喪失(前編)
最後の生き残りからの許しを得た。また復活してしまうかもしれない、それでも、もう訪れることの無いこの国を再び消してしまおう。
呑気に照りつける太陽の元、エルピスに腕を絡みつかれながら城の外に出る。中央広場に足を止めたところであの出来事を思い出す。
逃げ場も失い、空へ飛ぶことも出来ない群衆の中心で、彼女の涙で目を覚ます。多勢に無勢の圧倒的不利なあの状態で目覚めた根底に眠る力。彼女は反転を、私は消滅を使い、翼族を二人を覗いて全て滅ぼした。
そして今、最後にして二人目の生き残りと共にこの国を滅ぼす。
雲よりも高いこの地の下に雨雲はなく、太陽はギラギラと輝いている。冷たい風が頬を撫で、誰かが私の噂をしているとくしゃみをする。絶好の消滅日和だ。全ての怨恨を冷たいまま消してしまおう。
「存在」
力強く握った拳を、流れを緩めずに開き、大広間の地面に平をつける。力が血流とともに激しく全身をめぐり、バチバチと脳内で火花が散る。何かが弾けるような感覚に苛まれながらこの地に力を行使する。
「消滅!!」
城が、宿が、家々が、公園が、草木が、地面が、一瞬にして全て空から消え去る。空中に取り残された私とエルピスは重力に逆らえずに空気の抵抗を感じながら落下していく。そんな中、彼女が純白の翼を広げ、パラシュートが開かれたかのようにその場に佇む。取り残された私は、このままでは地面に肉片と血溜まりと化してしまうだけだった。
「レイカ!」
身体の中に棲まう翡翠色の龍の名を呼ぶ。彼は私の意識の中で素早く立ち上がり、出口に走り出しては龍となって私の胸から飛び出した。
(待ってて、今すぐ拾うから)
彼は空を飛んでいるエルピスに目もくれず、高所からの落下の衝撃を抑えるようしっぽで私の体を掴み、器用に空中に放り投げては背中に乗せてくれた。太陽に照らされてエメラルド色に輝く鱗に覆われたその背中の上には、私の他に神様がしっぽを揺らしながら到着を待ち侘びていた。
「全くもー!少年ってば、レイカ君がいなかったらどうやって降りるつもりだったのさ!」
「おかえり」よりも心配から来る説教に、珍しく神様がまともに見えて縮こまってしまう。それでもいつものように笑顔を向けて受け流した。
「レイカが居てくれたからできたんだよ」
「やれやれ、まだ出会ってから二日三日ってところなのに、君のすぐ信じるところは考えものだなぁ……でも、そこが君のいいところなんだよねー!ボクの信者君!」
神様はすぐさま私を抱き寄せては胸に顔を埋めさせ、髪型を乱れさせるように乱暴に激しく頭を撫でる。神様の胸がクッションの役割を担っているのか、首がグラグラ揺さぶられることもなかった。その柔らかな感触に恥ずかしさからか、酸欠からか、鏡がなくても分かる。顔を赤くさせていた。
「か、神様、苦しい、離して!」
「おおっと、ごめんごめん」
神の抱擁から解放され、ただでさえ酸素の薄い高所でゼェゼェと呼吸を乱す。それでも少しずつ頭に酸素が巡り、彼女のことを蔑ろにしていたことを思い出した。空を見上げると、エルピスはこちらを見下ろしながら驚きに目を丸くしてきた。やはり龍という存在は、翼族の中でも幻想として語られ、実在しないものとされていたのだろうか。
(ご主人様、あの人は?)
