。そんな私を弄ぶように、神は冷蔵庫の扉を開け、厳重にラップに包まれた皿を取り出し、その包みを剥がして中身を見せた。
「これはオムライスだよ」
「はい?」
いくらこの神の頭のネジが足りていないと分かっていつつも、流石にこれは看過出来ない。深皿の上には型を使って盛ったであろうチキンライスに、ところどころが破れて半ばスクランブルエッグが乗せられているような、とてもオムライスと呼ぶには無理があるものがあった。どちらかと言えば焼き飯の方が近いのかもしれない。それでも食べ物が目の前にあると言うだけで私の理性に反してお腹は鳴ってしまう。そして、神は見計らったかのように皿の下に忍ばせていた折り畳まれた紙をひらりと床に落とす。不思議と意識はその方へと向き、手に取って広げた。
『ラクイラへ
ナズナが教えてくれたオムライス、あんまり上手に出来なかったけど、あんたのために作ったから、帰ってきたら温めて食べてね。本当は出来たてを食べて欲しかったけど、依頼だから仕方ないものね。またいつか、作ってあげなくもないんだから!
あっ、この手紙、捨てちゃってもいいからね。
グローリアより』
メモ帳に歪な文字で描き連ねられた手紙を読み終え、再び四つ折りにして騎士服の胸ポケットにしまい込む。神からオムライスが盛られた皿を受け取り、冷蔵庫脇に設置された電子レンジに入れてボタンを押す。ターンテーブルの上に乗った皿がぐるぐると周り、中の赤外線ランプのような光に照らされていた。
「あったじゃないですか、良い方法」
「これを方法と呼ぶにはいささか無粋だとボクは思うよ」
そんなことくらい、あの手紙と、大量にゴミ箱に捨てられた卵の殻を見れば嫌でもわかってしまう。
グローリア、今となっては私だけの女王様が、この料理と手紙だけを残してこの屋敷の中ではないどこかへと姿を消した。残り時間が増えたと喜びを見せたいところだが、恐らく彼は、きっと女王様のことを、多分覚えていないのだろう。神やレイカさんや私がその名前を出しても、彼は一度も反応することが無かったのだから。
電子レンジの終了音が鳴り、中のオムライスを取り出す。
「スプーンはどこにあります?」
「君が食べるのかい?」
このようなものを私が食べてしまうだなんてとんでもない。これは彼以外食べてはいけないものだから。
「そんなわけないじゃないですか」
神は少し間を置き、安堵に微笑みながら棚から金属のテーブルスプーンを一本、皿に添えられた。
人工的な湯気の立つ料理を、今にも倒れ込んでしまいそうな彼の隣に座ってテーブルにコトンと静かに音を立てて置く。この瞬間も彼は虚空を見つめ、ここ数日何も食べていないにも関わらず、料理を前にしても腹の音が鳴らなかった。生きているのか、死んでいるのか、それすらも怪しく見えてきた。
「ラクイラさん、食べてください。食べないと、死んでしまいますよ」
私の声も届かず、彼の僅かな体の浮沈は生きていると救援信号を出すだけだった。
痺れを切らし、皿の横に置いたスプーンを手に取ってオムライスをひとすくいして手皿を添えて彼の前に差し出す。
「ほら、食べてください。えっと……あ、あーん」
この際恥ずかしいなどとは言っていられない。それに、護衛依頼はまだ終わっていないのだから、この恋人紛いなことをやってしまっても問題ないのかもしれない。
「早くしないと、冷めてしまいますよ。貴方が食べてくれないと、女王様が悲しんでしまいますから……だから、お願いですから、食べてください!」
強引だとは理解しつつも、まるで人形のように何も反応しない彼の口の中にスプーンを無理やり押し込んで舌の上にオムライスを乗せる。口内に入った食べ物を反射的に摂取しようとひとりでに口が動き、私が何もせずとも飲み込まれ、虚空を見つめていた目から一滴の涙が溢れ出た。
「ラクイラ……さん?」
生きている証を見せた彼の顔を覗き込み、まだ沢山残った皿を持ち上げ、スプーンを差し出す。
「食べれますか?」
少しずつ力を振り絞り、震えながらも差し出したスプーンを握る。そして一口、二口と口へ運ぶうちに私の補佐は必要なくなり、ようやく目に光が宿って、弱々しくもゆっくりと食べる彼を眺めていたら、気づけば綺麗に半分が無くなっていた。
「……ごめん」
スプーンを皿の横に置いて、彼はその音でかき消すように静かに呟いた。彼の背を照らす太陽が雲に隠れ、ただでさえ沈みこんだ顔がいっそう暗く見えてきた。
「一体何を謝っているのでしょうか」
