回帰
視界が暗転した直後に気づけば灯織の家のリビングの中で、灯織と凪咲の二人に密着するよう挟まれながらソファに座り、テレビ番組を眺めていた。
(嘘だ…二人には咬傷どころか、血色が良すぎる…!)
気づけば私もこの状況で笑っていられるはずもなく、焦点が定まらずに二人の間で震えていた。
「伊黎君?どうしたの?面白くないなら変えてあげよっか」
私の左手側に密着している灯織がそう言いながら目の前のテーブルの上に手を伸ばし、リモコンを手に取っては別のチャンネルに変えた。
「…伊黎?顔色良くないけど…」
二人は私が首を絞めたことを何も言わなかった。こんなにも都合がよく、殺したはずの二人が神様の力なくして生き返るなんて奇跡が起きない限りありえないことだった。
二人からは心地のいい体温が感じられ、心臓の鼓動も感じられる。こんなにも人を恐れたのは初めてだった。凪咲の私の額に触れようとしている手を振り払い、彼女らから急いで離れるようテレビを背に立ち上がった。
「なんで…なんで生きてるんだよ!」
テレビから聞こえるニュースキャスターの声が静寂と化した室内に木霊する中、二人はただ私を見つめていた。
「…何言ってるの?」
静寂を打ち破ったのは凪咲だった。
「あの程度じゃ死なないよ…」
彼女が一歩近づく度に一歩下がろうとするも、テーブルに足が当たり、それ以上下がることができなかった。
とうとうゼロ距離にまで迫られ、柔らかいものが胸下辺りに押し付けられる。その瞬間、脳内でノイズが走り、一瞬だけ視界全体がテレビの砂嵐のようになると、背中に異物を突きつけられていた。
「ねぇ…怖い?」
凪咲は私の衣服の下にそれを潜り込ませ、冷たい感触が襲った。
「冷たいでしょ…金属ってすごい冷たいよね…でも君はすごく温かい…」
いつか自分もこれまでに冷たくなってしまうだろうと考えてしまい、当てられた刃物の部分から背筋が凍ってきた。
「伊黎君…」
今度は灯織が近づき、大きすぎず、小さすぎないものを私の体に押し付ける。
「あの程度じゃダメだよ…やるなら…ちゃんと殺らなきゃ」
彼女は私の首に両手を伸ばし、今にも折ってしまいそうなほどに力を込めた。
呼吸が極端に浅くなり、脳に酸素が回らなくなる。灯織の手の形、凪咲が当てる刃物の大きさがはっきりとした形で感じる。
目の前が真っ暗になりかけたところで灯織の手が離され、凪咲の手が背中から出ていった。
「えへっ♪これくらいやらないと…ダメだからね」
灯織は一時微笑んだかと思いきや、目の光が無くなり、無表情へと変わった。
「…ごめん、帰る…」
二人といると命が危うくなる。そう本能的に理解し、彼女らを押し退けて部屋から、家から、飛び出した。
外に飛び出た瞬間だった。再び目の前が一瞬で暗転し、開けた時にはまた二人の体に挟まれていた。
「伊黎君の家は…ここでしょ?他にどこに帰るって言うの…?」
「もしかして…他の人のところ…?」
今度は両腕でがっしりと捕まれ、振りほどくことが出来ない。仮に逃げられたとしてもすぐにここに戻されてしまう。為す術なく、二人に堕ちるしかなかった。
それから人力で拘束されたまま時を過ごし、気づけば夜になろうとしていた。精神的に疲れ、食欲もないはずなのに腹の音が聞こえてきた。二人もそれに反応し、私の顔を覗き込んできた。
「何食べよっか!」
「伊黎は…確か辛いもの好きだったよね」
一体どこまで知っているのか興味を抱いたが、そんなことを聞いてしまっては時間稼ぎにすらならず、私はただ頷くだけにした。
「それじゃ…確か材料があったはずだから…待っててね!」
灯織がそう言い、ようやく私から腕を離し、顔を横に向ければすぐに見えるキッチンへと向かっていった。凪咲はそれについて行かず、私を独占していた。
「二人きりだね…伊黎…」
灯織が調理器具を棚から取り出し、食材を切り出したところで凪咲が私をソファへ押し倒し、私の体の上に乗ってきた。全身で感じるかのように倒れ込み、私の耳元でそう囁いた。
「中学の頃以来だよね…こうして二人きりになれたの」
灯織に聞こえないように静かに囁く彼女に脳が痺れ、体を震わせた。その姿がどうにも面白かったからか、静かにクスクスと笑った。
「やっぱ…耳弱いんだね」
凪咲はふーっと耳に息を吹きかけ、私の上でうつ伏せに横になったまま、背中に腕を回してきた。
「…大きいね」
彼女にされるがままに体をまさぐられる。灯織はそれに気づくことなく、ただ淡々と調理を進めていた。
「ねぇ…伊黎、私と灯織、どっちが好き?」
