童話のような幻想
近くに流れていた川で吐き気が限界点に達し、胃酸と共に昨晩食べたものを全て吐き出した。清流に流され行くそれは霞むように色が薄れ、潤む視界の中で消えていった。
近くの木にもたれかかり、口に跳ねた嘔吐物を袖で拭って座り込んだ。それからもう立とうという気は起こらず、太陽の光を遮る木が伸びる先を見上げた。
「なんでなのかな…」
ついさっき聞いた音を思い出し、そこから情景を浮かべる。最後に見たのは、妖精の女王がニロという妖精の体を両手で握る場面、そこからママに視界を遮られ、両耳を塞がれた。それでも外の音は聞こえていた。握られたものが容易く潰される音が、肉骨を叫声が絶えるまで潰す音が…
「リオンちゃん…」
未来では居たはずの妖精の名を口にするも、風の音によって木霊することなく流されていく。当然この声を捕まえてくれる人はいなかった。
「人間様?どうしたの?」
膝を曲げ、閉じこもるように顔を伏せていると、聞き覚えのある声が聞こえてくる。どうしても顔を向ける気力が湧かず、そのまま首を横に振った。
「ううん…ちょっと…嫌なものを見ただけ…」
出来れば一人にさせて欲しくて、抽象的なことだけを話すも、逆に興味を引かせてしまったようで、ヒラヒラと羽音を立てながら近づき、私の腕の上へと降り立った。
「妖精の森で嫌なものって何?赤いキノコ?黄色い虫の巣?青い草?」
「……赤い水かな…」
直ぐに消えることの無い赤い水、それが一体なんなのか理解出来たか否か、妖精は「そっか…」と心底残念そうに吐いてから飛び上がった。
「そんな人間様に見せたいものがあるんだ!」
「今は見たくないよ…」
どうしても今は一人にさせて欲しくて、泣きたくて、彼女の誘いを断るも、私の指を引っ張って無理矢理にでも連れていこうとしていた。数十倍もある体格差や力量差があり、振りほどこうと思えば今すぐにでも可能ではある。しかしながらその気はおきなかった。
「おーねーがーいー!また一人妖精が生まれたの!」
「良かったね…って…えっ!?」
妖精は満月の日に生まれる。昨晩そう言っていたはず、確かに昨日の夜は満月で、ニロちゃんが、十年ぶりに妖精が生まれた。今日は満月の次の日、さらに言うなれば、まだ夜ではない。ありえない状況が今持ちかけられていた。
「みんなも妖精の聖域に向かってるの!だから人間様も来て!」
妖精達の生命現象にズレが生じてしまったのか、ありえない状況下で生まれたその妖精は、もしかしたら本当の奇跡の妖精なのかもしれない。そんな期待が胸の中で膨らみ始め、吐き気などとうに収まり、寄りかかっていた木を支えに立ち上がっては走り出した。
「待ってよ人間様ー!」
好奇心の向こう側、希望に近いものが胸の中を埋めつくした。妖精達の村へ入った時、彼らの姿を隠す光の存在は見当たらず、本当に生まれたのだと確信する。さらに胸が踊り、ノートリアちゃんの追いつこうと急かす羽音を聞きながら聖域へと向かった。
洞穴へと入り、最奥にある、この森の中で唯一の光が届く場所へと入る。まだその姿を見せていない妖精達の間を潜り、昨晩にニロちゃんが生まれた白い花へと目を向けると、短くて黒い髪に白い布で前身を覆い隠し、太陽に照らされて虹色に輝く四枚の羽を広げた人間が立っていた。彼女は私の到着とほぼ同時にこちらへと振り向き、その顔を見せる。つい一時間近く前に姿を消した、ニロちゃんと全く同じもので、私が未来で見た妖精…リオンちゃんそのものだった。
「…人間…?」
彼女が私を見て呟いた時、いてもたってもいられなくて、彼女の元へ走り出しては飛びついていた。驚きの表情を見せた直後、嫌がることなく受け入れてくれていた。
「…そっか…女王は…私にそんな名前をつけようとしていたんだね」
