ご主人様
今、私は司書として失格であることをしている。お客様がいるにも関わらず、あの方の姿を目に留めておきたいと地下に降りている。職務放棄と言われればその通り、言い返すことすらしないほどに自覚していた。
この図書館に迷い込んできた白猫と共に明かりがない階段を降りる。もうこの階段は踏み慣れていた。
数十段もある階段を下り終え、平坦な道が前方へ続く。ここは地下にある資料館とはまた別に作られた隠し部屋…ここには数々の機械が並べられ、そのどれもが休むことなく稼働し続けている。たった一人の人間のために。
「もうしばらくお待ちください…ご主人様」
正面にある液体に満ちたカプセルに手を触れ、響かないように小さくつぶやいた。ライトがカプセルの中全体を照らし、腐敗が全く進んでないことが確認できた。
足元にいる猫が私の足に自身の体を擦り付けて来る。どうやらこの猫は思い出に浸らせたいようで、あの時の記憶が呼び起こされてきた。
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まだご主人様…ヴィオリと出会ってからそう間もない頃、彼は私と仲を深めたいからか、様々な本を持ち出しては私に勧めたり、スキンシップを図ったりすることが多かった。今となっては当時の無愛想な態度を悔やんでいる。
私が呼び起こされた記憶は、何年かぶりに体調を崩してしまった日のことだった。普段であれば、早朝から体を起こし、図書館の周辺や一階の掃除、新しく製作された本の整理を行っていた。しかし、当時は、どんなに体にムチを打っても出来ないほどに体が弱っていた。
自室で苦しむだけだった所に部屋のドアが叩かれる。当然起き上がることも、すぐに返事をすることも出来ず、ドアは私の返事を待たずに間もなくして開かれた。入ってきたのはもちろんご主人様。私は顔を動かすことすら叶わず、天井にある模様を眺めているだけだった。
「アラリカ、大丈夫?」
当時の私はまだご主人様との仲を築いている途中で、気遣いの言葉も思いつかずに返答に困った事を未だに覚えている。
「大丈夫に…見えますか…?」
熱の篭った息を吐きながら声を絞り出す。今着ている服を全て脱ぎてたくなるほどに全身が熱く、どんなに暖かい毛布をかけられたとしても寒かった。
「きっと…急な環境変化や、蓄積された疲れ、ストレスに耐えきれなかったんだろうね…」
ご主人様は私の額に冷たい手を当ててそう言う。火照った顔にその冷たさはとても気持ちよく、氷枕よりも安心できるものだった。
「すごい熱いな…ちょっとまってて、冷やすものとか持ってくるから」
彼はそう言い残して足早に部屋を後にした。
「…私の事なんて放っておけばいいのに…」
私はヴィオリの奴隷としてここに置かれている。それなのにご主人様は、私をこき使うどころか、丁重に扱い、今のように気にかけてくれていた。なぜそうするのか、理解できなかった。
しばらくしてご主人様が息を切らして帰ってくる。私の視界に入ってくる彼の両腕には、ペットボトルに入れられた水と、湿ったタオルが抱えられていた。
「体、起こせる?」
「…出来ません…」
力を入れようと試みるも、声を絞り出すのが精一杯だった。ご主人様はそんな私を抱き起こし、ペットボトルの蓋を開け、ストローを刺して私の口元に持ってきた。
「少し飲んで」
口を開き、ストローを口に入れて吸い込む。冷たすぎない水が喉を通り、少しずつ冷やされていく感覚が広がっていく。ボトルの四分の一程を飲み終えたところで口を離すと、ご主人様はベッドの隣にある机にペットボトルを置いた。
「汗もかいただろう…服…脱がせてもいいかな?」
服が肌にベッタリと密着する不快感に蝕まれ、拒否することができず、恥ずかしさも一切感じずに頷いた。