これまた灯織に聞こえないように耳元で囁かれる。私はどちらも好きではなく、嫌いでもなかった。ただただ怖かった。
沈黙を貫き、数十分が経つと、コンロの火が止まる音が聞こえ、鼻腔をくすぐる匂いと共に灯織が私たちを食卓に呼んだ。
「伊黎君ー、凪咲ちゃんー、出来上がったよー!」
彼女はこちらに振り向かずに茶碗に白米をよそい、鍋の中のものをおたまで救っては深皿に注いでいた。
「…後でまた聞かせてね」
答えを得られず、不満げだった凪咲は私の首元に口付けをしてからキッチンとリビングの間にある大きなテーブルへと向かっていった。
ソファから起き上がり、その方へ目を向けると、既に二人が椅子に座り、残り一席だけが、凪咲の対面の位置にあった。その椅子へと座ると、目下には真っ赤な麻婆豆腐と白米が置かれていた。
「…いただきます」
手を合わせた後にそう言い、深皿の横にあったレンゲを持って麻婆豆腐を掬い、口へ運んだ。激烈な辛さではないが、自然と米を欲するほどに辛く、一口、また一口と手が進んだ。
「ご馳走様でした…」
気づけばもう深皿の中も無くなり、服が汗でぐっしょりと濡れていた。彼女らもほぼ同じタイミングで食べ終えたからか、火照りすぎた体を冷やすようにコップに並々注がれた水を飲んでいた。
「どう?美味しかった?」
「あ…うん…」
感想を求める灯織の顔を直視できず、反射的に目をそらした。
「汗…かいちゃったね。お風呂も湧いてるから、先入っていいよ」
凪咲に言われ、リビングを出て階段横にある風呂場へと入る。替えの服など当然無く、脱いでその場に置いておくだけで中へと入った。
(少年、一つ聞きたいことがあるんだ)
シャワーヘッドから流れるお湯に当たりながら体を温めていると、神様が語りかけてきた。
(体に異常はないかい?)
彼女らの私に対する挙動から何か入っている可能性はゼロではなかった。その場で両腕を回し、両足を動かし、首を動かすも、特に違和感はなかった。
(まだちょっと辛いだけですかね)
(それならいいんだ…流石にボクも疑いすぎたかな)
それから再び静かになる。
シャンプーとボディソープが入っているであろうボトルがそれぞれあるものの、ラベルが貼っておらず、一体どれが何なのかわからずにそれっぽいもので洗い、お湯で流した後で湯船に浸かった。
(あ…そういえば少年)
肩まで浸かり、あの二人のことを考えていると、神様がまた聞いてきた。
(グローリアちゃんかナズナちゃんから連絡来てないのかい?)
言われてみれば夜になっても帰ってこないとなると、心配して連絡を取ろうとするはず。それなのに上着のポケットに入れて置いた携帯端末に着信は来ていなかった。
(いや…来てないですけど…今日は帰してくれそうにありませんし、連絡しますかね)
(…ボクの用事はやっぱりいいや、そんな重要じゃないし…抜け出せるタイミングで抜け出して、早いところ帰ろう)
神様が静かになったところで浴槽から上がり、バスタオルで身体を拭いてから上着の中にある携帯端末の画面を確認した。同じ番号から不在着信が何十通も来ていた。
付近にあの二人がいないことを確認してから電話をかけた。ニコール、サンコールとしたところで繋がった。
『はい、黒百合です』
名前の無い数列から繋がった人物は黒百合ナズナだった。今思うと、グローリアは携帯電話を持っていなかったような気がしてきた。
「あっもしもし?ナズナ?」
灯織と凪咲に気付かれないように声を抑える。今いる脱衣所に入るためのドアは鍵をかけたため、開けない限り入って来ることは出来ない。
『その声は…ラクイラ様でしょうか?』
『えっラクイラ!?ナズナ!変わって!変わって!』
電話の奥から聞こえてくるグローリアの声に緊張しながら変わるのを待っていると、すぐ近くにいたからか、五秒と経たずに声が変わった。
『ラクイラ!?ねぇラクイラなの!?』
彼女の待ちわびていたかのように喜びを混ぜている声に私も胸が踊り始めた。
「あぁ、ラクイラだ」
それでも声を抑え、電話に気づかれないように注意を払った。
『帰りが遅くて心配してたんだから!今どこにいるのよ!』
「それなんだけど…ちょっと厄介事に巻き込まれて…」
『なら抜け出してでも戻ってきて!あんたが居ないと寒いのよ!』
彼女の喜びと、怒りと、決して寂しいと言わない執念に気圧され、早く帰りたいと思いつつも、原因がそうさせてくれなかった。
「あー…ごめん、それができないんだ…」
『はぁ!?なんで!?』
