幻想からの逃避
闇雲に走り続けているところに、気づけば森の中で迷子になっていた。目印も何も無いこの森で、妖精たちの案内もなくたった一人…とっくに森を抜けていたと思っていたが見誤っていた。私が大きくなっても、この森はそれよりもずっと広かった。
葉草を踏み潰す音だけに耳を塞がれながら外をめざして奥へと歩いていくと、この森の中には届かないはずの太陽の光が木々の間から漏れている場所が見えてきた。外の景色がようやく拝めると走り出し、陽の光を浴びると、そこはどうにも見覚えがある場所だった。
「…翡翠色の…龍…」
そこにはいないはずの姿が幻覚として投影される。十年前のあの日、私とあの子が初めて出会った場所。そして師匠に助けられた場所。この出会いがなければ、きっと私は悲しまずに最期を迎えられたのだろう。きっと、受け入れられなかったのだろう。
木々が折り倒され、荒れたままのこの土地に別れを告げて外へと向かう。十年前と何も変わっていなければ、ここから踵を返して真っ直ぐ進むだけで帰れるはずだった。
何度も木の根に足を取られながらも再び日の目を浴びる。あの子を傷つけてしまった罪悪感に心を蝕まれ、妖精たちへの憎悪に染め上げられる。
「…帰ろう」
この醜悪な森から目を背け、師匠の元へ帰るための木札を、お守り代わりに忍ばせていた浴衣の中から取り出しては陽の光に掲げる。木札は光に焼かれ、燃え尽きさせることなく炎が分散し、この穢れた体を浄化させずに剣聖シエラの元へと向かわせる。炎の壁が晴れ、雪化粧をした社作りの建造物を前にして、積雪に足跡を残す。
標高千数百メートル、寒空の下に吐息を零すと白い靄となっては消えていく。木造の橋を渡り歩き、肩や頭に積もった降雪を振り払って社殿の中へと入るための重い木造扉を押し開く。この扉を境に中からは囲炉裏、外からは雪天との寒暖が肌に感じられた。
「…寒いから早く閉めてくれる?」
私の帰りを待ち侘びていない冷酷な声に従い、木扉を押し閉じて靴の雪を蹴り払う。部屋の中央に置かれた囲炉裏の前には、こちらに背を向けて胡座を組み、中の鍋をかき混ぜている、黄金色の髪をした女性がこちらに振り向かずにただそこに居た。
「…戻りました、師匠」
その人は何も応えることなく、小さく頷くだけ。雪に濡れた靴を脱ぎ、居間と玄関との境の段差を上り、フローリングでは無い木の床を静かに軋ませながら歩く。そして彼女の数歩後ろで正座を組み、腰に提げた二本の刀の紐を解き、無駄な音を立てずに横向きに私の前に置いた。
「…随分と早かったじゃない」
この人の弟子になっているのは私一人、さらにはここを訪れるのも私一人、客人など全くと言っていいほど来ない、故に彼女は私の顔を見ずとも私が来たということを察知していた。
「今までは私が呼ばないと帰ってこなかったのに、今夜は吹雪かしらね」
冗談で言っているであろうその言葉には、冷徹さしか感じられず、笑気が混じっているとは到底思えなかった。私は何も言えず、両手を床に着けて頭を下げるだけだった。
「もう旅はいいの?」
「…この刀を返しに来ました」
彼女は玉じゃくしを鍋の中に置き、背後の二本の刀の紐を握って持ち上げ、奥へと歩き出した。
「…お世話になりました」
私の仇討ちは自衛のためでしかないことを気付かされた。ならばこの十年間は一体なんだったのだろうか、そう思ってしまうだけであの時死んでしまっていれば良かったなんて思い詰める。
「…外、寒かったでしょ」
別れを告げ、もう関われないと立ち上がろうとした時、背中に温められた毛布がかけられる。体を起こし、肩まで羽織り、囲炉裏の熱と毛布の温もりを肌で感じる。部屋の隅にはあの二本の刀が飾られ、私の隣には師匠が私を見下ろしている。気配の移動を感じさせない師匠はやはり師匠だった、
「はい…でも…」
「いつ帰ってくるかわかんないから、作りすぎちゃって食べきれないのよね」
師匠は少食で、半人分で満腹になるほど。大して私は師匠の二倍三倍を容易く平らげる。囲炉裏で温められている鍋には山菜や獣の肉が押し込まれ、グツグツと煮え立っている。火種の近くには、川魚が竹串に貫かれて焼かれている。雪から上がった後にそれを見ては腹が鳴ってしまう。師匠は木の器に玉じゃくしでよそい入れ、箸とともに私の前に置いた。
「飯の時間にしましょ、まだ話してない旅の話、肴にさせて頂戴」