ご主人様は躊躇なくゆっくりとボタンを外し、上下の服を脱がせる。下着姿となった私は何も思うことなく、固く絞った濡れタオルで汗を拭かれていた。下半身もやってもらうと、気づけば不快感は無くなり、少しだけ楽になった。
「それじゃ…ゆっくり休むんだよ」
替えの服まで着せてもらい、そのまま私と目を合わせることなく、出ていこうとするご主人様に、楽になった体にムチを打って力を入れて袖を掴んだ。
「待って…ください…」
ご主人様は私の手を振りほどくことなくその場に佇んでいた。
「やるなら…治るまで…看病してください…」
今思うと、当時は弱っていたとしても、とても恥ずかしいことを言ってしまっていたことだろう。その時のご主人様はひどく動揺していた。
「わ、分かった…」
ご主人様は机とセットになっている椅子をベッドのそばに置き、そこに座る。そして、私はご主人様に見下ろされながら眠りについた。
どれほど眠っていたのか、次に目を覚ました時には、ご主人様は私の手を優しく繋ぎながら寝息を立てていた。冷えた空気が肌を撫でるようになびき、このままでは彼も風邪をひいてしまうとベッドへと引き込み、肌を密着させるという古典的な方法で温めながら再び眠りについた。
数日後、私が快復した代わりにご主人様の体調が悪くなった。
私にはこの時の対象法が分からず、ご主人様をベッドから動かさないよう押さえつけるだけだったものの、彼が私にしてくれたことを思い出し、水を飲ませ、体を濡れタオルで拭き、手を繋いで同じベッドで眠りについた。
翌日、これだけでは足りなかったからか、ご主人様の容態が悪化した。体温は上がり、呼吸は荒くなり、咳の頻度も増していた。そのさらに翌日、私がご主人様の後に目を覚ますと、真っ白な布団の上には鮮血の跡ができていた。
隣に誰もいないことを瞬時に理解してベッドから飛び起きて走り出す。図書館の一階へと降り、あの場所へ向かうと、ご主人様が何事もなかったかのように、椅子に座って本を読んでいた。
ご主人様は私がそこにいると気づいたからか、顔を上げ、私を見て微笑んだ。その表情にどこか安心しつつも、今朝のあの赤いシミが気になって仕方がなかった。
本を整理しつつ、医療についての本を漁った。当然のように専門用語の羅列で意味が理解できず、ここで私の無力を痛感した。
翌日、ご主人様は何事もなく起き上がった。新しい物に替えた布団に血の跡はなく、昨日見たものは幻覚のように思えてきた。
「アラリカ、こっち来てくれるかな」
いつものように掃除や整理をしていると、いつもの場所からご主人様が私の名を呼んだ。今手に持っているものを机の上に置き、駆け足で司書のデスクへと向かう。
本棚の迷路を抜けて駆けつけると、ご主人様は私が立ち止まる前に立ち上がり、私に向かって歩き出す。そしてそのまま立ち止まることなく、私より一回り大きい体で抱き寄せてきた。
「なに…して…」
あまりに突然なことで理解が追いつかず、戸惑いながら聞く。
「看病してくれてありがとう…心配させたみたいでごめんね…」
ご主人様は私に感謝と謝罪を述べる。私は何も出来ていないのに、なぜ感謝されるのか、謝罪されるのか、わからなかった。
頭を撫でられ、背中を摩られ、猫がマーキングをするように、ご主人様の胸に頬を擦り付ける。ドクンドクンと心臓が脈打つ音が聞こえ、生きているのだと感じる。とても暖かく、心地よかった。
翌日、ご主人様のベッドの上で目を覚ますと、新しく替えたはずの布団には、また赤いシミができていた。そこにご主人様の姿はなく、部屋を飛び出す。司書のデスクに向かっても彼の姿はなく、図書館の中を走り回って探すと、不自然に本棚が横にズレている場所があった。壁に接しているその本棚に手をかけて動かそうとすると、本が敷きつめられている見た目に反してとても軽く、引き戸を動かすように横に動かす。
本棚の向こうには暗闇が下へと続き、足元に気をつけながら石階段を降りていく。コツンコツンと響く足音を聞きながら最後の段を降りると、咳き込むような声が聞こえてくる。前方に手を伸ばしながら咳き込む声を頼りに駆け出す。