「あぁ、依頼人だよ」
「もしかして…翼族なのか」
「ええ、そうです。おーい!エルピスー!」
手を振りながら彼女を呼ぶと、仰天した可笑しな表情が一転して着ている白い生地の騎士服に相応しいキリッとした顔立ちになり、どこか緊張しつつも、龍の存在に目を輝かせながらレイカの隣にまで降りて来た。
「凄い……本物だ……!」
「レイカ、乗せてやってもいいかな」
彼は長い首を動かしてエルピスの姿を一瞥する。見つめられている間、彼女は興奮がまた一転、強大なものを前に怖気付いたのか、後退りしながら縮こまってしまった。そんな弱気な彼女を見たレイカは、恐ろしいイメージが強い龍とは思えぬほどの笑顔で頷いてその場で旋回すると、エルピスは遠慮しがちに翡翠色の鱗に足をつけ、翼が閉じられる。神様は彼女を快く歓迎しているからか、大きなしっぽを大きく揺らし、黒い耳をピクピクと動かしていた。
「エルピスちゃん…か、うんうん、いい名前だ!」
神様の、誰のどんな名前でも当てはまりそうな返答に彼女は少し顔を赤く染めながらモジモジと何かを躊躇う。その視線の先は神様のもふもふでつやつやな尻尾にあった。
「だ、ダメだからね!このしっぽは少年以外に触らせないことにしてるから!」
「そ、そんなぁ」
視線に気づいた神様は尻尾で私の体を包み込んで抱き寄せ、またしても顔が埋められる。余程触りたかったのか、エルピスは何かを揉みしだくような手をしながらへこたれていた。
(ご主人様、僕のこと忘れてる)
忘れてない。神様の暴走ぶりに隙がなく、ねじ込む余地がなかっただけだった。
神様の体を強めに叩き、ダメージが一切通らない体から解放される。再び酸欠になりかけて真っ赤な顔で荒い呼吸で酸素と落ち着きを取り戻す。そしてエルピスにレイカのことを紹介しようと神様から距離をとった。
「エルピス、この龍の名前はレイカ、元は人間なんだけど、訳あって龍になることもできるんだ」
「人間が龍に……?珍しいこともあるものなんですね、それにしても、かっこよくて可愛いドラゴンさんですね」
彼女が翡翠色の鱗の上に座り込み、慈しむように優しくゆっくりと撫で始める。こちらに首を向けていた彼の口角がニヤリと笑うように上がり、下で流れる雲の向こうを見下ろした。
(ご主人様、僕、なんかわかんないけどやる気になった。飛ばしていい?)
(お、落とさないように頼むよ?)
(わかった!)
まだ彼の全速力を体感したことがないこの身からしてみれば、意気揚々となったまま空の旅に向かうのがとても怖くなってしまう。決して普段のテンションが高いとは言えない彼が躍起に、ましてやこの龍の状態でなってしまうと、無事で帰れる気がしなかった。
「あー、エルピス、神様……レイカにしがみついてた方がいいかも」
神様は何かを察し、何も言わずに鱗の上でぺたりと全身をくっつけて鱗のでっぱりに手足を引っ掛ける。エルピスはわけも分からずに頭の上にハテナマークをうかべて首を傾げるだけだった。
(行くよ!)
私以外には聞こえない声を上げ、翼を羽ばたかせては高さをつけて雲を突き破るよう急降下する。彼女が気づいた時にはもう遅い。私と神様の体勢を真似せずにただ座り込んでいたエルピスは振り落とされないよう腕の力だけでレイカの体にしがみつき、運良く帽子が吹き飛ばないまま豪風になびかれる。
外の景色を見下ろす余裕もなく、早くこの絶叫コースターから下ろしてくれと願うばかりに瞼を強く閉じる。一秒が永遠にも感じられる中、その永遠から解放される時が来た。
凍える風の壁がなくなり、目を開くと、そこは屋敷の前。龍の背中から降りると、硬い地面が愛おしく思う。しかし、この屋敷が自分達の帰る場所だったかと記憶を疑った。もっと小さくて、龍が降りれる程の広さがある庭などなくて、住宅街にある一階建ての一軒家。そこが私の家だったはず。それなのにも神様とレイカは何も気にも止めずに玄関を開けて中へと入っていってしまった。呼び止めることも出来ず、隣に立つエルピスが不思議そうに私の顔を覗き込んでいた。
「どうかしましたか」
「あ、いや、なんでもない」
「そうですか?なら行きましょう、女王様に会いに」
女王様?
エルピスに手を引かれ、開けっ放しの玄関に足を踏み入れる。そして何故か、初めて足を踏み入れるはずのこの屋敷に違和感を感じた。
「誰がいないんだ?」
神様とレイカが目の前を走り回る中、無意識にそう呟いた。エルピスも私の隣にいる。なのになんだこの違和感は、空虚感は。誰がいないのかでは無いのかもしれない、きっと、この屋敷は誰もいないのかもしれない。
頭の中でノイズが走り、誰かの声が私の名前を呼ぶ。誰かの声が楽しそうに笑う。誰かの声が私をパパと呼ぶ。誰かの声がレイカを揶揄う。誰だ。誰だ誰だ誰だ。顔が消えたその姿だけが私の頭の中をぐるぐると巡る。目の前にいるエルピスがどこか不安げな表情でこちらの顔色を覗くも、どうやらあまり宜しくないようで、焦りの色を見せて誰かを呼び止めた。彼女の声もが聞こえてこない。聞こえるのは誰なのか分からない声だけ。そして私は、誰かの屋敷の上で倒れ込んだ。