師匠はそう言い、鍋の向こう側に座った。私は彼女と向かい合って胡座を組み、肉と野菜が入った椀を持って冷えた体に出汁を流し込んだ。
「…こうして囲むのも久しぶりね、この前呼び出した時なんか顔を見せてすぐに出て行っちゃって飯を共にすることも出来なかった。まぁ…数日経って戻ってきたから安心してるんだけど…何があったの?」
師匠は自分の椀に野菜を入れながら訊く。私は箸で肉を掴んで口へ運ぼうとしたところで止めて、あの森であったことを思い出させた。
「翡翠色の龍に…出会いました」
彼女は出汁を啜りながら目を見開き、椀の傾きを戻して膝を進めてきた。
「あの龍に…!?よく生きて帰ってこれたわね」
安堵の溜息を零し、私の表情を伺いながら野菜を口へ運ぶ彼女を見て、悔しさに震えて涙が溢れてきた。
「あの龍を殺すことで私の目的も果たされ、力の証明になると思ってました…」
「…十年前…私がアサネを拾うキッカケになったあの龍ね」
「はい…ですがあの龍を殺してはいけなかった…殺してしまったら…一生後悔してしまうところでした」
「なぜ…?だってあの龍は貴女の仇のはず…」
「あの龍は…!あの子は…無実の人間だからです…!そして私は…その子を傷つけてしまった…私は罪を背負ったんです。それだけのことをしてしまったんです」
「だから…出ていこうとしたってわけね…はぁ」
師匠は大きく呆れるように溜息をつき、椀を持ったまま私の隣へとにじり寄り、毛布の横端を奪い取って自分に羽織らせた。
「私だって間違いを犯すことだってある。剣聖と呼ばれるようになるまで悪とされていた人たちを断罪し続けた。それが正しいと思っているのは世論だけで、私はそうは思っていない。剣聖と呼ばれるよになってからこうして隠居して考える時間ができた。その結果、悪もまた一つの正しさなんだと結論をつけたのよ。そう思ってからこれまでの行いを考えるとね、多分、私は間違っていたのよ。本当にやるべきなのは、世論から見た相手の悪を尊重して実現させることなのかもしれないわ。でもそんなのは理想郷じゃないと叶わない、だからこの世界には正誤善悪なんて判断があって、粛清や執行なんてものがあるのかもしれないわね」
師匠の言いたいことはまだ分からない。それは私が世論だからなのかもしれない。私もいつか沢山の善悪を知ったら、師匠のような自分だけの考えを持てるのかもしれない。そう思うと、なんだか世論に流されるだけの自分が間違っているような気がして、私がしたことも間違っているように思えてきた。
「とりあえず、私が言いたいのは…行かないで」
横目に映った師匠の横顔は、私よりもよっぽど大人だとは思えないほどに寂しげに見え、これまでに見た彼女の顔の中で一番弱く見えた。恐れ多いとわかってもなお、胸を打たれ、触れ合うまで彼女に肩を寄せていた。
「私と師匠、どちらが子供なんですかね」
雲が晴れたかのように笑を零し、椀の中の獣の肉を頬張る。煮込みすぎて少し固くなっていたが、味が染みているわけでもないが、それがどうにも美味しくて、温かかった。
「それはもちろんアサネよ。私の言うこと聞かないで旅に出るなんて言い出すんだから」
「寂しがりな師匠に言われては説得力がありませんよ。『寂しいから行かないで』にしか聞こえません」
「事実を言っただけよ!私より強い剣士なんかいないんだから私を相手にした方が成長できるの!」
「師匠が強すぎて参考になりませんもん!だから旅に出て少しずつ強くなろうとしたのに!」
「ならなんで早く帰ってきたのよ!」
「師匠に鍛え直して貰うためです!」
言い争いの末、彼女の顔に熱が篭もる。囲炉裏に当てられ火照って来たからか、鍋を食して温まったからか、言い争って頭に血が上ったからか、いずれにせよ、私はこのやり取りが好きだった。
「ふ、ふぅん…ならまた基礎から叩き込んでやってあげるんだから!飯食ったら滝行よ!」
「こんな雪の中で!?殺す気ですか!」
「寒気で死なないための修行よ!ヤバくなったら引きずり出してあげるから!」
それから少しの間が空き、二人顔を見合わせてクスリと笑い、毛布に包まりながら鍋な中へ箸を伸ばした。
「師匠もっと食べてください」
「アサネはもう少し食べる量を考えなさい」
「もっとお肉食べましょうよ、大きくなれませんよ」
「あんたは野菜も食べなさい、肉ばっか食ってるからそんな贅肉がつくのよ」