大人
サキュバスだった彼女が飛び去るのを黙って見送り、エルピスが御手洗から帰ってくるのを待つ。飲み屋街を出てから彼女の調子が悪かったり、顔色が悪かったりと言った不調の様子は見られなかったものの、ここから離れて行ってから十分以上は経過していた。攫われてしまったのでは無いかとよからぬ予感が頭をよぎり、荷物を背負って、遠くからでは暗くてそれが定かであるかが分からないトイレへと走って向かった。
「あの…本当にもう行かないと…」
街灯の光が届かない暗闇の中からそんな彼女の声が聞こえてくる。急いで近づくにつれ、月明かりに照らされて姿がほんのりと浮かび上がる。トイレに背を向けてたじろぐ彼女の前には、二人の男が立ち塞がっていた。
「いいじゃん、こんな時間に外にいるんだから、帰りを待ってる人なんていないんでしょ?」
「ご飯奢るからさ、ちょっと付き合ってよ」
二人に言い寄られ、強く言い返せない彼女を目の当たりにし、これが護衛を頼んだ理由なのかと納得する。荒い息をゆっくりと整えながら二人の男の後ろに立つ。エルピスは暗い中でも私の姿を捉えたのか、ほんのりと目に光が宿ったような気がした。
「エルピス?どうしたんだ?」
二人の男が私の声に反応し、後ろを振り向いたところで彼女がその隙を見て私に飛び込んでくる。ふわりと香るシャンプーや女性特有の甘い匂いが鼻腔にも飛び込んできた。
「こ…こういう関係ですので!」
私の服をぎゅっと掴んだまま顔を赤く染めあげ、ぐるぐると回る目で男たちに振り向く。そんな彼女に合わせるべく、遠慮しがちに身体に手を添えて抱き寄せる。いくら仕事上仕方ないと言えど、罪悪感と気恥しさの感情が入り交じってこちらまで顔が熱くなってしまう。
「それにしては不馴れなように見えるけど?」
「そんな小さくて弱そうなヤツより、俺たちの方が何倍も良くない?」
今日初めて会ったのはお互い同じ。図体だけ見れば確かに向こうは私よりも身長が十センチ以上も高く、服の上からでも鍛えられた筋肉を持っていることが分かる。
「…そんなことありません」
相手と見比べてひ弱に見える自分に半ば諦めながら残念がる中、彼女が痙攣させるほどに手に力を込めて牙をむき出す。
「確かに貴方達はこの人よりいい体つきをしています。でも貴方達の魅力はそれだけです。乱暴で傲慢な貴方達にこれ以外の魅力があるとは到底思えません!」
キッパリと言い放つ勇敢なエルピスに男たちはニヤリと笑い、彼女の肩へと手を伸ばしてその剛腕で掴む。
「痛っ…!」
「ならこれからたっぷり俺たちの魅力教えてあげるからおいでよ、そんな子供からじゃ感じられないような大人の魅力を見せてあげるからさ…!」
「そうそう、自分で言うのも何だけど、これでも結構モテる方なんだよ…?それだけ俺たちに魅力があるって事。だから今夜はお試しでさ、付き合ってよ」
男たちはエルピスを力づくで引っ張るも、彼女は私の服にしがみついて抵抗する。護衛の使命感に駆られたからか、それとも単に見下されてこの二人に腹が立ったのか、引き剥がそうと男の腕を掴んでいた。
「…離せよ、痛がってるだろ」
掴む手に力を込めて男たちを睨む。ひ弱な私の力は鍛えられた腕を締め付けられるような力には及ばず、男は何事もないかのように余裕の表情を見せていた。
「おぉ?ヒーローごっこか?正義の味方面していいとこ見せようってのか」
「ごっこ遊びは他所でやりな、俺たち大人はお前のようなガキに付き合ってる暇はねぇんだよ」
男たちは自らを強く見せようと見下し続けては高らかに笑い声をあげる。弱い犬ほどよく吠えるとはこの事だったのかと呆れて私も鼻で笑ってしまった。
「自分の欲のために力づくで奪うなんて大層な大人サマなんだな。こんな大人サマが大人を名乗るのなら、私は…”俺”は一生子供として見られても構わない!」
決意と怒りが力となって腕に流れ込み、掴んでいる男の一の腕を肩までかけて氷漬けにしていた。
「な…なんだこれ…!てめぇ!!」
エルピスの肩を掴んでいた男が動揺の後に激昂する。伸ばしたまま氷漬けにされた腕をそのままに彼女を手放して怒りに身を任せたまま、自由に動く左腕で殴り掛かった。
解放された彼女に巻き添えを喰らわせる訳にも行かず、恐れを承知で彼女を抱き寄せて庇い、男の拳を背中で受けた。
金属越しに軽い衝撃が背中に伝わる。男は勢いを乗せて金属を殴った反動で手を痛め、外気で冷やすように振り払う。今度はそれを見たもう一人の男が剣を奪い取ろうと、視界の端で手を伸ばしていた。
大切な剣を他人の手に渡らせないようエルピスから手を離し、柄を先に握って振り向きざまに左手に力を込め、手のひらに空気を集めて男の腹部に当てて風として押し出す。ほんの数十センチ、この僅かな隙を逃さずに後ろで驚嘆に目を白黒させる彼女の手を引いた。
「エルピス!逃げるぞ!」
「は…はい!」
呼び声に我を取り戻した彼女の返事を聞く前にはもう走り出していた。一瞬だけ遅れて走る彼女を転ばせてしまわないよう、無駄に諦めの悪い男たちに捕まらないよう街灯が照らす歩道を宛もなく進む。この方向が彼女が行きたい場所に繋がっているかなどは今はどうでもよかった。
「ら…ラクイラさん…ほんの少し…スピードを落としてくれませんか…」
荒く息を切らし、苦しげに言うエルピスに振り向くと、彼女は右手で脇腹を抑えていた。さらに後ろに目を向けると、もうすぐそこまでという距離にまで縮まってしまっていた。
性懲りも無く追いかけてくる彼らを何とか突き放すべく、一度その場で立ち止まって彼女の前で腰を下ろし、背負う体勢をとった。
「乗って!」
「えっ、ええ!?」
「早く!」
「ううぅ…!」
彼女は思い切って私の背中へと飛び乗り、腕を首前に回す。決して軽いとは思わない体重を感じたところで走り出し、自身を対象に能力を使用する。
(物質速度変化を自身に使用!移動速度…二倍速!)
地面を強く蹴り、風を切って市街地を駆ける。飲み屋街のような賑わいはここにはなく、家々のカーテンからこぼれる静かな暖かい光が月明かりや街灯と共に道を照らしていた。
「あははは!はやぁぁぁい!」
初めてジェットコースターに乗った恐れ知らずの子供のようにはしゃぐ彼女に、またどこか懐かしさを感じる。思えば、この重さもまた不思議と心地が良かった。
「喋ってると舌噛むぞ!」
「はぁぁい!」
彼女は素直に受け入れ、静かに背に体を密着させた。彼女とはまた別の甘い香りが嗅覚を刺激させる。
次に後ろを振り向いた時には、いつからか男たちの姿は消えていた。静かだった市街地も徐々に繁栄を取り戻し、大通りに並ぶ小店や高く聳え立つビルが散見され、車のエンジン音や音響式信号機、街ゆく人々の様々な声色が賑やかさを象徴させていた。
「…その…さっきはごめんなさい」
あれから降りようとはせず、意気消沈とする彼女の声もまた、この街の要素の一つとして微小ながらも混成していた。