遠き日からの懐かしき感触
ガヤガヤと騒ぎ立てるクラクションの中、エルピスは私の背中の上で意気消沈としながら申し訳なさそうに呟いた。
「私が単独行動さえとらなければ…貴方まで巻き込んでしまうことはありませんでした…」
押し潰してしまいそうな程に自らを追い詰める彼女に呆れてため息を零す。
「君はなんのために護衛を頼んだんだ…助かったんだから『あー良かったー』で済ませてよ」
「ですが……そうします」
「よろしい」
足止めさせていた信号が青に切り替わったところで横断歩道の上を忙しなく歩く人々に紛れて歩き出す。周囲の人々は皆、不思議なことに前を見ずに手元を見ていながらも他人にぶつかることは一切なく、自らの目的地に迷いなく歩いていた。
「…どうして皆下を見るのでしょう」
横断歩道を渡りきり、歩幅を狭めたところでエルピスが落胆しながら私の耳元で話し出した。
「空は星で埋め尽くされているのに…」
街中の人工的な光にその輝きを奪われ、人々の目に明かりとして映らなくなってしまった星を見上げる。青黒い夜空に白い点が不規則に並び、どこを見渡しても満天の星空が広がっていた。
「星、好きなのか?」
夜景よりも綺麗な星空に心を奪われ、感想を述べることがおこがましく思えてしまう。彼女は私の背中に身を委ね、ほっと一息ついて答えた。
「嫌いではありませんよ。高いところと…暖かいところが好きなだけです」
布越しに柔らかな肌が押し付けられる感触が伝わる。特有の甘い香りが嗅覚を刺激させ、その存在を強く意識させる。彼女はとても安心しながら落ち着いた呼吸を繰り返していた。
「あの…ラクイラさん…少し…恥ずかしいお願いが」
「ん?恥ずかしいお願い?」
騒ぎ立てる人の波の中、彼女は顔を赤くして私の耳元に囁いた。
「この仕事の間だけ…私を貴方のものにしてください」
その直後、車のクラクションが周囲の音をかき消した。人の波が音のした方をいっせいに振り向く中、私は今にも顔から湯気が出てしまいそうな程に顔を熱くさせている彼女の方を見た。
「ご、ごめんなさい!今日初めてあったのにも関わらず、こんなことを申し出るなんて可笑しいですよね!あはははは!!わ、忘れてください!!」
気が動転しながら肩を強く叩き、混乱しながら前方を指さして話題を逸らそうと奮闘する彼女に愛嬌を感じると共にそんな姿が滑稽に思えてしまい、隣の道路で車同士がいがみ合ってる中、吹き出すように笑った。
「もぅー!忘れてくださいー!」
優しげな怒りを見せながら肩を叩く彼女の言うことは聞き入れず、笑いを抑えて答えた。
「良いよ」
「え!?忘れてくれるんですか!?」
「違う違う、君の恥ずかしいお願い、叶えてあげる」
「えっ……はっ!…むー!ラクイラさんなんか嫌いです!」
喜びが次々に怒りに塗り被せられ、ごちゃ混ぜになったまま彼女は、それでも私の背中から降りようとはせず、騒がしい街中に霞ませるように呟いた。
「だったら……ちゃんとずっと名前で呼んでください…せっかく教えたんですから…」
「わかったよ、エルピス」
「うん……って、そこは鈍感になってくださいよ!なんのために声を抑えて言ったと思ってるんですか!」
「あーもう!どっちがいいんだ!して欲しいのか欲しくないのかはっきりしてくれ!」
「そりゃもちろんして欲しいですよ!次もし名前で呼んでくれなかったらお腹蹴りますからね!」
そんなお互いにめんどくさいやり取りを早口でしながら街中を歩き、でかでかと文字看板が貼り付けられた地下鉄の駅へと入る。最寄りの乗り換え駅までの切符を買い、直近の電車が地下のホームに到着するのをエルピスと談笑しながらベンチに座りながら待っていた。
「実は私…ラクイラさんのような人に会ってみたかったんです」
疑問を呈するよりも前に彼女はバッグから一冊の絵本を取り出した。
「この本の中に出てくる人が…ラクイラさんにそっくりで」
微笑みながらそう言われると興味がないからと断れず、試しに本を開いて流し読みをする。なんとも親近感が湧き上がる内容に気づけば最後の一ページまで読み進み…物語の結末を迎えずに哀れみの目を本に向けているエルピスの横顔を見た。
本の内容はと言うと、迷い込んできた少女が実は女王であり、城内で軟禁されている中で旅人が訪れ、彼と共に逃げ出すようなお話だった。
「この話の結末は…?」
抱いた感想を率直に述べるも、エルピスは首を横に振る。
「私にも分かりません。昔からこの本を読んでたのですが…一度も結末に辿り着けたことがなくて…もう絶版のようで、新しく手に入れることはできないんです」
