新・あの頃の続き
「カルミア……エルピス…」
確かに彼女はそう名乗った。エルピスは確か希望、カルミアは…花言葉が「裏切り」だったか。いつぞやにナズナが言っていたのを覚えていた。
「何か…引っかかることでもありましたか?」
「カルミアの花言葉って…裏切りだったような気がして…」
エルピスは大きく目を見開いて硬直する。そして焦点が定まったところで一筋の汗を流した。
「えっ…あっ!カルミアの花言葉には確かに裏切りというものもありますが、『大きな希望』という花言葉もあるんですよ!」
「そう…なのか…」
花言葉に学が通じている訳ではないが、ほとんどの花が花言葉を複数有していることは知っていた。カルミアも例に漏れないらしく、ここで無闇に疑っても神経をすり減らしてしまうだけで、素直に受け止めた。
「あまり疑われたくは無いので…えへへ、信じてくれると嬉しいです」
彼女はそう言って失笑する。カルミアの花言葉が裏切りもあると言うだけで彼女を疑う理由にはならず、今は彼女の護衛を遂行するだけだった。
「やっぱり、こうして誰かがいてくれると思うだけで…なんだか心強いです」
「…さっきは一人で大丈夫だって言ってたのに」
「うぐっ…べ…別に…寂しく無くなったって意味じゃないんですからね!」
「はいはい」
見栄を張るように胸を張って歩く彼女に向かって苦笑いを飛ばす。気づけば住宅街から商業用施設が立ち並ぶオフィス街へと表情が変わり、その一端にギラギラと夜を眩しく彩るネオンの看板が飲み屋通りの入口を飾っていた。
「あっ、こっちです。ここを過ぎてしまうと道が分からなくなってしまいます」
エルピスはそう言って飲み屋通りへと入っていく。仕事帰りの会社員や、既に出来上がっている大人達の人混みの中、こちらを気遣わずに先に進む彼女から目を離さずに追いかけた。
ガラスジョッキをぶつけ合って乾杯する客たちで賑わっている飲食店の前にエルピスは立ち止まる。店の中へと客が流れて行き、彼女の横に立つ頃には人混みからは解放されていた。
「…血の匂いがします」
人混みから抜ける時に余計な体力を使って息切れを起こしてしまい、膝に手をついて地面に向かって荒い呼吸をする中、エルピスは辺りのネオン看板や飲食店の外装を見渡していた。
「血の匂い…?」
呼吸を整えて鼻呼吸をするも、飲食店から流れてくる料理の匂いと頭がクラクラしてしまうほどの酒の匂いしか漂って来なかった。きっと気の所為だろうし、今の私たちにはあまり関係の無いことだろうと肩を竦めた。
「こっちです!」
臭いの元を嗅ぎ出したであろう彼女が私の腕を千切ってしまいそうなほどに強く引っ張る。私が逃げてしまわないように細い両腕でがっちりと絡め、体勢を崩しながら歩く私を路地裏の入口へと誘拐して行った。飲食店同士の間にある、人二人が通るのがやっとなこの路地裏からは、確かに、私でも分かるような血の匂いが、腐乱臭が漂っていた。
「うぅ…やっぱりすごい臭いですね」
自分から飛び込んでおきながらこの酷い臭いに鼻を塞ぐ彼女に呆れてため息が出てしまう。鼻を摘んでいても隙間から入ってしまうのか、奥へ歩を進める度に吐き気が込み上げる。
「なぁエルピス…なんでこんな所に…」
彼女はほんの少し間を置いてから答えた。
「…何故なんでしょうね、体が勝手にそうさせるんです」
奥へと進んでいくと、そろそろ料理の匂いや酒の匂いでは誤魔化しきれないほどの悪臭がこの場を支配する。そんな中、ローブを深く被ってその姿を見せない人型があった。さらに奥からは肉を切り落とすような音が、叫び声とともに聞こえてきていた。
よからぬ未来が脳裏をよぎり、エルピスとともに足音を極力殺してローブを被っている人へと近づく。
「ここで何をしているんですか?」
「なんだか嫌な予感がする。早くここから離れた方がいい」
膝を抱えて座っているその人物と目線を合わせ、肉を断っている人物に聞こえないように声を殺す。啜り泣いている彼女はローブの影からこちらを見上げ、絶望に塗れた表情で大粒の涙を流し出した。