この声が心地良い、この話し方が心地良い、この時代で求めていたものが、ようやく目の前にやってきた。
「…奇跡なんて当人が起こすもの。だから奇跡は起こるのを待つんじゃない、起こすもの」
未来での彼女の口癖が骨身に染み渡り、早く時が流れてしまわないかと期待する。
「…奇跡なんて当人以外の人が騒ぎ立てるもの。だから奇跡は…必然なんだよ」
未来でも、この時代でも、やはり理解は出来なかった。この圧倒的に矛盾した彼女の奇跡論が…ゼロか百しか見えていない彼女の価値観が、懐かしかった。
「でもこれだけは言わせて…アリス」
名乗っていないのに私の名を呼ぶ。思わず体をビクつかせ、彼女の顔を見上げると、私に微笑みかけていた。
「奇跡の妖精リオン、生まれちゃいましたよ」
彼女は私と額を合わせ、ほんのりと赤く染められた顔を見つめると、まるで自分がそうするべきであったと、なんの躊躇いもなく微笑みながら私の顔を引き寄せ、そして口付けを交わした。
「これで…私はアリスのものだよ」
「どう…して…」
猛ってしまった感情を押さえ込み、彼女から目を逸らして口元を袖で隠す。目を合わせようとするも、先程のことが脳裏に刻まれ、直視出来なくなってしまった。
「どうしてって…何が?私がこうしたこと?君のことを知っていること?それとも…私とあの子が同じ顔をしていること?」
最後の一言に体が反応し、目を見開く。ゆっくりと視線を動かすと、彼女は真剣な眼差しを向けていた。
「ふふっ、図星なんだね…でも、教えてあげない。アリスが隠していることを教えてくれるまで私は私のことについて話さないよ」
「なんの…話し…?」
「分からない?自分のことなのに…でも教えてくれなくてもいいよ…私はアリスのもの、幻想は人間が生み出したもの、人間たちにとって私たちは都合のいい存在なんだから」
ようやく気づいた。先程の口付けは忠義から来るものでもなんでもない。私に対する疑念を確信へと変えるため、看破するものだったと。
「…アリス、そんな闇に埋もれた目をしないで、決して君のことが嫌いって訳ではないの」
「なら…これだけは教えて…」
ゆっくりと恥辱を振り払いながら彼女へ視線を刺す。知られたくなかったことを知られて怒れないはずがなかった。
「私のこと…どこまで知ったの…!」
彼女は一時だけ呆気に取られたような表情を向け、間もなくして口を開いた。
「…アリスが隠していることまでだよ」
「全部知ってるってこと…!?」
ありえない。そんな単語が頭の中を埋め尽くす。私の嘘が、全て彼女に筒抜けになってしまった。もうあの時に戻れそうにはなかった。
「でも、安心して、言いふらす気は一切ないから」
「私の全てを知られて…信じてって言うの…?」
「いいや、君は信じる。さっきも言ったけど…私はアリスのものだから」
やはり私は彼女には敵わない。全てを見抜かれ、私の自由が彼女の手の中に収められてしまった。だから私は信じるしか無かった。
「…わかった…なら、リオンちゃんからは干渉してこないで…私がケリをつけることだから…!」
私は彼女へ剣幕を向ける。今すぐにでも殺したい。でも、まだ早い。この苛立ちを抑えようとする頃には、リオンちゃんの私より一回り大きな体を抱きしめていた。
「…よしよし…アリスは何も悪くない…」
彼女の愛撫に少しずつ悲哀が湧き上がる。温かい、優しい、我慢できない、我慢したくない。そう思った時には既に目の前がぐちゃぐちゃに歪んでいた。
「女王のところに行くのはいいや…妖精のルールなんてどうでもいい…私はもう…アリスのものだし、女王は嫌いだから…これからよろしくね…アリス」
やはり懐かしい、心地がいい。彼女の私を呼ぶ声に、無意識に頷いていた。
「…うん…!」