暗闇の中から小さな光が灯っているのが見えてくると、速度を落とし、大きな機械を前に足を止めた。
「げほっごぼっ…ははっ…見つかってしまったか…」
ベチャベチャッと地面に液体が吐き出される音と共にご主人様が言う。私は彼の前にある大きな機械に目を奪われるだけだった。
「これは…一体…」
「死体の腐敗を遅らせる装置だよ…ここに君を入れて、僕は一人で野垂れ死にするために作ったんだ…」
「なぜそんなことを…!」
「僕のこの病気…君の風邪が移ったんだと思っているんでしょう…?それは事実なんだけど…実は君と出会う前から病気を持っていてね…医者に行く余裕なんてなかったから治せなかったんだよ」
ご主人様はそう言い、再び吐血する。機械から出る光に照らされ、彼の顔が血塗れであることがようやく見れた。口元が赤黒く、服の袖には拭ったような跡があった。
「もしかして…私が…移してしまったから悪化させてしまった…?」
「結果だけ見ればそうなってしまうね…でもそう落ち込む必要は無い…僕が死んでしまえば君はもう自由なんだ…何にも縛られない…正真正銘の自由にね…」
ご主人様はその場で大きく嘔吐し、力が抜けて膝から崩れ落ちた。彼の嘔吐物が衣服に着いても不快だとは思わず、ただただ心配になるだけだった。少しでも目線を合わせようと同様に膝を着くと、ご主人様はポケットから鋭い刃物を取り出し、私に柄を向けて差し出した。
「それを僕に刺してくれないか…どうせ死ぬなら君の手で逝かせて欲しい…」
「なぜ…なぜそんなことを言ってしまうのですか…!今すぐ医者へ走れば間に合うかもしれないんですよ…!」
「言ったじゃないか…もう余裕なんてないんだ…」
「お金なら私が稼ぎますから!」
「お金の問題でもないんだ…単にもう手遅れなんだよ…」
気づけば視界が揺らぎはじめ、彼の笑っている顔すら歪み始めた。
「どうして…そこまで放っておいたのですか!」
「これを…作るためだよ…」
ご主人様の声がだんだんかすれ、弱くなっていく。もう生きていることが不思議な程に吐いている。このままでは彼の願いは叶わない。それでも、私は再び罪を犯したくなかった。
「僕は余生を過ごすために君を買ったんだ…そして僕が死ぬ直前に…君をこれに入れようとこれを作った…」
「理解できません…!納得できません!どうして…どうして!!」
「理解出来るはずがないさ…だってこれは僕の自己満足のためなんだから…」
「嫌だ…嫌です…!一緒に生きましょうよ…」
叶わないわがままだって事は分かっている。それでも、孤独は嫌だった。不幸なのは嫌だった。だから、罪を犯すのは、嫌だった。
「もう時間が無い…これは最初で最期のお願いだ…これで僕を殺して…自由になれ…!」
刃物を押し付けられ、ヴィオリはこちらに飛び込んでくる。鋭い刃物が彼の腹部を刺し、冷たい鮮血が肌に伝わる。ご主人様はとても幸福そうな表情をしていた。
「ごしゅ…じん…さま……?」
私が彼を呼ぶ時にはもう既に冷たくなっていた。私が、私が殺してしまった。いくら他殺を望んでいたとしても、私は罪を犯してしまった。
孤独にひしがれ、望んでいない死体を前に放心する。そんな中、液体が満ちているカプセルを目にして一つの案が浮かんだ。
ご主人様の死体をこのカプセルに入れて蓋を閉じる。一年、十年、百年、何年かかっても構わない。この人を生き返らせるまで、死んでも死にきれない思いで死者蘇生の術が見つかるのを待った。
「貴方の死が私を不幸にさせた…貴方の死が…私に退屈な自由を与えた…」
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今でも私はその術を求めている。どんな代償を払ってでもこの方を生き返らせる。ご主人様と共に生きている未来が見たいから。