煽りでも意地悪でもない。単純に彼が何を謝っているのか分からない。この数日間、あるいは私と出会ってから、彼は何も悪いことはしていない。謝る理由が無いはずだった。
「私のせいで、君に迷惑をかけたから」
「何も迷惑だなんて思っていませんよ。まぁ、話せなかったのはちょっと寂しかったですけど、それでも、貴方をお世話して迷惑だなんて思っていません。こういう時は、ありがとうって言うものなんです。多分」
彼は、いや、人間は、生物は一人では生きられない。私は助けを求めたが、彼は一人で何かをしようと、結果的に善意に対して謝るなんて愚行をしてしまっていた。まるで、ずっと一人で生きてきたかのように。
「それじゃぁ……あり、がとう」
ぎこちなさが垣間見えるも、彼がきっと正しい選択をしてくれたおかげで嬉しくなり、隠す必要もなくさらけ出していた。
「よく出来ました」
冗談半分で母親のように振る舞い、私よりも一回りほど大きい彼の頭に手を伸ばし、ゆっくりと慈しむように、チクチクと髪の毛が刺す頭を撫でた。それもほんのわずか数秒だけで、耳を赤くした彼が私の手を跳ね除けた。
「恥ずかしいから、やめてくれ」
「いいじゃないですか少しくらい、それより、もう食べないんですか?」
私のものか、彼のものか、はたまた神のものか、レイカさんのものなのか、この場に大きな腹の音が鳴り響き、彼の視線が残り半分となった料理へと向けられた。そしてそのままスプーンへと手を伸ばし、米粒すらも残っていない空いた場所に置いて私の所へ滑らせた。
「うん、もう食べられないから、食べていいよ。お腹すいているんだろう」
「それはまぁ、そうですけど……」
彼のために作られたこのオムライスを私が残りを食べてしまっていいのだろうかと葛藤が始まる。これを作ったのは私たちの女王様。どうしても恐れ多くて、皿に添えられたこのスプーンに手を伸ばすことが出来なかった。
「仕方ない」
一体何が仕方ないのかと嫌な予感が頭をよぎる。そしてその予感はいとも容易く的中する。彼はスプーンを手にしてオムライスをすくって、私がやったように手皿を添えて向けてきた。
「はら、あーん」
悪意のない、純粋な善意から来る恥ずかしい行いに顔向けできず、たじろぎながら顔を背けると、いったいいつからか、あの神と龍がニンマリと笑いながら暖かい目を向けていた。
彼から目を背けた途端、薄寂しげな目線が伝わる。前からも後ろからも注目され、逃げ場を完全に無くしてしまっていた。逃れることを諦めざるを得ない状況になり、恥ずかしさが紛れた本能に身を委ね、向けられるスプーンを、オムライスを頬張った。
一口食べてしまったがためにヤケになってしまい、空腹を満たすために、味など気にせずにスプーンを奪い取って、猛獣が獲物を食い散らすか如く食べ進めた。
冷蔵庫で保存したがために固まってしまった卵に米、風味や食感を失った玉ねぎ、焼け焦げて炭のように黒くなった鶏肉、砂糖と塩を間違えたかのように、やけに甘くて、苦くて、お世辞にも美味しいとは言えないこのオムライスの残りを完食した。完食してしまった。
「ごめん……なさい!」
食べ進める度に罪の意識が膨らみ、最後の数口には塩味が混ざっていた。彼がティッシュで私の顔を拭い、スプーンしか残っていない皿をテーブルの上に置いた。
「何を……謝ってるんだ」
「私のせいで……私のせいで貴方がこれを美味しく食べられなかったと思うだけで、女王様と貴方に申し訳ない気持ちでいっぱいで……ごめんなさい」
彼に説教をした途端、私がこのような醜態を晒してしまい、なんとも情けない。それでも彼は私を笑ったり、貶したりせず、また私がやったように、その大きな手を私の頭に乗せて撫で始めた。
「何を、しているんですか?」
私の問に答えることはなく、静かに微笑む。彼の手はとても暖かく、まるであの夜の上着のようだった。
「エルピスがこうしてくれた時、妙に安心したんだよ。嬉しくて、恥ずかしかったけど温かかった。だから、私もこうすれば、君も少しは安心してくれるかなって」
まるで子供のように覚えたことをすぐに真似する彼の僅かな幼稚さに、少し救われた。それと同時に、彼がそう思ったように、私もなんだかこうされるのが恥ずかしい、けれど、嬉しくて、温かい。
「も、もう!やめてください!恥ずかしいですから!」
顔が今にも湯気を出してしまいそうに熱い。こんな顔を見た彼は、微笑んだまま吹き出すことはなく、ただただ私の頭を撫で続けた。
「いいじゃないか少しくらい」
「むぅ、ラクイラさんのことなんか、嫌いです!」