翼族
そんなはずはない。ありえない。誰一人として居ないなんて。同じような思考が反響して脳内を埋め尽くす。最後に見たのはあの人の暗い表情。無人の国に心を痛めたのか、横目で見えた彼はそんな顔をしていた。
東日が窓から差し込む中、城内を走って住人を探す。私以外の足音が聞こえてこないのだから、咎めるものは誰もいない。それでも受け入れることが出来ずに走り続ける。鍵のかかっていない扉を開けては中の部屋を見渡す。厨房に書斎に音楽室、浴室に個人部屋に更衣室。どこも人の姿は一切見かけず、ある場所で扉を開けたまま、どうしようかと考えをめぐらせていた。
目の前には、かつて私が着ていた騎士服が大事そうにハンガーに掛けられ、シワや汚れ、綻び一つないままショーケースの中で保管されていた。同じくショーケースの中には金色の鱗模様が施された白い鞘に収められた刃渡り八十センチ程のサーベルが壁に貼り付けられていた。
あの人のハーフコートをハンガーにかけ、私のトレンチコートを脱ぎ捨て、中に着ていたブラウスをそのままに、ショーケースの中の騎士服を取り出して袖を通す。
「ふぅ……やはりこれが落ち着きますね」
トレンチコートを拾って腕にかけ、ハーフコートをその上にかける。サーベルも腰に携えて集団更衣室を後にする。
「女王様もいない…国民もいない…私は一体何を守れば…」
もうここには誰もいない。現実は絵本のようにはならない。国民が皆名も知らぬ女王様を探しに飛び立ったなんてことはありえない。一人くらい留守番をしててもおかしくないのに誰もいない。奥歯を強く噛み締めては絨毯の上を大股で歩く。
女王様が座るはずの玉座の前で膝を着き、そこにはいない方に向けて最後の忠誠を誓う。天は私のことを見てくれていないのか、この沈んだ気持ちを嘲笑うかのようにサンサンと空を照らしていた。
ふとした好奇心から玉座に座ってみたいと歩を進めるも、肘掛けに手を伸ばそうとしたところで踏みとどまる。私は女王様では無いのだから、この椅子に座ってはいけないと。そして後ろを振り向いた時に、あの絵本のあのシーンが目の前に投影される。玉座から見た先には、あの人が私の前で膝を着いていた。正確には、私ではなく、玉座に。邪念を振り払い、玉座から背を向けて逃げるように走り出す。
気づけば私は走るのに疲れて空を飛んでいた。下へと続く階段に足をつけずに飛び降りては一階にいるはずのあの人の元へと向かう。玉座で見たあの人の幻覚。きっと私が今守りたいのは、彼の笑顔なのかもしれない。
「ラクイラさん、戻りました。その、やはり誰もいませんでした」
一階の礼拝堂のような場所で翼を閉じて歩き出す。やはり彼はそこにいた。
「……そうなんだ」
彼は先程からずっと、ここに来てからずっと私のことを見てくれていない。それどころかずっと思い詰めた表情をしながら俯いている。
「あの、ラクイラさん?気分が悪いのですか」
「そうなのかもしれないな」
「それはいけませんね、今すぐに降りて休みましょう」
「待ってくれ」
急な標高の変化に体調を崩してしまったのかもしれない彼に近づこうと一歩踏み出したところで呼び止められる。
「その前に、エルピスのことを教えてくれないか」
「えっ、そ、それって」
突然のことに恥ずかしくなって顔を赤く染める。彼が私のことを知りたいと思ってくれていたなんてとても幸福で光栄で、まさに恐悦至極な気分だった。
「何が目的でここに来たのか、何者なのか」
その語気でわかってしまう。彼は怒っていながら悲しんでいる。強く握られた拳が小刻みに震え、涙が大理石の上に滴り落ちていた。私がなんと答えても決していい反応は返ってこない。それでも答えるしか無かった。
「……翼族女王直属騎士団団長、カルミア・エルピス。定期的に帰還するために、ここまで護衛をお願いさせて頂きました」
握られていた拳がゆっくりと開かれながら剣の柄へと伸びていく。掴んだ剣までもが強く震え、今にも抜こうかどうか迷っている事が見て取れた。
「その、今まで黙っててすみませんでした。人間は異種族との関係を絶っていると聞いたので、言うべきか迷っていたのですが……やはり最初に言うべきだったのでしょうか」
「違う……違う、そうじゃないんだ」
「ならなぜ怒っているのですか」
彼はすぐには答えず、歯を強く食いしばいながら悲しみに溺れた表情を向けていた。
「グローリアのために死んでくれ……!」