彼女の反応は至極当然のものだった。しかし、彼女に灯織と凪咲のことをどのように説明したらいいのか全くわからなかった。
「それが…説明しにくくて…」
あの二人のことをどのように説明しようかと考えているうちに、持っていた携帯を抜き取らてしまう。辺りを見渡すと、灯織がいつの間にか脱衣所に入っては私の端末を耳に当てていた。
「どうもこんばんわー…伊黎君の彼女でーす…彼にはもう私がいるので、二度と電話をかけてこないでくださーい」
『えっちょ、待ちなさい!あんた誰』
最後に聞こえたそんなグローリアの声の後に電話が切られ、数回の画面の操作の末に携帯を返された。
灯織によって再起動がかけられたまま返され、その場で操作することが出来ずに灯織と目が合った。
「今の電話、女の人だったよね?誰?」
そこに凪咲の姿はなく、灯織が私に詰め寄る。壁際にまで寄られ、至近距離で目を合わせてきた。
「友達だよ…!」
苦し紛れに目を逸らし、嘘をつくも、彼女に両頬を、押さえられ、無理やり視線を合わせられた。
「それにしては楽しげだったよね…どこの学校?どこに住んでるの?なんて名前??ねぇ、ねぇ!!」
「…黒百合…ナズナ…!」
嘘はついていない。実際にナズナとも話したのだから。
ナズナの名前を出した途端、灯織は満足したからか、私から一歩離れ、「ふぅん」と一言漏らした。
「その人って確か黒百合財閥の社長さんだよね…声は聞いたこと無かったけど…やっぱり女の人だったんだ…」
何とかグローリアの存在だけは隠すことができたようだった。
灯織が脱衣所から出ていき、それについて行くように私も出て端末を確認する。既に再起動は終わっていたようで、電話帳を確認してみると、ナズナの番号が着信拒否の設定にされていた。
迂闊に彼女の前で操作してしまうと勘繰られてしまうため、設定はそのままに上着のポケットの中に入れた。
私がリビングへと戻った後、特に何かをするでもなく、灯織、凪咲の順番に風呂場へと入っていった。凪咲が戻ってきた直後、いつの間にか上へと上がっていた灯織が階段をドタドタと走り降りてきた。
「伊黎君、体が温まってるうちに寝ちゃおうよ、寒いし」
「また前みたいに体をくっつけて寝ようよ、そうすれば…うん、暖かいよ」
外出用の服を着ている私に対し、灯織は赤地に黒のチェック、渚は青地に白線でダイヤ型に柄をつけたパジャマを着ていた。
「あ…うん…わかった…」
灯織に手を握られ、リビングの電気を全て消し、階段を上って三つ部屋が並んでいる中の手前の部屋へと入った。そこにはダブルベッドが一つにタンスが二つあり、収納棚やパソコンもある個人部屋にしてはかなり広い部屋だった。
「おいで伊黎君♪」
灯織に手を引かれ、ダブルベッドの中へと入る。凪咲も続いて入り込み、私を真ん中に二人が挟んで密着して来た。二人のシャンプーの匂いや伝わる体温がとても心地よく、すぐにでも寝てしまいそうだった。
「伊黎…もう眠そうにしてる…」
「久しぶりに三人で寝れるから…私も熟睡できそうだよ…」
三人して欠伸をしては布団を肩までかけて、風邪をひかないようにくっつき、眠りについた。
(少年!起きるんだ少年!!)
夢か現か幻聴か、心地よい眠りを神様の声が妨げる。両腕から伝わる熱で今の状況を思い出し、すぐさま脳が覚醒した。
(今、動けるかい?)
試しにゆっくりと両腕を動かすと、二人はそれに反応して少しだけ唸り声を上げてさらに自身に抱き寄せてきた。こうして見ると、寝顔も可愛く、純情な乙女にしか見えなかった。
(…無理そうですね)
(あー…万が一起こしちゃっても言い訳すればいいから、強引に抜け出そう!)
そう簡単に言ってはくれるものの、腕を絡めては手を握っているためか、なかなか抜け出せず、指先を器用に動かしてようやく腕は解放させることはできた。あとは体をゆっくりと起こし、音をあまり立てずにこの家から出ていくだけだった。
体を起こし、ベッドから降りて、二人に布団をかけ直す。そして足音を立てないようすり足で少しずつ動き出す。ドアの軋む音にすら注意を払い、閉める時も中の様子を見ながらドアノブを捻ったまま閉める。階段は体重をかけないようにかかとで階段の先を踏み、降りる。正面に玄関を捉え、靴を履き、外へと続くドアよ鍵をゆっくりと開き、ドアを押して外に飛び出した。
(抜け出せた…!!)
(まだだ少年!帰るまでが遠足だよ!)
遠足で来た訳でもないが、確かに油断は出来なかった。神社とは反対方向に向かい、ナズナとグローリアがいる今の家へ帰ろうと急いで走り出した。