「に…人間…!?」
喉が潰されているかのような掠れた声にエルピスと顔を見合せ、薄汚れた汚臭のする布切れを取る。影の向こうには、顔立ちは人間そのものでありながらも、紫色の肌をした、痣や傷跡だらけの人間ではない生物がそこにいた。
「嫌だ…嫌だ…!まだ死にたくない…!殺さないでください…お願いします…!まだ満足していないのですか…!」
彼女は再び布切れを深く被り、大粒の涙を流しながら潰れた声で啜り泣く。ジャラジャラと音を立てるものに目を向けると、どこかへと繋がる鎖が彼女の首と片足を縛っていた。
彼女の素性もどんな境遇に置かれているかも分からない。落ちゆく涙が情に訴えられたからか、私の右手は彼女の首元にある鎖へと伸びていた。
「あ…あぁ……嫌…殺さないでください…!」
「大丈夫…じっとしてて」
大きく首を振ってもがこうとする彼女を決して押さえつけたりはせず、強く縛る冷たい鎖へと手が触れる。
「…『存在消滅』」
右足を縛っていた鎖も左手で触れ、縛る鎖を両方同時に消し去る。解放されてもなお逃げ出そうとはせず、さらに身体を震わせて死が訪れるのを待っていた。
「君を殺しなんかしない。逃げていいよ」
喉を潰され、こうも身体中を痣だらけにされてしまったことで容易に信じられなくなってしまっているのだろう。顔を隠し、膝を寄せて強く震えるだけだった。
「ラクイラさん、もうすぐで解体が終わってしまいます。早くしないとこの子まで…」
いつの間にか奥を見に行っていたエルピスが私の耳にそう囁く。彼女が最後の肉のようで、周囲には千切られた鎖と奥へと続く血痕が散乱している。見てしまったからにはもう無関係ではなくなってしまった。
「はぁ……どうしてこんなことに…」
呆然としながらも、このままでは見過ごせないと彼女を抱き上げてこの場から逃げるよう走り去る。叫び声はとうに途切れ、骨肉を断つ音だけが足音をかき消す。団子のように丸まる彼女はまだ逃げているとは思えないのか、ローブの縁を掴んで異色の肌を隠していた。
「はぁ…はぁ…エルピス…!」
「はい!なんでしょう!」
息を荒く切らしながら飲み屋街の人混みの隙間を縫いながら走り抜ける。呼気混じりに絞り出した声に彼女は涼し気な顔で応答していた。人一人抱えて走るにはやはり辛く、今すぐにでも変わって欲しいくらいに体力が切れてしまっていた。
「行先はこっちで合ってるかな!?」
大きな分かれ道のない一本道の飲み屋街へ入ってきた方向とは反対方向へと走っているような気がするも、同じように見える飲食店が建ち並び、先程も同じような道を通ったかのような感覚に苛まれる。
「合ってます!この飲み屋街を出たら近くに小さな公園があるはずなので、そこで一休みしましょう!」
出口は未だ一向に見えてこない。ギラギラと輝くネオンや電球が高明度高彩度な光で目を潰しにかかる。酒の匂いも相まって、ここにずっと居続けてしまえば脳の一部が破壊されてしまいそうな気がした。
最後の人混みを抜けた時、力づくで引き抜かれたかのように街の外へと放り出されてしまった。エルピスも人混みから抜け出し、ほっと一息、胸をなで下ろしていた。
「ふぅ…何とか今日は無事に抜け出せました…」
今まですぐそこにまで聞こえていた飛び交う雑談の声が今となってはただの雑音のように遠のいていた。
「ちょっと寄り道になってしまいますが、公園で一息つくとしましょう。着いてきてください」
等間隔に置かれた僅かな街灯が照らす下を歩き、ベンチとほんの少しの遊具に街灯のスポットが当てられた公園へと到着する。淡い月明かりが仄かに照らすベンチに座り、ここまでずっと抱えていた彼女を私の横に座らせた。
「少し、御手洗へ行ってきますね」
ベンチに深く腰をかけ、大きくため息をついてダランと腕を垂らしたところでエルピスがそう言い、箱型であることしか分からない建物へと向かい、闇夜に姿を消した。