「世界図書館に行けば…!」
「世界…図書館…?」
不思議そうに首を傾げる彼女に、この世の全ての本の初版が集まっているあの図書館について話をする。興味がないという訳では無さそうだが、力なく苦笑いをして虚ろな目をしていた。
「あったら…いいですね…」
瞬きして目に光を取り戻すと、閉じられた本を見て私の目の奥を覗き込んだ。
「それよりも!この本に出てくる旅人、ラクイラさんにそっくりではありませんか!?」
子供受けするような内容には思えないものの、「それっぽい」絵の描き方で描かれた旅人の容姿は、私のように大剣を背負い、僅かな荷物と地味な服装ではあるものの、それが私とそっくりであるかどうかは些か肯定しにくいものであった。
「あと…女王を連れ出すところの後先考えないところとか…!」
一体彼女の目に私がどのように映っているのか問い質したくなってしまう。サキュバスのあの子を抱えたまま人前を走り抜けたことや、ナンパから連れ出したことを加味したら…そう見えてしまうのだろうか。
「なるほど…それで…実際に会ってみた感想は」
「とても優しい感じがして、いつでも守ってくれそうな感じもして…偶然ってすごいなって思いました」
照れるように笑う彼女に反応するかのように、目的の電車が到着するとのアナウンスが流れる。エルピスはあの絵本をバッグの中へカバーやページを破らないよう慎重に仕舞い、背負わずに腹の前で抱えて立ち上がった。
ホームの時計で午後十時…満員電車から降りる乗客達を見送った後に、他の乗客に続くように最後尾に着いて再び満員となった地下鉄に乗り込む。
「何とか乗れましたね」
車内が揺れる音や乗客同士の話し声が聞こえる中、エルピスが安堵と共に静かに微笑む。スーツを着た人達や厚くメイクをして自らを綺麗に着飾っている人達にもみくちゃにされながら、私がドアに背を付ける形で彼女と向き合っていた。
「実は…前もこんなに人でいっぱいだったんです」
「その時は無事だったのか?」
「いえ……」
乗車した駅からまだ数分しか立たず、どの駅にも停車していないところで彼女が顔を赤らめながら艶っぽい声を漏らす。疑問に思って訪ねようとするも首が横に振られ、微かに唇が動いているのが見えた。読唇術を持っているわけではないものの、彼女の涙目になりながら怯え苦悶する表情から見て取れるに、「たすけて」と言っているのは間違いなさそうだった。
上半身を満員の中で傾け、エルピスを苦しめさせる原因を探る。
『次はー〇〇、〇〇です。お出口は右側です』
幸か不幸か、私が背中をつけているドアが開くようで、急いで元凶を探し出すと、彼女の臀部に完全に故意と取れるほどに手を収めさせてその感触を楽しんでいる太い指をしたものがあった。
その手をつかもうとしたところで電車が停車し、背をつけていたドアが開かれては彼女が辱めを受けていることなんてお構い無しに降車しようと人が流れ始める。その波に抗うようドア脇の内壁に背中を付け、彼女を辱める手を掴んで引きずり出し、降車していく人の波に放り投げた。
時間も深夜近くなっていたからか、乗車人数よりも降車人数の方が上回り、駅に止まる事に車内にスペースが徐々に出来上がり始め、終点に着く頃には私たちを含めてもこの号車には数える程しか乗っていなかった。
「エルピス、大丈夫だったか?」
足音が響く階段を登る中、重く沈んでいる彼女を引き上げようと呼びかける。しばらくしても返答が来ないことに危機感を覚えすぐさま振り向くと、彼女は悔しげに下唇を強く噛みながら涙目になって被害に遭った部分を押さえていた。
街中とは打って変わって弱々しくなってしまっている彼女を再び背負い、駅を出て案内に従って進む。
「…エルピス」
明るさを混ぜた落ち着いた声色で名を呼ぶも、彼女はそれに応答することなく静かに身を委ねていた。
「すぐに気づいてあげられなくて…ごめん」
指さし案内に進む中、静まり返った街に木霊する。大通りを歩き、車の走る音すら超えてこなくなったところで遠くにある山へと続くロープウェイの駅が見えてきた。指はあの駅を指し、まだ稼働しているゴンドラに乗り遅れないよう老人が窓口を担当しているところで切符を買い、本日最後の乗客である私達は間近に来ていたそれに乗り込んだ。
四人乗りのゴンドラの中で斜めに向かい会うように座り、山頂に着くのをただ待つ。亀のようにゆっくりと進んでいく中で数分後、突然全てのゴンドラが止まり、車内灯も先程乗り込んだ駅も電気が消えてしまっていた。